キミの瞳に恋してない 作: 龍也/星河琉
きれいな海だ、というのが、最初の感想だった。
静岡県沼津市。大人しいさざなみの音が、耳に入っては、すっと溶けていく。息を吸ってみると、鼻に潮の匂いが広がる。
海や空といった大自然を見ていると、悩みがちっぽけに見えるという。ぼくは、ぼくという存在がちっぽけに思えて仕方ない。いついなくなっても、誰にも気づかれず、誰にも迷惑がかからず、誰にも喜ばれず。そういう人間に思えて仕方ないのだ。
砂浜に足を踏み入れた。少し沈んで、粒の数々が靴に入る。柔らかい砂浜だったようだ。東京湾のような海を見るのは慣れているが、こういう浜辺に来たのは久しぶりだ。
都会っ子をアピールしているわけではない。ぼくも元は、23区のはずれの、緑豊かなところに住んでいた。父と母は静かな場所を好んでいたらしい。
らしい、というのは、ぼくが両親についてのことを人づてにしか聞いていないが故の表現だ。両親は、ぼくが3歳になるのを待たずに死んだ。顔を見た記憶もない。ぼく──
天涯孤独の身には、すぐにはならなかった。ぼくには祖母がいたのだ。港区の祖母の家に転がり込み、中学校を卒業するまでの間はそこで過ごした。しかし、祖母はぼくの卒業式を見ることなく、持病で死んでしまった。卒業2日前のことだった。
なんとか卒業はできたが、学費を払えないので受かった高校は辞退。ぼくの最終学歴は中学校だ。
漠然とした将来への不安。周りに置いていかれる恐怖心。それらがぼくの心を埋めつくした。十五の頃だった。なにより、育ての親であった祖母と別れてしまったことが堪えた。今ではいい思い出、と流せないほどにあの頃は自分の中にどす黒い未来の展望を抱えていたものだ。
ああ、あの頃の記憶も、もう思い出さなくていいのだ。すべてから解放される。
なんとなく、足元を見た。ぼくは、この足で、この海に入っていくんだ。これで、美しい海とひとつになる。
うん。悪くない。あそこに見える富士山の麓で首を吊るよか、幾分ましに思える。入水というものがどれだけの苦しみを人体に与え、死体がどのような状態で海に沈むか。そんなものは調べちゃいない。どうせ誰でも、死ねば骨だ。
祖母の骨の灰が、海から撒かれていたことを思い出した。葬式の後、ぼくの養育権の押しつけ合いをしていた親戚たちは、今、自分の子供をぼくなんかよりもよっぽど幸せにしてあげているんだろうな。
胸のうちでは、こんなにも暗い感情がうずまいているというのに、沼津の空は雲ひとつもない。海もスカイブルーを映して、ゆらめいている。
ああ。死ぬにはいい日だ。
砂浜を見て、ぼくは少しだけ立ち止まった。ぼくは、このまま誰にも知られずに死んでいくのだろうか。
孤独とは、こんなに冷たく、鉄のにおいがする概念であっただろうか。今まで1人で歩いてきたのに、たった今まで、生まれてこの方ひとりぼっちのようなものだったというのに。ぼくは絶望とも呼べる何かが目の前に現れたことに対し、しばし固まってしまった。
その後、ぼくはカタカナで4文字。『タスケテ』とだけ書いた。
何をしているんだろう。今更助けを求めても、誰も、何もしてくれないくせに。孤独で、静かに、死んでいくのに。
ただ、居場所が欲しかっただけなのに。
今、行くよ。ばあちゃん。
ぼくは靴を脱ぎ、裸足で砂を踏みしめる。それから、ゆっくり、ゆっくりと、海の方へ。向こうに見える淡島の方へと、歩を進める。
子供の頃、安全を確約されたジェットコースターがあんなにも怖かったのに、何故か今は恐怖や悲しみの感情が湧いてこない。ただ、ただ、心のしがらみが解けていく。
誰にも相談できない。どこでも働けない。住む場所も追い出された。ぼくには基本的人権などといった、紙の上で保障された生活の安心はない。死ぬしかないのだ。
幸せとは、どんな形をしていただろうか。腰まで海水に浸かった頃、そんなことを考え始めた。それ以外に頭に浮かぶのは、過去に思い浮かべた不安や絶望がホコリのようにほどけていくビジョンだけ。
幸せとは、何なのだろう。宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』などの著作で問うた哲学だ。カムパネルラは、ジョバンニをいじめていたザネリを助けるために溺れ死んだ。同作に出てくる蠍の火に関しても、そういった自己犠牲という美が描かれている。
美しいのだろうか、幸せとは。声色はどんな風だろう。どういう色をしているのだろうか。温かさはどのくらいだろうか。少なくとも、胸の位置まで来ているこの海水よりかは、温かいはずだ。
ぼくにとっての最後の『幸せの記憶』を噛み締め、大きく一歩を踏み出すため、水の抵抗に逆らって足を上げる。
すると、後ろから。
「変な年だね、今年は」
そんな声がするのだ。
「4月の海に入ろうとする人が、ふたり」
振り返ると、太陽がいた。
「でもね。あなたは『
でも、ぼくの知っている太陽じゃあない。
そいつはぼくの肩を掴み、無理やりへそをそちらへ向き直らせ、そのまま身体を揺さぶる。
「あなた……今、死のうとしてたでしょッ……?」
まるで本当の太陽みたいに、眩しい……目のくらむような……。
太陽。本当の太陽が、ぼくにとってはもうひとつあったことを思い出した。
ぼくの頭の六法に、『
それが『SUN-RISE』。
ぼくの、最後の家族だった。
『なぁ! 俺の仲間になってくれ!』
『……えっ? 何の?』
『スクールアイドルだよ!』
『は……?』
彼らのためにも、生きなきゃいけなかった。それに、おばあちゃんのためにも。
あの時の心境は最早、強迫観念に近いものがあった。健康に、普通に、きちんと、生きなきゃいけないと思っていた。それが、おばあちゃんの願いでもあると思っていたから。
『今どき流行らないぜ、男がどうとか、女がどうとか。どこの誰が何をやろうと、他人に迷惑かけなきゃ何だっていいんだよ』
生きなきゃ。
『……ここで、働かせてください』
生きなきゃ。
『お前もそう思うよな。一夏』
『うん。その通りだね。その通り……』
生きなきゃ。
『……違う。ぼくは、もう今の君に同意できない』
生きなきゃ。
『納得は全てに優先するッ!!』
生きなきゃ。
『出ていけッ……!』
でも。
ぼくにとって、生きるのは、死ぬより辛い。フラッシュバックによる過呼吸で、ぼくは肩を大きく動かしながら、立っているか浮いているかも曖昧な意識を無理やり動かす。
「き、救急車! 呼ぶっ!?」
「……やめて」
「なんで!!」
「保険証、ない。あと、今から死ぬとこだから。邪魔しないで」
ぼくは、それだけ言って、俯き気味に海の方へと足を向ける。すると、彼女はぼくの服の背中を引っ張り、抱き寄せてから2人もろとも後ろに倒れ込む。
数日何も食べていないぼくの身体は、驚くほど簡単に少女の手に倒されてしまった。彼女はそんな細りきったぼくの身体を羽交い締めにする。
「いい加減にしろーっ!!」
耳がキンキンするくらいの大きな高音を、耳元で浴びせられる。
「親が悲しむよ!? 友達にだって会えなくなる!! 帰ってご飯を食べて、ゆっくり寝ることだって、死んだら出来なくなる!!」
「…………」
そうか。この人が当たり前に語っていることを、世の中では『幸せ』と呼ぶのだろう。ぼくは今までにあった『幸せ』の記憶を、砂をつかむような思いで呼び起こす。しかし、手に残るのはほんの数粒の過去だけ。
ぼくの中にある『幸せ』とは、こんなちっぽけな思い出でしかなかったのか。
だから、死のうとでもしたのだろうか。ぼくにだって分からないが、忘れていた『幸せ』すべてを昨日の事のように鮮明に思い出せたとしても、この死のうとする気持ちは、一切として変わらないだろう。
「親は、
不幸自慢は嫌いだ。でも、ここで死ぬのを邪魔されるくらいなら、なんだって言ってやる。空腹で働かない頭を必死に回転させ、過去の出来事を並べる。
「友達なんかいない。学校にも行ってないし、少ない友人関係もこの前終わった。飯なんか食べられない。食い扶持がない。ゆっくりなんか寝ていられない。雨風をしのげる家がない。生きる意味も、ない」
激しい運動もしていないのに息が切れてきた。そろそろ身体が限界かもしれない。
「分かったら……死なせてくれないかな」
「…………」
彼女は黙り込んでしまい、羽交い締めを解いた。
ぼくの身体は、人の手をすり抜ける猫のように、または液体のように、彼女の身体の上から音もなく砂浜に落ちる。
そうして見えた彼女は、ひどく驚いたような、それでいて珍しいものを見るような、そんな顔をしていた。
「ごめん。私……当たり前だと思ってることを、押し付けて……」
彼女が謝罪の言葉を述べようとした途端に、ぼくの意識が不安定になる。揺らぎ、揺らぎ、自然と視界が歪む。彼女の顔も、空に浮かぶ巻雲も、歪んで見える。
寝転んでいるのに、なんだか立ちくらみのようなものに襲われているぼくの頭は、ますます混乱していく。ますます、意識が遠のいていく。
「……限界」
「……えっ?」
そうか。『当たり前の幸せ』か。
贅沢は言わないから。最期に、温かいご飯が食べたかったな。白米だけでいいから。あれは、噛んでいるうちに甘みが出てくるから。
ぼくは、地に居ながらにして海の中を漂うような意識を、いとも容易く手放した。
幸せは、歩いてはこない。歩いても歩いても、来なかったくせに。