【1月18日】
「けほっ、けほっ」
「大丈夫か? 風邪、引いちゃったみたいだな」
「はい……」
目を覚ますと、めずらしく俺の隣でスズカが寝ていた。
はじめは、ランニングから帰宅した後に二度寝でもしたのかと思った。しかし、よく見ると呼吸は荒く、服もパジャマのままだった。
直後、スズカが目を覚ましたかと思えば、深いせきにこめかみをおさえるしぐさ、そして焦点のあわない瞳。もしやと思い熱を測らせてみると、体温計は明らかな高熱を示した。
慌てて家中から冷えピタやら解熱剤やらを漁り、つい先ほど一通りの処置を終えた。今の様態は、可もなく不可もなくといった所だろう。
「すみません、トレーナーさん。朝ごはんも作れないで」
「そんなのいいって。今日は仕事も休むし、飯は俺が作るよ」
「え……そんな、悪いですよ」
「病人をひとりにはさせられないって……その身体じゃ、包丁握るだけでも危ないだろ。何より、俺がやりたくてやってんだから気にするな」
「……ありがとうございます」
観念したように、スズカが礼を言う。
彼女が寮に住んでいたら、同室のスペシャルウィークや養護教諭のもとでゆっくり休むことができたかもしれない。
けれども、この家には俺とスズカしか人がいない。今俺が出勤してしまえば、スズカは長時間ひとりぼっちになってしまう。
風邪のとき、孤独に寝こむ辛さは何者にもかえがたい。そんな寂しい思いを、彼女にさせたくはなかった。
「とりあえず、寝たくなったらいつでも寝ていいからな。まだ眠くないなら、解熱剤飲むためにお粥でも作るけど、どうする?」
「……お粥、食べたいです」
「おっけ、作ってくるからちょっと待っててな。声張るのは辛いだろうから、何かあったら電話かけてくれ」
「わかりました」
スズカは小さな声で返事をすると、仰向けの体勢から、左側頭部を下にして横向きに寝た。
いつも彼女が寝るときの体勢だった。
それを確認すると、俺はスズカにお粥を作るため、キッチンへと歩いていった。
◇◆◇
「……なんて言ったけど、お粥って作ったことないんだよなぁ」
俺がぎっくり腰になったとき、スズカは俺にお粥を作ってくれた。
恩返しと言わんばかりに腕を振るいたいのだけれど、そもそも男のひとり暮らしで、自分のためだけにお粥を作ることなんてあるはずもなく。
そのため、ネット上のレシピを参考に、見様見真似で作ってみることにした。
「この前作ってもらったのは卵粥だったけど、他にはどんなのがあるんだ?」
検索のため、尻ポケットからスマートフォンを取り出す。
すると、スズカからの新着メッセージが一件入っていることに気がついた。
「ど、どうしたんだ……!?」
スズカの身に何かあったのかと思い、急いでメッセージアプリを開く。
そこに表示されていたのは、以下の文面だった。
<トレーナーさんがいっちゃって寂しいです:( >
「あいつ、結構余裕そうだな?」
“がんばれ”とだけ返してアプリを落としてから、ようやくブラウザを開く。
「お粥 種類……っと」
検索バーに打ち込むと、まず出てきたのはメーカーが売っているレトルトパックのお粥だった。白粥や卵粥はもちろん、梅粥、鮭粥、豆乳粥なんかもあるようだ。
「へぇ、いろいろあるんだなぁ」
さらにスクロールしてみると、白粥ひとつ取っても細かく種類が分かれていることがわかった。
「通常のお粥が全粥といって、七分粥、五分粥、三分粥、重湯の順にやわらかくなっていくのか。重湯しか知らんかったぞ、名前なんて」
いくらスズカが弱っているとはいえ、あまりに噛みごたえがないものを食べるのもしんどいだろう。そう考えて、今回は全粥で作ることにした。
「調理は……卵粥でいいか。スズカも作ってたし」
卵粥でレシピを調べ、UMAJIN○MOTOの公式サイトを参考に調理を進めていく。どうやら、ご飯は解凍したやつでも大丈夫らしい。
これといって難しいポイントもなく、調理自体は三十分も経たずに終わった。
あとはスズカに食べてもらうだけである。器に入れたお粥を零さないように気をつけながら、彼女が待っている寝室へと向かった。
◇◆◇
「スズカ、入るぞ……って、寝てるのか?」
寝室のドアを開けると、スズカは右手に携帯を握りながら、うとうとと船を漕いでいた。
わざわざ起こすのも忍びないので、ベッド横のミニテーブルに作ったお粥だけを置いて部屋を出ようとすると、不意にスズカが目を覚ました。
「……んん? あ、とれーなーさん」
「あ、悪い。起こしちゃったか?」
「いえ……いえ……大丈夫、です」
スズカは目をしょぼしょぼさせながら、のっそりと上半身を起こした。
「お粥……作ってくれたんですよね、ありがとうございます」
「どういたしまして。でも、無理して食べなくていいぞ。寝れるときに寝るのが一番だからな」
「これ食べて、お薬飲んだらまた寝ます……でも今は、トレーナーさんが作ってくれたお粥が食べたいです」
とろんとした目のまま、彼女は言う。
「わかったよ。水も置いておくから、たくさん飲むんだぞ」
「……まってください」
ミニテーブルの上にお粥とペットボトルの水を置いて、その場を離れようとしたそのとき、服の裾を指先でぎゅっとつままれた。
「ど、どうした?」
理由を尋ねても、スズカは黙ったまま。
鈍感な俺は、彼女が何を考えているのか検討もつかなかった。
「あの、スズカ? 別に急ぎの用事はないからいいんだけど、せめて何をしてるのか教えてくれないか」
「……てください」
「ん、なんて?」
上手く聴き取れず、もう一度言ってもらうようにお願いをする。
「……ひとりはさみしいので、そばにいてください」
「えっ、は、はい」
発熱により紅潮した顔で、涙目になりながら訴えてくるスズカのお願いに、反射的に首を縦に振ってしまう。
そういえば、もともとスズカはかなりの寂しがりだった。それが風邪のせいで、一層助長されてしまったのだろう。
しかしながら、理屈が分かっていても破壊力は抜群。しゅんと落ちこんだ顔に加えて、荒めの呼吸、そして縋るような声でささやかれると……率直に言って、官能的だ。
頭蓋骨の中に手をつっこまれて、本能を内側からくすぐられているような感覚さえもおぼえてくる。
「……いかんいかん、何を考えているんだ、俺は」
煩悩を祓うようにスッと立ち上がり、部屋の隅から普段使っていない座布団を持ってきて、ベッドの横にあぐらをかいて座る。
「ほら、これでひとりじゃないぞ」
「ありがとうございます……やっぱり、トレーナーさんはやさしいですねぇ」
「どういたしまして。それより食べるなら早く食べて、もう一回寝るぞ」
「ふふっ……はい」
嬉しそうに笑うスズカを急かすように、食事を勧める。
風邪は眠らなければまず治らないため、このまま雑談をしているよりも、栄養と薬を接種させて寝かせたほうがいい。
「いただきます」
スズカはベッドの上で、女の子座りに足を崩し、目の前にお椀を抱えながら、中のお粥をレンゲで一口掬って食べた。
「おいしい、です」
「そりゃよかった」
よく咀嚼し飲み込んだ後、スズカが感想を述べる。
レシピ通りに作っただけではあるが、失敗はしていなかったようで何よりだ。
しばらくの間、スズカが無言でお粥を食べ続け、それを俺がじっと眺めるという奇妙な光景が続く。場所が場所なら通報されかねない、と思った。
しかし改めて見ると、スズカの顔はほんとうによく整っている。
びっくりするほどの小顔に、長いまつげ、凛とした瞳……顔のすべてのパーツが、黄金比のごとく調和している。
それでいて心優しく、レースの実力もトップクラス。やっぱりどう考えても、俺なんかとは釣り合わない──。
「……トレーナーさん? 食べ終わりましたよ、ごちそうさまでした」
「あ、ああ、すまん。お粗末さまでした。片付けてくるから、薬飲んで待っててくれ」
「はい」
俺は何もなかったように取り繕ってから、スズカからスプーンと空のお椀を受け取って、そのまま部屋を出た。
「駄目だな。ぼーっとしてると、すぐネガティブなこと考えちまう」
ただでさえ弱っているスズカに、頼りない姿を見せたくはない。
せめて同棲している間だけでも、立派な大人としての”トレーナーさん”でいられるように努めなければならない。
シンクの中でお椀を洗い、すすぎ終えた食器類を水切りカゴに適当に置いたのち、来た道を戻り──”トレーナーさん”の仮面を被り直して、ふたたび寝室へと入っていった。
◇◆◇
「……んぁ? 今、何時だ……?」
視線の先にあった掛け時計を見ると、針は夜の七時を指していた。
「たしか……薬飲ませた後、スズカはすぐに寝て……辛そうにしていたから、気休めにでもなればと頭を撫でて」
そこから先の記憶がない。しかし、胸元から下にかけて──何かに抱きしめられているような感覚が、大方の正解を物語っている。
「多分、ねぼけたスズカに引きずり込まれたんだろうなぁ」
「……むにゃ」
俺の背中に手を回しながら、抱き枕のように脚を絡ませているスズカを見て、確信する。
さすがに三回目のハグともなれば、いい加減慣れる……わけもなく。目が覚めるにつれて脈拍はBPMを増していくばかりだった。
頼むから起きて、そして放してください、お願いします。
「……うぅん、トレ……さん」
「やっと起き……てはないな。寝言か」
スズカの閉じられた瞳を見て、希望は泡沫に消えた。
しかし、終わりかと思っていた寝言には、まだ続きがあった。
「……めいわく……ごめんな……さい……」
「……おいおい」
俺を抱きしめる力が、すこしだけ強くなる。
この子も俺と同じで、不安を人に見せないよう、もがき苦しんでいるのだろうか。
自分の存在が、相手に迷惑をかけていると。そう思っているのだろうか。
「……迷惑なもんか。むしろ役得だ、役得」
寝返りで乱れたスズカの髪の毛を、乱暴に撫でる。
「熱は……だいぶ下がったな。明日の朝には治ってるかな?」
頭頂部からスライドするようにして、前髪越しにおでこへと触れる。
朝に触ったときよりも、ずいぶんと冷たくなっているように感じた。せきの後遺症だけが心配だが、一山超えたと考えていいだろう。
「……いかないで」
「え?」
突如、スズカが涙を流しながら、噛みしめるようにそうつぶやいた。
夢の中の俺は、彼女に愛想を尽かして出ていってしまったのだろうか。だとしたら、とんでもない不届き者だ。
「心配しなくても、どこにも行かねえよ」
今はまだ、だけど。
小柄な体躯を左腕でそっと抱き返すと、どこか安心した表情を見せてから、ふたたびゆっくりと、深い寝息を立てて眠り始めた。
「……お前は、どこに行ってもいいんだからな」
今の俺には、トレーナーとして彼女を見守り、育てる義務がある。そこまでは俺の管轄だ。
だがその先のことは、彼女自身で考えて、自分の脚で歩き出さなければいけない。そうなってしまえば、俺はもう、今日みたく傍にはいてやれない。
だから、それまでは──もうすこしだけ、このぬくもりを独占していたい。それがたとえ、俺の醜い嫉妬心だとしても。
俺はスズカの寝顔を見ながら、誰に向けるでもなく祈り続けた。