キミの瞳に恋してない 作: 龍也/星河琉
どうやら、この建物の大半は『旅館』として機能しているようだ。
ぼくが寝かされていた、一般家屋らしからぬ、なんだか整いすぎている和室を出ると、そこはもう客室の並んだ廊下だった。
適当な襖を開ければ、どこかの文豪がカンヅメにされているんじゃあないかと思うほどに、雰囲気のある内装だ。
その通路を真っ直ぐ進み、『従業員専用 立ち入りを禁ずる』と書かれた暖簾をくぐり、少しばかり木張りの床を歩いていくと、どこか洋室然としたガラスの引き戸が見えた。
半透明のガラス越しに、中に人がいるのが見える。1人だけか。ローテーブルにキッチン、畳とフローリングが半々になった床と、一般的なテレビ。テーブルには、浅い木の器に入った煎餅らしき茶菓子。
とても良い。先程の客室(らしき部屋)と比べたら、まだ生活感があって落ち着く場所だ。
「さ、入って入って〜っ」
「……お邪魔、します?」
「あははっ! もう家のだいぶ中だよ?」
「だいぶ……中。そうか、言うなら玄関か」
この部屋の雰囲気自体はいいが、店の裏に忍び込んでいるような気分だ。少し入りづらいな。
そんなぼくを横目にチカさんは扉を開け、ぼくと同時に部屋に入る。
「
部屋の中にいた人が、ストレートヘアを揺らしてこちらに振り返る。
「あら、良かったわ……急に意識を失ったって聞いて心配だったから。具合はもう大丈夫?」
「は、はい。なんとか……」
ぼくがそう言うと、シマ姉と言うらしい黒髪の方は心配そうな表情を解き、ふわりと笑う。
額を大きく晒す前髪からこそ幼さが垣間見えるが、こちらを見つめる包容力のある笑顔と、おおらかで落ち着いた声色が印象的な女性だ。
「おぉ。目ぇ覚ましたか、良かった良かった……」
すると、お勝手の方からもう1人、ぼくの声を聞きつけたのか、チカさんのお姉さんらしき方が出てきた。
「じゃ! ねえッつーの、バカチカ! お客さんいるんだから部屋ででけぇ声出すなって何回言えば分かんだお前はァ!」
「
「あ、あの! 彼女が大きな声を出したのはぼくのせいなので……そんなに怒らないであげてください……」
チカさんがいま怒られていることの責任の一端、いや責任を一任しているのが自分であることを察したぼくは、ふたりの間に割って入る。
「……へぇ。見かけ通り、優しいんだな。ってか近くで見ても男か女か見分けつかねぇな。どっちだ?」
ぼくの全身を舐めるように見る、ミト姉と呼ばれている方。
見分けがつかない、か。今一度、自分のことを客観視してみることにする。
放浪を続けているうち、目が隠れるほど伸びた髪。幼い頃から変わらぬ細っこい身体と、伸びずじまいに終わりそうな身長。まつ毛も長めであることから、どこか中性的だと言われることは、昔から往々にしてあることだ。
この見た目では尚更だな、と自分自身に対して向けられる視線に関しては腑に落ちるものがある。
「ご想像に、お任せします」
「はぁ? なんだそれ。ま、どっちでも良いけどさ……」
性別など、人間を生物学的に分類するためだけの記号だったはずなのに。いつの間にか、性格・服装・趣味嗜好までもを性別で分けられるようになってしまったと感じるのも、ここ最近では珍しくないのだろうか。
生きづらいとすら感じた覚えはない。特にぼくのような『心の性別にさえ無頓着である者』にとっては。生まれた時から性自認が曖昧というわけでもないが、男女分け隔てなく接してきた人生の中で、いつしか自分はそういう心の中にある性と向き合うことを忘れていた。ぼく自身、特に気にしてはいないのだがね。
あえてぼくが性別を隠す理由を述べるならばこうだ。男と言えばこの女性だらけの空間では煙たがられ、女と言えば単に女性的な振る舞い(あぐらをかかない、乱暴な言葉遣いを控えるなど)をするのが面倒になる。まあ、単純と言えば単純な理由である。
上記の理由から、ぼくは普段から性別を明かすのに対しては消極的な方だ。
ここで『どちらでもいい』と言ってくれたミト姉さんには、感謝したい。少なくとも『この場』においては、ここからしつこく、ぼくの性別を詳しく割り出そうなんて考える野暮な人はいないだろうから。
「それで、千歌ちゃん。どうしたの?」
「えっと、この子……お腹空かしてるみたいでさ。何か食べさせてあげたいんだ! とりあえず…….白いご飯とか卵焼きならすぐ用意してもらえるかなぁと思って! あ、でも忙しいなら私が作るよ!」
「あぁ、今日泊まる予定だったお客様から急にキャンセルの連絡が入って……用意してた夕食が余っちゃったの。ちょうど3人分あるから、せっかくだし
お客様に出すための夕食。なんだか豪華そうだぞ、と期待が高まる。同時に、いっそうお腹の中に何でもいいから何かを詰め込みたいという欲が強まる。
「えっ? 私も良いんですか?」
「もちろん。捨てるのももったいないし、食べてくれた方がお父さんも喜ぶから」
「ありがとうございます! じゃあ……お言葉に甘えます!」
3人前、か。チカさん、ヨウさん、ぼくの3人分、都合よく余っていたということだな。
何にしろ有難い。仲間はずれが居ないなら、こちらも遠慮なくご馳走をいただけるというものだ。
「ねぇ……さっきから気になっていたんだけど。もしかして、というかやっぱり、『
「旅館だよ! 『
「へえ……すごいね」
「十全一日、千客万来! って意味もあるらしいけど、私はまだよくその言葉の意味が分かんないんだけどね」
なるほど。全て漢数字で、『十千万』。十全一日は、毎日変わりなく。千客万来は、大繁盛の意。毎日、大勢の方に来てもらえる旅館の名前としては、ピッタリだ。
さて、旅館の夕食とは、どんなものだろうか。実際に見たことは無いが、テレビで紹介されているのは見たことがある。ああいうものが出てくるならば、ぼくは心の中で飛び跳ねて喜ぶ自信がある。
すき焼きや舟盛りが出てきたらどうしよう。嬉しさで、ここで死ぬかも。ここら辺は海があるから、やっぱり海鮮系がメインになってくるのかも。
「十千万……良い名前だね」
「でしょっ? ……はっ! 志満姉! 今お客さん用のご飯3人分余ってるって言った!? 私も食べていいっ!?」
「そうねぇ……千歌ちゃんも頑張ったから、一緒に食べて良いわよ?」
「やったぁーっ! ご馳走だぁーっ! ありがとう! 志満姉っ!」
「ったく、食い意地だけは一丁前だ。2人の分まで食うんじゃねぇぞー?」
「えぇー? 食べないよっ! 私はついでみたいな感じだし、この場で一番優先されるのは曜ちゃんと……えっと……あなたは?」
「え、まだ名前も聞いてねぇのか?」
そうか。
「そういえばまだ……キミ、なんていう名前なの?」
まだ、ぼくについては、この人たちは何も知らないのだったな。
「……ぼくは、
「いちか……」
「未熟の未に、青空の空。名前の方は、数字の一に、夏って書く」
「あっ! 名前に『ちか』って入ってるじゃん! い『ちか』、って! えへへっ、私と
「あぁ……言われてみれば……」
おんなじ、というのはちょっと分からないし、そんなに嬉しそうにしている理由も分からない。名前が似ていると、間違えられやすくなるだけだから。
この『十千万』の方々は、なんというか一期一会の出会いを大事にするらしいというのが分かる。でなければ、ぼくのことなどは拾ってすらいないと思う。
「まさか、名前に『一』が入ってるなんて……千歌、お前やっぱ持ってるな」
「ん……何が?」
「ふふっ。こっちの話よ」
なんだか、身内間で話が勝手に片付けられた気がする。飲食店で残り少ない料理を食べ終わる前に少し電話で席を外し、戻ってきたら店員さんにお盆ごと片付けられてしまったような気分だ。まあ、料理は今から出てくるのだが。
「3人共、今日はお客様用のお部屋に行ってね。居間に料理を運ぶと、きっと溢れちゃうから。料理出しが終わるまで、しばらく寛いでて?」
「うんっ! わかった!」
「すみません。ありがとうございます……」
食べ物にありつけると分かってから、ぼくの脳ミソは単純にも落ち着きを取り戻しつつあった。
「ふふ。チカはね、千の歌って書くの」
「千歌、さん……ですか」
「あっ、自己紹介忘れてた! 私は日曜日の曜と書いて、渡辺曜ですっ!」
「どのワタナベですか?」
「直美の渡辺!」
「ああ、渡るに辺ですね」
千歌さんと曜さんと一緒に、居間から先程ぼくの寝かされていた客室に戻ろうとすると、ミト姉さんがこちらに話しかけてきた。
「しばらくしたら私もそっちに遊びに行くわ。一夏君のこと、色々聞いておきてぇからさ」
「そうだね。一夏君のこと、私達も聞きたいし」
「話さなきゃ駄目かなぁ……」
「ダメだよ! 助けるにもまずは、一夏くんのことを知らないと!」
もう名前で呼ばれている。距離の縮め方が上手いな、と感心まで覚えるね。実際、ちょいとばかしドキドキというか、ウキウキというか、とにかく少し浮ついてしまっている自分がいる。
名前を呼ばれるのは久しぶりだ。『一夏』。もう空っぽなのに、まだ『一』だけ残っている。おかしな名前だ。
「……わかった。話せることは、話すよ」
部屋に戻り、しばらくすると大人しい方の千歌さんの姉さん、シマ姉さんが食事を持ってきてくれた。
「は〜い、お待たせしましたっ。こちら、『伊勢海老 会席』になります〜」
カイセキ。よく分からないが、なんだか宴会みたいなイメージがある。
ぼくらのもとに運ばれてきた、どデカいお盆に乗っていたのは、十数個はあろうかという小さな皿の和食、それに大きな皿がいくつか、そして『海老』の頭が丸々乗ったド派手な刺身のオードブルのような皿。
「ッ……」
「わぁ〜っ、相変わらず豪華だねぇ」
「な……何だこれ……ッ」
どこから食べたらいいんだ。ぼくはカニを自分で剥いて食べたことがない側の人間だ。なので、最初からこうやって、ある程度パーツ分けをして海老が配膳されるのは好きだ。
だが、この料理たちの食べ方が分からない。どこを最初に、どうやって食べるんだ。箸の使いこなし方にさえ自信がなくなってきた。
「あら、エビは嫌い?」
「今のぼくに好き嫌いは無いも同然です。しかし、ね……」
「ん?」
「どこから食べたものか。というか、どこから食べるのが正解なのか……」
ふふ、とシマ姉さんは笑う。そして、配膳をし終わったお盆を畳に置き、しゃがんでぼくを見つめる。
「もともと会席料理は、宴会のための料理なの。楽しみながら食べることができれば、正解なんて無いわよ。うちは回らないお寿司屋さんじゃないわ、食べ方に店側がとやかく言ったりもしないし、それこそ赤ちゃんみたいに散らかして食べない限りは大丈夫よ」
「シマさん……」
「ふふ。マナーってね、相手を不快にさせないための『思いやり』なのよ?」
ぼくの頭を2度、ぽん、ぽん、と撫でると、彼女は立ち上がって話を進める。
「昔、イギリス王室でのパーティーでね。フィンガーボウルの水を、間違えて飲んでしまった人がいたんですって。でもその中で、女王が同じようにフィンガーボウルに入ってる水を飲み出したの。恥をかかせないように、って」
「へぇ、初めて聞いた……」
この旅館で必ず言っている前口上かと思ったら、そうでもなさそうだ。千歌さんがポカンとしている。
「それは、本当の話なのですか?」
「ふふっ。さぁ? そのエピソードの『真偽』は、そこまで問題じゃないのよ。少なくとも、この場では」
「マナーは……『思いやる心』……」
「そう。だから、腹ペコのあなたが、食べ方なんかで悩む必要なんてない」
先程の位置に戻ったシマ姉さんの後ろの襖が開き、もう一人の姉さんが顔をのぞかせる。
「それに限らず、そいつはどこか両極端なんじゃねぇか? ルールを守るか死ぬかって感じの考え方を、すぐにするようなヤツに見えるぞ」
「あら美渡ちゃん、それは言い過ぎじゃないかしら」
「はっ。これが言い過ぎかどうかも、今から見てやろうっちゅー話よ」
どかっとミト姉さんが座り、こちらを見る。なるほど、マナーを見るわけじゃあないが、ぼくの態度自体は見ている、ということか。と思い、隣を見ると千歌さんと曜さんは既に食べ進めている。
ぼくは改めて胃袋の叫びに耳を傾ける。数時間前まではうんともすんとも言わなかったのに、今ではすっかり飼い慣らされた猫のようにグルグルと唸り、人でもなんでも喰ってやるとばかりに牙をむいている。
両の手を合わせ、ぼくは数日ぶりにこの言葉を口にする。
「いただきますッ」
かき氷のような大根の麺の中に、埋もれるように、また咲くように鎮座する赤身。マグロか。多分。刺身の見分け方なんて知らないが、なるほど、これが脂の乗った赤身というやつか。
あらかじめ醤油の張られた銘々皿。どこかぎこちなく握った箸で刺身をつまんで、醤油につける。
口に箸が迫るにつれ、少し手が震えてくる。本当に食べてもいいのか。いきなり、こんな高級そうな食べ物を。
「ねっ」
「……?」
これから食べるという時に、右隣の千歌さんがこちらに話しかけてきた。そして。
「すっごく美味しいから。たくさん食べてね」
そう言い、ふわりと微笑む。
その瞬間、ぼくから一切の悩みは消えた。
袖幕からでもハッキリと見える、星空のように散りばめられた蓄光バミテ。その中でも、ぼくが立つ場所は完全に暗転した舞台でも見えた。そこに立つと2サスがぼくを照らし、ぼくの全身が輪郭を取り戻した。
要は、『この場所でやるべき事が見つかった』ということだ。それは、『目の前にある料理を残さず食べること』。ぼくに今、与えられた『使命』だッ。
ぼくは勢いよく、口へ刺身を運ぶ。
口で数回、赤身を噛んだぼくは、食べなくなって久しい海鮮の味覚を味わう。ここで死ぬなら後悔はない、とさえ思ってしまうようなキレイな海を思い出した。
ああ。マグロとは、こんなにも美味しかったか。いや、口に何かを入れ、マトモな味がするとは、こんな感じだっただろうか。
舌ざわりがいい。良質な包丁で、スーッと切られているのだろう。スジの感じもない。ぼくはそれを、何十回も噛んでから飲み込む。それと同時に、ぼくの目からは大粒の涙がぼろぼろと流れてきた。
「あ"ぁ"〜〜〜〜っ」
「えっ!?」
「な……泣いてる……?」
そのままの勢いで、イカや海老、山菜の天ぷらの数々を白米と共に口へ運ぶ。
「あらあら。そんなに美味しかった?」
「そりゃ、何日も食べてない腹に沼津の海鮮だぜ? 夜勤明けの生ビール並にうめェだろうよ……」
もはや、ぼくにはそんな周りの呟きが、バスの中で音漏れしている音楽くらいにしか聞こえなかった。
「いやぁ、コイツ。流石に……」
「いい食べっぷりねえ。見てるこっちも、お腹が空いてきちゃうくらいに」
そこから少しすると、ぼくの前から食べ物らしき食べ物はなくなり、皿の上には海老の頭や殻やレモンの絞り骸が残っているだけになった。
胃袋は八分目までキッチリ満たされた。ぼくはこれ以上ない満足感に包まれ、足を崩しそうになる。
もう一度両手を合わせ、食事の終わりをこの口から告げる。
「……ご馳走様でした。すごく、すっごく……美味しかったです」
「ふふっ。お口に合ったみたいで良かったわ」
「満足そうで何より……で、早速で申し訳ないけどさ。一夏君の話、聞かせてもらえないか?」
「はい……」
「改めて自己紹介が必要ね。私は高海志満。こころざしに、満ちるで志満よ」
「美しいに渡るで、美渡。さて、一夏君。単刀直入に言う。何で、死のうとしてたんだ?」
……さて、どこからどこまで話そうか。そんなことは考えていない。食べるのに夢中だったから。ここからは完全にアドリブ、即興劇だ。
「私も、それは気になった。その、無理しなくてもいいけど……キミがどうして、どうやってあの砂浜に来たのか、知らなきゃいけない気がするんだ」
要点だけを話そう。
「ぼくは……物心のつく前から、両親がいなくて。ずっと、祖母に育てられていたんです。でも、祖母がぼくの高校受験のタイミングで亡くなって……学費を払えなくなったので、入学を辞退しました」
「高校、行ってないのか」
「ええ。それからは、友人の家に寝泊まりをさせてもらってたんですが……先日、追い出されてしまって。なんといいますか、その……自分が生きている理由を見失ったんです」
「ごめんなさいね、辛いことを思い出させてしまったみたいで」
「いえ、ぼくは大丈夫です。そこの2人も……ぼくが気にしていないんだから、気まずそうにする必要は無いよ」
気にしてない、というのは、ただただウソだ。そういった過去のことを引きづっているから、ぼくは死のうとしていたわけで。
強がりではない。この場を少しでも和ませようとした、ぼくなりの気遣いの一種だ。おこがましいだろうか。
「だから、どこか良い死に場所を探し続けて……
「えっ……? 一夏くん、東京に住んでたの!?」
「そう、なるね。うん。一応」
「そうなんだ……東京なら、誰か1人でも助けてくれそうな人、いそうなのに」
「んん……逆に、都会の人の方が他人に対して無関心だよ。誰かが困ってても、自分からは動かない。東京は、そういう人達ばかりだったよ」
そういう人達、ばかり。そう、『太陽くん』を除いては。
彼だけは、『太陽くん』だけは、あの日のぼくに話しかけてくれた。優しくしてくれたんだ。
こういう、都会とはおおよそ呼べないような、ご近所さん同士で助け合っているような街では考えられないだろうね。ウン十階建てのマンションが連なり、土や潮の匂いが拒絶された鉄筋コンクリートの街、煌びやかな夜景に憧れることもあるだろうけど、現実の東京はそこまで素敵な街ってわけでもない。
「まぁ……たしかにそういう人の方が多いかもな。私もたまに東京行くことあるから、なんとなくわかるよ。良くも悪くも、他人にそこまで興味無いんだよ。あっちの人達は」
「そうですね……なので、ココに来て驚きましたよ……千歌さん達がお家までぼくを運ぶとは思っていなくて……」
「ここの人達なら誰だってそうするよ。皆、あったかいんだよ。誰かが困ってたら助ける! 沼津はそういう街だから!」
「……すごいなぁ」
羨望。心から、ぼくがこの街に生まれていればと思った。
「死のうとしてたのは本気だったみてぇだな。君、まだ子供だろ。歳いくつだ?」
「16歳です……」
「まぁ……!」
「マジか!? 千歌達と同い年じゃねぇかっ……」
自分の妹、その友達と同じような年齢で入水自殺をしようとしていた人間を目の前にして、2人の姉さんは目を丸くする。
「見た感じ、私達とそんなに歳は離れてないと思ってたけど……同い年だったんだ……」
曜さんが、途切れ途切れにつぶやく。
「高校に行ってないってことは、その『お友達のお家』にずっと居たってこと?」
「そうなりますね……その代わり、炊事や洗濯は全部ぼくがやってて……ですので、家事はそこそこ自信があります」
「へぇ。家事なんざ千歌にやらせたらしっちゃかめっちゃかになんのに、大したモンだな」
「もう! 今それ言わなくて良いからぁ!」
「あはは……」
ありがたいな、そういう類のジョークを言ってくれるのは。ぼくのせいで暗い雰囲気になっているこの場が良い具合に和む。
「……とりあえず、事情はわかったよ。ありがとな、話してくれて」
「こちらこそ……こんな話を聞いてくださって……」
「そっちの事情をわかった上で言わしてもらうけど、一夏君。お前は死ぬにはまだ早ぇ。正直、早すぎるぞ」
自分でも、それは思っていた。ただ、早く死にたかった。今だって、ぼくの処遇がどうにも決まらないのだったら、入水だって覚悟の上である。
「似たようなこと、千歌さんや曜さんにも言われました」
「そりゃそうだろ。一夏君は千歌達と同じで、まだ子供なんだ。こっからさ、いくらでもなんとかなるじゃねぇか。その歳で死にてぇって思うのは……ちと視野が狭すぎるぞ、お前」
「……すみません」
視野が狭い、か。
生きるか死ぬか、その二択しかないぼくの思考に対しての言葉だろう。おそらく大抵のヒトは、生きるか死ぬかという二択では『とりあえず生きるを取る』。そして、そこから『どう生きるかを決める』のだと思う。
ぼくは、あのままでは『生きること』はできなかった。生命活動を、維持できなかったのだ。『死ぬ』という選択肢を選んでも、無理はないと思うのだが。身分証明書がなく、働くこともできないから。
ホームレスになってでも生きようとは、ぼくは思えなかった。そこが、彼女らとぼくとの思考の大きな差なのかもしれない。
「美渡。気持ちは分かるけど、もう少し言い方を考えてちょうだい?」
「……ごめん。つい……言い過ぎちまった」
「いえ……視野が狭いのは自覚してるので……」
たとえ誰かから言われなくても、視野が狭いというのは分かっている。産まれてから十六年しか生きていない、且つ高校にも通っていないのだから。学校やその他のコミュニティに属している訳ではない以上、視野が狭いという事実を自他共に認めざるを得ないのだ。
「ナルホドなぁ……一夏君をこのまま放っておく訳にはいかねぇし、こういうのはどうだ? お前をこの家に住まわせる代わりに、十千万で働いてもらう……っていうのは」
「住み込みで働く、ということですか?」
「そうなるな。あいにく、十千万は人手不足でな。パートは何人か居るけど、常に働けるって人はそう居ねぇ。そこで一夏君には、フルタイムで働いてもらいたいって話だよ」
「は、はぁ……」
フルタイムって何だ。初めて聞いた。まあ、10時間くらいを指すのだろう。24時間『マネージャー』として生活していた数年間があるし、時間の多さに関してはとりあえず大丈夫だろう。
「そうだよ! そうすれば一夏くんを助けられるじゃん! ここに住むってことは寝る場所もあるし、毎日ご飯も出るんだから! 美渡姉ナイスっ!」
「幸い、千歌の隣の部屋も空いてるしな。物で溢れてっけど。あそこを片付ければそのまま一夏君の部屋にできるだろーよ」
「で、でもっ……千歌ちゃんと一夏くんが一つ屋根の下で住むって……ちょっと……」
曜さんは、既に『本当のぼく』に気がついているようだ。生物学上での話だが。曜さんと千歌さんは見てる限り大の仲良しっぽいし、自分と仲の良い人が得体の知れない他所者と同居をするとなれば、不信感が募って当然だろう。ぼくはここに居る皆さんが想像するような良からぬコトをしでかす気など毛頭無いけれど。
「ぼくは変なこととかするつもりは微塵も無いですけど……不安には、なりますよね」
「んー……」
微妙な顔をしている曜さんだが、それ以外の皆さんは明るい表情で肯定してくれる。
「私は一夏くんのこと、信じてみようかな。そういうコトするようには見えないし」
「信じて、くれるの?」
「うんっ。一緒に住んでみるまで、一夏くんが悪い人かどうかなんてわかんないし。でもきっと、あなたは悪い人じゃないって思えるから!」
「……!」
本当にこの人は、人が
「ま、千歌が良いなら大丈夫だろ。最悪、ヘンなコトしでかしたら追い出しゃ良いしな。そうなれば、お前にとっても不都合だろ?」
「仮に一緒に住む事になったとして、ぼくにそんな真似出来るとお思いですか……?」
「ははっ! 冗談だよ。真に受けんな。お前がそんなコトしねぇのは見てればわかっから」
「は、はぁ」
美渡さんはぼくの肩をバシバシと叩く(そこそこ痛い)と、勢いよく立ち上がる。
「一夏君が住み込みで働いてくれるの、私はもちろん歓迎するけど……お父さんが何て言うか分からないから、それ次第かもねぇ……」
「あー。私達だけで話進めちまってたけど、一応こういうのの決定権は親父にあるからな。……っし。ここに親父呼んでくるよ!」
そう言って彼女は一度部屋を出て、『親父』……高海家の大黒柱を呼びに行った。この場に千歌さん達の父親が来るという緊張からか、手汗がじわりと滲み始め、額から汗が噴き出る。
「……キミのお父さんって、どんな人?」
「んー……優しいよ? すっごく頼りになるの!」
「そっか……」
正直、ぼくはかなり緊張している。大きく、古き良き日本家屋じみた旅館の主だ。いかついか、インテリかの二択だ。母の尻に敷かれてるような奴じゃあないってことだけは確か。
父親、というイデアを世間的なイメージでしか未だ掴めないぼくである。
ほどなくして、2人分の声と足音が聞こえてきた。
「できる限り手短に済ませよ。まだ仕込みの途中だからな」
「わーってるって。ほら、入った入った!」
ぎこちなく座っていたぼくは、反射的に立ち上がり、部屋の入り口を見る。
すると、180cmほどの図体の、襟付きの白い調理服が入ってきた。眉毛が細い。耳は、潰れてないか。いや、柔術などの経験者でなくとも、体格的にケンカでは絶対に勝てなさそうだな。心做しか、オーラもすごい。『スゴ味』がある。
「君が、『一夏』か?」
「は、はいっ。未空一夏と申します。先程、千歌さん達に助けられまして……ここにお邪魔させてもらってます……」
「……高海
「そう……ですね。もし良ければ……ここで働かせてもらいたいなと、思いまして……」
「……」
億康さんは、こちらを見るでもなく、腕を組んだまま黙って俯いている。
「居候させてもらう身ですので、全力で働かせていただきます。ぼく、なんだってやります! どんな仕事だって……」
「誰がお前のような他所者を居候させると言った? 思い上がりが過ぎるぞ。小僧」
小僧。この人に、ぼくはそう見えているのか。見た目のちんちくりんさではなく、性別を見る上での、という話だ。
期待と違った言葉をかけられた、と思ったのは、周りの方々も同じようだった。どこか唖然としている。
「え……」
「おい親父……」
「俺は認めんぞ。こんな半端者を十千万で働かせるなんて……ましてや居候など論外だ。成り行きで『働きたい』などと軽い言葉を並べる奴に、務まる筈が無いだろうが」
「パパ……」
確かに、ぼくは旅館で働いたことはない。接客がメインの、しかも格式ゆかしい、それこそ時代が時代なら太宰治でもいそうな旅館だ。未経験者、初心者の中卒歓迎って雰囲気でもなさそうだ。
成り行きで働こうとしているというのも事実だ。その言葉が軽いと受け取られるのも、承知の上で『働きたい』と言っている。
「両親が居ない、行くアテも無い。それで死にたくなる気持ちは分かる。同情もする。だが……それとこれとは話は別だ」
「ぼくは……本当にここで働きたいと、思って……」
思わず、言葉の端々で詰まってしまう。
「では聞くが、お前がここで働きたい動機は何だ? どうしてもここでなくてはいけない明確な理由はあるのか?」
「それは……」
「寝床と飯が出て、最低限度の生活が保証されるからだろう? 違うか?」
「……」
むしろ、それ以外の理由なんてない。生きるには、まずそこから始めるしかないから。今、億康さんの口から出てくるのは、そんなぼくの背景を知っていようが知っていまいが、かなり厳しめの言葉ばかり。
事実なので否定しようがない言葉ばかりだが、それなりに辛い。
「言えないだろう。十千万で働けば衣食住に困らないなどと舐め腐った思想しか持ち得ないお前を、俺が働かせてやるとでも思ったか? 子供だから、それが許されるとでも思ったのか? お前は……」
「お父さん、一夏君がそう思ってると決まった訳ではないでしょ? 決め付けるのは良くないわよ」
「お前達がどう思うかは関係ない。俺から見れば、ただ甘い蜜を吸いたいクソガキにしか見えんぞ」
「そう見えたのなら……謝ります。申し訳ございませんでした」
頭を下げておく、と言ってはイメージが悪いが、ぼくはそんな風に自分か見えてしまっていることに申し訳なさを感じたので、座ったまま土下座一歩手前といった形で頭を下げる。
そんなぼくを見て、皆は口々に億康さんに意見をする。
「おいこら親父! 一夏君は客なんだぞ!? 客に頭下げさせてんじゃねぇよ!」
「そうだよパパ! さっきからどうしてそんな酷いこと言うの!? こんなのあんまりだよ!!」
「……わかった。こいつは一応、客だったな」
一応。その言葉を、念押しするように強く口にし、彼はあまり迷う素振りを見せずに、ぼくにこう言う。
「……?」
「未空一夏。……1週間だ。今日から1週間だけ、お前を十千万の客として扱ってやる。飯も風呂も、寝床も無料で提供する。それまでに自分なりに考えて……答えを出せ。その期間で俺を納得させるだけの答えが出せないなら、ここから出て行ってもらう。それでどうだ?」
どうだ、と聞かれたら。
そりゃあ……もう。
「……わかりました。それで、お願いしてもよろしいでしょうか」
「一夏くん……?」
「ほんとは、わかってた。こんな都合の良い話は無いって。受け入れられないって。だから、あなたを……『お父さん』を納得させられる理由を見つけたい」
「お前が俺を『お父さん』と呼ぶな。馴れ馴れしい」
「だーっもういちいち突っかかんなよめんどくせぇな!! ごめんな一夏君……ホントごめん……」
「い、いえっ……大丈夫です……」
「これで話は終わりだな。俺は仕込みに戻る」
腕を組んだまま、億康さんは立ち上がり、襖に向かって歩く。
その襖を開ける手前、彼はこちらに背中を向けたまま、目を合わせようともせずにこちらへ言葉を投げかける。
「……ゆっくり休めよ」
「えっ……?」
それだけ言って、億康さんは部屋から出ていってしまった。
「昭和オヤジなんだよなぁ、ほんっと……」
「結局、1週間は安定して居られるようにはなったけど、このままでは一夏君は言葉通り追い出されてしまうわね」
千歌さん達が、自分のことでもないのに不安げな表情をしている。温かみのある、田舎の方々って感じだ。億康さんの厳しい言葉が余計にぼくにとって刺さった原因でもあるが。
ぼくは、ハラに決まった『何か』があった。
それは『確信』だ。
ここにいる方々は、『一期一会の出会い』を大事にするような人ばかりだ。1週間も、ぼくを旅館に
そんな『出会い』を大切にするのは、皆さんが『出会いは運命であると確信している』からだと、ぼくは思っている。
万有引力のように、惹かれ合うように、人との出会いは、いや、たとえ人ではなくとも何かとの出会いは、引力のような何かが引き寄せている。そう思っているから、初対面の人にも優しいのかもしれない。
「やってみせますよ」
ぼくがそう、自身に言い聞かせるように言うと、部屋にいる皆が一斉にこちらを向く。
布団の方に歩き、ぼくは手を頭の後ろに、足を組んで仰向けになる。今までした事もないような格好だが、これがぼくの精一杯の『運命と戦う姿勢』だった。
「きっと、なんとでもなります……ここまで来たのなら、もう一歩。あと一歩だけ。そんな気がするんです」
「一夏くん……」
「1週間。ぼくにとって、この人生で一番大事な1週間で、見つけてみせます……ぼくが、ここにいたい理由を。ここにいるための答えを」
今までより、少し強気な口をたたく。ぼくは『今までの自分を乗り越える』。『運命と戦っていく』のだ。これくらいはしないと、やっていられないというものだ。
見通しも立っていない。億康さんの圧にも慣れる気がしない。1週間という長いようで短い期間で、きちんと自分自身の『運命』と向き合い、決断をしないといけない。
ぼくは今まで、自分でなんでもしてきたように見えて、決断なんてことはしなかった。炊事洗濯はお手の物、今までいくつシャツをたたみ、タマゴを割ってきたか分からない。それでも、ぼくは決断というものをする機会がなかった。避けてきたようにも思える。
だから、ここで向き合わなければいけない。今までの『不幸ばかりの
だから。
ぼくは、見つけなくてはならない。惹かれ合ってたどり着いた、この沼津の地で。ぼくが生きるための理由を。ぼくが、ぼくであるために。
「──あの、ここにある食器だけ片付けさせてもらっていいですか」
「だーめ。ゆっくり寝ていなさいっ」
「ですよね……」
客であると自身をそう認識した筈なのに、クセというのは本当に恐ろしい。出過ぎた真似をしてしまったと、ぼくは些かその発言を悔いた。
半端で未熟な者は、空の青ささえ疑い続ける。空の先に何があるかも知らぬまま。