キミの瞳に恋してない 作: 龍也/星河琉
「
朝食中。
ぼくは噛んでいた麦ご飯を飲み込む。
「お給料いただいたので、ちょっと沼津まで本を買いに行こうかなって」
「あら。零夏君、本が好きなの?」
十千万に来て、1ヶ月とすこし。ハッキリ言ってぼくは、給料を持て余していた。
900円ほどの、最低賃金から100円ほど上げられた良収入で、週5回の9〜12時間の労働。それを積み重ねると、とうてい一般的な家庭で暮らしていた高校生くらいのティーンエイジャーには扱いきれない金額となる。
水道光熱費として3万円ほどを十千万側に入れているとはいえ、余裕で10万を超える金額を貰ったぼくは、好きなものでも買ってみよう、となった。
そこで一番に思い浮かんだのは、本だった。
「はい。おばあちゃんの家に住んでた頃、家に本がたくさんあって……小学生の時から読書の習慣が付いてまして。読む度に学びが増えるので、本は好きですよ」
「へぇ、すげぇじゃんか。やっぱどっかの誰かさんとは違うな」
「ねぇ! 何で私の方見るのさっ!」
金がなくて勉強しかできなかった、というドラゴン桜のセリフがあるが、小さい頃のぼくはまさにそうだった。
おばあちゃんが乱読で、純文学から哲学、自己啓発本まで幅広い品揃えだった家の本棚は、ぼくの理想郷だったのだ。
特にぼくが愛したジャンルは、昭和ごろの文学。今とは少し違う語り口で、ハードな展開が繰り広げられるのが、現代社会に生きる者としては異世界もの並に魅力的に見えた。昔の情勢も知れるし、勉強にだってなった。あれはいいものだ。
あの頃を思い出すと、決まってヒノキの匂いがする。当時住んでいた家の匂いだ。匂いの記憶は脳と直結している。
感傷気味なぼくをよそに、質問をしてきた当の美渡さんはニヤニヤしながら、
「べっつにー。なんでもねぇっての」
「むむむ……美渡姉だって、全然本読んでなかったクセに!」
「あァ!? ちゃんと読んでたわ! どこに目ぇ付いてんだこのバカチカ!」
「バカって何さ! バカって!!」
「美渡、千歌。騒ぐな。客室に響くぞ」
「あっ、やべ……わりぃ……」
「うぅ。ごめんなさい……」
特に動じることも無く、
「……まあ、何にせよ予定があるのは良いことだな。零夏、気を付けて行ってこいよ。今日は午後から雨が降るらしいから、傘を持って行くと良い」
「そうなんですね……あっ、すみませんが、傘をお借りしても良いですか?」
「もちろん。あっちの方の玄関に、何本か傘があったはずだから。好きなの持って行って?」
お客様の忘れた傘は、確か1ヶ月立つと十千万の人たちの予備の傘として従業員出入口の玄関に置かれているんだったな。
「ありがとうございます。千歌ちゃんは? 今日何か予定とかあるの?」
「部活はないけど……雨予報だし、チカは家でゆっくりしてようかな! お昼寝し放題!」
「そっか! たまにはゆっくりするのも良いかもね!」
「寝んのは良いけど、ちゃんと宿題やっとけよー」
「もうっ! わかってるって〜!」
「あはは……」
すっかり慣れてしまったな、この団欒にも。自然と自分の口角が上がっているのが分かった。
そういえば、ぼくの知らないうちに、ルビィさん、
どちらも可愛くていい子だと聞いている。これでメンバーも5人になったことだし、そろそろ部活としての正式な活動が認められるだろう。
そうそう、
海のある土地のグループとして、客観的に見ても、なかなかオシャレなネーミングなのではなかろうか。ぼくも、そのグループ名を聞いた時は唸った。
さて、曇り空。海の色も少し変わっているように思える。支度が終わり、十千万を出て、ぼくは堤防に座って海を眺めていた。
バスはおよそ5分後に来る。それまでは、少し激しさを帯びた海を眺めていることにしよう。
*
マルサン書店。
年季の入った外の壁と、昭和どころか大正の時代すらも感じさせるようなフォントの看板。そこから想像もできないくらい、中身は現代的だった。
置いてある本が新しいので、昔にタイムスリップしそうな自分の脳をそれらが叩いて覚ましてくれるというのもあるが、棚や床などの内装も綺麗だった。
沼津駅前にある商店街に入ってすぐの所にあるこの書店は、ぼくの生まれるずっと前から、この街の人達に本を通して色んなものを与えてきたのだろう。
だから、本屋は思い出の場所になりやすいんだろう。
「……ハルキか……」
文庫本コーナー。周囲2mにギリギリ聞こえるくらいの声で呟く。
なんとなく読んでいなかったが、そろそろ手をつけてみるか。というか、ぼくの読んでいる小説の作家の大体が、昭和の文豪あたりなのだ。志賀直哉、LOVE。
そういえば、平成の作家の作品なんて、有川浩さんの『空飛ぶ広報室』くらいしかキチンと読んだ覚えがないな。別に、だからどーだこーだってわけじゃないし、自慢でも何でもないのだが。
これも、おばあちゃんと一緒に暮らしていた時に、実家に置いてあった小説の傾向なのだろう。
目新しいミステリー系と、今回のメインターゲットであった宮沢賢治の詩集。あとは面陳されている──表紙が見えるように陳列されている本という意味、本屋用語の一種──本屋大賞のモノをいくつか。
こんなものだろう。レジで合計金額を見てみると、なんだかんだと色々買ってしまったので、5000円程度になっていた。最近あまり読書ができていなかったし、丁度いい。
「さて、目当ての本は買えたな。よし」
店から出ると、商店街のアーケードが鳴いていた。雨だ。
「うわっ……降ってる」
ま、いいか。傘あるし。十千万方面へ帰るバス停は屋根があるし、大騒ぎするほどの雨量でもなかろう。
肩掛けカバンにひっかけていた傘を手に取り、駅のほうを見てみる。どこだったかな、シーパラダイス行きのバスが出るのは。
視線を向けた先には、ある意味では駅よりも目立つ何かがいた。
「ん……え。あの人……何してるんだろ……?」
一言であらわすならば、異端。東京でもないのに、その人の格好はとても田舎ではできないほどの所謂『コスプレ』的服装だった。
それは黒を基調とした、言わば衣装。漆黒の黒い羽を背負い、それが一番異端さを際立たせている。
「天使……いや、あの黒い羽根は……」
まるで、堕天使か。
ネイビーに近い色の、セミロングヘアー。シニヨンにカラスの羽根のようなものを突き立てている。赤い目はカラコンだろうか。千歌ちゃんと似ているので、地毛ならぬ地目の可能性もあるが。
次に目につくのは、傘をさしていないにも関わらず、少ない布面積。胸元から上にあるのは頼りない黒の紐のみ。あれで雨に打たれているなんて、ほぼ滝行と一緒じゃあないか。
ラバー製と思われる上半身の衣装が、濡れて艶を増している。スカートも短い。足の露出自体はニーソックスで隠されているが。
あのままでは、やはり彼女は翌日には赤い顔をして咳をしていることになるだろう。季節の変わり目だ、寒暖差も激しい。
傘を手に取って歩き出すも、1歩目で足が止まる。
一回考えろ、
何かわけがあってあそこに立っているのかもしれない。客引きとかで。主にいかがわしい店の客引きとかで。
いや、そんなコンカフェはそもそもブラックすぎる。彼女の衣装よりブラックだ。潰れてしまえばいい。
それに、何か事情があったとしても、それがぼくにとって自分が動かない理由には決してならない。しかも他人に話しかけるなんてことは、僕は十千万でごまんと数をこなしている。
逆に想像してみろ。彼女が十千万のお客様だったら?
普段の仕事を思い出した途端に、ぼくの足は動いていた。たとえその堕天使のような衣装で、彼女が石畳の上で濡れていても。たとえ本当に人間ではなく堕天使で、彼女が十千万の玄関にいたとしても。
人を助けるのに、そこまで細かい理由はいらない。それは堕天使だって一緒だろう。
「あ、あのっ!」
「……? 誰? まさか……冥界からの使者? 私が人の姿になって、弱体化している隙を狙ってっ……!?」
低い声で彼女がうろたえる。
意味の分からない言葉を羅列する彼女は、ひと目で分かるくらいに焦っていた。見つかっては困る何かでもあるのだろうか。
まあ、その何かが彼女の衣装そのものである可能性は大きいが。
「えっと……よくわかんないですけど、風邪ひきますよ……? この傘、あげるので……早くお家に帰った方が……」
僕がそう言うと、彼女は思い出したように(何故か)フッと低く笑う。
「私が、風邪……? ハッ! あり得ないわ! 何故なら、私は『堕天使ヨハネ』だもの!」
「だ、だてんし……?」
「そう。堕天使よ。堕天の力を宿しているこの私は、どんな病にも罹らな……くしゅんっ!」
可愛らしいくしゃみを聞き、ぼくは居ても立ってもいられず、さしている傘を彼女のほうにやる。
「ほらぁ! 言わんこっちゃない! はい、傘! これ使って、早く帰ってください!」
「えっ!? で、でも返す時どうすんのよ!」
「あげるって言ってんですよ」
「えぇえっ!?」
「じゃ!」
「はぁ!? じゃ、って何よ! 返されなさいよ!」
「ふふっ。なんですか、その日本語」
「初対面の人の日本語をバカにするなーっ!」
低い声は、すっかり困り果てた人間らしい声に戻りきっている。
ぼくは、ここ沼津に来る時までの過酷な旅を生き抜いてきた、そこそこ丈夫な素材のカバンを頭に当てる。
「ぼくは大丈夫です、リュックがあるので。まあ、これからバスで帰りますし、そんなに濡れないと思いますから! それじゃ、ぼくはこれで!」
「あっ……ちょっと!」
訳の分からないことを言われ続け、頭がパンクする前に、ぼくはバス停へと走る。
もしかしたらあの子は、本当に人間ではないのかもしれない。現実は、このカバンに入っている小説より奇なりと言うではないか。
バス停に着いたぼくは、時刻表を確認する。
「さて、次のバスは……いっ、1時間後……」
東京育ちのぼくにとっては、とても感覚が空きすぎている。
これじゃあ、コンビニに走って傘を買う時間も、できることになるじゃあないか。
「まぁ、いっか。今日休みだし……」
しかし、とりあえずは、ベンチでバス停をゆっくり待つ事にした。ふと、バスが来る方角の道路に目をやると、人影が近付いてくるのが見えた。
それは真っ黒な、人影と言うには羽が目立ちすぎている影であった。
「ん? えっ。まさか……」
見覚えのある傘をさした、堕天使だ。全力でこちらに走ってきている。明らかにバス停ではなく、ぼくの方を睨んでいる。
自分でもよく分からない恐怖に襲われたぼくは、声を上げて彼女と反対方向へ走り出した。
「えっ……えぇぇっ! ちょっ……なになになにっ!?」
「待ちなさ〜〜い! あなたに用があるのよっ!」
「いやいやいや! な、なんでっ!?」
「いいから止まりなさい! どうして逃げるのよっ!?」
「そっちが追いかけてくるからでしょう!? 怖い怖い怖い怖い!」
「怖くない! この堕天使ヨハネのどこに怖さがあるというの!!」
「いやもう、なんかこう……色々怖いんですぅぅぅぅ!!」
バス停を大きく周り、ぼくは慣れない全力疾走で中央公園とやらの方面へと走る。
濡れた地面に、あのヒールの少しついた靴では彼女も走りづらいだろう。さすがに走りづらいだろうと思っていたが、ぼくとほぼ同じか、もう少し早いスピードでついてきている。
あんなに肌が白いというのだから、よほど家から出ないものだと思っていたが、基礎体力はぼくより上なのだろうか。多分、ぼくの方が息があがってしまっている。
「いい加減止まりなさいよっ……このっ……うわぁっ!?」
「え? あっ……」
そんな声と、派手な衝突音が聞こえたので、振り向いてみる。なるほど、堕天使と地面が衝突していた。
ぼくは神経反射で、彼女に駆け寄る。
「あの……大丈夫、ですか?」
そう言って差し伸べられた手を、ラバー製の黒い手袋がしかと掴む。
「……捕まえたわよ。マイリトルデーモン」
「ん……? あっ。あぁっ!!」
時、既に遅し。ぼくは堕天使に捕まった。
そのリトルデーモンとやらは分からないが、今はぼくを捕まえるよりもっと先にやることがあるんじゃあないだろうか。
彼女が立ち上がった瞬間、左の膝のニーソックスが破け、赤くなっているのをぼくは見逃さなかった。
「あなたに話があるわ。おとなしく私に……」
「そ、その前に傷の手当てしないと! 膝、擦りむいてますし……」
「……フン。この程度の傷、痛くも痒くも無い。何せ私は、悪魔の血を引いているんだもの!」
声がまた低くなった。こうなると、堕天使とやらのモードに入っているらしい。というか、悪魔なのか堕天使なのかどっちなんだろう。
「良いから! たしか、人の姿になってるんでしたよね? それじゃあ、痛みも普通に感じるはずですよ!」
「な、何をバカなことを……こんなの……全然……いた、くも……」
あからさまに、膝の痛みを我慢しているのが伝わる。顔を見れば一発で分かるほどだ。
「ほら、大人しくぼくの肩を借りてくださいっ」
「あ、あなたにこの堕天使の何が分かるって……くぅっ、いったぁ〜っ……」
「やっぱり痛むんじゃないですか! 悪魔だろうと堕天使だろうと、痛いものは痛いんですよ!」
「っ……!」
幸い、そこのコンビニまで距離は無い。ぼくは彼女が手放してしまった傘を拾う。よかった、壊れてはいないようだ。ビニール傘も捨てたものではない。
さすがにカバンの中にあるのはハンカチだけ。消毒液やガーゼはあそこのコンビニで買うことにしよう。
「手当てしたいので、あそこのベンチ行きましょう! 歩けますか?」
「わ、わかっ、た……」
彼女はぼくの肩を借り、コンビニ前のベンチに向かって共に歩き始める。
ぼくは入口のマットで濡れた靴裏を拭き、急いでコンビニの中に入る。
会計の際、店員さんは窓から見える真っ黒堕天使と、その場で足踏みするくらい急いでいる男か女か分からない奴を、目で反復横跳びしながら驚いている。ごめんなさい、変な客と変な堕天使で。
釣りはいらないくらいだ。ぼくは大急ぎで会計を済ませ、店の外のベンチに座っている彼女の足元にスライディングする。
怪我をして少し消耗している、濡れた堕天使は、いかにも天界から追放されたてホヤホヤって感じで雰囲気が出ている。その怪我までコスプレだったら大したものだったんだが。
「い、今から消毒します……少し沁みると思いますが……我慢、できますか?」
「うん……えっ、息切れてるけど大丈夫? 手元狂わない?」
「ごちゃごちゃ言わない!」
「あっ、はい……」
「ありがとうございます、じゃあ……」
会話している間に、消毒液を染み込ませておいたガーゼを、彼女の膝に当てる。
「っ……! いっ……!」
「あぁ、ごめんなさいごめんなさい! もう少しですから……」
痛いよなあ、そりゃあ。
保健室の先生って、こんな気持ちなんだろうか。
ハンカチで周りの水分を拭き取り、絆創膏を貼る。雰囲気を崩さないようにしたいところだが、瘡蓋が早めに出来るタイプの四角いベージュの絆創膏だ。
どうしたものかと思ったが、ちょうどぼくは、自分のハンカチがネイビーに近い、暗い色であることに目をつけた。
ニーソックスが破けているのもみっともないだろう、ぼくはハンカチを、傷口を隠すように結んでみる。
うん、悪くない。これで勘弁してくれるといいが。
「はい、これでオッケーです。すみません、痛くしてしまって……」
「別に、謝る必要は無いわよ。……ありがとう」
「いえいえ。……あの、それで……ぼくに何かご用でしょうか?」
今はどうやら素の声が出ているようだ。先程よりも幾分か高い声だ。
「あなたに、ひとつ聞きたかったの。どうして、私に傘をくれたの?」
「どうして、って……?」
「私に傘をくれるような人なんて、今まで居た事が無かった。それなのに、あなたは私に声を掛けて……傘をくれた。それはどうして?」
「えっ? え、えーと……」
どうしてと言われても、身体が動いてしまうものは仕方ない。反射神経的なものだ。
何故ぼくの身体が動くのか。何故ぼくの直感が動けと言うのか。数十秒かけて考えた後に、ぼくの小ぶりな脳みそは、おざなりにも聞こえる答えを弾き出した。
「特に大それた理由とかはないんですけど……強いて言うなら……『そうしたかったから』、ですかね」
「はぁ? 理由になってないじゃない! それ!」
「理由ですよ! 職業柄もあるんでしょうけど……ぼくは困ってる人の助けになりたいんです。困ってなくても……傘をあげられるくらいの人にはなりたい。そうすることが……生きながらえた自分が、亡くなったおばあちゃんにできる唯一の孝行だって思いますから」
そこからぼくは、おばあちゃんのこと、他に東京で『彼ら』と生活したこと、ここに来て暮らしていること。その全てを簡潔に話した。
言葉足らずなところも少しあっただろうが、彼女は引っかかることもなく、また止めることもなく、それを聞き続けてくれた。
手当が終わったあとに感謝と謝罪がいの一番に出たあたり、この堕天使とやら、本性は善良なのかもしれない。
「……ごめんなさい」
「えっ? どうして謝るんですか?」
「私が……あなたの不幸を背負い切れなかったから」
「は……はぁ……?」
今度はぼくが、彼女の話を聞く番のようだ。彼女はバス停に向かって歩きながら、自分の生い立ちについて話し始めた。
彼女の名前は、『
物心ついてから、彼女は黒猫に横切られやすい体質をしていた。分かりやすいように言えば『不幸体質』。
生まれた土地の特産物であるみかんが苦手で。入学式や運動会に遠足と、大事な行事の日にはいつも雨が降っていて。雪が降ったら降ったで絶対に転んで。くじ引きで上位賞を当てた経験もない。
生まれついた時から、不幸の星のもとにいる彼女は、その運命から逃れられないことを中学生の頃から悟っていた。
最近では、落ち着ける場所であった屋上で、幼なじみ達のいるアイドルグループがダンスやら何やらの練習をしているらしく、それも不幸ポイントとして大きいとのこと。
高校デビューに失敗した彼女にとって、屋上という場所を奪われたのは非常に痛い。
今日だって、折りたたみ傘が何故かカバンの中でイヤホンと絡まっており、解いた頃にはどちらも壊れていたという。解いた意味がまるでなかったんだな。
不幸体質を自覚した彼女は、中学生の頃にとある決断をした。自分を『堕天使ヨハネ』だと思い込み、全ての不幸は、自分が堕天使故に起こる天からの試練や罰、また他人の不幸を背負ったものだと思おう、と。
そう決断してからは早かった。中学時代の彼女は元々暗めの色だったセーラー服にフリルとマントをつけ、ところ構わず自分を堕天使だと自称するようになった。
中二病、というやつだろうか。それにしては、個性やアイデンティティとして確立しすぎている気がする。自分の不幸を乗り越えるための設定を自分に課したのならば、それもまた幸福に生きる知恵だろう。
しかし、それもそろそろ卒業しなければいけないと感じているらしい。ネットでの配信、マニアックすぎる占い、何より普段の言動。痛々しいとは自覚しているようだ。
その心とは裏腹に、配信者としては大人気の堕天使は、儀式と称した配信が終わる度に『悪魔や堕天使などいるわけがない』と自分に言い聞かせているらしい。たまに窓から叫びもするらしい。
彼女が『ぼくの不幸を背負う』どうこうの話に戻った時には、既にぼくらはバス停に着いていた。
「……堕天使なんか居ないって言い聞かせて、儀式も少しずつ辞めて離れようとした。それなのに…….気が付いたらこんな格好で外に出てる。私は悪魔でも堕天使でもないからって、全ての不幸を自分に集める儀式の頻度も減らした。でも……どうして私は、楽をしてしまったの」
「え……」
「私が楽をしたせいで、あなたを不幸にさせてしまった。もっと儀式を続けていれば、あなたが少しでも不幸にならずに済んだかもしれないのに」
そりゃあ、その3キロあるという羽を背負うのは大変だろうけど。
「優しいんですね。堕天使ヨハネさんは」
「えっ?」
ぼくの心に痛いほど刺さったのは、その中二病らしい言動よりも、彼女の優しさだった。
彼女は自分の不幸体質を、かっこいいアイデンティティとして昇華させるほどに知恵のある人だ。それを周りに言えるほどの勇気を持った人だ。
しかし、それ以前に善子さんは『善い人』だ。周りの不幸までをも一身に背負おうとして、ぼくに対して謝罪までもする。
「ぼくに、そんなこと言ってくれる人……今まで居ませんでした。不幸を自分のことのように感じてくれる人は居ましたけど……不幸を自ら背負おうとする人は、初めてです」
「そう……」
「でも僕は……その、そんなところ……」
ぼくの言葉を遮ったのは、大きなバスの停まる音だった。
「あ……バス、来ちゃいましたね」
「ちょっ……今、何言おうとしたのよ!? それを言ってから乗って!」
「えぇっ? でもちょっと長くなりそうで……」
「はぁっ!? じゃ、じゃあ……名前! せめて名前だけでも教えなさい!」
「ぼ、ぼくは……零夏。未空零夏です! 数字の『0』の漢字に、『夏』って書いて零夏っていいます!」
軽く身支度をして、小銭を用意してと準備し、ぼくはバスの入口に向かう。
「零夏……そう。じゃあ……
「はっ、はい!」
背中の方から、またもや低い声。見ると、立ち上がったずぶ濡れの堕天使が、ジャンケンで言うグーチョキパーを合わせた無敵の手のようなハンドサインを目元に合わせている。
人差し指と中指の間から覗いた、ラズベリーにも似た赤い色の目がこちらをしかと見ている。
「レイ……マイリトルデーモン! また……会えるわよねっ!?」
ぼくには、それが彼女の『堕天使になってあなたの不幸も背負ってやる』とばかりの決意表明に見えてしまい、少しグッとくるものがあった。自意識過剰かな。
「……! はい! また、会えます! ぼく、『十千万』って旅館で働いてますから、もし良ければ泊まりに来てください! 最高のおもてなしを、約束しますから!!」
職場の名前を教えると、善子さんはこちらを指さして、ノリノリで叫ぶ。周りの目など、互いに気にならない。
「じゃあ、リトルデーモンとして……この堕天使ヨハネをもてなしなさい!」
「はいっ! あなたのリトルデーモンとして、おもてなしいたします! 風邪ひかないように、帰ったらすぐお風呂入ってくださいねー!」
そのリトルデーモンとやらは何だかよくわからないが、あなたの望むことなら、ぼくにできること全てをしてあげたい。
そう、ぼくは強く願うよ。善子さん。