「「…………」」
兵藤五郎、兵藤三希の二人の間に苦しい沈黙がある。
理由は単純、二人が拾った男の子が集中治療室で手術を受けているからだ。
既に警察からの事情聴取を受けて解放されている。
兵藤婦人は二度の流産を経て、子供を身籠るのが困難な体質だと産婦人科医から心苦しそうにそう宣言された。
その日から二人の間に笑みは消えた。だがいつまでも苦しいだけを思い続けては本当の地獄に落ちてしまう。
妻を連れて気晴らしにでもなればと思い小旅行に出かけたのだが、そこで子供が倒れているとは思いもしなかった。
「あの子…」
彼女の方から話し始める。
「ご両親はどうしているのかしら」
それはごく当然の疑問だった。子供が一人で道路の上に打ち捨てられている、しかも傷だらけで。
そのシチュエーションから想像してしまうのは、虐待または遺棄。
真実は天使の堕天使の戦いに巻き込まれて故郷も家族も根絶やしにされただが、そんなものは想像できるはずもない。
子供の正体が普通の人に知られる事は絶対にない。
堕天使達は今回の出来事を、そもそも根っこの部分から情報操作をして、最初から集落もそこに住んでいた人たちも存在しなかったという形で隠蔽した。
赤龍帝の子供は本名も産まれた場所も全てが無かったことになった。
いつどこで誰がどんな思いで産んだのか、その一切の情報が存在しない正体不明の子供が一人生まれた。
◎
あの日から兵藤夫婦は時間を作っては子供の入院する病室へと足を運ぶ様になった。
そんな義務など存在しないのに、何故かそうする様に天啓受けたかの様に行動に移した。
点滴に繋がれた子供がベットの上で眠っている。
「…」
その光景を見た三希は心が痛くなる。
目を覚まして欲しい、でも意識を取り戻してどの様な処遇を受けるのか想像するだけで心が苦しくなる。
そして何より悔しいのは自分たちが子供を授かれなくて苦しんでいるのに、こうして小さな子が痛めつけられている現実。
同時に不審な点もある。
『この子ですが…外傷は激しいのですが内部に異常無いと言いますか…』
『それはどういう?』
『例えば食事を与えられていなかった子特有の胃腸の衰弱や、部屋に閉じ込められて筋力が弱っている等の痕跡が認められ無かったんです』
『じゃあつまりこの子は…』
『はい、傷を負った経緯は別として、その直前まで虐待やネグレクトを受けていたとは考えづらいんです』
たまたま病室を巡回していた医師から教えられた。
本来なら個人情報保護から勝手に話してはいけないはずだが、熱心に足を運ぶ姿に思うところがあるのか口が開いた。
「んっ…」
そこで少年が意識を取り戻した。
「大丈夫!?」
三希はうっすらと瞼を開く相手に話しかける。
入院が始まって三日目で初めてそれらしい反応を見せた。
「…ぅ?」
まだ意識が朦朧としているようで曖昧な反応しか返せない。何故自分の体が動かないのかとか、何故体が痛いのか。理解が追いついていない。
慌ててナースコールを使った。
◎
『何であんたなんかが産まれてきたの?』
「はっ!」
真夜中に目が覚めるのは何度目だろうか。眠たいはずなのに頭はどんどん冴えていくという矛盾。
それが重なって顔色は最悪の一途を辿っている。
「いたい…」
とにかく頭痛が酷い。
点滴生活のおかげで胃の中が空っぽなのが救いだった。食べていたら吐いていた。
すごく寒かった。空調で管理された部屋、それに清潔さを保たれたベッドとシーツ、体調を崩す外的な要因は存在しない。
ならこの苦しさは心の病だった。
この日は泣いて疲れて気絶するように寝て、また悪夢を見て飛び起きるというのを何度も繰り返して朝日を迎えた。
◎
意識を取り戻して一週間が過ぎる。
「こんにちは」「元気そう…ではないけど目が覚めてよかった」
兵藤夫妻はベッドに横になる相手に話しかける。
彼は困惑する。こんなに人懐っこい感じで話しかけられた事が無かったから。
周りには悪意や敵意、そして無関心しか無かった。両親が最後に一瞬だけ見せてくれた愛情だけ、目の前の夫婦はそれと同じような関心を向ける。
(どうして?)
彼には愛する事が無償で出来る人がいる事にまだ気がつけない。
自分の周りにはそんな人はいなかった、村の人達は悪意と敵意しかくれなかった。好意と善意というのをここまでストレートに見せる人がいるのかと驚く。
「そうだ!何か欲しいものでもあるか?」
「……」
五郎の一言に言葉に詰まってしまう。何を返すのが正しいのか分からない。
欲しいものと言われても分からない。欲しいものは多分彼の手からこぼれ落ちているのだから。
「いらない…」
「……そう」
反応の無さに残念そうにする。
事情が事情だけに簡単に打ち解けられない現状に歯噛みする。
◎
耳が何か変な音を拾う。
病室内に誰かがいるわけでもない、静かなはずなのに声が聞こえてくる。
「だれ?」
『その年で神器を覚醒…それどころか禁手に至り、この俺と話せるとは…今代の宿主は有望そうで何よりだ』
それは傍から見たら妙な独り言を呟いている不審な光景。だが彼は自身がどう見えているのか分かっていない。
『ドライグ、そう呼ばれている』
そう名乗るがどうやら何処から話しかけられているのか特定できない。体は節々から痛み首も上手く回せない。
「ドライグ?どこ?」
『お前の左手だ。お前の左手の赤いそれに俺は宿っている』
そう言われても何が何やらだ。
彼の主観ではただ気持ちの高ぶりと共に力を使ったためか、記憶はとても曖昧だった。
『俺はお前の中に宿るドラゴンだ。かつて神に破れ神器という形で』
ドライグは現状説明をするのだが相手にはまだ難しすぎた。
困っていた、ここまで幼い状態の宿主と話すのは初めてで、どのように説明するのが正しいのか分からないのだ。
これまで宿主の生き方に干渉するような事はしてこなかった。だが今の宿主を放置して下手に白龍皇と出会ったら流石に殺される。
『俺はお前の味方、分かったか?』
「う、ん」
『取り敢えずいう事を聞くように』
「うん」
話したい事は沢山あったのだが、今は取りあえず言うことを聞かせようと。
キチンと物事を理解出来るまで成長してから、改めて説明しても遅くはないと結論付けた。
◎
「お父さんやお母さんの事は知ってるかな?」
「どうしてあそこいたのかな?」
「その怪我はどうやって出来たのかな?」
刑事の男性が質問をするが彼は何も答えなかった。
答える気にもなれなかった。頭が痛くて吐き気も酷い。病院で出る食事は健康的で、体調を害するような内容では無いはずなのに。
もし仮に翼を持った人たちが…など口にしたら精神を病んでいると思われるのがオチだ。子供ながらもなんとなく自分が異常な現象に巻き込まれている自覚があった。
「しかし困ったな…あの辺りに町も集落もないし。一誠って名前で捜索届なんて出てないぞ…」
事情聴取をした刑事は困り果てた。ほとんど喋ろうとしない相手に手を焼いていた。
仮にこの状況が事故だとしたら、最も有り得るのは森で迷った事だが、子供が自力で歩ける範囲に人間の生活圏は無い。
親に捨てられた可能性もあるが、医師の診断では現在の外傷は新しく出来たもので、過去食事を与えられなかったり虐待を受けた可能性は低いと断じられた。
また子供が着ていた服に多数の指紋が付着していたが、その全てが警察のデータベースに登録されていない正体不明の指紋だった。
あまりにも取っ掛かりの無い事件だった。
その後、何度か事情聴取を受けたのだが記憶が混濁してまともに答えられないと結論つけられた。
二ヶ月の入院生活後、彼は児童養護施設に連れて行かれることになった。
◎
休日の朝、二人はテーブルを間に向かい合っていた。妻から夫に相談があると呼んだのだ。
「ねぇ、これ…」
三希はある書類を取り出す。それの内容は里親についてだ。里親になるための手続きと研修というもの。
「本気なのか?」
それが意味する事は一つだった。足繁く通っている子供を引き取りたいと思っているという事だ。
一誠と名乗った子供は施設に送られるのが決定したと教えられた。
世の中には血が繋がっており、また望んで産んだはずの子供にすら虐待を行う親すらいる。もし自分達もそうなってしまったらと思うと身震いがする。
決して五郎も嫌いなわけでは無い、だが妊娠をして子供の成長と一緒に段階的に親になるのと違って、突然一人の命を背負うのがどれほどの重さなのか分からない。
これまでお見舞いをして、それこそ無責任に可愛がってあげるだけではいけない、親として時には嫌われる覚悟も苦しいものを我慢する決断も迫られる。
「そうよ、私はあの子を放っておけないって思うの、そうしたいの…」
「そうか…」
相手の瞳を見て確信してしまう。
決してその場ノリだとが、憐れみだけで子供を受け入れようとしているのでは無い。明確な覚悟があった。
考える。決して嫌ではない、けれども強い思いと勢いだけで決断は出来ない。
五郎はふとある事を思い出した。先日たまたま仲良くなった人がいた事を。
「気持ちは分かった。そうだな…そうだ紫藤さんに相談してみるのはどうだ?神父でお子さんもいる、まずは相談してみてからでもいいんじゃないか?」
◎
最近連れてこられた子があまりにも不活発な為、施設の職員は頭を悩ませていた。
出生届が無く名前以外の何もかもが不明、実際に名前を呼んでも反応は悪い。
本当は違う名前があるのか、それとも他者とのコミュニケーションに問題があるタイプなのか本当に分からない。
「皆もお友達に入れてあげてね」
「……」
一誠は困っていた。先生と呼ばれる人に皆と遊びなさいという指示を受けた。
「お前が鬼!」「にげろー!」
自分と同じ年ごろの子たちが楽しそうに遊んでいる景色の中、彼だけはその輪の中にいるはずなのにそれを客観的に見つめていた。
分からない、だって友達と遊んだ事が無いから。そもそも精神的に疲れて遊ぶ気力自体も無い。
実際無理矢理子供たちと遊ばされたが馴染めなかった。
机をくっつけて皆で昼食事を摂る。
「一誠くんは箸の使い方が上手なのね」
他の子どもたちはまともに箸以前にスプーンとフォークすらキチンと使えない。だが一誠だけは箸を使っていても一切こぼす事もなく静かな咀嚼音で食べていた。
「ん…」
ものを口に入れていたので会釈をするという形で返事をする。親に口に物を入れて話してはいけないと教えられていた。
周りを見渡せば机の上に食べ物をこぼす、食器を当ててカチャカチャと大きな音を立てる、食べながら喋りくちゃくちゃと音を立てる。
周りの大人たちの評価は非活動的で積極的に動かないが礼儀作法が年齢相応以上に出来る子供。何より行儀がいい事から何故孤児になっているのか不明という不思議な存在。
◎
兵藤夫妻は手土産を引っ提げて仲良くしているご近所さんの家に向かう。
インターホンを押して扉が開くのを待つ。
扉が開いた先には男性が一人。
「すみませんトウジさん。休みの日に時間を貰って…」
「いえ、大丈夫ですよ」
彼の名前は紫藤トウジ一年ほど前にこの街に赴任をしてきた神父だ。
手土産を渡して早速本題に入る。
「なるほど、子供を引き取りたいと思っていると」
「はい。妻の思いを汲みたいと自分は思いますし、自分もその子のことが嫌では無いんです。けれど命を預かる重さに少し足踏みをしてしまうんです」
五郎は隠し事をせずに素直に話した。ここで腹を割らなくてはきっとどんな結果になっても後悔が残るだろうから。
夫の独白を聞いて驚いていた。そこまで考えていてくれたのかと。
「私も数日経ってから頭で少しだけ整理したんです。そしたら子供の命の重さというのがイメージできなくて少し怖くなりました」
三希もまた同じように素直に話した。
最初は熱が入っていた、勿論今も熱はあるが同時に命というありふれたものに対する恐怖も生まれた。
「うーん…」
トウジは一児の父として、そして神父としてどう答えるべきか悩んだ。
そもそも悩んでいるという前提の話だが、その本質は引き取る事に対してポジティブに背中を押して欲しいだ。
何度か相談事を教会で信徒から持ちかけられてきた為、悩みを聞いて欲しいはイコールで背中を押して欲しいなのを知っている。
「ぱぱー!」
そこで六歳ほどの小さな娘がリビングに入ってくる。
「イリナちゃん、ダメじゃないかお客さんが来るから部屋で待ってなさいって言ったでしょう?」
「だって退屈なんだもん!」
イリナと呼ばれた短めの栗毛の少女はぶーたれた。
彼は抱きついてくる娘を抱き抱えながら思い出していた。初めて娘を抱きかかえた時の事、初めて大泣きをした時、初めて怪我をした時。そのいずれかの場面に遭遇して自分は何一つとして動揺せずスマートに解決できただろうか。
最初は誰でも不安で、でもいつの間にかそんな事など考えなくなる。
「兵藤さんが不安なのはその子に対して胸を張れる親になれるかどうかなんですよね?」
「は、はい。そうなんです…」
自分は素晴らしい親になれるのか。
子供が胸を張って自慢できる親でいられるのか、親でいてくれてありがとうと言ってもらえる人間になれるのか、それが途轍もなく不安だった。
「ならきっとその心配は意味が無いですよ」
「「えっ…」」
二人はそう言われて呆気に取られてしまう。心配は無用と言われても納得がいかない。
「だって子供が生まれたその瞬間から完璧で完全な親なんてこの世界にはいませんから」
「一体…それはどういう事なんでしょうか?」
三希は何かを伝えようとしているのは分かるが、まだその意味を図りかねる。
「例えば生まれた時から話せたり、読み書きができる赤ちゃんなんていませんよね?」
「そうですね…」
そんな当たり前のことを言われても…と困惑してしまう。
「誰だって少しずつ成長します。最初から百点満点なはずがないです、だって親をするのなんて初めてなんですから。不完全でも子供と一緒に親も成長すればいいんです。相応しい親でありたいと思えるならその目標を決して忘れないでください」
『!』
二人はそう言われて悩みが晴れたような気がした。ならもうやる事は一つしかない。
◎
「一誠くん、いいかしら?」
「はい」
いつもの通り部屋の隅っこでじっとしていたら先生に呼ばれる。
相手はやっぱり変わらないかと少し落胆した、自身の力不足もあるが、本人が改善しようとしない、またはその必要を感じていないせいでもあるが。
「ここね」
連れてこられたのは施設の玄関前だった。そこには先日別れたばかりの兵藤夫婦がいた。
「今日から兵藤さんがあなたのお父さんとお母さんよ」
職員はそう告げた。
イリナとの出会い考えなきゃ