正月。多くの人にとっての休息期間であるこの時期は、トレセン学園も例に漏れず冬休みの真っ只中であった。
有馬記念、東京大賞典、ホープフルステークスを始めとした年末まで続くレースの影響を考慮して、学園では特例的に大晦日からの冬休みを設けている。
レースやトレーニングなどでなかなか休日を取れない生徒達のため、一般的な学校と比較するとその休みも長く、その期間は一月一日から三十一日までの一ヶ月である。
これを利用して実家に帰るもの。変わらずストイックにトレーニングに励むもの。友だちとダラダラ過ごすものなど三者三様だが、このウマ娘──サイレンススズカは、いずれの選択肢からも大逃げを決め──。
──一ヶ月間、自身のトレーナーと同棲することを決めたのである。
◇◆◇
「ここがトレーナーさんのお家……そして、私が今日からお世話になる場所ですね」
「おっかしいなぁ、どうしてこうなったのかなぁ……」
スズカの早朝トレーニングに付き合い、帰宅する。いつもと何も変わらないルーティン。
目の前の玄関には、見慣れた表札、見慣れたドア……そしてこの場所では決して見慣れぬ、
事の起こりは一週間前。他愛もない雑談の一環として、スズカに冬休みの過ごし方を尋ねたことから始まった。
◇◆◇
「そういえばスズカは、冬休みの予定とか立てているのか?」
ミーティングを終え、帰り支度をしているスズカに話しかける。トレーニングの日程はあらかじめ相談していたが、プライベートの予定次第ではさらに多少の調整が必要かもしれないと思い、念のために訊いてみた。
「予定ですか? トレーニング以外は、とくに何も」
「何も、って……いや、スズカがいいなら全然構わないんだけどさ。友だちと遊びに行ったりはしないのか?」
「誘われれば行くとは思いますが、そうでなければ何もないかと。私、みんなを誘って遊びに行くようなタイプでもありませんし」
「まあ、そうかもしれんが」
スズカは決して無愛想というわけではなく、むしろ人付き合いは良く人気もあるのだが、走ること以外に関しての主体性はびっくりするほど持ちあわせていない。本当にただ「やらなくてもいいのなら、やらない」というだけなのだ。
とはいえ、年頃の学生が長期休みに何も予定がないのは、あまりにも寂しすぎる気がするのだけれど。
「あ、そうだ。スズカさえよければ、俺とどっか出かけてみるか? 大したことはできないかもしれないけど、普段行かないようなところにでも足を運んでみたりさ」
「トレーナーさんとお出かけ……普段行かないようなところ……」
そう言うと、彼女は右手の指で顎を軽くつまみ、考え込む素振りを取ってしまった。
スズカとは、買い物や食事なんかで度々一緒に出かけることがある。しかしそれはあくまで練習に必要なものであったり、スケジュール調整の都合でやむなく、といったものがほとんどだった。
さすがに大人の男と、しかも普通なら家族や友だちと行くような場所へ出かけるのは抵抗があるのだろう。悪いことをしてしまった、と反省をする。
「すまんスズカ、余計なお世話だったよな。嫌なら断ってくれていいんだぞ」
「い、いえ! そうじゃないんです……行ってみたいところがひとつだけあったのですが、その、トレーナーさんに悪いような気がして。一日で終わるようなものでもないですし」
スズカは困ったような表情を浮かべながら、まごついた口ぶりで答える。
どうやら行きたい場所はあるのだが、俺のことを考えて遠慮していたようだった。優しい子だ、と苦笑しながら「その必要はない」とすぐさま告げる。
「どこに行きたいのかは知らないが、悪いわけないだろ? いつも頑張ってるご褒美だと思って遠慮なく言ってくれ」
スズカの顔がぱあっと明るくなる。それほどまでに行きたい場所があるのかと不思議に思いつつも、このときの俺は、目の前の少女の悩みをどこか軽く見積もっていた。
「わかりました。では、トレーナーさんの家に行きたいです」
「はいはい、俺の家に……ん?」
……俺の家?
「せっかくの長期休みなので、できれば冬休みの間、ずっと」
冬休みの間、ずっと?
「いや、それはさすがに──」
「トレーナーさん」
彼女は俺の言い訳をピタリと制して、続ける。
「……遠慮なく言っても、いいんですよね?」
先ほどの満面の笑みは、いつのまにか小悪魔じみた微笑に変わっていた。
──考えが甘かった。そう悟ったときには、もう引き返せないところまで来ていたのだった。
◇◆◇
……吐いた唾は呑めぬ。こうして、あれよあれよという間にスズカとのプチ同棲が決まり、どういうわけか理事長やたづなさんからの許可も降りて、サイレンススズカと共に過ごす日々が始まった。始まってしまったのだ。
「あ、スズカ……おはよう」
「とととトレーナーさん、お、おは、おはようございますっ」
すでに学園の正門前で待っていたスズカと合流して、トレーナー寮まで移動をする。
彼女は近年稀に見るようなどもりを見せたかと思えば、その後は借りてきた猫のようにおとなしく、世間話を振ってもうわの空だった。
年頃の女の子はわからない、と首を捻っているうちに、気づけば寮の入り口へと到着していた。
歩き慣れた、しかし普段よりも狭い歩幅でエントランスを歩いていると、すれ違った同僚が口をあんぐりと開きながら、驚いた顔でこちらを見つめてきた。
頼むから広めないでくれよ。そう伝えるように人差し指をそっと唇の前に立てて、俺たちは逃げるようにエレベーターへと乗り込んだ。
◇◆◇
「ここが俺の部屋な。まあ表札は出してあるから、ひとりでも迷うことはないはずだけど」
「は、はい」
片道五分のものとは思えない心労を抱えながらも、どうにか家に帰ってくることができた。
そのまま玄関の鍵を開け、廊下の先にある部屋へと彼女を誘導する。
「ここがリビングな。荷物置いたら、着替えて初詣でも行くか……って、あの、スズカさん?」
ふと彼女のほうを見ると、初めての場所で気持ちが落ち着かないのか、気づけばその場で左回りを……いや多い多い。回る速度がいつもの三倍くらい速い。この部屋に変なものは置いていないはずなのに。
しばらく観察していると、視線に気づいたスズカは動きをピタッと止めて。
「ああっ、ご、ごめんなさい。トレーナーさんのお家って始めて来たから、なんだか緊張しちゃって……」
恥ずかしそうにほっぺたを指で掻きながら、理由を説明してくれた。
「そんな緊張する場所でもないと思うが……とりあえず、そこの棚がまるまる開いてるから好きに使ってくれ。着替えは……物置部屋にでも置こうか。掃除はしておいたから、汚くはないはずだ」
「わかりました。では失礼しますね」
スズカが物置部屋のドアを締めたことを確認すると、自分もクローゼットから衣類を取り出して、私服に着替え始める。
彼女よりも俺のほうが、着替え終わるのは早いはず。そう考えて仕切りも何もないリビングで着替えているのだが、これからはそういうわけにも行かないだろう。近いうちに、なんらかの策を講じなければ。
「お待たせしました、トレーナーさん」
あれこれと考えごとをしていると、着替えを終えたスズカがひょっこりと姿を現した。
白を基調とし、胸のあたりに緑のリボンをワンポイントとして添えた洋服に、下はエメラルドグリーン色のスカート。彼女がオフのときによく着ているものだった。
「それじゃ、行こうか」
「はい……ふふっ、楽しみですね」
「……そっすね」
俺はわずかばかりの手荷物と、未だそわそわと落ち着かぬ様子を見せる担当ウマ娘を連れて、でこぼこのアスファルトに揺られながら神社を目指して車を走らせた。
◇◆◇
「うわ、思ったよりも人多いなぁ」
駐車場に停めた車から降りると、すぐさま活気づいた声が身体にぶつかってきた。
予想以上に大きい人の波に驚くとともに、人混みが苦手なスズカの身を案じる。
「スズカ、大丈夫か?」
「平気、です。ちょっと怖いけど、トレーナーさんが側に居てくれるので」
「……そういうこと、あんまり男に言うんじゃないの」
厳しそうならば別の神社を目指すか、家に引き返すかを訊こうとしたが、予想外の一言によりこの場に留まることになった。
しかし今のセリフは、俺じゃなければ勘違いしてたな。危ない危ない。
「……トレーナーさんだから、なのに」
「え、ごめんよく聞こえなかった。なんだって?」
「……なんでもありません。ほら、おみくじでも引きましょう」
雑音で掻き消された言葉を聞き直すと、途端にスズカは両頬を膨らませ、どこか拗ねたような面持ちのままおみくじ売り場まで早足で歩いていってしまった。
いったい何を言っていたのかはわからないが、はぐれても困るので、そのまま彼女の後をついていく。
「たしかここに……って、あら? スペちゃん?」
「あ、スズカさんと、スズカさんのトレーナーさん! お二人も初詣ですか?」
「ええ。偶然ね」
気づけばスズカは、彼女をよく慕ってくれている後輩のスペシャルウィークと談笑していた。
スペシャルウィークがスズカを初詣に誘うものだと思っていたから、俺が誘われたときはそれなりに驚いたものだが……なるほど、彼女も彼女のトレーナーと行く約束をしていたようだ。
「スペちゃんのトレーナーさんは?」
「あの人なら、甘酒を貰いに行ってくれてます……ってあれ、今メッセージが着たんですけど、なんか迷子になっちゃったみたいで……ちょっと迎えに行ってきますね! スズカさん、スズカさんのトレーナーさん! 良いお年を!」
「またね、スペちゃん」
「またな。それと、今度からその言葉は年越し前に使うんだぞ」
慌ただしく小走りで駆けていくスペシャルウィークを横目に、俺とスズカはくじ引きの箱の前へと足を運ぶ。二人分のお金を入れて、木製の引き出しからそれぞれ紙を一枚ずつ取り出す。
「お、中吉か。まあ悪くはないな」
「私は……大吉でした。幸先がいいですね。それに、ほら」
「どうした?」
スズカは両手でおみくじの端をつまみ、
「今年は運命の人と結ばれるかも、ですって」
「へーよかったじゃん」
「ふふ、楽しみですね」
「そ、そうだね?」
……どうしてこちらを見ながら言うのだろうか。
不思議な笑みはひとまず無視しながら、境内をずっと道なりに進み、本坪鈴のある場所へと到着した。
「小銭、用意できたか?」
「ええ、いつでも」
「じゃあ、投げるぞ」
せーの、の合図で一斉に硬貨を放り込み、縄を揺らして鈴の音を二回三回と鳴らす。
二拍手一礼の後に目を閉じ、それぞれの願い事を心の中で唱える。
「……スズカがいつまでも、楽しく走り続けられますように」
繰り返すように何回か唱えたのち、目を開けてチラリと横を見ると、スズカはすでに願いを済ませていて、俺が願い終わるのを待っていたようだった。
「待たせて悪かったな」
「いえ、私も終わったばかりでしたから。トレーナーさんは、何をお願いしたんですか?」
「ああ、もちろん今年も、『スズカが楽しく走れますように』って」
「え……?」
素直にそう答えると、スズカは動揺するかのように声を震わせて、
「も、もちろんって……去年も同じことを?」
「そうだけど、何かまずかったか?」
「い、いえ、ぜんぜん。むしろその……あ、ありがとうございます」
彼女は地面を見つめながらそう言うと、せわしなく尻尾を揺らし始めた。
心なしか顔も若干赤くなっている気がする。冷気に当てられてしまったのだろうか。
「それより、スズカは何を祈ったんだ? といっても、俺と似たようなことだと思うけど」
「……秘密です」
「ええ? なんでだよ」
スズカは首を傾げる俺を、その目でまっすぐに見て、
「秘密です……今は、まだ」
口元をマフラーで隠しながら、はにかんで笑った。
「別にいいけどさ、ちょっと気になるなぁ」
「大丈夫ですよ。時が来たら、ちゃんと話しますから」
願い事なんて無理して言わなくてもいいとは思うが、それを指摘するのもまた無粋だと考え、黙ってうなずく。
「よし、お参りも終わったし、そろそろ帰るか!」
「はい。来年もまた、ふたりでここに来ましょうね」
「そうだな。また来よう」
俺たちはまもなく帰路につき、正月らしくまったりとしたミュージックを車内に響かせながら、延々と雑談に花を咲かせていた。
◇◆◇
夕暮れ時、ようやく家に帰ってきた俺たちは、一緒にテレビを見たり、神経衰弱で遊んだりと、場所がトレーナー室から寮に変わっただけで、いつもとさほど変わらない日常を過ごしていた。
しばらくすると、ぐうう、と腹の音が鳴り、それでようやく夜がすぐそこまで迫っていたことに気がついた。
「そろそろ飯にするか。スズカ、何かリクエストある?」
「えぇと、トレーナーさんが作るんですか?」
「そのつもりだけど、もしかして不安か……?」
どこか心配そうな目を向けてくるスズカに聞き返す。
「と、とんでもないです! ただ、トレーナーさんが料理をされる人だとは知らなかったから、つい驚いて……」
「あーたしかに。弁当持っていったこともないし、知らなくて当然か。そんな自信があるわけじゃないけど、そこそこの味のものは作れると思うぞ」
「そうだったんですね」
彼女は納得したように微笑むと、何を思いついたのか、両手をポンと軽く叩いた。
「でしたら……私、肉じゃがを食べたいです」
「肉じゃが? 全然いいけど、スズカって和食のほうが好きだったっけ?」
「そういうわけではないですけど……ほら、肉じゃがといえば、家族団欒で食べるものって感じがするじゃないですか。あの独特の雰囲気が好きなんです」
「な、なるほど……?」
その雰囲気は、俺とふたりで食べても再現できないと思うのだけれど。
「気にしたら負け」というやつなのだろうか。
「なら丁度材料も揃ってるし、今から作り始めるよ。テレビでも観ながら待っててくれ」
そう言って調理に取り掛かろうとすると、スズカは遮るようにずいと前に出て、
「あの、私もお手伝いします。無理言って押しかけたうえに、何もしないのは申し訳ないですし」
と、言った。
「そう? だったら、玉ねぎと人参を切ってもらおうかな。好きな切り方でいいからさ」
「わかりました」
冷蔵庫から取り出した野菜を渡すと、スズカは慣れた手付きで包丁を器用に回し、玉ねぎの皮を剥き始めた。それが終わると玉ねぎを薄切りに、にんじんは一口サイズのいちょう切りにしていった。俺が知らなかっただけで、実は料理の経験があったのだろうか。
怪我の功名と言っては失礼だが、この同棲はある意味、スズカのことをより詳しく知るのにはいい機会だと思った。
「トレーナーさん」
トントントン、と包丁がまな板を叩く音とともに、スズカの呼びかけがキッチンに反響する。
「どうした?」
こちらも別の野菜を切っているため、目線は手元に向けたまま答える。
「これが、共同作業というものなんでしょうか」
「へぁっ!?……いってぇ!」
「ト、トレーナーさん! 大丈夫ですか!?」
死角から言葉による不意打ちがクリーンヒットしたかと思えば、動揺で手元が狂ったせいで、同時に俺の人さし指にも刃がクリーンヒットした。
幸い指先を少し切っただけなので、傷口を水に晒して、ばんそうこうを巻けば解決ではあるのだが……今日のスズカは何かと怖すぎる。心身ともにドキドキさせられっぱなしだ。
「だ、大丈夫だから、そんな慌てなくても」
「ごめんなさい……! 私が変なこと言ったせいですよね? 次からは気をつけますから……」
一応、変なことを言った自覚はあるようで安心した。できることなら、気をつけるのは包丁の使用中に会話をしないことなのか、変なことを言うのをやめるほうなのかも教えて欲しかったのだが。
「あーもう、そんなに気にするなって。ほら、お腹空いたろ? 早く作って食べようぜ」
救急箱から衛生用品を取り出しながら、スズカをなだめる。傷口を彼女に見せると、大きな怪我もないことを確認できて安心したのか、その後すぐに作業を再開することができた。
指示を出しつつ、出されつつ。俺たちは先ほどのミスを挽回するかのように、着々と夕食の準備を進めていった。
◇◆◇
「いただきまーす」
「いただきます」
簡素なローテーブルの前で向かい合って、手を合わせながら感謝の言葉を述べる。
スズカは手始めに肉じゃがのじゃがいもを口に運ぶと、ハッと驚いた表情を見せた。
「おいしい……! 私、この甘辛い味つけ大好きです」
「それは良かった。おかわりもあるから、たくさん食ってくれよな」
「はい。あ、今度レシピ教えてくださいね。この味も、再現できるようになりたいので」
「え、まあ、こんなのでよければ……」
一般家庭の肉じゃがとさして味の違いはないはずだが、とにかく口にあったようでなによりだ。
大した手間でもないので、後でレシピを書き出して渡すことを忘れないように──少々行儀が悪いことは承知しているが──ポケットからスマホを取り出し、リマインダーアプリに登録する。
「そうだ。ちょっと気が早いかもだけど、寝床どうしようか?」
ふと決めなければいけないことを思い出し、スズカに相談をする。
「寝床、ですか?」
「ああ。最初、スズカにはベッドで寝てもらって、俺はソファーで済ませようと思ってたけど……やっぱり、男がずっと使用してたベッドに寝るのは嫌だよな?」
「いいえ」
「そりゃそうか……って、うん?」
思わず彼女の顔を二度見する。その真剣な表情をみるに、聞きまちがいではなかったらしい。
これ、普通は嫌がるものじゃないのか? もしかして、俺の常識が間違ってる……?
「嫌ではないです。これっぽっちも」
「そ、そっか。わかった。ならスズカはベッドで、俺がソファーってことで」
「それは嫌です」
「どうしろと!?」
意味がわからない。ベッドがいいけど、ベッドが嫌なのか? 頓知を始めた覚えはないぞ、こっちは。
「一日だけならともかく、ずっとソファーで寝れば確実に身体を悪くします。トレーナーさんを、そんな目に合わせるわけにはいきません」
「そんな目って。ええと、じゃあどうする? 明日、布団でも買いに行こうか?」
「? そんなことする必要ないじゃないですか」
「……というと?」
スズカきょとんと目を丸くして、いかにも不思議そうなに首を傾げている。
「解決策はすでにある」と言わんばかりに見つめる彼女に疑問を覚えつつ、次の言葉を待つ。
「私とトレーナーさんが、一緒のベッドで寝ればいいじゃないですか」
「は?」
頭の中に宇宙と猫が交錯する。日本語的には理解できるが、意味がまったく理解できない。脳が理解を拒んでいる、と言ったほうが正確だろう。
数秒間呆けたのちに、断固として拒否しなければならないことを思い出す。
成人男性と未成年の女性。教師と生徒。家族でもなく付き合ってもいない男女……どの関係性を取っても、大大大アウトスリーチェンジ一発レッドカードである。
どうもスズカはその辺りの感覚が鈍いらしく、この場であらためて彼女の観念を正そうと、今一度、背筋をしゃんと伸ばして向かい合う。
「あのな、スズカ。いくら俺とのつきあいが長いからといって、彼氏でもない男にそういうことを言っちゃだめだ。スズカが普通の人間より強いウマ娘だとしても、何をされるかわからないんだぞ。だから、もっと自分を大切にして──」
「トレーナーさんは」
スズカが遮るように言う。
「トレーナーさんは……私に何か、するつもりなんですか?」
「いや、その、そういうわけじゃないけど」
……その聞き方は、反則じゃないか。
「なら、問題はないですよね?」
言い終わると、彼女は軽く微笑んで、また箸を動かし始めた。そんな彼女に引っ張られるように、俺も食事を再開する。
自分のことを信用してくれるのは嬉しいが、信用し過ぎることも考えものではないか。
夕食の味は、よくわからなくなっていた。
◇◆◇
「その時スペちゃんが……ふわぁ」
「ん、もう二十三時か。つい話し込んじゃったな。そろそろ寝支度するぞ」
夕食の後、しばらく休んだのちに一人ずつ──ここが重要なのだが──風呂に入り、この時間までだらだらと話しこんでいた。
風呂に入る前、どちらが先に入るかという話でまた一悶着あったのだが……語る必要はないだろう。
「わかりました……では、先に歯磨き行ってきますね」
「おっけー」
すくっと立ち上がり、洗面所へ向かって歩いていくスズカ。
それにしても、合宿などで目にすること自体はあるとはいえ、やはりスズカのパジャマ姿はどうも見慣れない。
なるべく考えないようにはしているが、それでもギャップ萌えというか、色っぽさとも呼べる不思議な魅力に当てられて、どうにも鼓動が高鳴ってしまう。
一ヶ月という短い期間の中で、慣れることはできるのだろうか。いや、慣れてくれなければ困るのだけれど。
「……トレーナーさん? 洗面所空きましたよ?」
「あ、ああすまん、ありがとう」
彼女の呼びかけを背に受けて、意識を現実に引き戻す。
もしかしなくても、俺がスズカのことを意識しすぎているだけではないか。そう考えると途端に恥ずかしくなってきて、風呂場で蒸しあがった顔が余計に熱をもつ。
このままではダメだ。そう考えた俺は、邪念を振り払うべく丹念に歯磨きを済ませ、そのままの勢いで流れるようにベッドに入った。
「では……隣、失礼しますね」
──邪念が復活した。
「あのー、スズカさん? ちょっと近くないですかね?」
「……そうですか? セミダブルのベッドみたいですし、こんなものかと」
「だ、だよね。スペースないもんね」
俺はベッドの左端で、右耳を下にして横向けになっている。おそらくスズカも、俺とシンメトリーになるような体勢を取って寝ているはず。
そのはずなのに、女の子の──スズカの匂いが、俺の鼻の先まで漂ってくるのはどうしてなのだろう。
極めつけは声の位置だ。先ほどからスズカと二言三言会話を交わしているが、声の位置がべらぼうに近い。耳元ではないにせよ、周囲は一切の無音で、背後から──あげくゼロ距離の密着が織りなす非日常的な声の聴こえ方のせいで、聴覚はかつてないほど鋭敏に……つまり、弱くなっている。彼女のささやき声が聴こえる度に、理性に絶えず爆撃を浴びせられているようで、頭がおかしくなりそうだ。
暗闇の中に、ふたつの心音だけがこだまする。
「トレーナーさん、起きてますか?」
「お、起きてるぞ」
不意に、スズカが話しかけてくる。
「トレーナーさん、私の無茶なお願いを聞き入れてくださって、ありがとうございます」
「いやまあ……たしかに驚いたけど、スズカは普段からよく頑張ってるしな。というか、俺なんかと一緒に過ごすことがお願いになるってのも、また変な話だが」
自分にそこまでの価値はないだろうと、やや自嘲的に笑う。
けれどもスズカは、それを察したかのように真剣な声色で、
「そんなに自分を卑下しないでください……トレーナーさんは、間違いなく素敵な人です。あなたがいなければ、今の私はありませんでしたから」
と、俺を叱った。
それは、彼女なりの激励のようにも思えた。
「あ、ありがとう」
「……はい」
お互いどこか気恥ずかしくなってしまい、しばしのあいだ沈黙が流れる。こんな時、俺はどうすればいいのか。大学では教えてくれなかったじゃないかと、理不尽な恨みを頭のなかで先生方にぶつけた。
「ええと、とにかく! 今日は寝ようか!」
「そ、そうですね! 寝ましょう! おやすみなさい……!」
掛け布団を一斉に首元まで引っ張り、目を閉じて、気まずさから逃げるように眠りにつく。
明日からも、今日みたいなハプニングが度々起こるのだろうか。
でも、それはそれで構わない。ここまできた以上、全部ひっくるめて思い出にしよう。
ところで、明日の朝食は何にしよう。いっそスズカのお手並み拝見といこうか。いや、客人にあまり料理をさせすぎるのもどうなのだろう……。
そんなとりとめのないことを考えつつ、翌朝に備えて英気を養う態勢に入った。
結局、眠ることができたのは、床についてから二時間ほど後のことであった。