オランピアがエデン村にたどり着いたその頃。
「……………………」
ユンによって密林の奥で足止めを食らっているエドは岩の上で静かに座禅を組んでいた。
小鳥が彼の肩の上に降り立つが、彼は微動だにせずに目を閉じたままだった。
昨日、ユンに一太刀を与えようと丸一日を挑み続けたが、彼に一撃を与えることはできなかった。
それどころか、逆に木刀で返り討ちにされてしまい、師との力量の差を思い知らされた。
滅多打ちにされたことでさすがエドも落ち着きを取り戻し、今の状態では一撃を与えられないとようやく悟った。
そして、彼は木刀を置いて、自身の心と向き合うために瞑想を始めたのだ。
「やれやれ、やっと落ち着いたか」
集中しているエドを邪魔しないように遠くから眺めていたユンは呆れ果てた声でそう漏らすが、同時に少し安心感を覚えたのか、その表情はとても穏やかなものだった。
「後は自分で気づくのみ。……そろそろ、何か連絡がくるはずじゃろう」
踵を返して、その場から離れようとするユンは一度、エドの方に振り返る。
「お主はすでに答えを持っている。恐れずに過去と向き合うのじゃ、我が弟子よ」
それを最後にユンは今度こそエドの下から離れていった。
一方、エドは無言を貫き、その場からピクリとも動かなかった。
いつもの彼ならば、師の気配を感じ取ることができるはずなのだが、特に反応を示さない。
自らの心と向き合っている今の彼は、周りの様子を窺う余裕などまったくなかったのだ。
(俺の中にある激情、か……)
ユンの言葉を思い返し、エドは自身の過去を遡る。
つらいことや楽しかったことなど、レコードのように一つ一つ頭の中で再生する。
教団のロッジから母と共に脱出した日。
施設に入り、赤髪の少女との初めての出会い。
姉御肌の師との《魔眼》を制御するために行った修行という名の地獄。
《剣仙》との八葉一刀流の鍛錬。
幾度となく繰り広げたライバルとの真剣勝負。
施設の時から傍にいてくれた彼女と想いが通じ合った日。
そして……
「……くっ」
エドの表情が歪む。
思い出そうとするが、本能がそれを強く拒んでいる。
(それじゃあ、ダメだ。向き合え)
だが、その本能にエドは抗う。
乱れた精神を整え、もう一度、思い出そうと繰り返す。
乱されては整え、また乱されたら整える、と何度も、何度も繰り返す。
(俺の心が拒絶するもの。思い出したくないと目を背けているもの……)
エドの心は徐々に静まる。
荒ぶることも、冷えることもない。
無我の境地に至った不変の心を持って、過去をゆっくりと振り返る。
(それは間違いなく三年前。教団ロッジ制圧後からしばらく経ったあの事件……)
第一歩を踏み出したエドはそのまま瞑想を続け、己の心と向き合い始めた。
~~~~~
エデン村のはずれにある祭壇とおぼしき場所。
長く続く階段を登り切った先にある広間で《庭園の主》は手を後ろに組みながら、その場に立っていた。
風でフードがなびく中、彼はその場に止まり、フードで深く被った顔はただひたすら前を見続けていた。
「……メルキオルか」
「やっぱ、バレちゃうか」
忍び寄ってくる気配に気づき、後ろに振り向かずに言い当てた《庭園の主》。
こちらを振り向かない彼を見るメルキオルは近づく。
「手筈通り、オランピアを連れてきたよ」
「そうか。彼女は?」
「懐かしの場所で最後の生活を送ってるんじゃない? 一応、見張りも付けているから問題ないと思うよ」
「うむ、首尾は上々のようだ。他の二人はどうしている」
「《皇帝》は一度、庭に戻ったよ。念のために人員を多く用意するって。アリオッチは狩りに行ったよ。エド君との戦いを止められて、消化不良になってるみたい」
「フフフ……、彼ららしい。……それで、君はこれからどうするんだ?」
「う~~ん。僕も一度、庭に戻ろうかな。でも、その前に一つ聞きたいんだけど」
「何かね?」
「この村に何があるの? わざわざ、こっちは組織の方針を背いてまで、オランピアを連れ去ったんだ。理由くらい説明してほしいね」
《庭園》は一度、仕事に失敗した者、もしくは組織を抜け出そうと、裏切ろうとした者に対して、死の制裁を与える。
オランピアは仕事に失敗をし、組織を抜けたことでメルキオルたちから命を狙われるようになった。
だが、《庭園の主》の命で、オランピアの暗殺を中止し、生け捕りにすることになったのだ。
「……そうだね。さすがにここまでしてもらって何も教えないというのは失礼だ。説明してあげるよ」
《庭園の主》はいまだにメルキオルに背中を見せたまま、説明を始める。
「この村にはある伝承、お伽噺のようなものがあるんだよ」
「お伽噺?」
「あぁ。大崩壊前にあった実際のお話だ」
~~~~~
《大崩壊》前、ゼムリア大陸は人のみにならず、本来は高位次元に存在しているはずの生命体もその地で生きていたと言われている。
悪魔、天使と呼ばれたその存在は、時に人々に加護を与え、時に災いをもたらした。
そんなある日、とある一柱の悪魔が何の前触れもなく、大陸に現れた。
その悪魔は、暴虐の限りを尽くし、大陸にいる生命を次々と奪っていった。
それは災害のように、それは死神のように、無慈悲に残酷に殺戮を繰り返した。
そんな悪魔を退治しようと、多くの人々が集まったが、その悪魔の力はあまりにも強く、立ち向かった者は全員、返り討ちにあい、戻ってきた者は誰もいなかった。
天から眺めていた女神はそれを見兼ねて一人の男に悪魔の討滅を願った。
男はその願いを聞き、女神は男の無事と悪魔討滅のため、一体の天使を彼に遣わせた。
悪魔の討滅のため旅に出た男と天使は女神が人々に与えた七つの至宝《七の至宝》の下へ行って力をもらい、ついに悪魔退治へと向かった。
だが、悪魔の力は女神さえもしのぐ強大な力を持っていた。《七の至宝》の加護を持ってしても悪魔を討滅することができなかった。
それを悟った男は最後の手段として、自らと共に悪魔を封印する道を選び、激闘の際にできた奈落の底へと共に落ちていった。
それを見ていた天使は自らを犠牲にしようとした男を救おうと、自ら奈落へと飛び込んだ。
男と共に旅をした天使は自我を持ち、その男を淡い恋心を持ってしまったのだ。
奈落の底へと突き進んだ天使は男を見つけ、彼を強く抱きしめて地上へと戻ろうとした。
だが、男は長い間、悪魔と共にしたことでその魂は穢れてしまっていた。女神の下に行くことが許されないほどに。
穢れた魂を運ぼうとした天使は主である女神に背いたことで物言わぬ人形になってしまい、男と共に再び奈落の底へと落ちていった。
~~~~~
「とまぁ、そんなどこにでもある悲劇の伝承さ」
遠い目で語る《庭園の主》の姿を見ていたメルキオルはこれといって、感動したり、嘆いたりなど心が動くことはなかった。
「それで? その伝承と今回のことに何か関係があるの?」
「関係ならあるさ。とても深くね」
《庭園の主》はこちらに招くように手を振る。
「そこからだと見えないだろう。こちらに来たまえ」
メルキオルは訝しげに見るが、仕方ないと《庭園の主》に近づき彼の横に並ぶ。
「………………何これ?」
メルキオルは目の前に広がる光景に、珍しく唖然とする。
そこにあるのは黒い穴。
城などすっぽり収まってしまうほどの巨大な大穴だった。
穴は暗闇でまったく見えず、底が見えない。
「感じたかね?」
「はっ!」
《庭園の主》は声をかけるまで呆然としていたメルキオルは、はっと意識を取り戻す。
穴の奥底に視線が離れられず、意識が遠のいていた。
我ながら考えられない失態にメルキオルは少し戸惑いながらも、おそるおそる《庭園の主》に尋ねる。
「もしかして、ここって……」
「あぁ。先程の伝承にあった奈落だよ。……それよりも感じたかね?」
「……そうだね。姿も見えないし、音もないけど、何かがいるっていうのは感じたよ」
憎悪、拒絶、殺意、嫉妬などおよそ負と呼べるものを集約したものが、穴の底からにじみ出てくる。
メルキオルは奈落の底から伝わる、底知れない何かに恐れおののき、顔を引き付かせる。
「一つ、聞いていい?」
「何かね?」
「この奈落に封印されているのは悪魔だって言ってたけど、どんな悪魔なの?」
女神をも越える力ゆえに封印するのが精一杯だった謎の悪魔。
その存在がどういう悪魔なのか、気になって仕方がないようだった。
「ふむ。そうだね。あれは……」
~~~~~
一方、アルテリア法国では、
「七十八柱目?」
「名もなき外典」を片手に読んでいたアインにセリスは首を傾げていた。
「聖典に記されている『七十七の悪魔』。今でこそ七十七柱と言われているが、元々は七十二柱しかいなかった」
アインはそう語りながらもセリスに視線を向けない。視線は本に集中しており、ゆっくりと次のページを開いていた。
「世界が壊れ、書き換えられた《大崩壊》。その時に新たに加わった五柱の悪魔。その五柱は他の七十二の悪魔よりも強大な力を持っていた。ゆえに新たに加わった、その五柱を悪魔を統べる王、『魔王』と称された」
アインの口から語られたその内容にセリスとリオンは言葉を失う。
子供の頃から聞かされていた七十七の悪魔にそんな経歴があったのかと驚きを隠せなかったのだ。
一方でグンターは口を閉じ、黙ってアインの話を聞く。「魔王」という言葉にわずかに眉を潜ませたが、それに気づく者は誰もいなかった。
「それで総長。先程おっしゃっていた七十八柱目というのは?」
「この書物に書かれている悪魔のことだ。《大崩壊》前にいたと言われた悪魔。女神の加護でさえ蹂躙してしまう、絶対的な力を持っていた存在。封印されていなければ、七十八柱目としてカウントされるはずだった第六の魔王。後に加わった五柱の魔王はその悪魔が己の力を分けて現れたのではないのかと言われた時期もあった。それほどまでに強大な存在だったそうだ」
「魔王たちをも凌駕する一柱の魔王……。どんな悪魔だったのですか?」
「わからん」
ボンッと本を閉じ、大きく息を吐くアイン。ただ読んだだけだというのに、かなりの疲れがたまっていたようだ。
「この書物にもその悪魔の名は消されていた。名を残すこともその存在を公にすることも許されない最悪にして、最凶の悪魔。それがどんな存在で、どうして誕生したのか、一切不明になっている。唯一、それがどのような存在なのか記されているのは、この外典に記された記述のみ」
アインは外典をセリスたちに渡す。
年期がだいぶ経ち、ボロボロになっている本。セリスは本をゆっくりと開き、中を見る。リオンとグンターは彼女の隣に立ち、横から本を覗き込む。
そこに書かれている内容は一言で言うと、観察日記のようなものだった。
だが、観察対象だと思われる存在の詳細は何も書かれていない。どんな存在なのか、どこから現れたのか、何も書かれていなかった。
だが――、
「っ、うぅぅ……」
静かに読んでいたセリスの顔が徐々に青ざめていく。
書かれているのは、その悪魔が今までやってきた悪行の数々。
数年前まで存在していたかの教団をもしのぐ、まさに悪魔の所業とも言うべき内容。
見てはならない。知ってはいけない。そう頭の中から何度も警告してくる。
そして、それはセリスだけでなく、リオンも同じ反応をしていた。
「セリス、リオン。落ち着くのだ」
二人を後ろから支え、言葉をかけるグンター。偉大な師に支えられた二人は、詰まっていた息を整え、ようやく落ち着きを取り戻す。
「吐き気程度ですみましたか。私が初めて、これを見たときは発狂してしまいましたよ」
トマスは二人の様子を見て、後輩の成長に深く感心していた。
「ふぅ……、総長、これだけなのですか?」
「あぁ、これだけだ。その悪魔について語られているのはその本に書かれている内容だけだ。だが、たかが文だけでこの破壊力だ。我々は《聖痕》を宿しているから、この程度で済んでいるが、一般の者が見れば、確実に精神が崩壊する」
「……《庭園》の目的はこの悪魔を復活させることってことなのか?」
「断言はできない。だが、それが本当ならこのまま放置するわけにはいかん」
アインはセリスから本を取り上げ、元にあったテーブルの上に戻した。
「一通りの情報は揃った。後はそれに適合する場所をゼムリア全土から探し出す。トマス、他の《守護騎士》にも招集をかけろ」
「了解しました」
「バルクホルン卿は《典礼省》へ出向いてくれ」
「うむ。何とか説得して、助力してもらうように頼もう」
「頼む。セリス、リオンは私と来い。持っている情報から、儀式の場所を特定する」
「おう!」
「わかりました」
《守護騎士》たちは強い足取りで部屋から出ていく。
全員が部屋を出たのを確認したアインは扉を閉じ、鍵を閉める。
光が届かず、誰もいない暗い部屋の中で《名も無き外典》だけがテーブルの上に取り残されるのであった。
~~~~~
エデン村にたどり着いて中に入ると、そこは人一人もいない廃村となった村の姿だった。オランピアと見張りのイクスとヨルダ。
そんな村の中でイクスとヨルダがオランピアの横に張り付き、どこかに向かっていた。メルキオルの指示で監禁場所へと向かっている二人を余所にオランピアは辺りの様子を見回していた。
(変わってないな……)
かつて村で暮らしていた頃の記憶が鮮明に思い出される。
年期がだいぶ経ち、廃墟となってしまった故郷。
家の壁には何かの引っ掻き傷があちらこちらとついており、固まって張り付いた黒い染みのようなものがくっきり残っていた。
昔とはだいぶ変わり果ててしまった姿をしていたが、その面影はいまだに残っていた。
(こんなにも早く、来ることになるなんて……)
いつか故郷の村に戻ろうとは思っていた。
自分の願いがこの村に多くの悲劇と惨劇を生み出した。
この村に住む人はもう誰もいない。
あの日、皆、殺してしまったのだから。
「着いたぞ」
「ここがお姉ちゃんの泊まり場所」
イクスたちは足を止め、オランピアの方に振り向く。
オランピアはたどり着いた場所に視線を移して、自分が泊まる場所を確認する。
「…………え」
その場所を目にして、オランピアの思考が停止する。
そこは住宅地帯というべきか、傷だらけで崩れ果てた家の跡などが多く残っていた。
しかし、そんな傷だらけの家が集まっている中、一件だけが傷一つない状態で残っていた。
「うそ……、ここって」
その家には見覚えがあった。崩れた家と同じく、木製で作られた小さな家。
家の前には広間のようなものがあり、近くには倒れた木の椅子が二つ残っていた。
「その反応、本当だったんだ」
「あいつが面白そうに笑っていたみたいだけど」
オランピアの様子を見ていたイクスたちはそんなことを呟く。
二人の呟きを無視して、オランピアはその家にゆっくりと近づく。
家の戸口の前に立ち止まり、掲げてある木の看板に手を添える。
古ぼけて、霞んでしまっていたが、うっすらと文字が記されていた。
"エルピス"と……。