【1月12日】
あれは、小さな偶然が積み重なっただけだった。
仕事で疲れていたせいで、冷蔵庫の飲み物コーナーに、コンビニで買ってきた缶チューハイを適当にぶちこんでいたこと。
そのチューハイが、お酒とは思えないほどにポップなデザインで、かつアルコール度数の記載が非常に見えにくい場所にあったこと。
スズカが珍しく「ジュースを飲みたい」と言い出し、それを振り向きもせずに許可を出したこと。
そこで気がつくべきだったのだ。冷蔵庫には、ジュースなんて入っていなかったことに。
そのまま気絶するようにソファにもたれかかり、うたた寝から目覚めたときには──。
「……あ、とれーなーさぁん、お目覚めれすかぁ……?」
──取り返しがつかないことになっていた。
◇◆◇
「とれーなーさん、飲んでますかぁ?」
「……飲んでるよ」
拝啓、お母様。
私は明日、苦労しつつも今日まで勤めつづけたトレセン学園から、監獄の檻の中へと転勤することになるかもしれません。
「えぇ~? それ、ただのお水じゃないですかぁ……あ、なにかで割るんですか?」
「……水の水割り?」
「水の水……ふふっ、ふふふ……あははははは!」
「怖っ……スズカのそんな笑い方、聞いたことねえよ」
なぜなら未成年──それも直属の教え子に、事実上の飲酒をさせてしまったからです。
「どうしてこうなった……!」
ソファに前傾姿勢で腰を掛け、顔を抑えながらうなだれる。
隣に座っているスズカからほんのりとアルコールの匂いが漂ってくるなか、仮眠によって幾分かはすっきりとした頭で、騒動の原因を洗い出す。
スズカの飲酒についてだが、彼女が酒の種類に詳しいはずもなく、そのうえチューハイ特有の果実感たっぷりなラベルを見せられてしまえば、ジュースだと勘違いするのも無理はない。
俺が仕事をもっと効率的にこなすことができていたら、疲労のせいで酒を入れ間違えることもなかっただろう。よしんば間違えたとしても、スズカが缶を手に取った時点で注意できていたはずだ。
つまるところ、すべては俺の責任である。自分のポンコツぶりが憎らしい。
「……そもそも未成年と同棲してるのに、酒なんて買うべきじゃなかったのかも」
顔を赤くしながらでろでろと酔っ払っているスズカを見て、後悔が波のように押し寄せる。
というか、いくらなんでも酒に弱すぎる。度数は五パーセントもないし、水音的にまだ半分も飲んでいないのに。彼女はずいぶんな下戸だったらしい。
「んん……? 何をおちこんでるんですか、とれーなーさん。なにか、イヤなことでも、あったんですかぁ?」
声も動作もふにゃふにゃとしているスズカが、俺に寄りかかってくる。
理性とか立場とか、とにかくいろいろなものが危ないので切実に止めていただきたい。
「嫌なことというか、やばいことというか」
「んふふ……だぁいじょうぶですよ、とれーなーさん。 このじゅーすを飲めば、そんなこと忘れて、すっごい楽しくなっちゃいますから……ふふふっ」
「それはジュースじゃ……いててっ痛い痛い」
快活に笑いながら、俺の肩をバシバシと叩く。酒に酔っていても力はウマ娘のそれなので、ふつうに痛い。
笑い上戸なのだろうか。アルコールの弱さといい、彼女が将来参加するであろう飲み会が心配でしかたがない。
「とれーなーさんは、いつもがんばってますからねぇ……そうだ、今日はわたしが、あなたをたくさん癒やしてあげます!」
「い、癒やす?」
思わず身体が硬直する。シラフのときでもハグしてくるような子だ。加えて酔っぱらっている今、いったい何をされるのだろうか。
「まずは……はい、ぎゅーっ」
スズカは擬音を声に出しながら、俺の身体を強引に自分のほうへと引っ張り、首の後で腕を組むようにハグをしてきた。
先日も経験した、女の子特有の柔らかさといい匂いに包み込まれ、心臓の鼓動が高鳴る。
しかし、初見ほどの衝撃ではなかった。軽く意識が飛びそうになりながらも、なんとか耐えることができた。
「す、スズカ。ありがとうな。元気出たから、もう離してくれて大丈夫だぞ」
「はなす……はなす?」
「そう、離してほしいんだけど」
「あ、そういうことですか。いいですよぉ」
口ではそう言っているが、両腕は一向に離れる気配がない。どうしたものかと考えていると、スズカは俺の左耳へと静かに顔を近づけて、
「いつもがんばって偉いですよ、とれーなーさん」
とろけるような甘い声で、そっとつぶやいた。
「~~~~っ!?」
ゾクゾクと、耳奥から脳にかけて電流が走る。
頭の中は快楽の海に溺れるように痺れきっており、それでいて、不思議と抱きしめられるような安心感もあって、非常に心地よい。
感覚としてはASMRに近いだろう。しかし常日頃から聞き慣れているはずの声が、耳元で直接囁かれるだけで、かくも蕩けるような快楽に変わるとは驚きだ。
数秒間呆けたのち、鈍った思考がようやく回復してくる。一刻も早くスズカを止めなくては。
「スズカ、離れてくれ……!」
彼女には申し訳ないが、彼女の両肩を掴んでソファの端まで突き放した。
俺と彼女の間に、人がひとり座れる程度の隙間ができる。
「え……とれーなー、さん……?」
まさか拒絶されるとは思わなかったのだろう。「どうして」と訴えるようにうるませた瞳で、こちらをじっと見つめてくる。
「その、すまない。でも、あのままじゃ……」
理由を説明しようとするも、つい口淀んでしまう。
『あのままだと、あなたを襲ってしまうかもしれませんでした』なんて、彼女に伝えられるわけがない。
それを口にしてしまえば、今度こそ本当に、トレーナーと担当ウマ娘の関係ではいられなくなってしまうのだから。
「ごめんなさい……ごめんなさい、とれーなーさん……わたしのこと、嫌いになっちゃいました……?」
スズカは両目いっぱいに涙を浮かべながら、縋るような声で俺に問いかけてくる。
その後はひたすらに肩を震わせ、嗚咽混じりの謝罪を繰り返していた。
「ちがっ……スズカじゃなくて、俺が悪かったんだ。嫌いになんてなるわけがない。だから、泣きやんでくれないか」
距離を詰めてスズカのほうに寄り、彼女の両手をそっと握る。
この子が泣くときは、嬉し泣きか悔し涙だけでいい。
俺のエゴで彼女を泣かせることなんて、あってはならないのに──。
「……スズカ? どうした?」
不意に、スズカの動きがピタリと止まる。
心配をしたのも束の間。彼女は自分の手首を少しだけ返すと、先ほどとは反対に、俺の手首をぎゅっと握ってきた。
そしてそのまま、ウマ娘ならではの並外れた膂力を利用して──ソファの肘掛けが枕になるように、そっと俺を押し倒した。
「っ……!? スズカ、何を」
「……ふふっ」
妖しく、そして艶めかしく笑うスズカ。
今の彼女の目は、レース中の必死なものでも、微笑んでいるときのものでも、親愛を込めたものでもなく──ひたすらに燃え上がることだけを愉しむような、焔にも似た興奮を灯した瞳だった。
「つかまえたぁ」
その言葉を皮切りに、スズカの顔がより一層近くなる。
抵抗を試みるも、両手首をガッチリと押さえつけられ、ろくに動かすことすら叶わない。
アルコールの匂いが、一秒ごとに強くなる。
「……手を放してくれ、スズカ。今日はもう、あったかいベッドで寝よう」
「それじゃあ、いっしょに寝てくれますか……?」
「いつも寝てるだろ?」
「そうじゃなくて、むかいあって、ぎゅーってしながら」
「さすがにそれは……」
「じゃあダメです♪」
スズカがいたずらっ子のように笑う。
「というか、ずっとこのままでいるつもりか? お互い疲れるだけだと思うけどな」
「……ほんとうに、ずっとこのままだと思います?」
「どういう、ことかな」
「……わかってるくせに」
手首に込められている力が、すこしだけ強くなる。
その変化は、気持ちを切り替えるサインのようにも感じられた。
「とれーなーさんは、私のこと、いつまでも小さい子どものままだと思ってませんか?」
声こそ未だふにゃふにゃとしているが、さっきとは打って変わって、至って真面目な調子で語りかけてくる。
「そんなこと……」
「思ってますよね? 少なくとも、この状況の意味がわからないくらいには幼いって。憧れと、好きの違いもわからない、そんな子どもだって」
……図星だった。
彼女の好意は、学園という閉鎖的な空間で、年上の異性であるトレーナーに抱きがちな、憧れに近い感情にすぎないと。
彼女の恋愛への興味関心は、出会ったときから変わっていないものだと、勝手に決めつけていた。
そう質問してくるということは、どの認識も間違いだったということか。
「出会った頃は、そのとおりだったかもしれません。でも、トレーナーさんと契約を結んでから、何年経ったと思ってるんですか。恋というものを学び、それを自覚する時間は、十分すぎるほどありました」
「……待て」
やめろ。
「ねぇ、トレーナーさん」
「待つんだ、スズカ!」
言うんじゃない。
その先を言ってしまったら、俺たちは──。
「私、トレーナーさんのことが──」
「スズカっ……!」
反射的に目を瞑る。
嬉しい。嬉しいさ、そりゃ。
けれどもその言葉を受け取るべき相手は、決して俺ではない。俺であってはいけないんだ。
ああ、腕が動かない。彼女の口を、この手で塞がなければいけないのに!
「……あれ?」
気づけば、スズカ動きがぴたりと止まっていた。
もしかして、思いとどまってくれたのか。そう考えながら、ゆっくりと彼女の顔に視線を移す。
「……くぅ」
「……は?」
……前言撤回、眠っただけだった。
意識がなくなったスズカは、俺の胸元にだらりと身体をあずけてくる。
酔いが回りきったのか、緊張のボルテージが振りきれたのか……なんにせよ、間一髪と言ったところだ。
「……いや、最後はもう、酔いは冷めてたのかもな」
確信した。あれこそが紛れもない、スズカの本心。
一時の気の昂りだけでは絞り出せないような激情。彼女の言葉で言えば「恋」そのものなのだろう。
「お前はまだ、外の世界を知らないだけなんだよ」
すやすやと眠るスズカの頭をそっと撫でながら、ひとりつぶやく。
普段は立場がどうこうと言い訳をしているが、本心はそれだけではない。
サイレンススズカは、だれもが認める走りの天才だ。かたやトレーナーの俺は、凡人で、いくらでも替えがきく存在。ここまで二人三脚でやってこれた事自体、俺にとっては奇跡みたいなものだった。
学園を出たら、スズカは今以上にいろいろな経験をして、たくさんの人に出会うだろう。
強い者には、強い仲間が集まる。そんな人たちと過ごす時間は、きっと有意義で素晴らしいものになる。それは単に自己成長のきっかけになるだけでなく、そうやって得られた経験にもとづいておこした行動には力が宿り、結果的に多くの人々に希望を与えるだろう。
しかしそのとき──俺のような平凡な人間に固執してしまえば、きっと存在そのものが足枷となってしまう。彼女が掴めたはずの栄光も、俺のせいで掴めなくなってしまうかもしれない。
彼女の脚を引っ張ってしまうのが、俺は何よりも怖い。
「んんっ………えへへ」
気持ちよさそうに撫でられていたスズカが、ふたたび俺の手を握る。
今度は大切なものを包むように、ふんわりと優しく。
「……まったく、人の気も知らないで」
純粋無垢なその寝顔に、思わず笑みがこぼれる。
今はまだ、この子の笑顔を壊したくはない。
しかしいつかはケジメをつけなければいけないことも、また事実だった。
「こういうときにどうすればいいのか、学校で教えてほしかったよ」
やけくそ気味に吐き捨てながら、スズカの手をそっとソファに寝かせて、起こさないように気をつけながらその場に立つ。
近くに畳んであった毛布を広げてスズカにかけると、その隣に座り直し、もう一度背もたれに身体をあずけた。
これはきっと、だれもがやらかすお酒の失敗のひとつ。
すべてを笑って流して、無事に終われますように。
俺はスズカが飲み残したチューハイを一気に飲み干して、酔いから逃げるように目を閉じた。