ブラック・ブレット8.5 ―英雄と聖餐―   作:縁側の蓮狐

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校正、修正、後編投稿と同時に行う予定です。


前編

 涙で視界がぼやけて眼前すらよく見えない。それでも、耳に入る声だけで近くにいる彼らが怯え狼狽えているのはわかった。

 先ほどまで勝利を手にしたような歓喜の声を上げ、敗北者を罵っていたというのに。

「これがわたしのからだである」

 歯を突き立てて皮を突き破り、肉を食いちぎる。 咀嚼をしようにも、これまで味わったことのない雑味に吐き出してしまいそうになる。

 まるで食すことを許されていないようだ。

 許しを得ようと思うことはないが。

 私は脳に訴えかけてくる危険信号を全て無視して肉を飲み込む。

 喉を通る瞬間、全身に電撃が走るような刺激。体に変化が訪れる予兆を感じさせ、一抹の不安とそれを塗り潰すほどの期待が生まれる。

「これがわたしの血である」

 次に肉から滴る血を以て、喉の渇きを潤す。

 はしたないことに、口からこぼれた血が白いシャツを赤く染め上げてしまった。いい歳をして、情けないというか、だらしないというか。

「うッ、おうえぇぇえ」

 嗚咽と、不快な吐瀉の音。涙もほとんど乾いた視界の端で、集団の中の一人が吐いていた。

 失礼なやつだと目を向けると「ひぃ」と恐怖の声を数人が上げた。

 血も飲み込んだ私は、侮蔑の意を込めた流し目で彼らを見やり、呼びかける。

「なぁ」

 返答はない。

「なぁ!」

 彼らは体を震わせるだけで、依然返答はない。 待っているだけ無駄らしい。ならば次に進ませてもらおう。

「なぁ、私も殺すか?」

 しん、と静まる。

 返事を期待するだけ無駄だったか。そう思いかけたとき、一人の男が集団の中から僅かに一歩、前に出た。正義感の強そうな、清廉潔白の四文字を想起させる好青年だ。

 だが、彼が手に持つ拳銃には返り血が付着していた。

「こ、殺さない。き、君は人間だからだ」

「……人間?」

 まるでお利口さんの答えだ。心の中で彼の言葉を反芻していくうちに、その馬鹿馬鹿しさに笑いがこみ上げていき、しまいには腹が痛くなるくらいに悪化していった。

 だがピークに達するとすぐに収まり、嘘のように感情が冷め、そして燃えた。

「今の私をしっかりと、その眼で見ろッ! これが人間か? これが人間のすることか!? 撃て! 正義を謳うならば撃ち殺せッ! 私の妹と同じようにッ!」

 沈黙が答えとして返ってくる。それはおそらく、自分は正常な判断ができる善良な市民だと言い聞かせるための理性と化け物めと口に出したい衝動がぶつかり合っているからだろう。

 だが、彼らの口以上に目が物語っていた。隠しきれない嫌悪が表れている。いい、十分だ。

「その饒舌な目に焼き付けろッ! 貴様らを救うのは、貴様らが忌み嫌う化け物だとッ!」

 

 

 

『東京エリアの救世主』と称される少年、里見蓮太郎。彼は夏の猛暑が抜けきらない初秋の陽ざしと気温に体力を奪われながらも、街中を歩き続けていた。

「なんで日曜の朝っぱらから猫探しなんかしなくちゃいけねぇんだよ」

 アンドレイ・リトヴィンツェフによるゾディアックガストレア・リブラの操作、それが発端として勃発しかけた東京エリアと仙台エリアの戦争を食い止めはしたが、彼の生活が急変することはなかった。

 依然として天童民間警備会社の経営は火の車。

 前述の件を解決したことへの報酬は、リブラによる被害の補償費、仙台エリアへの賠償金に使われ、雀の涙ほどしか残らなかった。

 リブラの操作に使用されたうちの一つ『スコーピオンの首』は東京エリアの研究所から奪取されたものだ。さらに主犯格であるリトヴィンツェフを取り逃がしてしまった二点を突かれると反論も難しく、誰が対応したところで賠償責任から逃れるのは不可能だっただろう。

 こちらの経営難を知る聖天子からは恐れ多くも頭を下げられたが、リトヴィンツェフを取り逃がした自分の失態であると十分に理解していたので、これっぽっちも怒りは湧かなかった。いや、怒りは湧いていた。ただし、その矛先は運命にあった。

 リトヴィンツェフを取り逃がした原因は、奴のイニシエーターが延珠の友達だったことだ。ユーリャ・コチェンコヴァ。彼女と対峙した瞬間の延珠が浮かべた表情を、今でも克明に思い出せる。

 目の前の現実が信じられず、自らが描いた虚構の世界へと逃避したような、ハイライトのない瞳。理性の糸が切れ、不安定になった感情がありありと見える表情。

 名前を呼ばなければ、自意識を彼方まで捨てかねなかった延珠を見たとき、このまま戦ってしまえば負ける。奇跡的に勝てたところで俺達は後悔する。鮮明に描ける最悪の未来がよぎり、リトヴィンツェフたちを見逃す最低の決断を下した。

 蓮太郎は正義と延珠を天秤にかけて、後者を選んだのだ。

 いつか聖天子に言った言葉を思い出す。

『力が欲しい! 俺の守りたい者を守れる力が欲しい!』

 今でも、貰えるものならいくらでも力は欲しい。だが、力だけで全てを守れるわけではない。薄々感じてはいたが、今回の件で、心には楔のように刻みつけられた。

「……くそッ、仕事中になに暗くなってんだ」

 気持ちを切り替えて、捜索中の猫の写真を眺める。

 無毛の猫、品種は飼い主であり依頼主の金山曰くスフィンクス。短い産毛しか生えていないため、テレビなどで見かけるのは不安になるほど細いのだが、被写体は大変太ましい体系をしており、そのうえ足を前に出して尻は地につけて座っているので、猫の顔をした大仏にしか見えない。

 こんな特徴だらけの猫、手がかりさえあればすぐ見つかるものだろうが、うっかり開けっ放しにしていた窓から外に出た以外の情報を金山は持っていなかった。つまり手がかりなしだ。

「俺たちとは違って、大層良いもん食ってんだろうなあ」

 相槌を打つように腹が鳴る。天童民間警備会社は猫以下の生活を送っていると考えると空しさに襲われそうだ。

「ナァ~オ」

 ぴくり、と蓮太郎の耳が反応する。彼はたしかに猫の高い泣き声を耳にし、辺りを見回す。あるのは人の群れと店ばかり。聞き間違いかと思いつつも、さっさと仕事を終わらせたかった蓮太郎は、出店できないほど狭くて、光に拒絶されたように暗い路地裏へと足を進めた。

 抜き足差し足忍び足と近づいていく姿を、道行く人々が通り過ぎざまに見ていくのが、蓮太郎に羞恥心を覚えさせる。

 一歩、また一歩と足が進むたびに路地裏に何がいるのかがシルエットとして見えてくる。しかし、それは猫というには明らかに巨大。

「んだよ、幻聴か……」

 蓮太郎は緊張で全身に入っていた力を抜き、同時にため息をつく。

 路地裏には背を向けて座り込んでいる幼い少女しかいなかった。少女が羽織る大きめのカーディガンは髪と同じ薄緑色なためか、彼女の体の一部のように見える。カーディガンにはところどころ不潔とまでは言いがたい汚れが見え、傷ついた鳥を蓮太郎に想起させた。

「え?」

「あっ!」

 蓮太郎のぼやきに振り向いた少女の腕には、写真に写っているのと似た猫が抱きかかえられていた。

 一度、二度、三度も確認する。写真よりも若干瘠せているが、数日間まともな食事を取らず歩き続ければ瘠せるものだ。探していた猫に間違いない。

 これで依頼が完了すると蓮太郎がはやる気持ちに身を任せて一歩進むと、少女は反射的に一歩後ずさった。彼女の瞳と口角が、疑心と怯えを強く表れている。

 それだけで蓮太郎は、彼女が普通の少女ではないと気づき、しまったなと自らの迂闊な歩みに悔いた。

「安心しな。用があんのはそっちの猫のほうだからよ」

 蓮太郎が柄にもなく最大限優しい声音を出すと、呼応して少女も警戒心を緩め、視線を落とす。

「猫……」

「そいつ、家から逃げ出した猫なんだよ。飼い主が心配してっから、悪いけどこっちに渡してくれねぇか」

「この子、家出猫さんなんですか」

 少女は、子どもには珍しいハスキーボイスで尋ねた。

「ああ、でも飼い主が言うには、自分にべったり甘えてくるから、探検がてら外に出てみたら迷子になって帰れなくなったに違いないってさ。だから多分、家に帰りたがってんだ」

「そうなんですか。では、お兄さんに渡すのが賢明なようですね……私とは違ったみたいです」

「ん? なあ、それってどういう――」

「どうぞ」

 唐突に差し出された猫を慌てて受け取ると、想像以上の重量が腕にのしかかった。

「んぐっ!」

 少し瘠せたところで肥満は肥満。

 腕に力を入れて猫を抱え直したころには、少女の姿は消えていた。

「ただの家出少女……じゃねぇよなあ」

 近づいただけであの怯えようだ。おそらく『呪われた子どもたち』だろう。汚れの少ない身なりから察するに、長い間外周区で暮らしていたわけではなく、施設か家から逃げ出してきた可能性が高い。

 今度は家出した娘を探してくださいって仕事が来るんじゃないだろうな。

「ダァ~オ」

 蓮太郎の心の声に返事をするように、彼の腕に居座る猫が鳴いた。

「……お前、なんか声低くねーか?」

 明らかに、路地裏の前で聞いた鳴き声よりも低い。どうやら本当に幻聴を聞いたのかもしれない。菫から薬でももらおうかと一瞬考えたが、それこそ幻聴を見るはめになりかねないと蓮太郎は己の愚策を却下した。

 

「里見くん、これ、なんだと思う?」

「なにって……万札だろ」

 事務所の中で、木更はガラステーブルに一枚ずつ丁寧に陳列された一万円札を凝視していた。その眼光は鋭く、札に描かれた男が射抜かれるオカルトチックな展開が起きても、おかしくはないと思わせる。

「そう、一万円。一万円って一円玉いくつ相当か知ってる?」

「一万枚だろ」

「それが三十枚。猫を探しただけで三十枚よ! 夢みたい! 夢じゃないわよね!?」

 猫が見つかったと木更からの報告を受けた金山は、移動手段は謎だが、たった五分で事務所に駆け込んできた。特徴だけで言えば日本とエジプトのハイブリッドな猫を号泣しながら抱きしめ、深々とお辞儀しながら三十万も入った封筒を渡したのち、爆速で帰っていったのだ。その三十万を木更の脳は受け止め切れていない。

 頬をつねり、はたき、報酬金を一枚一枚指差して確認する木更の姿は半狂乱に近い。

 本当に彼女に好意を抱いているのかと、自身の恋心に問う。沈黙が答えだった。

 最近の不況を考えればこうなるのも仕方がないと思う蓮太郎は、木更の奇行を止めることなくただ見守る。そして、次第に自分も夢を見ているのではないかと錯覚しかけ、慌てて首を横に振った。 貧寒な生活は大金への耐性を削り取っていくのかもしれない。

「そういえば、延珠ちゃんとティナちゃんはもう少し時間かかりそう?」

「猫を捕まえたときに連絡したけど、張り切りすぎて遠くまで行ったらしいから、まだかかるだろうな」

「じゃあ、これ!」

 木更はむんずと十万円を掴むと、蓮太郎の眼前に突き出す。

「これをどうしろと?」

「とびきりのごちそうを買ってきて、すぐに」

 貯蓄という言葉を知らないのか、この社長は。貧しい生活は何度も送ってきているのに、根っこにあるお嬢様気質が抜けきらないせいか、それともいつか言っていた天童としての最後のプライドか、見栄を張りたがる嫌いや少々の散財癖があるのを彼女は自覚しているのだろうかと、蓮太郎は不安に思いながらも庶民的大金を受け取った。

 おおよそ、この大奮発も延珠やティナの前で社長としての見栄を張りたいがためだろう。一応、純粋に喜んでもらいたいとも思っているだろうし、中まで火が通っていないサツマイモを食卓に出して全員を絶句させた過去へのリベンジもあるはずだ。

 だが、さすがに十万円分の買い物はない。そんな高級品をすぐに買ってくるのは不可能だし、それなりの値段がするものを大量に買ってきたところで完食できるとは思えない。予算は最大で三万円までとし、残った分は木更の興奮が治まったところで返そうと考えながら、蓮太郎は札をポケットに押し込んだ。

「んじゃ、行ってくんぜ」

 蓮太郎がドアノブに手をかけたとき、玄関の外から軽快な足音が二つ。

「む、お主、そこで何をしているのだ?」

「え、あーいや、これは、その、ですね」

「も、もしや強盗か?」

「申し訳ありませんが、ウチの会社には盗むようなもの置いていませんよ」

 足音に次いで聞き覚えのある少女二人の声と知らない男の声が一つ。予想外に早い帰社をした延珠とティナと、男のほうはマジで誰だ? つーか、さりげに酷いこと言わなかったか、ティナ。

「安心するといい。カツ丼出せんが、じじょーちょーしゅは優しくおこなうぞ」

「ピザなら出せると思います。材料があればの話ですが」

 男の声に検討はつかなかったが、見ず知らずの他人であれ、冤罪を被らせるわけにはいかない。蓮太郎は扉を開けた。

 大型の武器ケースを肩にかけた男と蓮太郎の間に、やはり面識はなかった

「強盗が白昼堂々と盗みに入るわけねぇだろ。アンタ、ウチに依頼しに来たのか?」

 

 随分としたスケールであった。依頼人の男はソファーに座っていてもデカいと思わせるほどに背が高い。立てば二メートルはあるのではないだろうか。それに体もしっかりと鍛え抜かれている。ぱっと見ただけでは気づきにくいが、前が閉じられたロングコートの下には、一切の無駄がない上質な筋肉が隠されていると蓮太郎は気づいていた。

 アーノルド・シュワルツェネッガーのようなボディビルダー的ではなく、ブルース・リーのような所謂細マッチョ的な肉体。いや、もっと身近な例をあげるとすれば、彼だ。

 

 ――薙沢彰磨に似たものを、この男は持っている。肉体だけではない、おそらく見合った力も。

 

 威圧でもしてこようものなら反射的に体が強張りかねないが、彼の顔立ちも表情も穏やかそのもので、体をもたせかけて眠るにはちょうどいい大樹に思えてしまうが、同時に吐き出したくなるほどの違和感も覚える。体と心でマイナスな化学反応を起こしているような気分だ。

 目を閉じているような男の糸目が、考えを読み取りづらくしているせいだろうか。

「実は私、民警でして。昨日失踪した私のイニシエーターを探してほしいんです」

 男が身分を証明するために出した許可証には、民警らしからぬ柔和な笑みと、嶺折蔽樹という名前だけが書かれていた。所属先が書いていないのは彼がフリーランスである証だ。

「聞いたことねぇ名前だな」

「大阪エリア生まれで、最近まで世界各地を飛び回っていましたので」

 許可証と共にテーブルに置かれた写真には、蔽樹と、彼の傍らにいる薄緑色の髪とサイズの大きいカーディガンが印象的な少女が笑顔で写っていた。

 仲睦まじい兄妹の写真みたいだな。

 少女の名前は筒木鳴歌といい、先ほど蓮太郎が路地裏で出会った人物と酷似していた。しかし、彼はそのことを口には出さなかった。

 先ほどから付き纏う違和感と、イニシエーターがプロモーターのもとから消える理由で多いのは、プロモーターに原因があるのを蓮太郎は知っているために。

「イニシエーターがいなくなる理由なんて大体がプロモーターのせいだ。あんた、自分が悪いって認めたくないんじゃねぇのか?」

「ちょっと里見くん!」

 尋問に近い声色と目つきで蔽樹に問う蓮太郎の言葉を、木更は慌てて遮った。いつもとは違う蓮太郎の様子に、延珠とティナも困惑した眼差しを彼に向ける。

 蓮太郎自身、自らの異常には気づいていた。せっかくの依頼主に対してこの態度をとるのは変だ。度を越していなければ仕事と割り切ってこなせるはずだったのに、確証もないのに原因を決めつけてここまで嫌悪するのは、おそらく蔽樹のせいかもしれない。

 彼は悲しみに満ちた表情を浮かべている。だが、その悲しみは自然と発生したものではなく、誰もがわかりやすく見てとれるように作り出したものだ。私は悲劇の中にいると本心を偽っているだけ。 舞台に立つ役者。それに近い。

 

 蓮太郎は過去に延珠が失踪したときの自分と比べて、圧倒的に余裕を持つ蔽樹を見て確信した。

 この男とは根本的に合わない。何一つとして噛み合うことはない。

 水と油以上の拒絶。蛭子影胤以上の相性の悪さ。 それが唾棄と断定を引き起こす。

 だが、蔽樹はそう思わないのか、それとも蓮太郎と同様に抱く感情を一笑に付して内面に押しとどめているのか、ただ頭を下げるだけだった。

「いいんです。そう思われても仕方がないでしょう。里見さん、私と鳴歌はペアを組んでからもう三年は経っています。その間、私は彼女を大切な仲間として一緒に暮らしていました。非道な行いは一切していません。それだけに、逃げ出したとは考えにくいんです」

「三年……」

 共に歩んだ長さに木更は思わず驚愕した。蓮太郎も声は出さずとも口が開いた。

「体内浸食率は?」

 このまま開きっぱなしであれば蓮太郎の表情は間抜けと言われかねない。彼は質問することでそれを避けた。筒木鳴歌の失踪原因に繋がるかもしれない質問を。

「十三%です」

「妾の半分くらいしかないのか?」

 今度は延珠が驚く。だが、それ以上に蓮太郎は驚いていた。彼女には実際の数値を教えていないため、半分と言っているが、筒木鳴歌の体内浸食率は延珠の三分の一以下だ。数値の低さがイニシエーターとして活動した日数と釣り合わない。

 浸食率が高ければ、形象崩壊間近の恐怖、または長く連れ添ったプロモーターに処理をさせない優しさから逃げ出したという推察ができると考えたが、結果は嶺折ペアの異質さを際立たせるだけだった。

「まさか、嘘はついてねぇよな?」

「嘘なんてつくはずがありません。よりにもよって私の憧れの存在である里見さんには、真実のみを話しています」

「憧れ……?」

「ええ、東京エリアの救世主たる貴方は、私の目指す英雄の姿そのもの。人々の希望。これに憧れずして何に憧れろと言うのですかッ!」

 感情のダムが決壊したような急変ぶりだった。ガラステーブルの上に身を乗り出し、腹の底から発声する様子は、単なるファンでは済まされない高揚ぶりだ。やはりこの男は、どこかが狂っている。

 陶酔の状態にある蔽樹の瞳を見た蓮太郎は、なぜ自分と彼が噛み合わないのかに気づいた。彼は目に映るものを見るのではなく、見たいものを見ている。少なくとも蓮太郎にはそう思えた。

「なあ、あんた歳はいくつだ?」

 憧れの対象の声で我に返った蔽樹は、先ほどとは別人の様子、さらに言えばその前と同じように落ち着いた態度に戻った。

「今年で二五になります」

「じゃあ『さん』付けも憧れるのもやめてくれ。年上にそんな反応されたらむず痒くて仕方がねぇ」

 蓮太郎にとって英雄の称号は過ぎた代物であり、相応しい人物は他にいるはずだった。だというのに、そんなものを高校生に押しつけて、盲目的に憧憬してくる眼前の依頼人からこれ以上謙遜されるのは苦でしかない。

「今は依頼者と請負人の立場ですよ? 年の差は関係ありません」

 最もな理屈に、蓮太郎はただ表情を曇らせるしかできなかった。感情的な発言が多い今日の自分を彼は恥じた。

「それで、私の依頼を受けていただきますか?」

「……どうする、木更さん」

「当然、引き受けさせていただきます。ですが、ことと次第によってはIISOに報告をするつもりですので、その点のご理解を」

 木更は過去に天童の人間として、そして現在は社長として様々な相手と出会ってきた。その経験があってか、彼女も嶺折蔽樹から不穏なものを感じ取っている。だからか、木更の言葉には僅かばかりの警戒心が潜んでいた。

「ええ、わかっていますとも。では、本日のところはこれで」

 立ち上がった蔽樹の背が、事務所に足を入れた直後と比べてさらに大きくなった錯覚を蓮太郎は覚えた。それは彼から感じた不気味さゆえか。

 出口の前で一度振り返って蓮太郎を凝視すると、満足したように蔽樹は退室した。

「そんな……」

 いつの間に移動していたのか、ティナはいつも木更が使っている椅子に座り、執務机の上にあるノートパソコンの画面を見ていた。

「どうしたんだ、ティナ」

「みなさん、これを見てください」

 ティナが液晶画面を皆に見えるよう動かす。そこに映っていた情報に誰もが言葉を失った。

 嶺折蔽樹、筒木鳴歌ペアの序列は、八三位。

 蔽樹が告げた鳴歌の浸食率が本当ならば、戦闘ではほとんどが蔽樹一人によるものだろう。

 イニシエーターには浸食抑制剤を投与して浸食率を抑えているが、力を急激に解放したり、ガストレアに体液を送り込まれたりすると抑えきれずに上昇してしまう。だから、鳴歌が積極的に戦闘しているとこの数値はありえないのだ。

 エイン・ランドがプロモーターであったときのティナでさえ序列は九八位。それも『NEXT』のイニシエーターだからまだ納得ができる数字だった。だが、プロモーターのワンマンで彼女の序列を超すのは納得しきれない。異常中の異常だ。

 過去に聞いた菫の言葉を、蓮太郎は思い出す。

『序列百番以内の連中は、悪魔に魂を売り渡した掛け値なしの化け物共だ』

 てめぇはいったい、どの悪魔に魂を売りやがった。嶺折蔽樹。

 

 猫に続いて本日二度目の捜索活動にあたることになり、蓮太郎は筒木鳴歌と遭遇した路地裏に来ていた。もちろん、目的の人物はいない。

 この場所から彼女がどこへ向かったのか、それを考えるためにやってきただけだ。

 鳴歌の姿を思い出す。彼女は手ぶらで、着ている服には物を収納できる場所がなかった。つまり、何も持たずに蔽樹のもとから去ったわけだ。万が一ポケットがある部分を見落としていたとしても、そこに入るのは小銭ぐらいだろう。二束三文では一日で使い切ってしまうだろう。

 それに、まだ冷房に頼っていたくなるこの時期だ。金がなく水分補給に余裕がないのなら、日に当たる場所にはいないはず。路地裏にいたのも日陰を求めていたからに違いない。

 お金のない『呪われた子どもたち』が、比較的安全に身を潜められる日陰の多い場所。

 蓮太郎は以上の条件に当てはまる場所に見当がついていた。彼でなくても、大体の人が気づける可能性が高いが。

 外周区、か。

 鳴歌が電車賃分のお金を残していたら、捜索範囲は格段に広がる。

 それだけは勘弁してくれと思いながらも、蓮太郎は最寄りの駅へと向かった。

 

 駅員に鳴歌の顔写真を見せると、見た覚えがないと言われ、蓮太郎は安堵した。これで、徒歩で一番近い外周区にいる可能性が高くなった。

 念のために場所を変えることを延珠と木更に連絡したのち、蓮太郎は外周区へと走っていった。ティナは猫探しで午前の体力を使い切ってしまったのか、事務所で軽い昼寝をしているので連絡をする意味がなかった。

 

 外周区に満足して暮らせるような建物はない。大半が廃墟で、だから普通の人は寄り付かない。暗黙のルールで、ここは『呪われた子どもたち』が人目につかず生活するための場所となっている。

 蓮太郎はぐるりと周囲を一瞥するが、少女一人の姿も見当たらない。それもそのはず、彼女たちは『奪われた世代』の人間がどれほどの敵意を持っているのかを文字通り痛いほど知っているからだ。三十九区で起きた青空教室の爆発事件も、風の噂でどの外周区にも知れ渡っているはずだ。無防備に姿をさらす者は、指で数えるほどしかいないだろう。

 それゆえに、筒木鳴歌がこの場所にいれば探し出すのは容易だ。

 イニシエーターとして戦闘の経験は積めど、元々住んでいた子と比べれば、こういったときの警戒心は弱い。

 蓮太郎は蔽樹が事務所に置いていった鳴歌の写真を手に、外周区を歩き始めた。

 絶え間なく辺りを見回し、廃墟の中を一つ一つ確認していく。写真は手にしたままだ。

 そうして数時間かけ、空が夕焼け色に染まりだしたころに外周区を満遍なく探し終えた蓮太郎は、わざとらしいため息をついて外周区をあとにしようとして、足を止めた。

「こっち見てんのはわかってんだ。手を出すつもりはねぇから、姿を見せな」

 蓮太郎は大声を上げた。すると、観念するように廃墟の陰に隠れていた一人の少女が現れた。蓮太郎は振り返り、少女の姿を見て心の中でガッツポーズをとる。

 絶対に筒木鳴歌が現れる確証はなかった。だが、三年も共に生活してきたパートナーと写った世界に一枚しか存在しない写真を、どこの誰かも知らない男が持っていれば、気になって後をつけてくるかもしれない予想はあった。今回は見事に的中したわけだが、不発に終わっていれば恥ずかしい思い出を一つ作っているところだった。

「筒木鳴歌、だよな」

「はい、猫探しのお兄さん。いえ、東京エリアの英雄、里見蓮太郎さん」

 おそるおそる現れた少女に警戒心はあれど、臨戦態勢をとることはなかった。わざととらないのではなく、その考えがこれっぽっちも思い浮かばなかったように、両手は胸の前にある。

 ざわりと蓮太郎は違和感を覚える。

 いくら戦闘を蔽樹一人が担うとしても、戦闘に関してここまで無知でいていいのか。これでは万が一のときに自衛すらできない。

 彼女を戦わせない。というよりも、他の意図があるように思える。が、本人に聞かない限り真実には辿り着けない。

 全部が机上の空論だ。本題に移ろう。

「お前のプロモーター、嶺折蔽樹からの依頼で探しにきた」

「ああ、それでその写真を持っているんですか」

 パートナーの名前を聞いた鳴歌は、僅かに陰りを見せた。僅かすぎて、申し訳なさからか恐怖からか判別がつきにくい。

「なにがあった?」

「言えません。それに、戻るつもりもありません。蔽樹さんには見つからなかったと言っておいてください」

「そういうわけにはいかねぇな。お前は放っておくにはきな臭すぎる。話すんだ」

 鳴歌は黙して思案し、蓮太郎は彼女を待つ。外周区にて聞こえるのは風の音だけとなった。

 夕方になっても下がりきらない気温により、二人に額からは汗を出る。汗が頬を通り、顎の辺りで最期の抵抗にふるふると震え、地に落下する。

「里見さんは、蔽樹さんと戦って勝てると思いますか?」

 その質問は遠回しな警告であり、難問のふっかけであった。彼女は、この件に関わるつもりならば、嶺折蔽樹を倒せと言っている。

 序列八三位に勝てるか、か。巫山戯た話だ。

 常識的に考えれば、無理だ。

 こちらは相手の戦術を一つも知らない。鳴歌から教えてもらえるかもしれないが、聞くだけと実際に体感するのとでは天と地の差がある。対して向こうは何をとち狂ったのか、こちらに対して心酔に近いものを抱いている。ならば、手の内なんて割れているだろう。

 序列八三位ともなれば、機密情報にアクセスして俺と影胤との戦闘映像を見ている可能性だってある。格だけでなく、情報にも差があるということだ。

「場所によって勝てる見込みも変わってくる。一般市民がいる中で戦う想定で考えないとダメか?」

「そうしてください」

 市街地での戦闘となると、さらに勝率は下がる。 これまで強敵と戦う際には、フラッシュバンなど使えるものを駆使してきた。しかし、市民がいる場合は被害が出るために使えない。銃弾も跳弾のおそれがある。あの尋常ならざる巨躯の持ち主と拳一つで戦わなければいけないのだ。

 しかし、それがどうした。

 現八三位を相手に恐れを抱いて、この先に進めるものか。

 嶺折蔽樹はIP序列で見れば影胤を超えている。だが、実力では影胤が上だろう。第三次関東大戦で見た技は、義眼を使わなければ知覚する前に俺は殺されるはずだ。よほどのことがなければ、蔽樹にあの技を超える手を持ってはいないと予測してもいい。

 それに、ユーリャ・コチェンコヴァ。序列元七七位のイニシエーター。説得のために彼女を無力化するのは至難の技だ。格上を殺さず倒すなど、無理難題に近い。

 この二つに比べれば、蔽樹との戦闘は序の口だ。幸い、この身が矛そのもの。道具を封じられようが土俵には立てる。

「必ず、とは言えねぇが、勝てるはずだ」

 ゆえに、この返答は激戦に挑む未来の自分への先行投資。一切の怖じ気を捨て、死地へ飛び込む予行練習だ。蓮太郎は自分に言い聞かせる。

「強がり、ではなさそうですね」

「たりめーだ。不本意ながらも英雄って呼ばれたんだ。それぐらいの実力は持っているつもりだ」

 授けられた不格好な称号に恥ずかしがるように、蓮太郎は髪を撫でる。

 その力を過信し自惚れる様子のなさに、鳴歌は警戒心を若干ながら解き、息を吐いた。

「では、お話しましょう。後悔しないでくださいね」

 二人は手身近な建物の中へ入り、床に座った。椅子はちょうど二人分あったが、外見から耐久性が心許ない。

「まず最初に、私は『モデル・パラキート』のイニシエーターです」

「……インコ、か」

「はい、インコです。言葉を真似するあのインコです。それで里見さんは、先日起こったリブラの騒ぎ、その元凶を知っていますか?」

「ああ、知ってんよ。けど、そいつは重要機密だ。そっちは誰の仕業か知ってんのか?」

「アンドレイ・リトヴィンツェフ」

 間髪入れない正答に、蓮太郎は息を呑む。アンドレイ・リトヴィンツェフが関わっていたことを知っているのは、実際に事件に関わっていた人間だけ。

 リトヴィンツェフを逃がした警視庁、リトヴィンツェフを逃がす手引きをしたテロリストたちの侵入を許した聖天子たち統治側の人間に対する糾弾を恐れた老人どもが、彼らの情報を秘匿したからだ。

 それなのに、知っているということは。

「お前は、どっち側だ」

「それについては、これを聞けばわかると思います」

 瞳を赤く染めた鳴歌が、すぅっと歌い出すように息を吸い込み、小さな声とともに吐き出す。それは蓮太郎の中で今も確かな恐怖として残っているノイズだった。

「なんで、なんでその声を知ってんだッ!」

 咄嗟に全身を駆け巡った激情に、蓮太郎は鳴歌の肩を掴んで叫ぶ。

「そいつは、スコーピオンの声だぞッ!」

 予想を遙かに超える事態に表情を歪める蓮太郎に対し、鳴歌は少しも変わっていない。

「『スコーピオンの首』と『ソロモンの指輪』を盗んだのは誰か、里見さんは知っていますか?」

「……リトヴィンツェフの部下、だろ」

「それと、蔽樹さんです」

 信じがたい発言だった。自分に憧れ、英雄を目指すと言った男が絶対にしない行為を、奴はしていた。

 もし、テロリズムの援助が理想に近づく一歩だったとしても、行うべきではない。手段が目的を破壊している。

「蔽樹さんが手伝う対価として得たのが、盗んだ二つを一度使用する権利でした。そして蔽樹さんは、私にスコーピオンの言葉を一つ、ラーニングさせたんです」

「どんな言葉だ?」

「里見さんも薄々勘づいているんじゃないんですか? もちろん、リブラを呼び寄せたときと同じものですよ」

 それはつまり、リブラと同様にゾディアックガストレアを呼び寄せる言葉だと言っているようなものだった。

「なんのためにそんなこと」

「ゾディアックの侵攻により東京エリアを壊滅させ、誰もが絶望するなかで蔽樹さんが現れ、私の『声』で混乱しているうちに倒し、あなたを超える英雄になるためですよ」

 蓮太郎は数時間前に会った蔽樹の姿を思い出し、全てが深淵で作られた彼の心に、寒気が走るような恐怖を感じた。

 三年をともにしたイニシエーターを、歴史的破壊活動を起こすための道具とし、英雄になるがために東京エリアを壊滅させ、戦争を始める。

 蛭子影胤と同類か、それ以上の悪だ。表面を善意でコーティングした、純粋で黒々とした悪意の持ち主、それが嶺折蔽樹の正体だった。

「じゃあ、お前は……!」

「お察しの通り、私は生きた『スコーピオンの首』に等しい存在です」

 諦観とも思える抑揚のない声で、鳴歌は自らを道具と称した。

「里見さん、私を殺せば全て解決しますが、どうしますか?」

 鳴歌の捨て鉢な態度は、自分の生死すら他人事のように扱うみたいだった。

 だが、里見蓮太郎は知っている。諦めている奴ほど、本当はどうしようもなく欲し、手を伸ばしているのだと。

「どうもこうも、まずはお前自身が生きたいか死にたいか、聞かせてくれ」

「私が?」

「そうだ」

 鳴歌は俯き、押し黙る。迷っているからではない。唇を噛みしめるその姿は、言えば歯止めが効かなくなるとわかっているから答えられないようだった。

「俺はこのあと嶺折蔽樹をぶっとばすつもりだ。だから、お前の本心が夢物語になるってことはねぇ。遠慮なく俺にぶつけてくれ」

「本当に、言っていいんですか……?」

「ああ」

 蓮太郎の優しい声を聞いた鳴歌は大きく息を吸い、腹の奥底までしまい込んだ言葉を曝け出す。

「生きたいですよ! 生きていたいに決まってるじゃないですか! テロリストが利用するような道具にされても、それでも生きていたいです! ……蔽樹さんが、私にたくさんの幸せを教えてくれましたから……いつか、もしもを信じて私は生きていたいです。諦めて死ぬのは、怖いです」

 裂帛の主張は、最後には消え入りそうな涙声の懇願と化す。

 蔽樹は鳴歌に希望を教えた。だが、のちに絶望も教えた。鳴歌は希望を選んだ。

 そのうえ、蔽樹の心酔っぷりからして、彼を狂わせたのは間違いなく自分だと蓮太郎は自覚している。

 ゆえに――――――

「……わかった。必ずあいつは倒す。これ以上、お前の人生は汚させない」

 蓮太郎が選ぶ道は、彼女のために戦う以外にはなかった。

 これは英雄に課せられた贖罪なのだと。

「里見さんが英雄と呼ばれる理由、わかった気がします。楽ではなく、最善を尽くそうとする姿が、あなたを英雄たらしめるんですね」

「いや、俺は――」

 曲解から生まれる敬意に蓮太郎はたじろぐ。

 逃げるように蓮太郎が鳴歌から目を逸らした直後、建物の外にいたであろう伏兵が突入してきた。 目が追いつかないほどに俊敏な動き、ツインテールをなびかせて蓮太郎に近づく小さな人影。

「蓮太郎の浮気者ーーーーっ!」

「んがっ!?」

 延珠だった。

 勢いを殺すことなく、砲弾のようなタックルが蓮太郎の腹部に直撃し、延珠ごと壁まで吹っ飛んでいく。

 鳴歌は口を開いたまま黙って見ることしかできなかった。

「黙って聞いておればなんだ! こやつに深い事情があるのはわかったが、だからといって告白をするとは……不倫だぞ!」

「え、里見さんってイニシエーターと結婚していたんですか……?」

 速度から延珠をイニシエーターだと予測したと思われる鳴歌は、先ほどから急上昇していた蓮太郎に対する好感度をストップ、そのままがくっと下げた、引き気味の声で尋ねる。

 ついさっきまで抱いていた蓮太郎の英雄像は瓦解し、ロリコンの不名誉な四文字を背負った憐れな男を見るような蔑みの視線をしていた。

「ちげぇよ! 結婚してねぇし告白もしてねぇ! どうやったらそんな解釈になんだよっ!」

「お前の人生を俺にくれと言っておったぞ!」

「言ってねぇよ! 後半明らかに聞き間違いじゃねぇか! ……ん? なあ、延珠。なんでここにいるんだ?」

 延珠が小さく跳ねる。人捜しなら別行動をとるのが鉄則ゆえ、蓮太郎からすれば当然の疑問をぶつけただけだが、彼女にとっては最も避けたい言葉だったようだ。

「探す場所に見当がつかなかったから、妾も蓮太郎のいる外周区に行こうかと思って……来た」

 蓮太郎に目を合わせず、冗談みたいな量の冷や汗をかきながら延珠は白状する。

 しかし、蓮太郎はこれに対し呆れの感情は抱かなかった。

 何しろイニシエーターの捜索なんて初めての経験であったし、依頼主の蔽樹からは写真以外のろくな情報を与えられなかったのだから。

 蓮太郎も、路地裏で鳴歌と出会っていなければあてどなく探し回っていただろう。

「まあ、今回はこうして見つかっているから特に何も言わねぇけど……それより」

「こやつのプロモーターと戦うのだろう? 重要な部分は妾もしっかりと聞いた」

「それなら話が早ぇ。相手は強敵だ、力を貸してくれ」

「相棒に野暮な頼みをするものじゃないぞ蓮太郎。力どころか胸も貸すぞ!」

 貸すほどの胸なんてないだろとツッコミが蓮太郎の脳裏によぎったが、セクハラまがいな発言は鳴歌からの心証をさらに悪くするうえに、延珠が怒ってまた話が脱線しかねなかったので、思考のゴミ箱に放り投げた。

「頼りにしてんぜ」

 蓮太郎は延珠と拳を合わせ、互いに微笑む。鳴歌はそれを懐旧と羨望の眼差しで眺めていた。

 在りし日の自分と蔽樹の姿を照らし合わせるように。

 これからの方針が定まり、いざ戦闘になった際にどう動くか話の流れが変わろうとしていたそのとき、蓮太郎のスマホがバイブレーションの音とともに着信音を響かせた。

 蓮太郎は着信者の名前を見て、瞬時に電話に出た。

「木更さん、なんかあったのか?」

「なにかってわけじゃないけど、進展はあったかどうか聞ききたくて」

「……理由は?」

「いま、嶺折さんが来ているのよ」

 ひゅ、と自分が息を呑む音を、蓮太郎は耳元で囁かれたように鮮明に聞いた。

「なんでそいつが」

「忘れていた菓子折りを持ってきたついでに、進捗を聞きたいからって」

 嘘だ。

 タイミングが良すぎるうえに、蔽樹の目的を知っている蓮太郎は、それだけではないと確信を得ていた。

 どんな目的があるかは不明だが、木更が危険な状況だということは間違いない。

「木更さん、なんでもいい。適当な理由をつけてティナと一緒に事務所から出てくれ」

「…………」

 木更は無言で先を促す。「なんで?」「どうして?」などの言葉で対面する相手に警戒心を抱かせないためだろうと気づき、蓮太郎は息を吐く。

「落ち着いて聞いてくれ。そいつは、嶺折蔽樹は東京エリアにゾディアックを呼び寄せようとしている男だ」

 

 蓮太郎からの突然の警告に、木更はぴくりと眉を動かしてしまう。

 驚愕を眉だけに抑えただけでもなかなかのものだったが、彼女の些細な反応を蔽樹は見逃さなかった。

「どうかしましたか?」

「あなたのイニシエーターと思わしき少女を見かけたと報告を受けたので、その早さに面食らっただけです」

「そうですか。幸先がよくてなによりです。それで天童社長、一つ質問を。電話に出ているのは、たしかに里見さんですか?」

 たった一つの質問で空気が変わったのを、木更は瞬時に感じ取る。

 緩んでいた風が両端を引かれたようにピンと張り、一歩でも動けば深く食い込む刃となって木更の全身を包む。

 YESかNOの簡単な二択が、天国と地獄を分ける重要さを備えてしまったのだ。

「……ええ」

 熟慮は悪手。短い時間の中、木更は真実を選択した。

「まあ、どっちでもいいんですが」

 天国はどこにも存在しなかった。あったのは地獄だけ。木更を包んでいた風の刃は全てが張りぼてでしかなかった。

「里見さんが鳴歌と会ったかどうかも関係ありません。ただ、私は里見さんと戦える確率を一パーセントでも上げたい。だから天童社長、申し訳ありませんが」

 話の途中で木更は席を立つ。だが、行動に移っているのは蔽樹も同じ。

 彼は武器ケースを展開し、現実離れした大剣を手にすると、柄の一部をジェンガのブロックのように取り外し、コートの袖の中にしまい込んだ。

「――――襲わせていただきます」

 伊熊将監の使っていたバスターソードよりも雄大なそれを、蔽樹は片手で振り下ろした。

 大剣とは思えない速度の斬撃を、木更はなんとか横に飛んで回避する。

 斬撃はソファを両断し、剣圧がその先にある扉までも斬った。

「天童社長、これをッ」

 いつの間にか起きていたティナは『殺人刀・雪影』を木更に投げ渡す。狭い室内でリーチの長い大剣相手に素手で接近は悪手と判断し、二丁拳銃を手に取り発砲。

 蔽樹は致命傷となる頭部への弾丸のみを大剣の腹で防ぎ、他全てをその身で受け止めた。強固な鎧でも纏っているのか、彼の体から血は出ないどころか弾丸は勢いを失いポロポロと落下していく。 しかし、ティナの射撃はダメージを目的としてはいなかった。

 必中必死の一撃が繰り出されるまでの時間稼ぎである。

「天童式抜刀術一の型八番――」

 大剣で塞いだ視界が開けたとき、蔽樹の眼前に映っていたのは、踊るように一回転し、遠心力をかけながら刃の姿を露わにする悪鬼羅刹の姿だった。

「『無影無踪』」

 幾重にも放たれる斬撃の鎌鼬。常人であれば目視する暇はなく、見えたところで数の暴力を前に防御は不可能。

「素晴らしいィッ……!」

 斬撃が放たれる直前に蔽樹は大剣をその場に落とし、即座に腰に備えてあった二本の短剣を左は逆手で、右は順手で持ち、応戦。一手でも間違えれば致命傷は免れない攻撃全てを、一瞬の動作で捌ききる。

 ブラフとして放たれたのか、一つだけ見逃された斬撃は蔽樹の横を通り、窓ガラスを粉砕した。

 蔽樹は昂ぶる感情を抑えきれず、口で三日月を描くよう口角を上げる。

 天童木更が羅刹であれば、嶺折蔽樹は修羅であった。

「甘美なる前哨戦だッ! 滾りますねぇ、天童社長ッ!」

「そのまま蒸発してくれないかしら」

「手厳しいですね。ですが、ユーモラスでもあるッ!」

 蔽樹は歓喜に突き動かされるように疾走。その手にはなにもない。

 間合いを詰めて徒手空拳で攻めてくると読んだ木更は技の構えをとる。同じ読みに至ったティナは蔽樹の死角へと回り込み、再度銃口を蔽樹へと向けた。

 放たれるパラベラム弾。精確に蔽樹の後頭部へと直進。彼の動きを読んだ射線は、目標に吸い込まれるかのようだ。

 だが、弾丸が目標に辿り着くことはなかった。

 塞ぐように現れたものにはじかれ、数発は天井へ、数発は床へ跳弾する。

「っ!」

 想像にない現実に、ティナは息を呑んだ。

 行く手を遮ったのは、地に伏せているはずの大剣だった。宙を飛び、持ち主の手へと戻っていく忠実な武器の柄を、蔽樹は強く握る。

 一見すれば魔法のような軌道をした大剣。木更ですら見抜けなかった魔法の正体を、ティナは瞬時に見破る。

 モデル・オウルである彼女が注視した視界には、常人には視認が困難なほどに細い線が映っていた。 蔽樹が外した柄の一部。おそらく袖の中で固定されたそこと、外された場所は細い線で繋がっていて、蔽樹の動作一つで線が引っ張られ、先ほどの軌道は生まれたのだろう。

 攻撃の転換に合わせ、木更は別の技の構えへと変えようとするが、その隙を与えるほど敵は甘くない。

 蔽樹は槌のように大剣を振り下ろす。

 獲物、膂力の二点から鑑みて、雪影で受け止めるのは死に繋がると判断し、木更は後方に飛んで避ける。

「良いィ選択です!」

 破砕を引き起こす刃は床に触れる寸前に急停止し、急上昇。

「では、これはどうですかッ」

 蔽樹は大剣振り上げ、腕を引き、大剣を投擲。

 大きく横に飛んで避けつつ、蔽樹の手に目を向け、叫んだ。

「ティナちゃん、お願いッ!」

「はい!」

 速度を乗せたティナの蹴りが大剣の腹を叩き、吹き飛ばす。

 自身の武器に引っ張られ、蔽樹の踏ん張る足が床を滑る。

 木更が蔽樹の手を見たのは、大剣の軌道の答え合わせのためであった。

 糸は見えずとも、トリックの予想はいくつか思いついていた。

 その中で糸を使ったものならば、横に避けた際に、剣をそちらへと振るよう手を動かすだろうと彼女は考えたのだ。

 さらに、糸ならばティナは目にして既に種を暴いているうえに、どう対処すべきかわかっているはずだと自らのイニシエーターに対する信頼もあった。ゆえに告げたのは最低限の言葉。

 糸に気づかれていると蔽樹にバレれば、警戒して柄の一部を戻すおそれがあったからだ。

 カチャリ、と小さな音が鳴り、彼の袖の中から柄の一部がこぼれ落ち、体と剣の繋がりが断たれる。

 だが、その間に木更とティナは蔽樹を素通りし、無影無踪で割った窓ガラスから飛び降りた。

 蔽樹が窓の外を見下ろすころには、木更を抱きかかえたティナが走り去ろうとするところだった。 彼の頭に追撃の二文字はなかった。彼の目的は天童木更を殺害することではない。

「どうも、里見さん」

 蔽樹が拾ったスマホの通話先にいる相手、里見蓮太郎に対しての挑発さえできればそれでよかったのだ。

「嶺折蔽樹、木更さんになにしやがったッ!」

 機器を通して伝わる蓮太郎の怒気に、蔽樹は談笑するような声を返す。

「いやぁ、ちょっとした手合わせを、ね。逃げられてしまいましたが、充分です。これでウォーミングアップは済みました」

 木更の無事を知り、昂ぶっていた蓮太郎の感情が治まっていく。

「……てめぇは本気でゾディアックとやりあうつもりか?」

「もちろん。ですがその前に、貴方を倒さなければいけないんです。貴方を倒さなければ、私は英雄になる資格すら持てない。英雄は二人もいらない。いや、そもそも人間のための英雄なんていらないのですから」

 蔽樹の語る理屈に理は存在しなかった。彼の望む勝利にはなんの価値もない。もはやジンクスでしかないだろう。

「そうかよ。だったら返り討ちにして教えてやる。てめぇは英雄になれない、ただの罪人だってな」

「楽しみにしてますよ。では、後ほど」

 通話を一方的に切った蔽樹は、壁に突き刺さった大剣を抜き取ってケースへと収納する。

 そして、依頼を解決されたかのような晴れやかな表情で事務所から出ていった。

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