キミの瞳に恋してない   作: 龍也/星河琉

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#4 Hello! Orange Sunshine

 

 日曜日、夜。約20時。ぼくは、沼津の水平線を見ながら物思いにふけっていた。

 

 今日は十千万に来てから、7日が経った日曜日。明日の月曜日が、ぼくが十千万に居続けるための『答えを出す日』だ。

 

 この1週間、色々なことがあった。かつてないほどに有意義な日々だった。

 

 月曜日。十千万で働くパートさんと話をした。

 

 その人は仕事自体もそうだが、家族のために働くというのが一番のやり甲斐らしい。『2児の母とはいえ、まだまだ働き盛りよ』と笑っていた。

 

 それに笑って返すと、『べっぴんさんだね』と褒められた。特に笑うところが、とも言われた。同時に、ここ最近で久しぶりに笑顔を見せた自分に気づき、少し自分自身に驚いた。

 

 アットホームな田舎の雰囲気に馴染めるか不安だったが、この分では大丈夫そうだ、と安心した。都会よか、よっぽど他人と他人の距離が近い。

 

 もしかしたらここで働くかもしれないと言ったら、『若者は大歓迎だよ』と暖かい返事を返された。

 

 火曜日。ぼくが来た日からずっと、(よう)さんが千歌(ちか)さんの部屋で寝泊まりしているのに気づいた。

 

 恐らく、ぼくを心から信用していないのだろう。気持ちはわかる。今のところ、ぼくの『身体の性別』について正しく理解しているのは、沼津であの人だけだ。

 

 そのことを他の人に言い出しづらい手前、こうして自分が泊まるという手段くらいしか選べなかったのだろう。

 

 説得力のある話し方というものを練習するべきだろうか。特に生徒会長に立候補する気もないが。通う学校もないし。

 

 ああ、そういえば、こういったジョークは笑いを取れないらしい。千歌さんに同じことを言ったが、反応に困っていた。

 

 水曜日。パートさん達の仕事を見学した。

 

 食器を片付け、洗濯物を干し、及び畳む。家事のような仕事だ。実際、パートさんのほとんどが『家事の延長みたいなものだから、マニュアルさえ守っていれば家でやることと同じだ』と言っていた。

 

 タオルを畳んでいるパートさんの1人を見て、昔のクセで思わず手伝おうとしてしまった。『気持ちは嬉しいけど、大丈夫だよ』とやんわり断られた。

 

 断る時にさえも優しいのか。沼津。

 

 その日に思ったのは、やはり自分は『人が生きていた証拠』を見るのが好きなのだろうということだ。生活感が好きというか、言ってしまえば片付きすぎている場所よりかは、少しばかり汚い場所が好きなのだ。

 

 ショールームのようにキレイに整えられた部屋よりも、ほどよく物が散らばっていて、ゴミ箱に数個のゴミが入っているくらいが安心するのだ。

 

 それを片付けるのもまた、ぼくは好きなのだろう。

 

 木曜日。高海家の飼い犬である、『しいたけ』と初めて遊んだ。毛並みが拾われた直後のぼくよりも良かった。大切にされているんだろうな。

 

 ものの数分で懐いてくれた。あの子も随分、人慣れした犬だ。旅館に来るお客さんに可愛がられてきたのろう、というのがわかる。

 

 千歌さんがブラッシングを教えてくれた。思えば今まで、祖母の世話をしていたことはあったが、ペットは飼ったことがなかった。

 

 何も考えていなさそうで、実は周りをよく見ている犬だと聞いた。高海家の一員に相応しい名犬だ。

 

 金曜日、志満(しま)さんと美渡(みと)さんと、数時間話をした。今まで通り、とても優しかった。自分が今日発見したことや、他愛ない話。それらを、嫌な顔ひとつしないで聞いてくれた。ほんとうに暖かい人達だ。

 

 こうして2人と話すことが、ぼくにとっては日課になっている。というのも、初日に2人から言われたのが、『今日新しく発見したことを私たちに教えて欲しい』というものだったからだ。

 

 日課ができると、1日にメリハリができる。それはたとえば花の水やりであったり、軽いヨガであったり。何かを毎日続けることで、自己肯定感が増すのはいいことだ。

 

 土曜日。千歌さんがスクールアイドル部を作ろうとしている事を知った。

 

 新しいことを始めたようで、色々悩みが尽きないようだ。部活を立ち上げようとしたが、メンバーが足りずに生徒会長に設立届を突っ返されたり。偶然出会った『桜内』さんという方をメンバーとして加入させようと試行錯誤していたり。

 

 その状況としては、まさに前途多難といった様子で、先の見えない大きなプロジェクトに取り掛かるとはこうも難しいのかと思った。

 

 でも、これからできるはずの『浦の星女学院スクールアイドル部』について話している千歌さんは、なんだかとても目がキラキラしていて楽しそうだった。目標がある日々とはいいものだ。

 

 かつて、スクールアイドルの頂点を目指していた人を知っているからか、なんだか懐かしい気持ちにもなった。ぼくにできることがあれば、何か力になれると良いな。それに値する能力と資格が、ぼくにあるかは分からないけれど。

 

 そして。

 

 日曜日。

 

 ぼくは、十千万の真ん前にある浜辺、つまりぼくと千歌さんが初めて会った場所にいた。

 

「……はぁ」

「一夏くんっ!」

 

 砂浜にため息がかかると同時に、千歌さんの声が後ろから聞こえた。

 

「千歌さん……」

 

 元気よくこちらに走ってくる千歌さん。砂の地面にも足を取られることがなく、さすが海で育った人だと思わぬ所で感心した。

 

「ここにいたんだね。はい、これ。あげる!」

「ありがとう。いただきます」

 

 千歌さんがくれたのは『ぬまっちゃ』という、缶のボトルに入ったお茶だった。先程まで冷蔵庫にでも入れられていたのか、キンキンに冷えている。

 

 どうやら沼津の茶葉が使われているらしい。静岡県はお茶が有名だとはよく聞くが、ここら辺でも作られているとは知らなかった。

 

 ひと口飲んでみると、普通に美味しいお茶という印象だった。飛び跳ねて叫び、饒舌に食レポをするという気にさせてくるというわけではないが、落ち着く味である。缶のお茶などあまり飲んだことがないからか、特別感があっていいな。

 

「今日で1週間だね。一夏(いちか)くんが来てから」

「そうだね。なんだか、あっという間だったなぁ」

「答えは出せた?」

「……まぁ、ね。色々見させてもらったから。なんていうか、ぼくは何も見えてなかったんだなって……この1週間でわかった」

 

 再びぼくは、沼津の地平線に視線を戻して話す。

 

「ぼくが見ようとしてなかったり、目を背けてただけで……世界はまだ、こんなに綺麗なんだって。世界の全てを恨むには、まだまだぼくは無知で……視野が狭かった。知らないことだらけだったんだ。……情けない」

 

 美渡さんだって言っていた。この歳から死にたいなんて、視野が狭いと。頭では分かっていたが、この1週間があったからこそ、その言葉の意味を頭ではなく心で理解した。

 

「そっか。もう、死にたいって思わない?」

「その気持ちが完全に無くなったわけじゃない。でも……今は思わないかな」

「なら……それで充分だよ。『死にたい』って思うより、『生きたい』って思う方が絶対良いもん」

「キミは本当に前向きだね……」

「えへへっ。後ろ向いてるより、前向いてる方が好きだからさっ!」

 

 眩しい。前を向くと言っても、彼女は単に前だけを向いているワケではないのだろう。それと同時に横も見ている。

 

 その声の大きさや勢いで、千歌さんをライオンのような肉食動物だと思ってはいけない。彼女はどちらかと言えば馬だ。

 

 馬はその横長な顔の左右に目がついているだろう。だから横どころか後ろまで見ることが出来る。それこそ視覚なんて真後ろ、360度で言う10度くらいしかないという。

 

 千歌さんも、多分そういう生き方をしているのだ。我武者羅に走っているように見えて、冒険の日々、そのすべてを拾っていくように走り続けている。

 

「前を向いて生き続けることができたら、どれだけ幸せなんだろう」

「えっ?」

「ぼくはキミみたいに明るい人間でも、前向きな人間でもない。これといって良いところがある訳でもないし……ゼロなんだよ。何も、ないんだ」

「私も……なんにもないよ」

「……なんだって?」

 

 思わずそう聞き返してしまった。そんなまさか。謙遜のつもりなのかもしれないが、ぼくにはそんな風に思うことなんてできなかった。

 

「私も、何か得意なことがある訳じゃない。勉強は苦手だし、体を動かすのは好きだけど……運動が得意って訳でもない。普通なんだ、私。普通の星に生まれた、普通怪獣ちかちーなのだっ」

「普通……」

 

 地球を普通の星とするかは置いておいて(こういう理屈っぽい話をしすぎると単につまらないというのもあるが)、自分を怪獣と比喩するとは。面白い方だ。

 

 普通怪獣。普通に恐竜の生き残りだったりして、普通に秘境の島から見つけられ、普通光線を吐いて暴れる普通怪獣か。

 

「それに、わかんないことも多いし! この前だって、大好きなはずのスクールアイドルのこと、何もわかってなくて……部活作るの却下されたりしてさ」

「作るの? スクールアイドル部」

「作りたい。ってか、作る! やっと見つかったんだもん! こんな私でも夢中になれる、最高の活動なんだ!」

 

 スクールアイドルというものには、人を惹きつける魅力でもあるのだろうか。詳しくないが、ぼくの身近にアイドルのオタクがいた時もある。気持ちは分からなくはない。

 

「多分、さ。大変だよ? 学校で、アイドルやるの」

「わかってる。でも、やりたいの。辛くったって我慢する。それでね、ひたすら前を向く! 上にもね! 一夏くんもそうしようよ!」

「ぼくも……? なんで……?」

「……きっとさ、前を向きたくないって時、あるでしょ? だったら、上を向いてれば良いんだよ。そうすれば、涙がこぼれちゃうことはないんだから」

「……!」

「上を向いて、空を眺めてたら……モヤモヤもイライラも、クヨクヨもぜーんぶ! いつのまにかなくなるよ!」

「千歌さん……」

 

 隣に座っていた千歌さんは、立ち上がって両手を空にかざすように上げる。

 

「ほら、見て! 今日は星がよく見えるよ! キレイだなぁ……! やっぱり砂浜で見る星が一番キラキラしてるっ!」

「あ……」

 

 少し上を向くと、すぐさまぼくの目には光の粒たちが降り注いだ。

 

 これが、満天の星というやつか。東京にいた時よりも数が多く見えるのは、周りに光が少ないからだろう。実際、人生で初めて見るくらいに沢山の星が空に広がっている。

 

 そもそも空、広くないか。ビルに邪魔されていて気づかなかったとでも言うのか、この広さに。ぶっちゃけかなりたまげている。

 

 ぼくは今、自然の前に圧倒されている。そのスケールはもちろんのこと、その美しさにも……。

 

 星空とは、こうも人の心を動かすものか。自分がちっぽけだと思わされると同時に、それでいいと肯定してくれるような大いなる何かを感じる。

 

 ぼくはここで、自然と対話して、自分に向き合わなければならないのかもしれないな。

 

「……うそつき」

 

 そう発した自分の声があまりにも鼻声だったもので、千歌さんはすぐにこちらを振り向く。

 

「涙……こぼれるじゃん」

「え……ええっ!? 一夏くんっ!? どうしたの!? どこか痛む? それとも、辛いこと思い出しちゃった……?」

「ううん……星が……こんなに綺麗で……」

 

 確かにここは、死ぬにはいい場所だ。そして、死ぬにはいい日だ。

 

 そうだ。死ぬなんて考えるにはまだ早いぞ、一夏。そして、死ぬのにいい日なんて、1日だってありゃしない。

 

 だって、世界はまだ、こんなにも美しい。

 

 いつだって、今を生きるのみ。

 

「綺麗だよね。ずっと眺めてられるもん!」

「うん……」

 

 本当に、ずっとここにいてもいいくらいだ。ぼくの性に合っているのは、コンクリートだらけの街より、案外田舎でのスローライフだったりして。

 

「この海や、星を眺められるなら……死ぬにはまだ……早いかな……」

「……! ふふっ。そうでしょ? まだ全っ然早いよ! 私は、一夏くんに生きててほしいんだ! これから楽しいことがたっくさん待ってるんだから!」

「っ……」

 

 千歌さんの笑顔が眩しく光る。

 

 もしも、の話にはなるが。もしも、ぼくにその資格があるのなら、なんとかして千歌さんの役に立ちたい。

 

 スクールアイドル部だか何だかのこともそうだが、十千万のことも含め、彼女の役に立ちたい。そういう気持ちが芽生えたのが、今ハッキリと分かった。

 

 彼女の側に居て、その日常を守りたい。千歌さんが安心して帰って来られるように、そしていつでも『おかえり』と言えるように、そういう場所そのものに、ぼくがなりたいのだ。

 

「……ありがとう。千歌さん」

「ううん! あ、『さん』は付けなくていいよ! 私達、同い年でしょ?」

「えっ。呼び捨てはさすがに……お世話になってる身だし……」

「いいのいいの! もう私達は『他人』じゃないから、まず呼び方から変えてこーよ!」

「じゃ、じゃあ……千歌ちゃん」

「ふふっ。よろしい! じゃあ私も……いっちゃん!」

 

 名前の頭文字に、ちゃん付け。なるほど、そう来たか。まあ、性別不詳の人物に対するあだ名としては無難だな。

 

「随分かわいくなったね」

「今パッと思い付いたのがいっちゃんだったの! これから、そう呼んで良い?」

「はい……ご、ご自由に……」

「ありがとうっ! ねぇいっちゃん、せっかくだし、家に戻る前に乾杯しない?」

 

 千歌ちゃんは、こちらに『ぬまっちゃ』をずいと出してくる。これで乾杯しよう、ということか。

 

「え……? 別に今乾杯する理由は……」

 とっくに全てを失ってしまったぼくには、そんな理由などないと思ってしまった。

「いっちゃんが『生きたい』って思ってくれたこと、呼び方を変えてくれたこと……あとは……この綺麗な星空に乾杯! どうかな!?」

「……フッ。悪く、ないね」

「でしょ? じゃあ……かんぱいっ!」

「うん。……乾杯」

 

 2人してぶつけた『ぬまっちゃ』を一気に飲み干す。

 

 沼津の恵みを受けたお茶よ。そして自然の数々よ。ありがとう。ぼくの背中を押してくれて。

 

 ぼくは、覚悟を決めるよ。

 

 

 

 

 

 

 

「……さて。1週間経った。答えは出たか? 未空一夏」

 

 今日、予約が入ってない客室。そこに高海家の皆さんが集まっており、千歌ちゃんの隣には曜ちゃんも居る。

 

 ぼくは億康(おくやす)さんと、正座で向き合っている。

 

「ねぇ、千歌ちゃん……何で私まで……?」

「良いからっ! 一緒に見ててほしいんだ」

「まぁ……良いけどさ……」

 

 横から、そんな小声でのやりとりが聞こえてきた。ぼくは億康さんの問いに答える。

 

「……はい。この1週間……色んなものを見させていただきました。しっかり休養もとることができて……本当に、ありがとうございました」

「礼など要らん。お前は……どうしたいんだ?」

 

 その単刀直入な問いに、ぼくはこう返した。

 

「ぼくは……人が生きている『証』が好きなんです」

「……何?」

「整えられてない布団、片付けられてないお皿や茶碗。そういう、生活していれば何気なく思えるものを見るのが……昔から好きだったんです。そうすれば……そこに誰かが居たんだって思えましたから」

 

 おばあちゃんが亡くなった日から、家がひどく広く感じたのを、数年経った今でも鮮明に覚えている。それがどんなに悲しく、心を締め付けるものだったかも。

 

 1人でご飯を作り、1人で寝る支度をする。ただいまも、おかえりも、口に出すことはない。そんな生活が、ぼくは半ばトラウマになっているのだ。

 

 それでも小さい頃からのクセで、1人になろうとしてしまう。昔は、おばあちゃんがいたから。学校で友達なんかいなくても、先生に嫌われていても、おばあちゃんという理解者さえいればよかった。だから休み時間も図書館にこもって料理の本や認知症についての本を読んだり、放課後は遊びの誘いも受けずに帰っておばあちゃんの世話をしていた。

 

 ここに来る途中も、怖かった。旅人気取りでいたいくせに、ひとりぼっちが怖くて仕方がなかった。孤独は冷たいし、暗くて、苦しい。ぼくが砂浜に『タスケテ』と書いたのも、その無意識からの孤独の嫌悪からだったのだろう。

 

 だから、『人のいる証』が溢れる十千万が好きになった。いつだってどこかで誰かの息遣いが聞こえ、何かの生活の足跡がある生活は、ぼくをひどく落ち着いた気持ちにさせてくれた。

 

「そして、十千万に来るお客様を見て思ったんです。お客様にはお客様の人生……日常があって。何気ない事も、その人にとっては大切な思い出になるんだって。そう感じたんです」

「一夏君……」

「だからぼくは……その人達にとっての人生が、日常が……『幸せ』だって思えるように手助けをしたい。たくさんの人が安心できるようにしたい。それで……ぼくがぼくを『生きてていい』と肯定できるように……十千万で働きたいんですっ!」

 

 ぼくが、ぼくであるために。そして、ぼく自身が、みんなの帰る場所であるために。ここで働かなければならない。

 

「ぼくは……ここで働きたい……働きたいんです!! どうか……どうか……っ。お願いしますっ……! ここで働かせてください……!」

 

 ぼくは億康さんに向かって、深々と頭を下げる。その姿勢は、ある地方では猛虎落地勢、そしてまたある地方では土下座と呼ばれるものだった。

 

 情けないが、畳にぽつ、ぽつとシミができる。瞼から滴る塩っけのある水ぽっちが、億康さんの感情を動かすとは思っていない。しかし、ぼくが本気であることの証拠にくらいはなってくれるはずだ。

 

「ぼくには今、『夢』や『憧れ』なんて大層なものはありません……でも! せめて、強いて言うのなら、ここで人々を笑顔にしたい……そんな『欲求』だけが、この胸にあります」

 

 さあ、こちらは言いたいことはすべて言った。学んだことも。そちらはどう出る。

 

 ぼくが変に身構えているところ、億康さんはふうっと息をついた。

 

「お前がこれからどんな道を選ぼうと、それは『変化』になる。前の自分とは、同じようでどこかが必ず違うからな。でも、少し前に出来なかったことができるようになったら、それは『進化』だ」

「…………っ」

「……よく、言ってくれたな」

 

 ぼくの頭に、優しく手が乗せられる。見上げてみると、にいっと笑った億康さんがいた。

 

 その時、本当は無いはずの『父親に頭を撫でられる』という記憶が思い起こされるような気持ちになった。ああ、ぼくに父親がいたら、こんな風だったんだろうか。

 

 暖かいなぁ。

 

「……え?」

()()だ。俺は……お前を認める。お前を……この十千万で働かせてやる」

 

 じわっ、じわ。熱いスープのようなもので、心の底から歓喜の感情が表に出てくるのが分かった。

 

「あ……ありがとうございますっ!!」

「良かったねっ! いっちゃん!」

「うん……うんっ!」

 

 千歌さんが自分のことのように喜んでくれるもので、手を取ってふたりで飛び跳ねて笑う。

 

「いやー、良かったわ。っつーか親父、さては納得する答え言うまでココに泊まらせる気だったな?」

「えっ……?」

「さぁ、な。だが……ここで働いてもらう以上、ハンパは無しだ。ここでの仕事を骨の髄まで、みっちり叩き込んでやる」

「は、はい……! 頑張りますっ!」

「ふふっ。あんまり厳しくしすぎないようにね?」

 

 どこか遠くを見て、久しぶりに男手が増えたと嬉しそうな億康さんに、志満さんと美渡さんがこれまた喜ばしい風で話しかける。

 

「一夏くん、思ったより……良い人かも……?」

「そうだよ。ほんとは、すっごく心が綺麗な子なの。曜ちゃんもきっと仲良くなれるよ」

「そうだね。ちょっと……誤解してたところはあったから……」

 

 曜さんも、ぼくに対して少しは信用を持ってくれたかな。

 

「改めてよろしくな。お前の『進化』に期待しているぞ……()()

「……いえ。ここで働かせていただく上で、自分の名前を変えようと思います。千歌さんと発音が被っているのもありますし、それに……自分自身のケジメの意味も込めて、変えたいなって」

「……? では、お前の名は何だ?」

 

 ぼくは、自分の名前の由来を知らない。小学生の頃、親に『どうして自分にこういった名前をつけたのか』という理由を聞いて、それで作文を書いてこいという宿題があった。

 

 しかし、ぼくには名付けの親がいなかった。両親が既に亡くなっていたのだ。祖母もぼくの名前の由来は知らず、その宿題を提出する時には『ぼくには両親がいない、この宿題はぼくにとって無駄だからやってこなかった』と担任に告げた。

 

 担任は『お前は宿題をやってくるという熱量が足りない』と言われた。今でもぼくはその言葉に納得がいっていない。

 

 ぼくに足りなかったのは両親だ。それと、周りの理解。ぼく自身に何か足りなかったから宿題ができなかったわけじゃあないだろう。

 

 だが、ぼく自身も、いくつか足りない所があるのは分かっている。俗に言う青春というものを過ごしていない。友達だっていない。修学旅行さえも行っていない人間の、どこが満ち足りているというのか。

 

 ぼくは今、足りないものだらけだ。元々持っていたものさえも、すべて手の内から落ちてしまった。だから、一夏と名乗るまでもない。だって、ぼくには『一』すら残っていないんだから。

 

 そんな、空っぽの、ぼくの名前は。

 

「ぼくの、名前は──」

 

 零れたものを、取り返す。ぼくの心に生まれ落ちた願いを、その名に込めて、一言言葉に表した。

 

 

 

 

 

 

 




空っぽの心。それを埋めるものは、空に満ちていた。



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