【1月17日】
「トレーナーさん、これ、お弁当です」
「……お弁当?」
出勤前、いつものように玄関の扉をあけて学園に向かおうとしたそのとき。突然スズカに呼び止められたかと思えば、なぜか弁当が用意されていた。
渡された保冷バッグに入っているのは、おそらくスズカ自身の弁当箱。
俺が起きる前に作ってくれていたのだろうか。あまりにも唐突ではあるが、嬉しくてつい頬が緩んでしまう。
「ありがとうな……俺のために、わざわざ作ってくれたのか?」
「はい。せっかく一緒に住んでいるわけですし、一度やってみたくって」
「そ、そっか」
一度でもやったらアウトなのでは、と思ったが、そもそも同棲自体が(学園からの許可を得ているとはいえど)かぎりなくアウトに近い行為なのだから何も言えない。それはそれとして、スズカお手製の弁当が食べられることは間違いなく僥倖だった。
「もともと料理は上手だったけど、ここに来たばかりのころよりも格段に上達したからなぁ」
「ふふっ、ありがとうございます。その成果……というわけでもないですが、今日のお弁当は、ちょっとだけ張り切って作っちゃいました」
「へぇ……?」
張り切った、とはどういうことだろうか。
凝ったおかずを入れてくれたのか、もしくは具材が豊富なのか。なんにせよスズカがそこまで言うのなら、きっと素晴らしいものが入っているに違いない。
「楽しみにしとくよ。じゃあ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
スズカは笑顔で手を振りながら、ドアがピタリと閉まるその瞬間まで見送ってくれた。
よし、今日も頑張ろう。右手の保冷バッグを今一度握りしめながら、静かに決意した。
◇◆◇
「……やっと終わった」
長針がゼロの針を少し過ぎたあたりで、午前中に終わらせようと思っていた仕事を一通り終わらせることができた。
凝り固まった背中をほぐすべく、大きく伸びをしていると、小気味よいノック音が三回聞こえたのち、誰かが入室してきた。
「おっす、邪魔するぞ」
「あ、先輩。お疲れさまです」
部屋に入ってきたのは、自分よりも十歳ほど年上の、ベテラントレーナーとも呼ばれている先輩だった。
この先輩には、自分がトレセン学園に就職したばかりのころから、何かと面倒を見てもらっていた。俺の仕事の土台は、彼が作ってくれたと言っても過言ではない。
「どうかしましたか?」
「いや、大したことじゃないんだけどな。この近くの部屋に用があったから、ついでに訪ねてみただけだ。邪魔しちまってたらすまん」
「ああいえ、そんなこと。たった今、午前の業務が終わったところですから」
そう答えると、先輩は安心したような顔を見せながら、
「そりゃよかった。なら、学食にでも行かないか? 奢ってやるよ」
と俺を昼食に誘ってくれた。
「ええ、ぜひ……あっ」
ご相伴にあずかろうと椅子から立ち上がったところで、今朝にスズカが渡してくれた弁当の存在を思い出す。
あれほど楽しみにしていたのに、忘れていたとは。やはり習慣のないことは、自然に頭から抜けてしまうものだと痛感した。
「どうした?」
「いや、そういえば今日は弁当を──」
「作って来たのか?」
「え、あ、はい、作ってきました」
……危なかった。何を正直に「作ってもらいました」などと言おうとしていたのか。
トレーナー寮では、学園関係者以外を泊めることは原則として禁止されている。
だから既婚者のトレーナーは、みんな外部に家を借りるなり購入するなりして住んでいる。
それなのに、寮に住んでいる俺が「弁当作ってもらいました」などと言ってしまえば、誰に作ってもらったのか、と訊かれるのは当然のことだ。
そこで、普段女っ気のない俺が「彼女がいる」と嘘をついてしまえば、十中八九、根掘り葉掘り質問されるうえに、写真を見せるように言われるだろう。そうなれば、必ずどこかでボロが出てしまう。
先輩は真面目な人だ。俺が担当ウマ娘と同棲していることがバレてしまったら、許可云々の問題ではなく、巡り巡ってスズカを傷つけてしまうようなことをしている、浅薄な俺を絶対に許さないだろう。言い訳はしないし、するつもりもないが、俺はまだ、この人との縁を切りたくはなかった。
「へぇ、お前弁当なんて作れたのか。ちょっと見てもいい?」
「ど、どうぞ」
この流れでは断れないが、幸いなことに、自分の料理の腕については誰にも知られていなかった。
多少豪華な弁当だとしても、「ひさしぶりに本気で作りたくなった」とでも言えばいい。
俺は意を決して、保冷バッグのファスナーを開けた。
「こ、これは」
先輩が絶句する。まだ早くないか、と思いながらバッグの中に目をやると──。
「……まじか」
──薄いピンク色をした、楕円形の小さな弁当箱が、座標の中心にちょこんと鎮座していた。
気まずい沈黙が続く。
だってこれ、どこからどうみても女子が使うお弁当箱だもの。もはや違和感があるとか、そういうレベルの話ではない。
「……じゃあ、蓋開けますね」
「えっ、スルー!? これ本当にお前のやつなの!?」
「そうですけど?」
至極もっともなご指摘が入る。しかしここは正面突破──つまるところ、ゴリ押しをするしかない。なぜなら、本命は中身の方だからだ。若干手遅れな気もするけれど、こんな前座に労力を割いる場合ではない。
蓋と本体を結んであるゴム紐を外し、いざ御開帳──。
「……そうきたかぁ」
結論から言うと、詰んだ。
左側に敷き詰められた白ごはんに乗っかっているのは、焼海苔を切って作られたであろう「ガンバレ」の文字。
その上の空きスペースには、桜でんぶをふりかけて描かれたハートマーク。
プラスチックの仕切りを越えると、タコさんウインナーにふわっとした卵焼き、星の形に切り取られたにんじん。そして、てんとう虫の串に刺されている数粒の枝豆。
可愛らしい、いや可愛らしすぎる中身であった。
「さ、食堂に持っていって食べますか」
「ちょっと待てや」
あ、さすがに勢いだけではごまかせないですよね。
「これお前作ってないよね?」
「作りました」
「いや嘘だろ?」
「作りましたって」
スズカが、だけど。
「いやいやいや、何お前、自分の弁当にこんなハートマーク乗せるの?」
「乗せますよ。ハート型って可愛いじゃないですか。僕、可愛いもの大好きなんで」
「だから弁当箱もこんなちっちゃいのか!? というか、いつも食べてる量と違いすぎるだろ」
「今はダイエット中でして」
「桜でんぶ、砂糖の塊なんだが……?」
ぐぬぬ、さすがはベテラン。一歩も引かない。しかし、俺もここで諦めるわけにはいかないのだ。
スズカの同棲がバレたら、先輩はおそらく、俺とスズカのやったことを咎めるだろう。
どんな処罰だろうと、俺は甘んじて受け入れる。いくら許可が降りたとはいえ、自分が教育者としてのタブーを犯していることは重々承知しているからだ。
だが、先輩が強硬手段で同棲をやめさせようとすれば、スズカはまちがいなく抵抗するだろう。そこで一悶着がおこれば、俺とスズカの同棲の事実は、少なからず外部に漏れる。これは巡り巡って、スズカ自身の評判を落とすことにもつながりかねない。
そのためになんとしてでも、この場は凌ぎきらなければいけなかった。
「じゃあ、この”ガンバレ”って文字は何なんだよ?」
「自分へのエールですよ。がんばれ俺、がんばれー、って……」
「お前そんな女々しいキャラだっけ!?」
「知らなかったんですか?」
「初耳だよ」
先輩は頭を抱えながら唸っている。本当に申し訳なく思う。せめてこのまま、一月のあいだだけでも騙されていてはくれないだろうか。
「……って、おい、これ」
「はい?」
先輩は保冷バッグに目を近づけると、底面に寝転んでいる、ビニールでコーティングされた小さな紙を手に取った。
「なんだろう?」
先輩から手渡された見覚えのない紙に目を向けると、小さく文章が綴られていた。
『トレーナーさんへ
お仕事、お疲れ様です。
たくさん頭を使って、グッタリしていると思うので、糖分多めの疲れが取れるお弁当にしてみました。
すこしでも元気になっていただければ嬉しいです。
午後もがんばってください、応援しています。
サイレンススズカ』
──ふたたび訪れる、静寂。
これは擁護できない。こんなもの、自分で書いていたら狂人のそれである。
この場に、俺ひとりしかいなかったら、激励のメッセージに素直に感動して、午後への活力に当てていただろう。
しかし今は、まったくの逆効果になるわけで。
「おい」
「はい」
「これ、お前の担当からだよな?」
「はい」
「今日、彼女来てないみたいだけど。もしかして、一緒に住んでるの?」
「はい」
「いつから?」
「元旦から、今月末まで」
「許可は?」
「学園からの許可は降りました」
「まじかよ……え、付き合ってるの?」
「付き合ってはないです」
「じゃあ、なんで同棲してるの?」
「スズカがしてみたいって……」
「そこで流されてどうするんだっ!!」
「すみませんっ……!」
先輩が声を荒げる。ごもっともな意見で、返す言葉もなかった。
「……怒鳴ってすまん」
はぁ、とため息をついてから、先輩が謝ってくる。
その後、少しうなだれながら、彼は淡々と話しはじめた。
「でもなぁ。俺、再三教えたよな。どんなに担当と仲良くなっても、一線だけは守らなきゃいけないって」
「……はい」
「閉鎖的な環境で、思春期の女の子が俺たちに抱くような感情というのは、恋愛的なものではなく憧れに近いもの。だから決して勘違いしないように、させないようにって」
「……わかっています。僕もそういうものは、意識させないように努力してきたつもりです」
「同棲しながら、か?」
わかっている。自分がどれだけ、狂ったことを言っているのかは。
「それじゃあ生殺しだろ。手を出せって言ってるようなものなのに、そこで拒絶されるなんて酷い話だと思わないか?」
その通りだった。そこまで許されているのならば、『相手も乗り気になってくれたのだ』と考えてしかるべきなのに、俺はそれを理解したうえで、スズカに恋愛を思わせるような言動を禁止しているのだ。
相手からすれば、理不尽極まりない話だろう。
「なあ。お前はなんで、その同棲を許諾したんだ?」
「それは……」
「彼女が頼んできたから、だけじゃないんだろ」
俺が同棲を──本来なら絶対に受け入れるべきではないお願いを、学園に掛け合ってまで許可を貰った理由。
始まったばかりのときは、自分でも気づかなかった。けれど、今ならよくわかる。
それは決して、欲に身を任せただけの低俗なものや、単なる興味本位によるものではなく。彼女と契約を結び、二人三脚で歩んでいくなかで、いつの間にか生じて。今の今まで自覚こそできなかったが、ずっと心のなかに渦巻いていた感情──。
「──俺が、スズカを愛しているからです」
他でもない、彼女への好意そのものだった。
「お前、トレーナーとしては最低だよ」
先輩の言葉を静かに受け止める。
諦めたようにそうつぶやく彼の目は、どこか悲しげだった。
「とはいえ、俺も最低なトレーナーだから、人のことは言えねえんだけどな」
「え?」
「どういうことですか」意味もわからず、そう聞き返す。
すると彼はゆっくりと、自分の過去について語りはじめた。
「初めて受け持ったウマ娘の話だ。当時は俺も新人で、担当した子も、お世辞にも素晴らしい才能を持っているとは言えなかった。それでも試行錯誤しながらどうにかやってきて、トゥインクルシリーズの三年間を無事に駆けぬけたんだ。OPだけど、一着だって取らせることもできた」
「まさか……」
「そう、昔の俺はどうも、距離が近すぎたみたいでな。引退の日に告白されちまった」
驚きを隠せなかった。恋愛沙汰に関しては厳格な先輩に、そんな過去があっただなんて。
「……問題はここからだ。そのとき彼女もいなかった俺は、告白を喜んで受け入れた。彼女は引退の直後に卒業することが決まっていたから、卒業してから付き合うことを提案して、彼女もそれを了承した」
彼が話を続ける。
「んで、めでたく交際がスタートしたわけだが……ほら、トレーナー業ってなかなかの激務だろ? 慣れない仕事に悩殺されていた俺は、彼女と会う時間もうまく作れなくてな。加えて、いくら仕事とはいえ、自分より若い女の子につきっきりで指導してるとなれば──」
「……嫉妬、ですか?」
「正解。お前も気をつけろよ。あの子たちの嫉妬は、俺らの想像を軽く超えてくる」
「殺されるかと思った」先輩は自嘲気味にそう笑った。
先輩の元彼女だって、少し前までは担当ウマ娘として、先輩と三年間を過ごしてきた身だ。
仕事に拘束される時間も、彼が他のウマ娘に対して何をしているのかということもしっかり把握していて、そのうえで交際に踏み切ったのだろう。
……それでも、問題は起こってしまうのか。
「俺はな、お前に同じ轍を踏んでほしくないんだよ。そりゃ、引退後のウマ娘とトレーナーが交際をして、上手くいった前例はいくらでもある。だけど、お前は俺と似ている。一途で、ひどく不器用だ。それを思うと、心配でしかたがないんだ」
うつむきながら語る彼の瞳は、後悔と懺悔で鈍く満たされているようにも見えた。
「飯の邪魔して悪かったな。弁当……食えるうちに、食っといたほうがいい。時間は、有限だからな」
「……肝に銘じます」
俺の返事を聞いた先輩は、扉をあけてどこかへと消えていった。
それを見送ったのち、もう一度弁当箱に目をむける。
「甘ったるい、ハートマークだ」
桜でんぶのかかった白米を食べながら、先のやり取りを回顧する。
彼の実体験をもとにした忠告は、心に大きな澱を残した。
やはりトレーナーと担当ウマ娘の──よりによって、現役の子との交際関係なんて、考えるべきではないのかもしれない。
同棲生活も、スズカのためを考えると、無理矢理にでも打ち切ったほうがいいのだろう。
これ以上、離れ離れになったときの後悔が大きくならないように。時間は有限。彼女との別れは、いずれ必ず訪れるのだから。
それでも今は──今だけは、この偽りの甘さを噛み締めていたかった。
◇◆◇
「……ただいま」
「おかえりなさい、トレーナーさんっ」
学園から帰宅すると、すぐにスズカがパタパタと足音を立てながら迎えにきてくれた。
「弁当箱、返すよ。すごく美味しかったし、嬉しかった。ありがとう」
「ほんとうですか? よかった……」
スズカが安堵した表情を見せる。
まずくても死ぬわけじゃあるまいに。よほど俺のことを考えながら作ってくれたらしい。そう思うとますますの嬉しさと、比例するように罪悪感が湧いてくる。
「なぁ、スズカ。弁当のことなんだが」
「はい……?」
言わなければ。
もう弁当を作るのは──俺を惚れさせるようなことはやめてくれ、と。
スズカには、俺よりもずっと伴侶としてふさわしい人がいる。これ以上、俺に尽くしてくれる必要はないのだと──。
「……また今度、頼むよ」
「っ、はい!」
──言えるわけがない。
だってあの弁当は、今、この時しか食べられないのだから。
「今日はすき焼きですよ、トレーナーさん。いっぱい食べて、あったまってくださいね」
「ああ、いいね。豆腐はゆっくり食べような?」
「いじわる……。あんなミスはもうしませんっ」
「はは、悪い悪い」
ひとり用の家に響く、ふたりの笑い声。
1+1は、いつまでも2でいられるのだろうか。