サイレンススズカと同棲する30日間   作:十六夜みやこ

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10日目

【1月10日】

 

「トレーナーさん、そっちのお砂糖、取ってくれませんか?」

「あいよー」

 

 すっかり慣れ親しんだ、ふたり一緒の朝食作り。

 だれが何を調理するかはその日によって適当だが、今日は俺が汁物と副菜、スズカがメインの魚料理を作っている。

 

「って、ありゃ。砂糖のケース、空になってたわ」

「え……そうでしたっけ。どうしましょう、甘辛の味付けなので、お砂糖がないと……」

「大丈夫。いつでも詰め替えられるように、調味料はでかい袋のストックがあるから……あったあった」

 

 シンクの真下にある戸棚を開けると、暗がりの中から砂糖や塩、片栗粉に小麦粉などの予備が詰め込んであるダンボールが見つかった。

 中腰になって、ひとまず箱ごと取り出そうとする。

 

「今用意するから、ちょっと待ってなー」

 

 このときの俺は、致命的なやらかしを三度行っていた。

 ひとつ。ダンボールの蓋を、せまい戸棚の中で開けるのが面倒くさくなって、すべての袋が入ったダンボールごと引き出そうとしたこと。

 ふたつ。粉物の重さを軽視し、全身を使わずとも腕だけでひょいと持ち上がると踏んでいたこと。

 みっつ。最近少しずつ筋トレを始めたとはいえ、もとの身体が想像以上に貧弱であったこと。

 

「よいしょ、っと」

 

 ゆえに、”それ”が引き起こされるのは、偶然でもなんでもなく──。

 

「あ゛あ゛っ゛!」

「!?」

 

 箱を持ち上げた瞬間、稲妻の如く腰全体を駆け巡る激痛。

 ひと叫びしたのち、なんとか荷物を下ろしてその場に膝をつく。

 声帯が潰れたかのような声を聞いてか、スズカが驚いた顔でこちらを見ている。

 若いから、健康だから、俺にはまだ早いだろう。

 そう思っていた”それ”は、突如俺の身に降りかかり──。

 

「ごめんスズカ。ぎっくり腰、やったわ……」

 

 その場から、ピクリとも動けなくなってしまった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「よいしょ、っと。痛みはどうですか?」

「あ、うん……ありがとう、スズカ。寝っ転がったら、多少楽になった」

 

 あの後、痛みと痺れで立てなくなった俺のために、スズカが気を利かせて部屋のベッドまで──まさかのお姫様抱っこで──俺を運んでくれた。

 たしかに、その体勢がいちばん寝ている状態に近いわけだし、事実腰への負担も少なかったのかもしれない。とっさの機転と思いやりには、本当に感謝している。

 しかし、二十歳をとうに過ぎた成人男性が、女子高生にお姫様抱っこされるのは、なんというか……とにかく恥ずかしいわけで。彼女がそんなことを気にする素振りも見せなかったのは、不幸中の幸いだったと言える。

 憶測だが、一日じっくり養生すれば、コルセットを巻けば仕事できるくらいには回復できるだろう。今日の仕事は、有給を取らざるを得ないけれど

 

「トレーナーさん……」

「ん?」

 

 スズカが、どことなく気まずそうに俺を見てくる。

 その口の動きは、何かを言おうとしては止める動作を繰り返しているようだった。

 

「……?」

 

 首を傾げたその瞬間、とうとうスズカの口が大きく開かれた。

 

「その……もしかしてトレーナーさん、もうお年なんですか?」

「ぐぇ」

 

 気持ちはよくわかる。俺も彼女とおなじくらいの年齢のときには、ぎっくり腰なんて中年以降の人が患ってしまうものだと思っていた。

 普段から積極的に身体を鍛え、まわりに患ったことのある人もいないスズカがそう考えてしまうのは至極当然のことだろう。

 

「……若い人でも、なるときはなるんだよ」

「そうなんですか……」

 

 だけどスズカ。お前にもいつか分かるときがくる。

 睡眠不足、運動不足に冷え性……それは年齢に関係なく、人によってはくしゃみまでもがきっかけになって、突然降りかかってくるのだ。

 彼女がこんな痛みを知ることはなく、末永く健康でいられることを、ただただ願うばかりであった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「失礼します……トレーナーさん、お昼ごはん作ってきました。朝はいろいろあって食べそびれちゃいましたし、その分たくさん食べてください」

「おお、悪いな……助かるよ」

 

 湿布を貼ったまま寝たきりの時間を過ごしていると、スズカが作りたてであろう昼食をプレートに乗せて持ってきてくれた。

 部屋の隅にあったミニテーブルの上にそれを置くと、そこでようやく料理と目線の高さが合って、メニューが何であるかを知ることができた。

 

「……え、お粥?」

「はい。卵粥です」

「えっと……?」

 

 そこじゃない、と喉元から出かかった言葉をぐっと飲み込む。

 

「あの、なんでお粥?」

「トレーナーさん寝たきりですし、運動もできないから、消化もよくて食べやすいものがいいと思ったので……」

「……その心遣い、すごく嬉しいよ。でもなスズカ。腰痛は風邪じゃないから、食欲がなくなるわけでもないし、消化器が弱るわけでもないんだ。別に肉とか食いまくっても、ぜんぜん大丈夫なんだよ」

「あ、そうなんですか……どうしましょう、お米五合分も炊いちゃいました」

「それを全部お粥に?」

「はい」

「病人でもそんな食わなくね?」

「夜もこれかと思って」

「にしてもだよ」

 

 相変わらず、スズカの天然っぷりには目を見張るものがある。

 けれどもそれは、彼女なりによかれと思ってやったことが裏目に出てしまっただけで。

 俺の体調のことを考えて、スズカなりに精一杯をの努力をしてくれたという事実は変わらない。その思いやりだけで、お腹も心も満たされるというものだ。

 

「はい、トレーナーさん。あーん」

「あ、あーん」

 

 スズカは俺の口元にレンゲを運び、それを食べるように促す。

 少々気恥ずかしかったが、水を差すのも悪いので、観念して口を開ける。

 

「あ、おいしい」

「……! ほんとうですか、よかったぁ」

「うん。作ってくれてありがとな」

 

 スズカが安心したように頬を緩める。

 彼女には心から感謝しているし、逆に彼女が困っているときには、率先して力になりたいとも考えている。同じような状況になれば、俺だって食事を作り、看病もする。「あーん」もまあ、望まれればすると思う。

 しかし、だ。

 

「はい、あーん」

「あの、スズカさん……これもう何回目ですか」

「がんばってください、トレーナーさん。あと約三合分です」

「過ぎたるは猶及ばざるが如しって言葉、知ってる?」

 

 ……いくら厚意とはいえど、お腹が満たされすぎると心は徐々に枯れていく。

 食べすぎによって、お粥のようにドロドロと溶かされてゆく意識のなかで、俺は確かな教訓を得た。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「もう夜の九時か、時間が経つのは早いな」

「そうですね……楽しい時間は、あっという間です」

 

 昼食の後、痛みのピークが過ぎてなんとか椅子に座ることができるようになった俺は、スズカと一緒にリビングで映画を見漁っていた。

 ホラー、ミステリー、アクション、ラブロマンス……ほとんど休憩も入れずにぶっ続けで四本も見てしまったが、意外にもそのすべてが大当たりだった。

 映画といえばもっぱら映画館でみるものだと思いこんでいたが、スナック菓子(と大量の卵粥)をつまみに、適当に駄弁りながら誰かと映画をみるというのも、また乙なものだった。

 驚かされるようなポイントで二人同時に叫んだり、犯人は誰だ、と展開を推理しあったり……キスシーンやベッドシーンで気まずくなったり。

 最後のはともかく、どの映画もクオリティが高くて非常に楽しめた。スズカさえよければ、また一緒に鑑賞したいとも思った。

 

「あ、そういや風呂ってどうしてたっけ」

「先ほど、小休憩のときに追い焚きのボタンを押しておいたので、すぐにでも入れますよ」

「おーありがと……って、さすがに今日は無理だな。あとで身体拭いとくから、スズカだけ入っちゃってくれ」

「はい……あ、いえ……いやでも、それは……」

「スズカ?」

 

 見ると、スズカが何かを言い淀んでいる。

 今朝のそれと似てこそいるが、今回は頬が若干赤みを帯びており、照れによる言いづらさのようにも見受けられた。

 

「……トレーナーさん。今日も寒いですから、やっぱり温かい湯船に浸かったほうがいいと思います。腰にもよさそうですし」

「いや、そりゃそうなんだけど、風呂で要求される動作って腰にくるのが多いじゃん? それに耐えられず、転んだりしたらと思うと怖くてな」

 

 正直に感想を述べる。心苦しいが、人の善意も時には断らねばならぬ。

 

「わかってます……ですから、その……」

「その……?」

 

 もじもじと身体をゆすったかと思えば、スズカは大きく一呼吸をして。

 

「わ、私がお手伝いしますっ!」

「……はい?」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「……はい?」

 

 トレーナーになって以来、毎日のように汗を流してきた寮の風呂場。

 そこにあるのは、大人一人が肩を沈められるくらいの浴槽。置き場所を最適化してある各種用具。腰布を巻いただけの俺。

 

「は、入りますね……失礼します」

 

 加えて今日は、バスタオルを一枚、身体に軽く巻いただけのスズカ。

 未だに状況が飲み込めないのは、俺が悪いのだろうか。

 

「で、では……お背中、流していきます」

 

 スズカは風呂用のマットに座ると、ボディソープをわしゃわしゃと泡立てて、そのまま俺の背中に塗り始めた。

 

「こう、かしら……?」

 

 ──素手で、そのまま。

 

「まてまてまてまてまてまってまってくれ」

「……どうしました?」

 

 スズカがきょとんとした顔を──後ろを振り向けないから想像だけど──して、手を止める。

 背中に伝う手の感触で正気に戻るや否や、極度の緊張で身体がこわばり、治まっていた腰痛がエンジンをふかしはじめる。

 

「いたた……ちょっと状況を整理しようか」

「はい」

「スズカは俺に風呂に入ってほしかった。俺も同感だけど、身体の都合上無理だと言った。ここまではいいよな」

「そうですね」

 

 彼女が納得したように答える。

 

「そしてスズカが、『それなら私が入浴を手伝う』と言ってくれた。その気持ちはすごく嬉しかったよ、まずはありがとう」

「はい……!」

 

 嬉しそうに声を弾ませるスズカ。が、問題はここからだった。

 

「……俺、それはさすがにまずいって断ったよね?」

「はい」

「それなのに、なんで俺と君はふたりで風呂場にいるの?」

「私が連れてきたからです。一日でも早く良くなってもらいたかったのと、まずい理由が納得行かなかったので」

「生徒と教師がいっしょに風呂入って問題ないわけがないだろ。で、力づくで風呂場まで脱衣所まで連れてきたのはなんでかな?」

「トレーナーさんが抵抗しなかったので」

「運ばれてるときの振動が痛くて、声が出なかったんだよ……!」

 

 教え子に脱がされれば本物の事案になると思って、脱衣所で観念した俺も悪い。そこで思考を放棄して、今このときまで流されたのもダメだった。なんなら状況だけ見れば、プロセスがどうであれ百パーセント俺が悪い。

 こういうところで親切を無下にできないのが、俺の長所でもあり、短所でもあるんだろうな、と思った。このままではいつかクビになってしまう。いや、もう遅いかもしれないけれど。

 

「いいか、スズカ。成り行きとはいえ、今回は俺も共犯だ。お前を特別責めるつもりはないし、というかできない。ただ、後学のためにひとつだけ知っておいて欲しいんだ」

「後学のために……なんでしょう?」

 

 スズカに背を向けたままだが、大きく口を開けて、心底伝えたかったことを言う。

 

「トレーナーと、ウマ娘は、一緒に風呂に入ってはいけない……はい復唱」

「トレーナーと、ウマ娘は、一緒にお風呂に入ってはいけない」

「よし、いいぞ」

 

 時間は掛かったが、ようやく理解してくれたみたいだ。

 それなら、今からでも遅くはない。まずスズカに入浴してもらって、俺がその後に──。

 

「……ただし、状況による」

「変な一文を付け足すんじゃねえ!」

 

 入るのは、まだ先になりそうだった。

 

「いいじゃないですか……! さっき観た映画の男女も、ふたり一緒に入っていたでしょう」

 

 血圧が鰻登りの俺と競り合うように、スズカもテンションをヒートアップさせながら滅茶苦茶な反論をしてくる。

 

「アホか! あれは主人公とヒロインがカップルだったからだろ! そりゃ付き合ってれば風呂ぐらい入るわ!」

「なら、私たちもカップルになればいいんですよね!?」

「ああ、そうだよ! 俺たちがカップルになればいい──」

 

 ……あれ?

 

「ちょっと待って、今のなしで」

「ぇ……あぅ……ふぇえ?」

 

 やらかした。大大大大大戦犯だ。

 売り言葉に買い言葉。後悔先に立たず。学生の頃に国語の授業で習ったことわざが、脳内で延々と反復される。

 

「違うんだスズカ。いや違わないけど、違うのはそっちじゃなくて」

「ちがわない……私たちが、か、か、カップルなことですか……?」

「そこがいちばん違う」

 

 湯気でのぼせたか、はたまた恋にのぼせたか。

 スズカが呂律が回らない言葉で、俺に問いかけてくる。

 

「なら、アベック……?」

「よく知ってるな。でも単語の問題じゃないんだ」

「よくわかりません……トレーナーさんは、やっぱり頭がいいんですね。わたしも鼻が高いです……ね、あなた」

「記憶の混濁!? 蒸気と緊張でのぼせたか……と、とりあえず風呂から出なければ」

 

 本格的にスズカが心配になってきたので、彼女を担いで浴室から抜け出そうと、後ろを振り向いたそのとき──。

 

「い゛で゛で゛で゛で゛、俺病人だった……っ!」

 

 不意に激痛がよみがえった。

 腰痛の患者が急に腰をひねれば、そりゃそうなる。

 

「どうしましたかぁ、トレーナーさん……痛いなら、湯船浸かって治しましょうよぉ。だって、私たちはカップルですしぃ? なにももんだいは……もんだい、は」

「……スズカ?」

「……きゅう」

「ス、スズカーっ!」

 

 その後、へなへなと倒れこんだスズカを死にものぐるいで脱衣所まで運び、風邪を引かないようにタオルを巻きまくって、風通しのいい場所に寝かせておいた。

 スズカの怪我が発覚したときと同じくらい焦ったかもしれない。それもまた、こんな場所で起こるとは想像もしなかったけれど。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「ほんとうにご迷惑をおかけしました……!」

「いや、その、こちらこそ悪かったから、頭を上げてくれ」

 

 気絶から目を覚まし、風呂に入り直したスズカは、ソファで休んでいた俺に向かって深々と頭を下げた。

 よほど焦っていたのか、髪は明らかに生乾きで、パジャマの前を閉じるボタンも、よく見れば偶数番目しか留まっていなかった。一周回って器用だな、と謎に感心してしまった。

 

「言いわけになりますが、『私がお手伝いします』と言った辺りから記憶が曖昧で……多分、その時点で混乱してしまったのかと……」

「あー、うん、なるほど」

 

 彼女の弁明を聞いて、ひとまず安堵する。

 要するに、風呂場の彼女はいつもの調子ではなかった、ということだろう。

 

「まあ、ほら。力づく……は無理だけど、強引にでも止めなかった俺も悪いんだからさ。もう気にすんなって。そもそも、俺のためを思ってやってくれたことだもんな」

「それは、そうなんですが」

 

 そう返事をするスズカは、耳をぺたりと前に倒し、わかりやすいほどに落ち込んでいる。

 かといって、ここで甘やかしてご褒美を与えるのもよろしくはない。ただでさえ、俺は彼女を甘やかしすぎているのかもしれないのに。

 

「とりあえず、反省してくれたらそれでいいから……今日はもう寝て、明日からまた頑張ろう。夜も遅いしな」

「わかりました……では、失礼します……おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 

 背中を丸めながら自室に歩いていくスズカを、罪悪感を抱えながら見送る。

 パタリとドアが閉じられ、彼女の足音も聞こえなくなると、緊張の糸が切れたせいか、深いため息が漏れ出した。

 

「はぁ……」

 

 先ほど胸を穿った罪悪感。その原因は、スズカに説教をしてしまったことだけではなくて。

 

「あいつ、多分、俺のこと好きだよなぁ」

 

 教え子に、禁忌を犯させてしまったことに対する後悔でもあった。

 

「……見て見ぬふりを、続けるわけにもいかないか」

 

 同棲の期間は、まだ二十日近く残っている。

 その間に何が起ころうと、俺は指導者として適切な判断を下し、彼女を光あるほうへと導かなければいけない。

 たとえそれが、()()()にとってはバッドエンドだとしても……。

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