【1月15日】
「トレーナーさん、どこかにお出かけしませんか?」
今日は日曜日。昨日だらけてしまった分、何か休日らしいことをしておきたいと思っていたので、このスズカからの誘いは渡りに船というものだった。
「おう、いいぞ。なんならテーマパークにでも行くか?」
「すみませんが、あそこまで人が多いところはちょっと……そうですね。ピクニックにでも行きませんか?」
「ピクニック?」
意外な提案におどろかされるも、別に突拍子もない発想というわけではなかった。
歳のせいか、外出すなわち金を使う場所、という考えが半ば固定化されてしまっていた。さすがは学生と言ったところか。その柔軟な発想には、たびたび感心させられる。
「よし、じゃあピクニックでもやるか! サンドイッチでも作って、現地に持っていって食べよう」
「そうですね……ふふっ、なんだか楽しみです」
予定も決まったところで、俺たちは冷蔵庫を開けて材料を物色する。
卵、ハム、トマト、レタスにマヨネーズなどを手に取り、それぞれが調理を開始した。
◇◆◇
「わぁ……見てください、トレーナーさん。とっても綺麗な景色……」
「はは、そうだな」
さわやかな風を体中に浴びながら、スズカの言葉に同意する。
ここは学園から車で数十分ほど移動した先にある、広々とした市の公園だ。とはいえ、冬の寒さに耐えながらのピクニックはやはり厳しいのか、あたりを見渡しても訪問者は俺たちくらいしか見当たらない。
眼前にひろがるは、陽光に照らされ、まぶしいくらいに輝いている黄緑色の芝生。そして雄々しく大地に根を張り、頭上を新緑で覆っている巨大な広葉樹の数々。
頭上を見れば、雲ひとつ無い快晴の青空が、俺たちを照らしてくれている。
周囲に高層ビルやマンションが無いせいか、いつもよりも視界が広くなったように感じる。
車の排気音も、道行く人々の話し声さえも存在しない。そこにあるのは、時折聴こえる鳥のさえずりと風の音、そしてスズカの凛とした声だけだった。
「この街に、こんな静かな場所があったんですね……!」
「学園からは遠いし、ちょっとわかりづらいとこにあるからなあ。でも、春はそこそこ人が集まるんだぞ」
「へぇ……」
スズカは相槌を打ちながら、楽しそうな表情で辺りをぐるっと見回している。
「この場所、今度トレーニングに使いませんか?」
「い、いいけど」
突如挟みこまれた一言に驚かされると同時に、彼女の走りに対する情熱を再認識する。
とはいえ、それくらいならお安い御用だ。器具や専用のコースがなくとも、平地さえあればできるトレーニングなんて、いくらでもあるのだから。
「とりあえず今は、ランチタイムにでもするか?」
「そうですね。遮るものが何もないようないい景色と、暖かいおひさまの下で食べるご飯……絶対に美味しいですよね」
「そうかもなあ。じゃあ、支度しようか」
俺はリュックから折りたたまれたブルーシートを引っ張り出して、草原のなかでも小高くなっている場所に敷きはじめる。
そして、スズカは手に持っているクーラーバッグから昼食用のサンドイッチと、おまけとして作っておいた数種類のおかずを取り出し、シートの中心に一通り並べてくれた。
サンドイッチの具材は、卵、ハムとスライスチーズ、ツナマヨ、レタスとトマト……とにかく、家にある食材で試せる限りのものをいろいろと作ってきた。
「わ、美味しそう……」
バスケットの蓋を外したスズカの声が弾む。
見ると、具材として挟みこまれている野菜たちが、日の光を浴びて宝石のように鮮やかに照り映えていた。
「食べる場所が違うだけで、こうも見え方が変わるとはなぁ。腹も減ったし、早速いただこうか」
「はいっ」
合掌をしたのち、二人とも別々のサンドイッチを手に取り、食べやすい鋭角のところからガブリと噛み切る。
俺が食べたのはハムとチーズのサンドイッチ。言うまでもなく相性は抜群、百点満点だ。
そして順調に食事を進めていったあるとき、俺はツナマヨのサンドイッチを、スズカは卵サンドを手に取った。
勢いそのまま、ツナマヨサンドに齧りつく。うん、おいしい。ツナマヨに塩胡椒を振っただけの非常にシンプルな調理ではあるが、かえってその素朴さこそが、中毒的な旨味を作り出しているようにも思える。
「あ、おいひい」
スズカが卵サンドを口に頬張ったまま、感想を言う。
たしか、卵サンドは俺が担当したやつだったか。お口にあったようでなによりだ。
「そりゃよかった。こっちのツナマヨは、スズカが作ったやつだったよな? これも食べてみな」
「は、はひ」
スズカは口を一生懸命に動かしながら返事をすると、そのまま数秒噛み続けてから飲みこんだのち、残りを拭き取るように軽く舌なめずりをして……どういうわけか、こちらに向かってきれいになった口の中を見せてきた。
「……スズカ?」
「あーんひてくだはい、あーん」
「しないけど?」
俺が手に持っているのは、ツナマヨのサンドイッチ。
二人を分かつように置かれているバスケットの中でも、ツナマヨが俺の側に詰められていることも考慮すると、俺がスズカに直接食べさせたほうが早いのかもしれない。だからといって、わざわざ俺の食べかけを狙わないでほしい。
「えぇ……!? トレーナーさん、もしかしてツナマヨ独り占めしたいんですか?」
「ちがうわ! 面倒くさがらずに自分で食えってことだよ」
「トレーナーさんのいじわる……あ、だったら私もあーんしてあげますから」
彼女はバスケットから卵サンドをさっとつかみ、俺の口元にその角を向ける。
……何が彼女をそこまで駆り立てるのかはわからないが、そうくるのなら、こちらも同じことをすればいいわけで。
「しょうがないなぁ。ほらスズカ、あーん」
「あ、あの。なんで新しいツナマヨを取ってるんですか?」
「いや当たり前だろ。俺の食べかけなんか、女の子に食べさせちゃダメだ……汚いし、もし警察に見られでもしたら、職質くらっちまうよ」
「そ、そんなぁ……」
以前の俺ならば、大して気にも止めずに、あーんでもなんでも受け入れていたことだろう。
だが今の俺は、彼女からの好意を自覚している状態だ。ゆえにこういった些細な行為の積み重ねが、禁断の恋を助長してしまうことも十分に理解していた。
……もっとも、その誘惑に耐えられなくなるのが、スズカではなくて、俺になるかもしれないという恐怖が一番の理由だったりもするのだけれど。
「落ちこんだ様子を見せても、ダメなものはダメだ。サンドイッチはまだまだ……ってあれ? この食べかけを抜きにしたら、もう卵とツナマヨが一個ずつしか残ってないのか」
何気なしにパクパクと食べ進めていたら、気づいた頃にはバスケットの中身も品切れ寸前だった。楽しい時間はあっという間だと、つくづく思う。
「スズカ、あとは全部食べていいぞ」
腹もなかなかに膨れてきたので、右手に持っていた食べかけのそれを最後に、俺は食事を終えることにした。
左手に持っていた新品のツナサンドを籠の中にもどしてから、残りのサンドイッチが入ったそれを彼女の手元に寄せる。
最後の一切れを口に放りこもうとすると──不意にスズカが、口元を手で隠しながら驚嘆の声を上げた。
「え、エアグルーヴ!?」
「な……!?」
油断した、まさかこんなところにエアグルーヴが来ていたなんて!
生徒会の中でも、ひときわ規律にきびしい彼女につかまれば、良くて説教。最悪の場合、謹慎や解雇といった処分にまで発展しかねない。
「あ、あそこに……!」
スズカが俺の真後ろを指さすので、反射的にふりかえる。
……が、そこにはエアグルーヴどころか、人っ子ひとり見当たらなかった。
「え……?」
「騙してごめんなさい、トレーナーさん」
声が聞こえたときには、もう遅い。
サンドイッチをつかんでいた右手を、彼女の左手が優しく掴む。
俺の右手はそのまま、スズカの口元へと手繰り寄せられて──。
「……あむっ」
すでに小さくなっていたサンドイッチは、スズカの口の中にすっぽりと収まり、視界から消えてなくなる。俺の指先とスズカの唇までの距離は、ほんの数ミリもなかった。
「うおっ……!」
彼女の乱れた息づかいが、人さし指へとくすぐったく吹きかかり、驚きのあまりにのけぞってしまう。
「……ごちそうさまでした」
スズカは俺の手から離れた食べかけのサンドイッチを咀嚼し、ごくりと飲み込んだのち、もういちどだけ舌なめずりをして、それでも口元に残ったパンくずを丁寧にナプキンで拭き取った。
口をついて出てきた感想は、”妖艶”だった。
「お、お前なあ。エアグルーヴの名前使ってまでやりたいことかね、それ」
「私は、新しい景色が見られると思っただけです。エアグルーヴには、悪いことをしたと思ってますが」
「景色、ね……んでけっきょく、それは見れたのか?」
その言葉は免罪符じゃなくて、もっと然るべきときに使ってほしいのだけれど。
俺の悩みなどつゆしらず、といった表情を浮かべて、スズカは満足気に答える。
「はい。とっても新鮮で……素晴らしい景色でした」
「……ならよかった」
このような行いも、本来であれば咎めるべきだろう。
けれども、スズカの嬉しそうな顔を見ていると……どうもそれ以上は何も言えなくなってしまう。
「では、トレーナーさん。楽しい食事の時間も終わってしまいましたし、このまま走ってきてもいいですか?」
「え、そんな食べてすぐに? かまわないけど、大丈夫なのか? 具合悪くなったらすぐに戻ってくるんだぞ」
「ふふ、分かってますよ……それでは、しばし失礼しますね」
言うや否や、スズカは俺に背を向けて、草原に轍を残しながら走り去っていった。なんというか、ずいぶんと自由奔放な子に成長したものだ。
出会ったばかりのころは、他者への警戒心は強く、走ること以外の自主性もほとんど見られなかったのに……最近はもっぱら、自由奔放な彼女に振り回されっぱなしだ。
これもまた、成長と呼んでいいのかな。そうだとしたら、すこしは彼女の役に立てたのだろうか。
そんな思いを胸に、俺は空の容器を片付けながら、スズカの帰りをのんびりと待つことにした。
◇◆◇
「やっちゃった、やっちゃった……っ!」
たかだか数百メートルのランニング。たったそれだけなのに、心臓はバクバクと大きく鼓動を刻み、神経はレース直前のように昂ぶっています。
理由はもちろん、トレーナーさんにあーんをしてもらった……いえ、あの場合はどうなるのでしょう? とにかく、それです。
私は良くも悪くも単純だから、感情がすぐ顔に出てしまいます。以前、トレーナーさんからそう指摘されました。なので念の為に、ポーカーフェイスの練習をしておいてほんとうによかったです。さもなくば、私の顔はたちまち真っ赤に染まって、秘めた恋心がトレーナーさんにバレてしまうところでした。
……できることなら、今すぐトレーナーさんに、好きだって伝えたい。
この前みたくハプニングを利用したものではなくて、今朝に作ったサンドイッチのように、予めすべての下準備をしてから、正式なかたちで。
だけど、今の彼は私のことを、ただの子どもとしてしか見ていないから。
その恋愛対象に、私を入れてはくれないから。そのため、私のほうから無理矢理にでも振り向かせるしかないんです。
私には、ないものだらけです。タイキのようなコミュニケーション能力も、エアグルーヴみたいな要領の良さも、スペちゃんが持っているような愛嬌も、フクキタルのような、走り以外の何かに対する情熱も。
それでも、諦めたくはありません。私が見たい景色は、もう私だけのものじゃない。トレーナーさんと共に見るからこそ、意味があるんです。
「だから、トレーナーさん」
不甲斐ない自分も、トレーナーと担当という制約も、他の女の子も、ぜんぶぜんぶ振り切って──。
「──その先にあるふたりだけの景色を、私と一緒に見てくれませんか」