キミの瞳に恋してない 作: 龍也/星河琉
ぼくが十千万で働くことを認められてから、ちょうど1週間後。就職するにあたっての諸々の手続きを済ませ、ついに初出勤の日がやって来た。
その日のぼくの目覚めは、なんだかいつもより良かった。頭もスッキリしていて、清々しい気分だ。欠伸はもちろん出るけど、それも内浦の朝日を見れば、みるみるうちにすっこんでしまった。
朝の支度をしていくうち、まだ見慣れない、
東京にいた頃よりも大分伸びてしまった髪の寝癖をなおす。いつ切りに行こうかと思いつつ、左目にかかる前髪をピンでとめ、顔を洗う。
タオルで自分の顔を見ると、数日前よりも顔色や肌質がいいことに気づいた。規則正しい生活とは良いものだ。
バランスのいいものを1日3回きっちり食べ、いい布団で寝る。ここで自分の欠けた何かを取り戻す、という目標もあって。優しい家族代わりの人もいて。いい生活だ。
思えば前にいた『彼ら』のアジトでは、衣食住に困ってはいなかったものの、ソファで寝たり、彼らの遊びに夜中まで付き合ったり、疲れからご飯を適当なレトルト食品で済ませたりしていた時もあった。
居間に戻ると、まだ誰もいない様子。今のうちに朝ごはんを作ってしまわなければ。と言っても、ここからやるのはほとんど作り置きの漬物やおひたしをタッパーから盛り付けたり、パックの納豆を出したりといった簡単な作業ばかりだ。
この場でやる、それらしい調理といえば、卵焼き、焼き鮭、味噌汁を作るくらいのものだ。
高海家の朝ごはんと夜ごはんを作る、というのはここに住むにあたって、ぼくが申し出たことだ。
館内での清掃や配膳、接客の仕事を会得するまで、十千万の職員は調理場には立てないのだ。多少の盛り付けは任されることもあれど、本調理は高海億康その人に全て委ねられている。
調理場に立てるまで、料理のスキルを忘れないために、ぼくは十千万で働くことが決まった夜、高海家の炊事係になりたいと言った。ぼくが来るまでは、皆のごはんは志満さんが作っていたそうだが、『しばらくお料理しないと忘れちゃうかもだしねぇ』と快く了承してくれ、炊事係を引き継ぐ形となった。
最初は味噌汁からだ。具は豆腐とワカメのみ。シンプルな味噌汁となっている。
まず、鍋に1Lの水を入れる。そこに昆布──10cm四方(沼津の干物屋さんで人気なものを使っている)を入れ、沸騰するかしないかのところまで弱火にかける。
ここで人数分の鮭の切り身に適量の塩をふる。沼津自慢の鮭だ。それらをアルミホイルに乗せ、キッチンのコンロ下についているグリルで焼く。
その間に卵2つを器に入れ、かき混ぜる。この時、白身が残ってはいけない。箸ですくって切るなり、ひたすら混ぜるなりして、完全な溶き卵にするのだ。
この段階でまず、砂糖を入れる。高海家の方々はほとんどが『しょっぱい卵焼き』と『甘い卵焼き』、どちらでもいけるのだが、千歌ちゃんは甘い方が好きだと聞いたので、今日はひとまず甘い卵焼きを作っていく。
入れる砂糖は小さじ3杯。醤油と塩も小さじ1/2杯だけ入れておく。卵焼きは、千歌ちゃんのお弁当にも入れる。冷めても美味しいからだ。
卵焼き専用の長方形の小さなフライパンを出し、温めたのちに少しだけ油をたらす。ここで用意しておくのは、後ほど使うひみつ道具『油を吸ったキッチンペーパー』。その名の通り、キッチンペーパーに油を吸わせた、ただそれだけのものだ。
フライパンに、隅から隅まで油をなじませたら、まずは卵液全体の1/3くらいの量を広げる。
入れた卵液は、フライパン四隅を中心に、あっという間に焼けてくる。ここで大事なのは、四隅の固まった卵を少し中央に寄せつつ、中央に集まった固まりきっていない卵液を隅へ追いやることだ。こうすることで、卵液に均等に火が通る。
1回目の卵を畳む時は、できるだけコンパクトに。後にフライパンの深さに収まりきらないほどの卵焼きは少し大きすぎるので、この段階からサイズ感に気を配る。奥へ、奥へ、コンパクトに巻いてやるのだ。
さて、畳めたところで、ひみつ道具『油を吸ったキッチンペーパー』の出番だ。これをフライパン上の卵焼きがないスペース、また卵焼きが踏んづけているスペースに箸で入れてやり、少しだけ出てくる油をフライパンになじませる。
そうしたら、残った卵液……つまり最初から見て2/3残った卵液の半分を、フライパンに入れていく。1回目に畳んだ卵焼きの下にも、卵液を流し入れるのを忘れずに。
プクプクと膨らむ気泡のようなものは箸でつぶしていき、半熟よりも少し固くなってきたな、というところで2回目の畳みタイム。ここでは先程と違い、奥にやった1回目の卵焼きを芯として巻くように手前へ、手前へと巻いてやる。
キレイに畳んだところで、油を吸ったキッチンペーパーをポンポンしてやり、最後の卵液を投入。また卵焼きの下にも卵液を流しこみ、半熟ちょいくらいまで焼く。
3回目の畳みタイムともなると、正月に久しぶりに会った甥っ子くらいに、『あれっ、こんなに大きかったっけ』とばかりに、卵焼きは大きくなるのだ。まあ、親族全員と縁切られてるから、そんな感じのことは言われてないんだけどね。
最後の畳みタイムは、手前に、慎重〜ッに巻いていく。これで卵焼きは完成だ。卵液3回巻かざれば刮目して見よ、とは昔からよく言うが、改めて立派になったな。めでたい門出だ。
さて、味噌汁用の昆布水がいい感じに温まってきたところだ。昆布の周りに気泡ができてきたら、昆布を取り出し、鰹節をふたつかみほど入れる。
この鰹節はそこまで長いこと水と一緒にいるわけではない。昆布の代わりに入れられる切ない出会い、鍋底に全ての鰹節が沈み切るまでの儚い別れだ。
しょせん私も繋ぎ、代わりでしかなかったのね。そう言わんばかりに、鰹節たちがアクを作る。それらを丁寧に取ってやり、だし汁のみを濾し布で濾過する。すぐに台所には、いい匂いと湯気が立ち込める。
コンロの下で、小気味よい音が鳴った。焼き鮭ができたようだ。アルミホイルごと取り出してやり、そのアルミホイルで包んで少しだけ休ませる。
さあ、味噌汁もそろそろ出来上がるぞ。あらかじめ水でもどしておいた豆腐とワカメを、およそ500mlほどのだし汁に入れる。これをひと煮立ちさせるのだ。
沸騰を待っていると、階段を降りる音が聞こえてくる。ドアの方を見ると、真っ先に起きてきたのは
「おふぁよぉ〜……ふぁあ」
「おはよ。早いね」
「ん、なんか昨日は早く寝ちゃって」
そう言いつつ、しれっと卵焼きに手を伸ばす千歌ちゃん。ぼくはその手を、がしっと掴む。
「げっ、バレたか」
「寝起きだからって脊髄で行動しないの。子供じゃないんだから」
「むぅっ。高校生って、都合のいい時だけ子供扱いされて、都合のいい時だけ大人扱いされるよねーっ!」
「どっちがいいの?」
「ん〜、どっちも面倒だからやだ!」
「高校生らしい解答でよろしい。座って待っててね」
だしが沸騰してきて、そろそろ具材にも火が通った頃だ。ここで一度火を止め、おたまの中にひとすくい半くらいの味噌を入れる。再度火にかけ、沸騰する直前、いわゆる『煮えばな』で火を止める。これで味噌汁は完成だ。
五穀米のごはんと、味付け海苔、納豆、作り置きのぬか漬けとほうれんそうのおひたしを、それぞれお皿によそっていく。
あとは卵焼きと焼き鮭、味噌汁を取り分けて完成。名付けて『日本の理想的朝ごはん』だ。世の中にある『朝ごはん』と呼ばれるもののイデアをかき集めた、直球勝負なメニューと言える。
居間の方を見ると、いつの間にか高海家の全員が座っていた。
「朝ごはん出来ましたよ〜」
「わーいっ! ごはん〜!」
「ふふ。美味しそうな匂いがするわねぇ」
「……品数は多いな」
「なんで素直に褒められないかねぇ、うちのオヤジは」
「ふふ。じゃあ、いただきましょう」
朝食を配り終えたぼくがそう言うと、全員が手を合わせる。
『いただきます』。大人数のこんな言葉を聞くのは、中学の給食以来だ。この十数年で、食事と呼ばれる行為の半分くらいを1人でしてきたぼくは、まだ家族での朝食の時間に慣れていない。
「なぁ、そこの醤油とってくんねぇか?」
「ん! これ甘いっ! 覚えててくれたんだ〜、嬉しいなぁ」
「スーパーの鮭も、普段食うには悪くないな」
「あんまり食べなかったものねぇ」
「……お? どうした?」
「い、いえ。なんでもないです」
会話に入れないままのぼくを見た
「黙って食べるタイプなのか?」
「そういう訳でもないです。ただ、喋りながら食べたことがあまりなくて……そういうタイプというよりかは、喋らずに食べたことしかない、といった感じです」
「飯が不味くなるんだが……」
「お父さん!? なんでこういう時は直球なの!!」
「いや、胸糞悪い身の上話が嫌いなだけだ」
「……ふふ、まぁ、聞いてて気分のいいものではないですよね。食事中でなくとも」
今の言葉も、
朝食の後、千歌ちゃんは忙しなく準備をし、あっという間に玄関へ。他の皆さんも旅館の準備があるようで、居間から出ていった。ぼくは、こんなに良質な時間が毎日訪れることを誇らしげに思いつつ、ひとりで皿を洗う。
すると。
「千歌ちゃーん! お弁当忘れてるわよー!」
そんな声が、扉の向こうから聞こえてきた。すこし息を切らしながらその扉を開けたのは、声の主である
「ごめんねぇ。これ、千歌ちゃんに渡してもらえる?」
「はい! 渡しますね!」
みかん色の袋に包まれた弁当箱は、まだ卵焼きや焼き鮭の余熱のおかげで温かい。
ぼくが玄関に走って向かうと、千歌ちゃんは靴を履いている途中だった。間に合ったと安堵しているぼくのほうを振り返り、
「千歌ちゃん、はい! お弁当!」
「あ、ごめん! ありがとっ!
靴を履き終えた千歌さんは、その場で足踏みをしながら弁当箱を受け取る。この呼ばれ方も、だいぶ慣れてきたな。
「今日からお仕事始まるんだっけ?」
「うん。今日が初出勤」
「おぉ! 頑張ってね! 私もた〜〜っくさんっ! 頑張るから!」
「ありがとう。ぼくにできることを、精一杯するよ」
そんなやりとりをしていると、玄関の戸が開く。立っていたのは
「お邪魔しまーす! 千歌ちゃん、おはよう!
「おはよう、曜ちゃん」
曜ちゃんも、すっかりぼくと話すことに慣れたようだ。千歌ちゃんと同じように、あだ名までつけてくれている。
ぼくも『さん』付けから『ちゃん』に変えたことだし、これでいわゆる普通の友達って感じにはなれているだろうか。
「曜ちゃんおはよう! れーちゃん、今日からうちでお仕事するんだって!」
「そうなんだ! ファイトっ!」
「ありがと。頑張るね」
「もうすぐバス来ちゃうし、出よっか!」
「うん! れーちゃん、行ってきます!」
「……!」
ああ。行ってきます、という言葉を、送る側で聞くのは何年ぶりだろうか。もうおぼろげな記憶に浸る暇もなく、感慨深さがぼくの胸中を占める。
「うん。行ってらっしゃい。2人とも」
「行ってくるね! れーくん!」
笑顔で手を振って家から出ていく、曜ちゃんと千歌ちゃん。この日常を守れるように、十千万を皆さんとずっと続けていけたら、それはどんなに素敵なことか。と、密かに思うぼくであった。
千歌さんの部屋の隣に割り当てられた自分の部屋で、十千万の従業員用の制服を着終えたところに、美渡姉さんがやってきた。
「おー、けっこう様になってんじゃねぇか」
「美渡姉さん! まだ着せられてる感はありますけどね……」
「へっ。いつかその服に見合うヤツになれりゃあそれで良い。おまけに顔も悪くねぇ。こりゃ十千万の看板になる日も近いかもな!」
「あ……ありがとうございます……」
看板って、いわゆる看板猫的なやつか。客寄せパンダとも言うが。
改めて姿見に寄り、自分の顔を中心的に見てみる。しかし何だかピンとこず、数秒してそれをやめた。顔が良い、という称号は、どういう条件のもとに授けられるものなのだろうか。
「あっ。それで、ぼくに何か……?」
「おう。渡したいモンがあってな。はい、お前の『名札』。仕事の時はこれを胸元に付けとくんだ。パートさんも付けてただろ?」
「そういえば……そうでしたね。ありがとうございます。美渡姉さん」
「美渡さんで良いよ。呼びづれぇだろ?」
「いえっ……全然。でも……血が繋がっている訳でもないので、『美渡さん』が適切ですね。すみません」
「血の繋がりなんてほんの些細なモンに過ぎねぇよ。つーか、その……名札、ほんとにそれで良かったのか?」
美渡さんが少しだけ困り眉で名札を渡してくる。しかしぼくは、それを笑顔で受け取る。
確かに、本名と違う名前でこれから生活していくなんて、普通じゃあ考えられないような出来事だ。困惑するのも当然である。しかし。
「良いんです。この名札と……この名前が良いんです! 今までの自分とは、少しの間お別れしようかなって思うので」
「……そっか。つまんねぇこと聞いて悪かったよ」
フッと笑う美渡さんの目は、実に優しいものだった。
「これからヨロシクな。
祝福しているかのように、しいたけが吠える。
「はいっ! ぼくは……未空
「頼もしいな。でも、初日なんだからあんま無茶すんなよ?」
「わかってます。まだ右も左も分からない不束者なので……出過ぎた真似はしないよう、指導してくださる方の指示に従います!」
「それが良い。ま、頑張れよ。んじゃ私も、ちょっくら仕事してくるわ。じゃあな、零夏」
「いってらっしゃいませ!」
ひらひらと手を振って、美渡さんはその場を立ち去る。
「……よし。やるぞ。見ててね。……ばあちゃん」
さぁ、ここから始めよう。イチからゼロに戻った、ぼくの新しい人生を。