Revival of the Dead   作:ボルケシェッツェ

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#1-3

 

 おぼろげな、空を切る音がした。

 極限状態で脳内にしとどに分泌されたアドレナリンの作用がなければ反応できていなかっただろう。

 咄嗟に振りかぶった右手を引っ込めて、身をよじる。おっかない風圧が前髪を吹き上げた。

 

「恵飛須沢さん!?」

 

 跳び退こうとした足が"先輩"の肢体に躓いて俺は転げる。

 驚愕のまま見上げれば、そこにはツインテールを乱れさせ、大型のシャベルを振り抜いたジャージの女生徒がいた。

 

「おまっ……」

 

 どんな冗談だと思う。

 こいつ、この後に及んでこの歩く屍体を庇うつもりなのか。

 目尻を吊り上げ、歯茎を剥き出しにして睨みつける女子生徒に俺は心底驚いていた。

 いや、当然か。

 俺は先に彼女を締め出して殺そうとしたわけだから、その上慕っていた相手が手に掛けられようとすれば行動に出るのも腑に落ちる。

 そういう理屈が分かったところで、納得できるわけじゃないが。

 

 それよりも目の前の窮地の方が問題だった。

 反撃と言わんばかりに"先輩"が身体を翻し、俺のシャツをがっちりと掴む。やつが身体を起こしたことで既に上下は入れ替わりかけていて、半袖の下の無防備な腕に冷たい吐息が当たっていた。

 反射的に顔面を鷲掴みにして遠ざけようとするが、力負けしていた。感染するとリミッタが外れるのだろう。腕がじわじわと押し上げられていく。

 

「こいつッ」

 

 完全に覆い被さられ、俺はこれみよがしに開いた下顎を右腕で押し留めた。それでもなおネジの飛んだ膂力の前には悪あがきに過ぎないらしい。糸を引いた歯が目と鼻の先で嘲るようにガチガチと鳴る。

 

 創作なら火事場の馬鹿力だなんて言って乗り切ったりするけれど、俺にしてみれば脳震盪でぶっ倒れた後に最上階まで全速力で駆け上がって来た時点で余力は使い果たしていた。

 まあ、頑張ったほうだろう。

 限界を迎えた筋肉が段々と弛緩していく。

 こういう諦観のことはなんと言ったっけ。アポトーシス、ネクローシス? あいにくと生物は取っていない。

 

「う、あ」

 

 誰のものとも知れない呻きが漏れて。

 おぞましい、水っぽいものを殴打する感触が神経に沁みた。

 

 黒ずんだ粘性の液体が弾けて頬を濡らす。

 決死でもみ合っていた屍体はスイッチが切れたように動かなくなって、どさりとのしかかってきた。

 滴る血を避け、顔を背ける。

 その目線の先で、シャベルを持った少女は膝から崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さっきまでの眠りが幸せなものだったのかは分からない───ただ、対面する現実が救いようがないくらいのクソッタレだってのは分かってる。

 

 頭の上には、茜色の縁と入り混じるようにして紺碧の天蓋が閉じていた。上空は流れが早いらしい。クロワッサンみたく膨らんだ雲がちぎれ、夕焼けの色を吸い上げる。

 夏を前に控えた季節の空は高く、壮大に感じられる。どこか幻想的で美しい眺めだが、それが心を癒やしてくれることはない。思わず見入ってしまうような美景も、今はただひたすら、やり場のない苛立ちと虚しさを煽るだけだ。

 

 疲労感と筋肉痛が苛む身体を起こす。微睡みは袖口から潜り込んだ肌寒さが取り去ってくれた。

 唾を飲み込むと、喉の乾きと微かな空腹を自覚する。

 

「お前、よく眠れんな……」

 

 柚村は息に言葉を乗せて吐き出した。

 俺は踊り場へと続くペントハウスの壁にもたれかかって眠っていた。隣には柚村が、扉を挟んだ向こうには若狭と丈槍が。目元に疲弊を浮かべて腰を落としている。

 俺は柚村の呟きを無視して「なあ……減ってねぇか?」

 

「下を見に行くって……先生と恵飛須沢が」

 

 だらりと前髪のメッシュを垂らして柚村は応えた。

 

「それとなく止めたけど、音も止んだし、様子見するだけだからってさ」

「そりゃあまた……」

 

 全て口にする前に気だるさに駆られた。かなり消耗している。

 俺は欄干の隙間から下を窺ってみた。校舎の陰に隠れてよく見えないが、未だそれなりの数のシルエットが蠢いている。

 確かに、"先輩"にトドメを刺した後も扉を圧していたあいつらの気配はさっぱりなくなっている。佐倉先生とジャージの───恵飛須沢が普通に降りていったということは階段の近くにはいなかった?

 とにかく、グール共は一度目をつけた獲物を諦めたということだ。

 それは反射的な行動の範疇にあるのか、それとも知能がある故の行動なのか。考察するにはソースが足りないか。

 

 むしろ、なんで彼女らはわざわざ修羅場に飛び込んでいったのだろう。

 冷え込みはするだろうが、ここは安全圏だ。衣食住を満たせないにしても一晩くらいなら過ごせる。救助が来るならヘリとかだろうし、なんにせよ早急なんじゃないか。

 唯一の男手───といっても、運動音痴と評されるくらい───が使えない上、恵飛須沢だってまともに動ける精神状態じゃなかったハズだ。

 人となりを把握しているというには交流が薄かったが、佐倉という女が生徒のケツを蹴飛ばして動かす性分をしているようには見えない。

 

 そういう疑問が顔に出ていたのか。

 

「わ、わたしが泣き言言ったから……」

 

 膝に顔を埋めていた丈槍が震えつつ零す。

 

「おいゆき」

 

 柚村は丈槍と親しいのだろうか。下の名前を呼び、若狭は彼女の背を撫でて宥める。それからカーディガンを羽織らせてやっていた。

 

 なるほど、ことのあらましは想像がついた。

 しかし先生はともかく、恵飛須沢が俺を叩き起こして連れ出さなかったのは尚の事腑に落ちなかった。

 俺は彼女を締め出して殺そうとしていたのに。

 

「よく、俺を残していける……」

 

 ぼそっと言ったのを耳敏く聞きつけた若狭が険しい眼差しで睨めつけた。俺はそれを甘んじて受け入れる。心なしか場の空気をピリつかせていた。当たり前か。このコミュニティにおいて、あらゆる意味で俺は危険因子だった。

 だから、仮に俺が恵飛須沢や教諭の立場だったら、壁の内側に置いておこうとはしない。

 いざというときに同じことをやられたら堪ったもんじゃないし、安全圏に残してきた人員だって心配だ。なら外側に連れ出して肉壁として使った方がいい。やりようによっては体よく排除することだってできる。

 そうでなければ清算は、どんなふうに執行されるんだろう。

 

 試しにスマホからブラウザを立ち上げてみるが、応答しなくなっていた。屍体の大挙から一時間半も経てばライフラインも停止しているかもしれない。

 水、電気、ガス。それに食料と娯楽。俺たち温室育ちの世代からすれば、想像を絶する程の暮らしが待ち受けているだろう。

 股ぐらから糞の臭いをさせながら生き延びるのと一ヶ月の猶予を繰り返し続けるの。どっちが精神衛生上マシなんだろうな。

 

 口を半開きにして思案にふけっていると扉がノックされた。コンコンコンと三回。加えてくぐもった教諭の声がする。

 

「めぐねえ!」

「丈槍さん、しぃーっ……」

 

 勢いよく飛び込んだ丈槍を佐倉先生はその胸へと受け止めた。

 紫色のワンピースで包み込むように丈槍を抱きしめ、それから人差し指を口の前に宛行う。

 

「ご、ごめん」

「ふふ、言った通りちゃんと帰ってきたでしょう?」

 

 教師と生徒というよりは母親と子供みたいだが。そんな二人を避けて、恵飛須沢も戻ってくる。

 深く俯いた彼女の表情は前髪に隠されて不明瞭だった。その頬や手の甲、そしてキツく握りしめたシャベルの剣先は血液で汚れている。鈍い光沢からしてまだ乾いていない。

 

「センセ、どうでした。向こう」

「西階段の所まで行ったけれど……()()()は……ほとんどいなくなったみたい。下の方から音がしたから、降りたか……落ちたんだと思います」

 

 柚村の問いに対して彼女は浮かない口調で応えた。

 それから意を決したように面々を見回して言った。逃げようがない程の率直な瞳が、声高に彼女の職業を誇示しているように見えた。

 

「みなさん、今のうちに移動しましょう」

 

 そうして、俺たちはカルガモの雛のように佐倉先生の背中に続いて深い闇の中へと足を踏み入れた。

 

 不謹慎にもダンジョンアタックってこんなのかな、なんて思ったのは"夜の学校"に染み付いたイメージせいだろうか。それともゾロゾロと勇者に引き回されるパーティメンバの気分を味わっていたからだろうか。

 何れにせよ切れ目のない緊張で感覚が麻痺してきていることは確からしい。

 

 おっかなびっくり階段を降りていく最中、オフホワイトの壁や床にこびりついた血痕をいくつも目の当たりにした。指の形や上履きのソール型にスタンプされたそれらは盛んに鉄臭い異臭を充満させている。

 そして幾つかその根源が横たわっていて、ライトが照らし出す度に湿っぽい息遣いが乱れて小さな悲鳴が上がった。

 先生の傍らを固める恵飛須沢が警戒はしつつもさして興味を示さなかったのは、彼女が手ずから()()したからだと思う。

 

 牛歩の歩みの末、彼女らは俺たちを生徒会室へと案内した。

 

「誰も居ないことは確認していますから」

 

 佐倉先生がトグルスイッチを弄ると教室の蛍光灯が灯る。暗闇に目が慣れているぶん、緑がかった光に網膜を焦がされる。

 

「電気は来てるんですね……?」

「いえ、非常用の電源に切り替えました。屋上のソーラーパネルで溜めたものなので、どれくらい持つかは分からないけれど……」

「……光ってたら寄って来たりとかしないっすかね」

「それは……一応新聞紙か何かで窓をカバーしましょうか」

 

 急に名前が呼ばれて俺はペンライトを握りしめた。

 ついてきてください。先生が手振りもせずに指示する。丈槍と柚村と若狭の三人は光漏れの対策、恵飛須沢は付添も兼ねて休憩、俺と彼女は職員休憩室に行って毛布と食料の確保。

 丈槍は相変わらず縮こまっているが、具体的な仕事ができて意識がそっちに向いたからか、さっきよりも気丈に返事を返していた。三人が戸口をくぐっても恵飛須沢だけは俺が視界から外すまでずっとシャベルの剣先を持ち上げて突っ立っていた。正直ぞっとしない気分になったが、ここでどうこう言えるほど図太いなら今頃俺は家に居るハズだ。

 

 不意にガラス窓の奥に気を取られる。

 いつもなら煌々と夜空を白ませる明かりも灯る兆しはなく、水槽の底に溜まったインクの如き暗闇が巡ヶ丘の輪郭を曖昧にしていた。

 もし、あの暗がりに潜むのがみんな屍喰鬼ばかりで、あのとき屋上に居た俺たちだけが最後の生き残りだったら。

 ここはまさしく、絶望の海に漂う地上三階の孤島というわけだ。

 

 俺が感慨にふけっている間、佐倉先生は職員休憩室の前で立ち止まって様子でも窺っているらしかった。

 

「中は見てないんですか?」

「恵飛須沢さんと覗いたときは誰も居なかったんですけど……物音がしたような気がして」

「じゃ、先生は横から扉を開けてください」

 

 たまたまリュックに入っていたペンライトと、園芸部から拝借してきたあのスコップを構えて部屋の正面に立つ。

 銃を持っているわけでもないしクリアリングの猿真似なんかして意味があるのかは分からんが、ドアを開けた瞬間ガバッと組み付かれるパターンはよくある。用心するに越したことはないだろ。

 

「あ、開けますよ」

 

 ドアが開いて。ジャンプスケアが訪れないことを確認してから足を踏み入れた。

 

 職員休憩室は廊下の突き当りを占める形で設置されている空間で、ほとんど職員室と一体になっているような造りだ。実際に中の様子を把握している者はほとんどいなかったが、大手企業が運営に関わっている私立高校が故の豪華な様相であると、生徒の中ではもっぱら噂になっていた。

 果たして実物を目にした感想としては、その広さに驚いた。

 逆手にしたライトをくまなく当てて見るが、矮小な光源では力不足なくらいの奥行きに困惑しつつ、すり足を進めていく。

 

「……けっこう広いっすね」

「ええ、使ってる人はそんなに多くないのに……」

 

 佐倉先生の持つ懐中電灯が加わって暗晦が多少は晴れる。少なくとも手が届く範囲にはやつらは居ない。

 スイッチに駆け寄った先生が照明を入れて、一息吐く。

 

 その瞬間だ。木箱を蹴るようなくぐもった物音が部屋に反響した。

 俺たちは一斉に飛び上がって発生源の方を睨んだ。

 部屋の最奥。それぞれ男女を表すシンボルを掲げた二つの扉がある。金属のプレートに刻まれた更衣室の文字。

 

「どっちだと思います?」

「……開けてみないことには、なんとも」

 

 口にした後、これじゃ更衣室の話か感染者の話か判別がつかないなと思ったけど、先生は完璧な回答をくれた。

 

「開けてみますか」

「い、いや待って。今は寝泊まりに必要なものを確保するのが優先だから」

「……そりゃ、そうですね。入り口を塞いどけばいい話か」

 

 本格的におかしくなってきてんのかも、と思ったのは自然と引き戸に手を伸ばしかけていた己を省みて。知らないうちにひどく力んでいた掌を緩めた。スコップのグリップの切り欠きが痕になっている。

 あのさ。

 屋上のときとはまるで状況が違う。わざわざ見え透いた危険に身を投じていくなんて滑稽の極みだ。

 それでも眼球の底に絡みついたざらついた熱気は、血が見たくて仕方がないようだった。

 どうも好戦的になっている。

 おかしな話だ。肉体は酷使に悲鳴を上げているし、恵飛須沢のこともあるとはいえ、調子に乗って奴らに手を出した挙げ句に殺されかけている。なのにどうして?

 

 まさか、恵飛須沢に対抗意識でも抱いているとか?

 そう考えた途端、自嘲以上に純粋な嫌悪感が湧き上がってきた。

 今にも鳥肌が立ちそうだった。流石に自分がそんなに幼稚な人間だとは思いたくない。

 

 大体だ、その手のチャンスは容易く巡ってくるし、避けようがない。

 それを証明するように女子更衣室の引き戸が悲鳴を上げてたわみ、軋む。

 俺は息を呑んで一歩後退る。

 

 それから唐突に、脈絡もなく隣の男子更衣室の戸が開いた。

 

「は?」

 

 当たり前だけれど、派手な演出なんかない。

 伏兵は見得を切る間もなく床にぶっ倒れて、戸口に挟まれるようにしてもがいていた。痛々しく喚き散らし腕を振り回している。しかしながら胴がつかえて這い出せない。

 あまりの醜態に憐れみさえ覚える。でも溜飲を下げるにはこれ以上ない機会だった。

 

 俺は彼の背中に片足を置いて体重を掛け、片手で後頭部を押さえつけた。声帯を圧迫された彼の喉から情けない音色が抜ける。

 ふっと肺を楽にして、ふと佐倉先生の方を見た。理由はない。

 そして俺は少しだけ後悔した。

 俺を怖がっていたからとかそういうんじゃない。佐倉先生は怯えたり、泣きそうな顔はしていなかった。むしろもっと感情を堪えるような、悔しさを滲ませるような表情だった。

 彼女はまともで熱心な指導者だ。そんな彼女に、俺は屍体をぶっ殺す直前の生徒の人相を見せつけちまった。

 

 黒ずんだ肉に埋まった剣先を引き抜くと、赤熱した脳内が冷えていく。

 だから膝を起こすとき、足蹴にしていたシャツの柄に気がついた。

 

「三上、先生」

 

 見る影もない、という印象は一種の自己防衛なのかもしれない。明確に知っている相手を俺はこの手で物言わぬ肉塊へと変えたんだから。

 今日喋ったときには間違いなく人間だった。仏頂面が特徴の人だったが、話し方は気さくで嫌いじゃなかった。いい教師だったかは判断しかねる。俺は彼の授業は受けたことがない。

 ああ───だからなんだってんだ。

 俺は三上を殺したわけじゃない。その屍体を動かなくしただけだ。

 良心が傷んだって、倫理が欠けていたって、俺は死ねないし、後ろでガンガンやってるグールが静かになるわけでもない。

 それでも俺は、手に小さなロザリオを包んだ佐倉先生を間抜けとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 うまく眠れない理由は幾つか思いつく。

 部屋の照明がついたままだから。

 短時間ながら仮眠を取ったから。

 耳をすませば()()()の唸りが聞こえる気がするから。

 三上のうなじを抉った感触が指の腹に吸い付いて離れないから。

 

 意識が冴えて仕方がない。いくらまぶたの裏に微睡みを思い描いてみても無駄だった。

 うんざりして俺はそっと目を開ける。誰かを起こしてしまわないように。

 夜更けの生徒会室に集った宿無しの面々は、意外と素直に寝息を立てていた。少なくともそう装っていた。

 

 まずは目を開けた拍子に誰かと視線がバッティングしなかったことに胸を撫で下ろす。

 若狭と恵飛須沢は、俺が同じ教室で寝泊まりすると決まったときには含むところがありそうにしていた。とりわけ恵飛須沢のほうは露骨だったが、誰も口にはしなかった。

 

 その彼女らだが、若狭はすっかり丈槍の保護者役を引き受けたらしくて身体を寄せ合って眠っている。恵飛須沢は文句を言わない代わりか、物騒なシャベルを毛布の下に抱いていた。

 おかげでまかり間違っても誰かの寝顔を鑑賞しようだなんて気にはならない。無残にかち割られた脳天を想像しているだけでスースーしてくる。

 

 本当に、人生最悪の日だ。

 

 これまでに命を落とした二日のどちらよりも今日を迎えてしまったことが一番堪える。

 寝耳に水なんてもんじゃない。

 運命とか、因果とか、俺にはまるで関わりのないワードだと信じて生きてきた。未来だの摂理だのはどっかの崇高な誰かが頭をひねるためのもので、きっと俺にはそんな掴みどころのない概念に対面する機会すらなく死んでいくものだと疑わなかった。

 

 それがなんだ。なんだんだこれは。

 不条理すぎて昨日までの楽観的な自分を咎めようとも思わない。

 

 どうしてだ。なんで俺なんだ。

 違うだろう。俺は主人公やラスボスってタマじゃない。カメラワークの埒外に佇むモブだ。

 何もできやしない。せいぜいそこに居て、その世界が虚構でないと説得力を出すためだけの有象無象の一部でしかない。

 

 そんな凡人に何をしろって? 運命に立ち向かってみせろって?

 

 そりゃ流石にセンスがない。露悪趣味もいいところだ。

 このままヒトが死んでいくところをむざむざ見せつけられていろっていうのか。

 親兄弟も、友人も、知り合いも、赤の他人も。

 そうだ。

 おふくろも、義父も、義姉も、山神も、沢渡も、三上も、若狭の妹も。

 柚村も若狭も丈槍も恵飛須沢も佐倉先生も。

 俺も。

 

 たった一ヶ月で、みんな死んじまうんだ。何度も何度も何度も。

 それがこの日、悪夢から確信に翻ったんだ。

 

 くつくつと喉がなる。それはきっと心に罅が入る音だった。俺はそれを初めて聞いた。

 そう、あれは対抗心なんかじゃない。ただの自暴自棄(やけ)だ。

 

「…………さき、茅ヶ崎」

 

 囁きで我に返る。

 

「なに?」

「あ、いや……その、な」

 

 声の主は柚村だった。

 丈槍たちと団子になっていた彼女は、毛布に包まれたままずるずると膝で這って近づいてくる。

 それから少し逡巡した様子で顔を寄せて、

 

「と、トイレ行きたいんだけど……」

 

 と遠慮がちに尋ねた。

 

 

 

 

 

 

「どっちだ?」

 

 俺は声を潜めて問うた。

 

「え? なに?」

「大か小かって……」

「っはぁ!?」

「ちょ、今のは俺が悪かったから声抑えて」

 

 手元の光源と青ざめた月明かりが薄く照らす廊下。静まり返った空気の中に二人分の呼気が溶けていく。

 柚村は俺のデリカシーというものを一切合切投げ捨てた質問に軽い殴打で応えた。ぽすぽすと背中に拳が突き刺さる。

 

「いや、どれくらい掛かんのかなって」

「きもい、サイテー。お前さぁ……だから彼女出来ねえんだよ。ワカル?」

「それはもう……マジですんません」

「はぁ……」

 

 呆れ混じりの溜め息に俺は苦笑を浮かべるしかない。

 くだらないやり取りをしている間も通り過ぎる教室の中に目を凝らしている。あえてそちらにはライトは向けない。万が一闇の中に屍体共が隠れていたとしても、やり過ごすに越したことはない。

 

 こっそりと生徒会室を抜け出した俺たちが目指すのは中央階段の傍の便所だ。

 生徒会室自体が廊下の端のほうにあるとはいえ、トイレまでの道のりがこんなに長く感じられるのは初めてだった。

 行き慣れたはずの一本道を進む足取りは鈍い。二年生の教室は三階にあるから、去年は俺もここのトイレを使っていた。頻尿の気があるので当時はよく顔を青くして駆け込んだもんだが、今となってはそんな迂闊な真似はやれない。

 

 どこからか物音が脅かし、柚村が叩くのをやめてカッターシャツの裾を摘まむ。

 

「や、やっぱいる……?」

「さあな。気づかれるようなことしなきゃ大丈夫だと思いたいけど」

 

 現状何も根拠はない以上、気休めという外ない。

 やっと辿り着いた目的地。

 まず男子トイレを軽く覗き、そして深呼吸してから俺は女子トイレの中を偵察しに入った。

 ところで鼓動を逸らせながらするのが女子トイレの個室をしらみつぶしに確かめることだと思うとなんだか無性に虚しくなった。そういうアブノーマルなのは趣味じゃないんだが。

 

「ぅ、まだ?」

「なんもいない」

 

 試しに洗面台の蛇口を捻ってみると、透明な水が流れ出した。水道が生きているのか、それとも最後っ屁のようなものか、あるいは電気と同じで非常用の設備があるのか。

 どちらにしてもライフラインが断絶された環境下では破格のアドバンテージだ。

 

「おいぃ」

「水出るかもしんないけど、流さないでな」

「わーったからあっち行ってろ!」

 

 声を殺して叫ぶ柚村に背を押されて追い出される。

 ああ、いつか部室で居眠りしていた時もこんなふうに締め出されたんだったっけ。呑気に寝息を立てていられた自らが恨めしいような、羨ましいような気もする。

 

 もしもあのまま世界が廻っていたなら。

 所詮は()()()()。益なんてないし、気鬱を加速させるだけだが、現実逃避としてはうってつけなのが厄介だ。

 それで、仮に老爺の死体が山を徘徊しておらず、俺が過激なキスマークを刻まれることもなかったら。

 俺はいつまでも何気ない日常を満喫していられたんだろうか。

 

 俺は将来に具体性のある、有望な若者じゃなかった。ささやかな憧憬を未来に夢想したり、野望を抱いていたり。そういうのはない。取り留めのない毎日を漫然と過ごすのがせいぜいの幸福だった。

 カップ麺を喰って、洋楽を漁って、ゲームをやって、映画を観て。

 そういえば人生で成し遂げたことなどあっただろうか。

 山神は凄い奴だ。高校生で映研をやって、映画まで撮って。

 俺は消費者いっぺんとうで、その人生をも浪費してきた。

 空虚が凝固して形作られたような自分が嫌いで、埋まることのない無聊を慰めるために娯楽に浸かった。

 

 どうしようもなく無気力で、目まぐるしく移り変わる趨勢に取り残された俺が願っていたことといえば。B級パニックホラーの如き粗雑な終焉。

 そう。

 こんな世界なんて終わってくれないかな(みんな死なねえかな)───。

 ああ、なんだ。

 自暴自棄だって? 違うな。これ以上俺にとってお誂え向きの世の中なんてないじゃないか。

 心が壊れそうだって。そりゃ最高の皮肉だな。

 

 クソッタレ。俺は口の中に吐き捨てた。

 

 同時に布擦れが聞こえて振り返る。慌てて短小スコップでヘタクソなファイティングポーズを取る。

 しかし視界に飛び込んできたのは、ピンボケするほどにダイナミックな剣先だった。

 

「何をしていた」

 

 赤茶けたシャベルの錆の向こうで、今にも射殺さんとするほどの眼光がぎらぎらしている。

 

「答えろよ」

 

 しばし呆けていると鉄臭い剣先が迫ってきて、俺は慌てて釈明した。

 

「えと……お花摘みの付き添いだよ。柚村の」

 

 ある意味タイミングよく、微かに水滴が跳ねるのが聞こえた。そのあまりに無邪気な音色が途端に拍子抜けしたような気分させて、恵飛須沢もどこかバツが悪そうにシャベルを下し───否、再び眉間を険しくして得物を突き付ける。

 

「……起こしたなら悪かった」

「さっきのは、どういう意味だ」

 

 心当たりのない俺は小首を傾げるしかない。おまけに、見当違いの謝罪は彼女にドスの効いた詰問を促しただけだった。

 急に、息が詰まる。

 錯覚ではない。冷たいステンレスの柄が酸素の供給を妨げていた。

 かち上げられた口の端から情けない喘ぎが漏れ出て、恵飛須沢は冷徹にその様を眺めていた。

 

「みんな死んじまえば良いだと?」

 

 まるで屍者の如く開いた瞳孔の奥底で、濃度の高い怒りが煮えたぎっているのが分かる。コールタールみたいに粘ついたそれが喉に絡みついて、言葉の芯を満たす。

 

「なんで、お前は」

 

 俺は、誤解だ、とか、冗談だ、とか口に出てたのかとか、苦し紛れの誤魔化しをいくつか思い浮かべはすれど、無意味さのあまりに何も言えなかった。

 まさか自分がこんなにも軽率だとは思いもしなかったし、恵飛須沢も間が悪い。こんなに自らの捻じ曲がった性根を疎んだことはない。

 

「そんな簡単に、人の死を願えるんだよ……!」

 

 そして目の前の少女が純粋な怨嗟をぶつけてくれるなら、俺は精一杯憎まれていようと思えたのに。

 涙を押し留めて彼女が口にした言葉は。決意という名のなけなしの防護壁を打ち砕いて、的確に俺の心を穿った。

 頼むから死ねって言ってくれ。

 俺がお前にしたように。恵飛須沢がそうする番だ。

 きっとそれなら、多少は楽になれるのかな。熱が眼球の下で疼く。

 

 

 

 

 

 

「……んなっ、お前ら、何やって……!」

 

 さんきゅー柚村、いいところに。

 でもそれが救いの一手じゃなかったってことには、目玉を転がしてから気が付いた。

 

「───っ、ず、村!」

 

 緩まった拘束から崩れ落ちるように抜け出して、しかし喉から出るのは搾りかすみたいな雑音ばかりだった。

 俺は必死に廊下を蹴る。

 破れかぶれに走り出した身体にはうまく力が入らなくて、ペンライトが手から零れ落ちる。それでも凶器だけは決して取りこぼさない。

 

 ───意味がない。

 

 けれど、辛うじて冴えた思考の真ん中が冷淡に告げる。

 シナプスのきらめきが打ち出した演算結果は本能に成り代わって俺を咎めた。

 警告より、上履きより、後悔より、スコップより、罪悪感より、都合のいい未来予測よりも早く。

 影の重なった柚村の顔が苦痛に歪んだ。

 

「いっ、や……ぁあっ!?」

 

 意識がカッと沸騰して、感情だけが先走る。

 

 俺が恵飛須沢と組み合っていたから気づけなかったんだ。

 そいつは音も立てずに柚村の背後に忍び寄って、愚鈍な俺たちを嘲笑うようにしなやかな首筋へかぶりついた。

 

 苛立つ。腹が立つ。正気でなくなる。

 ちきしょうっ。ふざけんなっ。

 なんでお前()はそうなんだ。

 

 俺は叫んだ。

 床を踏みしめ、吠えながら得物を突き込む。蹲る柚村の背にしがみついたクソッタレを引きはがすために髪を鷲掴みにして、顎の付け根にスコップの先端をえぐり込む。

 目を瞠り、息を吐いて、全力で相手を殺す。死を願う。強制する。

 

「おあああッ!」

 

 呼吸を止め、力づくで振るった一撃が屍鬼の口を裂いた。

 下顎と上顎を繋ぐ筋肉が千切れたことによって黄ばんだ歯が柚村の肌から抜け、異形がよろめく。すかさずそいつの脇に手を差し込んだ。

 やはりグールの三半規管は弱い。

 前後不覚に陥ったそいつの背後には硬い踊り場の床材が待ち受けている。受け身も取れない肉人形に待ち受ける末路を想像するのはいたって容易だ。

 

 ただ、ひとつ誤算があった。

 

 宵闇の底溜まりにフェードアウトしていく屍鬼が、あてずっぽうに突き出した腕でシャツの襟を掴んだのだ。

 

 は──────?

 

 本来そいつの身体のみを絡め取るはずだった重力の蔦はあっという間に俺を引きずり込んだ。

 落ちる、というよりも持ってかれるという危機感。

 

 遅れてやってきた衝撃が思考回路をショートさせる。

 それから痛みといきれの膜をこじ開けて流れ込んでくる冷たさ。

 その冷たさの正体を知ったとき、俺はここが恐怖のどん底であることを悟った。

 

 手と歯と唾液、凍えた舌先。

 

 じわじわと不揃いの肢体が俺の肉体を捕らえていき、腐った内臓の香りが皮膚の表面を撫でる。

 

 俺はここに来て佐倉先生の推察を思い返した。

 

『下の方から音がしたから、降りたか……落ちたんだと思います』

 

 俺は喉を限界まで開いて叫ぼうとした。しかし現実にはそれすらも叶わない。金切り声を出すに能う量の酸素が肺に残されていなかった。

 

 かくして俺は、絶望の真っ只中で屍喰鬼に貪られる責め苦を与えられた。

 

 けれど、どのみち俺がこの刑罰を拒むことは出来なかったのかもしれない。

 俺は細く解かれていく自意識に恵飛須沢の姿を見た。

 屋上を目前にして、地獄から伸びてきた無数の手のひらに沈んでいく彼女が居る。俺は決して開くことのない扉を背にして冷酷に彼女の命を切り捨てる。

 

 つまり因果応報ってやつ。

 

 だけど、だからこそ。

 

 落ちる直前に映った、憂いに満ちた顔で手を差し伸べた恵飛須沢のことが気に喰わなかった。

 

 

 

 

 

 

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