一誠はたまたま両親がどちらも用事が出来たため、紫藤家に預かってもらう事になったのだ。
せっかくだからと教会に行くことになった。
車で教会の前までは連れて行ってもらい、そこから先は徒歩。
(教会…)
『気にするな、神器の力は漏れないようにしてある』
一誠は緊張していた。教会に入るのは正直怖い、あの時のエクソシストと天使の存在は今でも恐怖を感じさせる。
『今のお前は子供の友達としか見えん。普段通りしていればいい』
ドライグは彼の持つトラウマを分かって可能な限り力強い口調で話しかけていく。
「いっせー来た!」
教会の扉の前でうろうろしているとイリナが現れる。
「おはよう」
「おはよ!」
互いに挨拶を行う。
「一誠くん、よく来たね」
背後にいたイリナの父親も挨拶をする。
「今日はちょっと仕事が忙しくてね。教会の客室を抑えているからそこでお昼までイリナちゃんと一緒でいいかな?」
そう言ってトウジは子供二人を客室に連れていく。
部屋は暖炉に大き目のソファーと長テーブル、壁には絵画や彫刻が飾られている。その中には剣が一振り置いてある。
(一時間に一回くらい見回りをすれば大丈夫か)
子供たちがふかふかのソファーや彫刻に気を取られているのを見て彼はそう考える。
「じゃあ二人とも遊んで待っててね」
そう言ってトウジは仕事に戻っていく。
大人の目が離れた後も一誠色々と興味深そうに部屋を物色する。
「ゲーム?ふたつも」
テーブルの上には色々とオモチャやお菓子が置かれているが、携帯ゲーム機が二機置かれていた。
イリナは一人っ子なのに何故ゲーム機を二機所有しているのだろうかと不思議に思う。
「それパパの」
「お父さんの?」
「うん、私がゲームばっかりしちゃってて、それで一緒に遊びたいからってパパが自分の買ったの」
「…………」
一誠はそのエピソードに何も言えなくなってしまう。
微笑ましいと表現するのが正しいのだろうか。
「ゲームやろ!」
「やったことない」
「教える!」
こうしてイリナによる携帯ゲーム講習会が始まる事になった。
「そこBボタン!」
「えっ!どこ!?」
「右!右だから!」
初心者とある程度ゲームのギミック理解しているのでは力量に差が出るのは必然で一誠はイリナのお荷物と化していた。
だが時間が経つにつれて。
「イリナ右来てる」
「えっ…ああっ!」
慣れてきた一誠にキャリーされるようになってしまった。
「もしかしてやったことあった…?」
「初めてだけど…」
何度かやっていくうちに操作性の理解と敵CPUの動きのパターンを覚えたためそこまで難しいと思わなくなっていた。
「私の方がやってるのに!」
「なんかごめん」
経験者が初心者にあっさりと追い抜かれるの面白いものでは無い。イリナは「むっきー!」っと悔しそうにしている。
「二人ともどうだい?」
そうしてどったんばったんとじゃれあっていると、トウジが見回りの為に戻って来た。
どうやら仲良く遊んでいるようで彼は安心していた。
「せっかくだから写真いいかな?」
家族が大好きな彼にとって、思い出を目に見える形に残すのは好きな作業だった。
二人は「うん」と頷く。そして一枚写真を撮る。
この時は二人の間を裂くような事なんてないんだと、二人も周りも自然とそう根拠もなく信じていた。
◎
「もっと右!あっ!にげられちゃったぁ…」
「もういい?」
一誠はイリナを肩車していた。
虫取りをしていたのだが木の上の方にカブト虫を見つけた際に虫取り用の網が届かなかったため、こうして肩車で高さを稼いでいたのだ。
普通であれば六歳くらいの一誠が同じ年の女の子を肩車など筋力的には出来るはずもないのだが、彼は無自覚にドラゴンの力を使ってしまいそれを可能にしてしまった。
イリナを降ろした後、一誠は辺りを見回すとメスだがカブト虫を見つけた。
「よっと」
虫取り網を一閃、逃げる隙も与えずに一瞬で捕まえる。
田舎暮らしの経験から虫の習性とか捕まえ方の経験はそれなりにある。
「虫捕まえるの上手すぎ!コツ教えて!」
イリナはトントン拍子に虫を捕まえていく姿に嫉妬をする。
こんなはずではなかった。本来であれば自分がムシキングになる予定だったというのに。
相手がヒートアップしていく姿に流石にげんなりして来る。
「もう帰ろうよ、暑いしお腹空いたよ」
既に太陽は南中しつつあった。
虫かごと虫網の二つを引っ提げて森に突入したのだが、かごが充実していくのは一誠の方ばかり。そもそも虫は飼う気が無いため、いくら捕まえようがリリースする事になるのだが。
「んっ」
イリナは手を繋ぎたいと片手を差し出す。
初めて会った日からずっと続く関係。
「はいはい…」
一誠はその手を取った。いつもの通りに。
そしてこの時、イリナの手を取って帰った事が十年後、二人に大きな影と後悔を落とすとは思いもせずに。
二人は森の中、手を繋いで歩いて行く。
一誠の足取りは何処か急いでいる。
『気が付いているか』
(結界…)
『そうだ。半端な力を持つ者は弾く結界、恐らく人払いの一種だろう』
一誠が帰りたくなった理由は近くで怪しい雰囲気を感じたからだ。かつて故郷を覆った嫌な空気。
(あれ、でもイリナは…)
紫藤イリナは親がエクソシストではあるが本人はまだ異能の世界や宗教的なものへの理解は無い。ただの普通の女の子なのだ。
結界に弾かれていてもおかしくはないのだが、一誠と一緒に入れてしまっている。
『ドラゴンは自由気ままに力を振るうものだ。だが気まぐれに気に入った女に力と繁栄をもたらす。お前は無自覚だったのかもしれないがその子は赤龍帝の力の一端を手にしている。ほらよく手を繋いでいただろう?その時にお前はオーラを与えていた。まあ今は手を繋いでいるからお前につられて結界に対抗しているのもあるがな』
イリナは気が付かないうちにドラゴンの力と加護を得てしまったという事だった。
それが本当だとしたら気が付かないうちに危険な橋を渡っていた事になる。きっといつか彼女が親の後を追ってシスターかエクソシストになったらドラゴンの自覚症状が出る。
(それってだいじょうぶなの…?)
『気にするな、その子がドラゴンになるようなことは無い。多少の運気と身体能力が上がるくらいだ』
過去に似た例があるのか自信ありげにドライグは言い切った。
離している内に気になるのがこの結界が存在する理由。
(もしかして…)
彼はチラリと自分の左腕を見る。
赤龍帝の籠手と呼ばれる力を持ってしまったのは知っている。もし仮にまた狙われるのだとしたらせめて兵藤夫妻だけは巻き込まないようにしなくては。
『それはない…はずだ。そこにいる娘を相手が巻き込むとは思えん。仮にこちらの正体に気が付いているなら監視が手薄になる夜間の寝こみ時を狙うだろう』
ドライグは可能な限り楽観的な情報を捻りだす。相手がそんな事を考えず昼間に狙うのもあり得ない話ではない。
漫然とした不安を抱えながら早く外に出ようと歩く。
「あそこ誰かいない?」
「ん?」
ここでイリナが林の奥に人影を見つける。一誠も目を凝らすと確かに二人の人影が見えた。
本来であれば結界を張った人物なのだが、謎の好奇心が自然と人のいる方へと足を向けさせた。
(あれは…)
イリナが相手に向かって飛び出そうとしたが、一誠がとっさに抑えたため木の影に隠れる形になる。結果、隠れてしまったため出にくくなってしまう。
そこにいたのは先日出会った悪魔の女性と八重垣と名乗った男性だった。
何やら抱き着きあっている。子供からしたら仲良しだなくらいの感想だが、分かる人が見れば異常な光景だ。
そして二人のシルエットが一つになる。
「へっ、ちゅーしてる…」
「…………」
イリナはどうやら衝撃的な光景に顔を真っ赤にしてませているが、一誠は絶句している。
天界の人間と悪魔の女性が結ばれている。以前ドライグから街に天界勢力と悪魔勢力の二つがいる事と、それらは敵対関係にあるのを知らされた。
「わ、わー…らぶらぶだー…」
イリナは顔を真っ赤にしている。
男女という知識が乏しくてもキスというのが親愛の印として行われるのを知ってはいる。
『この場から逃げろ』
ドライグはそう忠告する。
一誠は一瞬何を言われているのか理解できなかった。
(え…?)
『見つかったらその子も危険だ』
(分かった)
そう言われて一誠は素直に言う事にする。ドライグの声色が切羽詰まっているのが分かる。
「帰ろう…」
小さな声で喋る。そしてイリナを抑えながら一誠は少しずつこの場から離れる。決して勘図かれないように慎重にそしてゆっくりと。
「えー」
イリナは相手の真似をして小さめな声でぐずる。
「えーじゃない、帰る」
一誠がこれまでにないくらい凄んで言う。イリナはその迫力につい押されて静かに頷く。
詳しい世界の情勢など理解がまだ及んでいなくてもこの場で姿を見せるのが危険なのは何となく分かった。
幸いにも相手にその場に居合わせた事はバレることなく逃げることが出来た。
◎
兵藤家に二人は戻った。虫かごの昆虫たちは既に逃がしている。前に虫を持って返ったら即リリースされたからだ。
「ただいま」
「たっだいま~!」
一誠はともかくイリナはお邪魔しますなのだが既に何度か家にお邪魔しているためかただいまに似合っている。
「イリナちゃんおかえりなさい」
イリナの母親も朗らかな笑顔で迎え入れる。
「二人ともお昼出来てるから手を洗ってきなさい」
三希はそう言い渡す。
そう言われて二人は洗面所に向かって行く。
「すっかり一誠も元気になって良かったわ」
イリナと比べたら活発とは言い難いが、一誠は紫藤親子が帰った後で今日あった事を楽しそうに話すことが増えた。
前と比べたら信じられないほど活動的になった。
手を洗って来たイリナは自分の母親に飛びつく。
「ねーねーお母さん聞いて!」
「どうしたの?」
「八重垣のおじちゃんがキスしてた!」
彼女は爆弾を投下した。本人的には今日の出来事を話しただけのつもり。
イリナには何故二人が森の中でコッソリと逢引をしているのかまだ理解するのは難しかった。
「え?八重垣さんが?」
素直に驚く、あの男にもとうとう春が来たのかと思ったのだ。これはいじるネタが出来たと思ってしまった。
実際の所は本人が隠していると思われるため報告して来るのを待つのだが。
「うん!クレーリアお姉さんと!」
その名前を聞いた瞬間、分かりやすいくらいに表情が凍る。
「クレー…リア…?」
名前だけなら聞いた事が有る。この辺一帯を担当するエクソシストの妻として悪魔の情勢もそれとなく教えられている。
クレーリア・ベリアル、この辺りを縄張りにする上級悪魔。
直接対立をするわけでは無くあくまで冷戦状態だが、天界の人間と悪魔が周りに何の連絡も報告もなく話し合うなどあってはいけない。
「すみません兵藤さん、ちょっと用事を思い出しまして…イリナちゃんを少し預かってもらっても大丈夫ですか?」
「えっ、紫藤さん?ええ、分かりました」
イリナの母親はそう言って急いで家から出て行った。
突然の豹変に三希は驚くが、少しの間家の中で預かるくらいなら何の問題もない。
「…………」
一誠は嫌な予感がしたが何も言えるはずもない。
◎
一誠とイリナの二人はリビングでテレビにかじりついていた。
「えっ、今日一日預かって欲しい?」
少し時間が経った後、イリナの母親から兵藤家に電話がかかって来た。
ちょっとだけ大きめの声が出てしまい、慌てて子供たちの方を見るがテレビにくぎ付けのままだ。
『すみません…少し仕事先でトラブルが起きてしまって…兵藤さんの迷惑になってしまうのは申し訳ないのですが…』
「それは構いませんが…」
『すみません、ありがとうございます』
実際迷惑だとは思わない。自分の息子の引きこもり脱却の切っ掛けをくれた相手を疎ましく思うなどあり得ない話だ。何なら自分たちの娘になって欲しいくらいだった。
受話器を置いてテレビを見ている二人に話しかける。
「イリナちゃんは好きな食べ物あるかしら?」
「好きな物?」
「そう、今日はお母さんもお父さんも忙しいからお泊まりね」
「ほんと!やったー!」
お泊まり宣言にテンションが最高潮になる。いつもと違う場所で寝泊まりするのは楽しいに違いないのだ。
その後、大黒柱である兵藤五郎も帰ってきて四人で食卓を囲むことになった。
◎
イリナは一誠の部屋で一緒に寝る事になった。
「わーその漫画持ってるんだ」
彼女は前に部屋に入った時よりも物が増えている事に気が付いた。
前であれば布団くらいしか置いていない殺風景を絵に描いたような場所だったが、今は子供用のオモチャや漫画等が並べられている。
最初は絵本を読まされそうになったが、流石にそれで喜ぶような年でもないため拒否したのだ。
「読む?」
「うん!」
イリナは自分の家に置いていない漫画たちを片っ端から物色し始める。
漫画に夢中になっているとついつい時間を忘れているようで、一緒に読んでいたはずの一誠が眠ってしまっていた。
「…………あれ?」
ふともう一人いるはずなのにいびきが聞こえるなと思ったらこのざまだった。寝落ちではなくタオルケットをかぶって寝ているため、彼女に黙って寝たのだ。
「もー…」
寝てしまった以上相手を起こすのは憚られる。気に入らないが起きていても仕方ないので自分も寝るかと思った時に、ふと昼間の光景を思い出す。
八重垣が女性とキスをしていた。異性同士がキスをするというのは男女の愛情表現の一つであると親に教えてもらっていた。実際イリナは両親からキスをされたことはある、もちろん頬にだが。
「うっ…うーん…」
一誠の無防備な寝顔、その唇につい視線を送ってしまう。
「…………」
彼女は息を殺して自分の唇をそれに近づける。
ふっと掠るだけの様な接触が起きる。何が起きたのか感触だけでは分からない程度のものだが、確実に触れ合った。
「ッ~!!!!」
自分のやってしまった事に気が付いて顔を真っ赤にし、慌てて自分の分のタオルケットをまとって倒れ込んだ。
◎
イリナが朝起きると隣には一誠はいなかった。どうやら彼は先に起きたのだ。
部屋を出て階段を降りるとリビングには一誠がいた。椅子に座って朝食が出てくるのを待っているのだ。
父親である五郎はもう既に仕事に出かけたようだった。
イリナの姿を見つけると彼は朝の挨拶をする。
「おはよう」
「おっ…おはよ…」
何とか朝の挨拶を返すのだが返事が上ずってしまう。昨日の夜の事を思い出す、ハッキリって黒歴史もいい所だ。
「顔赤い、暑いの?」
「ええ!?ああいやへーきへーき!」
この態度という事はバレていないよなと安心する。寝込みを襲うにもほどがある。
「はいどうぞ」
三希は二人の前にご飯を置く。
白飯に、魚や味噌汁とサラダという和風の食事だった。
「いただきます」
一誠は手を合わせて食事を始める。
「…………」
一方のイリナも食べようとしたのだが野菜の存在が彼女の箸を止まらせる。食事を出してもらった手前ごねるのはあり得ない。
彼は相手の箸の進み方が緩慢なのを見て尋ねる。
「野菜苦手なの?」
「ち、ちがうし」
何のためらいもなく野菜をむしゃむしゃ頬張る相手を見て精一杯見栄を張る。
「あら、そうなの?」
イリナの態度に三希は野菜が苦手なのかと、意外というよりは微笑ましい気持ちになる。子供が野菜を毛嫌いするなんてそれっぽいからだ。
考えてみれば一誠はこれまで何が食卓に出ても好き嫌いを一切せずに黙々と食べていた。
「嫌なら食べよっか?」
「えっ」
サラダを入れている容器をそっと差し出す。これにお前のサラダを分けろとそう言っているのだ。
正直言ってとても魅力的な意見だった。やっぱり嫌いなものは食べたくない。だがそれで甘えるのは自分が情けなく思えるのだ。
「自分で食べるし!」
不慣れな箸で何とか野菜を口に運ぶ。
涙目になりながら必死に咀嚼し呑み込む。小さな声で「にがいよぉ…」と唸っている。
「えらいえらい」
その光景を見て彼はまるで子供をあやすかのような口調でそんなことを言う。
許せない、大人からそうあやされるのならともかく同い年の男の子が微笑まし気に諭してくるなんて。
「こどもあつかいして~!」
力の無い声で彼女は言い返す。
イリナは結局出されたものの何とか半分だけ食べてギブアップした。
◎
「遊びに行こ!」
イリナは元気の概念なのかと思うくらいのテンションで誘い出す。
「え~」
「えーじゃない」
彼女は有無を言わせずに一誠の手を取って玄関に向かっていく。
一誠は口では嫌そうな感じだが、イリナと一緒にいる時間は嫌いではない。
『今は外に出るな』
(え?)
そこに水を差したのはドライグ。
彼は止められて驚いた、これまでイリナと遊ぶことに対しては何も言ってこなかったからだ。
『今外は悪魔とエクソシストで荒れている。今日は家で静かにしていた方が良い。その子を一人でも外に出させるな』
ドライグは分かっていた。昨日見た光景が既に両陣営に伝わっており、外は大騒動になっているであろうことを。
そんな状況でイリナと一緒に首飾りである十字架をぶら下げて歩き回るのがいかに危険か。
(分かった…)
彼は素早くこの家から出ない方向で切り替えた。
「今日はちょっとお腹痛いかも…」
「え」
「ちょっとくるしいなぁ…」
わざとらしく「いてて…」とお腹を押さえる、凄く分かりやすい仮病だった。
だがイリナはどうやら真に受けたようで「いっせーがびょうき!」と母親に向かって報告しに行った。
「え、ちょっと」
彼は止めようとした、だが時すでに遅しイリナの足は止まらない。
「あわわわ…」
『いい演技だった…ぞ?』
ドライグはそう言って励ました。
◎
『すみません。今日もイリナちゃんがお世話になってしまって…』
「いえ、それはいいんですけど…」
三希はトウジから電話を受けていた。
彼女はチラリと一誠とイリナの二人の様子を見る。仲良く昼食のソーメンを頬張っている。
電話の内容は今日も預かって欲しいというお願いだった。
紫藤イリナの両親が教会に勤めているというのは彼女も把握している。だが夫婦二人そろって忙しく、娘を他人に二日連続で預けざるを得ないというのはどのような事情なのだろうかと考えてしまう。
もちろん忙しくて手が回っていないのにそんな事を相手に聞くわけにはいかないのだが。
「ええ、大丈夫ですよ。一誠も楽しそうにしていますし」
『本当にすみません…明日には目途を付けて迎えに行きます』
そう言って二人の会話は終わった。
実際の所は気の知れた関係性とはいえ、ある程度分別が出来る年齢とは言え他人の子を何日も預かり続けるのは肉体的以上に精神的な負担が大きいのは事実だ。
今回一誠を引き取るにあたって親身にアドバイスを送ってくれたからこそ、嫌な顔など一切せずにその恩義を返している。それ以前に友人からの頼みを断りはしない。
同然、紫藤夫婦もその事は察しているため苦しくて申し訳ないのだ。
電話を切って二人の元に戻る。
「イリナのお母さん?」
「ううん、お父さんね。イリナちゃんは今日もお泊り」
「そうなの?」
ここに来てイリナも少しだけ不安になる。これまでの人生の中で親とここまで会わない経験は無かった。
「明日にはお父さんもお母さんも迎えに来るわ」
そう言って不安を紛らわせてあげようとする事しか出来ない。
◎
次の日の夕方、紫藤トウジは娘を引き取るために菓子折りを片手にやって来た。
「すみません…二日も娘を預かっていただいて…」
「気にしないでください、困った時はお互い様ですから」
「本当に助かりました」
申し訳なさそうにする相手に対して三希はなんてことはなさそうに返事をする。
「パパ!」
イリナは父親に向かって飛び込んでいく。
それを受けとめたトウジは娘に話しかける。
「イリナちゃん、迷惑はかけなかったかい?」
「そんなことしないもん!」
親からいじられてイリナは軽く頬を膨らませる。
間違いなくこの瞬間までは楽しい一時だった。彼が次の一言を口にするまでは。
「実は引っ越すことが決まりまして…」
『えっ』
トウジ以外の全員がいきなり言われた事に反応できない。
引っ越しという事はこの街から出て行くという事だ。元々紫藤家は教会の仕事を転々としておりこの街から越して来た経緯がある。
最初にフリーズ状態から脱したのはイリナ。
「やだ…やだやだぁ!」
自分の父親の服をギュッと握りながらイリナは懇願する。
それはただの我儘でしかない精一杯の自己表現、そして子供の一言で覆らない大人の事情を体現している。
「ごめんねイリナちゃん…」
彼は娘のその態度に苦しそうな表情をする。それは何かの罪に耐えているかのようだった。
「イリナ…迷惑かけちゃダメだよ」
一誠はよく出来た子供として態度を取る事にする。
その自分の感情を最大限抑えてよく出来た子供というのを演じる。この家に居候、親に育ててもらっている事を考えて賢く立ち回る。
これまの人生で仮に泣いても、助けを求めても誰も興味を示さず何もしてはくれ無かったからため、ごねる事を忘れてしまった子供だった。
「いっせーは私と一緒にいたくないの!?」
イリナからしたらあまりにも塩対応過ぎるためかカンに触ってしまう。彼にだけはそんなドライな対応などして欲しくなったのだろう。
「そうは言ってないけど…」
「言ってるじゃん!もういい!」
彼にそんなつもりは当然ない。
一誠に対して完全に熱が上がってしまったイリナは瞳に涙を溜めてその場から足早に去ってしまった。
トウジは娘の態度に謝りながら追いかけていった。
「後でちゃんと謝りなさいよ」
「うん…」
親子二人の姿が見えなくなった後、三希はそう言って諭した。
その後、トウジとその妻が別れの挨拶には来たがイリナは姿を表さず。そして紫藤一家は引っ越していった。