サイレンススズカと同棲する30日間   作:十六夜みやこ

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2日目

【1月2日】

 

「……さん……トレ……さん……」

 

 微睡みのなか、柔らかい声が聞こえる。

 

「……ト……ナーさん……」

 

 心地よく、どこか落ち着く声。

 語りかけられるたびに、頭の中がよりいっそうふわふわしてくる。

 願わくば、このままずっと──。

 

「トレーナーさん、起きてください」

「うわぁ!? さ、さむい……っ!」

 

 などとぼんやり考えていたら、無慈悲にも毛布を引っ剥がされてしまった。

 身体をつつむ熱は一瞬にして冷気に置きかわり、あっという間に意識が覚醒していく。

 

「おはようございます。もう朝の八時ですよ? 休みだからって、ちょっと寝すぎです」

「八時って、まだまだ早いだろ……学生の元気には敵わんな」

 

 うながされるまま、のそのそとベッドから起き上がる。

 そういえばスズカは、朝練が始まる前から走っていたこともあったっけ。ならばこの時間が、彼女にとっては遅い時間だとしても、不思議ではないのかもしれない。

 

「改めておはよう、スズカ……あ、飯はもう食ったのか? まだなら何か作るけど」

「まだというか、今できたところです。トレーナーさんを起こしたのも、そのためですから」

「え? スズカが作ったのか?」

「はい……もしかして、必要なかったですか?」

「い、いや、そんなことはないよ。ありがとう」

 

 しゅんとうなだれる彼女に、慌てて弁明をする。

 スズカが料理に慣れているのは、昨晩の夕食作りでわかっていたことだが、まさかいきなり朝食を作ってくれるなんて想像もしていなかった。思わぬサプライズである。

 

「歯磨きして着替えたら、早速いただこうかな」

「わかりました。私はリビングで待ってますね」

 

 そこで会話を切ると、俺は洗面所に、スズカはふたたびキッチンへと歩いていく。

 あまりに楽しみにしていたからか、歯磨きは普段よりも早く終わり、洋服は一度、裏表を間違えて着てしまった。我ながら浮かれ過ぎだな、と苦笑する。

 そして一通りの支度を終えて、彼女の手料理が待つリビングへと、軽くスキップしながら入っていった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「いただきます」  

 

 昨晩も交わした、二人の合掌。

 食材と、調理してくれたスズカに感謝を込めたのち、料理の品々に目を向ける。

 

「おおっ」

 

 テーブルに並べられていたのは、豆腐とわかめの味噌汁、白米、焼き鮭に卵焼きと、よりどりみどりの和食たちだった。

 形、焼き具合、色つやなどから、ひと目見ただけで美味であることがよくわかる。

 

「すげえ美味そう……あれ、鮭とわかめは買ってなかったよな? これどうしたんだ?」

「ジョギングがてら、近所のスーパーで買ってきたんです。あのお店、二十四時間営業だったので」

「なるほど、手間かけてすまないな。あとでお金渡すよ」

「いえいえ、好きでやってることですから。さ、トレーナーさん。冷めないうちに召し上がってください」

「ああそうだった。では……」

 

 まずは卵焼きに向かって箸を伸ばし、一口大に割って、口に放り込む。

 ……うまい。思わず感嘆の声が漏れるくらいには美味しい。

 ほどよい柔らかさもさることながら、砂糖を多めに使ったであろうこの味付けがたまらなく好みだ。俺が作る卵焼きよりも、よほど上質な味付けだった。

 しかし、どこか以前に食べたことがある味のように感じるのは気のせいだろうか。

 

「すごく美味しいよ、驚いた」

「……! あ、ありがとうございます」

 

 冷静を努めてはいるが、左右にピコピコと揺れ動く耳と、ゆらゆらと宙を舞う尻尾が、その感情を如実なくあらわしている。そこまで喜ぶことだろうか?

 次に、胃を温めるべく味噌汁のお椀を手に取り、一口啜る。

 

「え、お袋の味?」

 

 数秒前とは別の理由で、反射的に声が出る。

 まちがいない。これは幼い頃から毎日のように飲んできた、母親お手製の味噌汁。

 スズカの作った卵焼きから懐かしい味がしたのは、どうやら気のせいではなかったようだ。というか、気のせいであって欲しかった。

 

「あ、はい。上手く再現できたようで安心しました」

「俺はまったく安心してないぞ? なんでスズカが、実家の味噌汁の作り方を知ってるんだ……?」

 

 スズカに尋ねると、彼女はこともなげに理由を説明しはじめた。

 

「以前、遠征先から近いからって、トレーナーさんの実家にお邪魔したことあったじゃないですか。あのとき、お義母様に教えていただいたんです」

「それ知らないんだけど? なら、この卵焼きも……」

「はい。お義母様が、トレーナーさんの好みは砂糖たっぷりのだと」

「やっぱりかぁ」

 

 ……どおりで昔食べた気がするわけだ。

 

「ああでも、メモし忘れていたのか、白だしの正確な分量が書いてなくって……ぜひ、またお邪魔させていただきたいです」

「まだ行く気なのかよ」

 

 というか、お袋はそんなことを教えてどうするつもりなんだ。俺たちに結婚でもしてほしいのだろうか。だとすれば、さすがに社会的に危ういから勘弁してほしい、と心のなかで抵抗をする。

 

「ええと、ご迷惑……でしたか?」

 

 不安げな表情を浮かべながら、上目遣いで尋ねてくるスズカ。

 思えば、彼女は悪意を持って母にレシピを訊いたり、それを調理したわけでは断じてない。

 ただ、俺に喜んでもらうことだけを考えて、実家でよく食べていた料理を教わったのだろう。にもかかわらず、彼女の厚意を無下にするような発言をしてしまった俺は、とんでもない愚か者だ。

 

「迷惑なもんか。俺のためを思って、この味を再現してくれたんだよな。ありがとう、ほんとうに嬉しかった。変なこと言ってごめんな」

「い、いえそんな……喜んでいただけたならよかったです」

 

 スズカに詫びを入れてから、気持ちを切り替えるようにふたたび箸をつかみ、そのまま焼き鮭に手を伸ばす。

 

「これもうまいな! けど、こっちは実家のやつよりも塩味が濃いような?」

「あ、そうですね。教わったのよりも塩加減を強めてます」

「だよな。いや、全然構わないんだけどさ。スズカはこっちの方が好きなのか?」

「私というより、トレーナーさんの好みですから」

「……んん?」

 

 困惑する。記憶をたどっても、彼女に味付けの好みを教えた記憶がない。

 

「トレーナーさんのお弁当をつまみ食いしたとき、塩味を活かすものはだいたい濃い味付けだったので……分量的に、焼き鮭もそうなんじゃないかって思って」

「……つまみ食いだけでそこまで分かるの?」

「不慣れでしたが、頑張りました。はやく覚えるに越したことはないですからね」

「何を?」

 

 気のせいだ、絶対に気のせいだ。

 煩悩はすべて、除夜の鐘で吹き飛ばしてきただろう。気をしっかり持て。彼女が優しいだけだ。ホスピタリティの質が異様に高いだけだ。

 結婚して料理を振る舞うためとか、そういうことではないから……絶対に。

 

「そ、そうだ。スズカは今日の予定とかあるのか? やりたいことでもいいぞ」

 

 強引に話題を変える。あれ以上料理の話を深堀りしても、掘るのは墓穴だけになりそうだった。

 

「そうですね、ちょっと遅いですけど、お正月らしいこともやってみたいです」

「お正月らしいこと?」

「お雑煮やおせちを食べたり、ふたりで羽子板やったり、コマ回したり、凧揚げたりけん玉で遊んだり……」

「言われてみれば、全部やってなかったなぁ」

 

 俺も子どものころは、友人とそんな遊びをしていたっけか。

 もう何年もひとりきりの年末年始を過ごしていたので、正月特有の食事や遊びの文化なぞ、とうに記憶の彼方に飛んでしまっていた。

 

「いちおう、スーパー行った時にそれっぽい具材は買っておきましたが……」

 

 すでに用意をしているということは、スズカはそういった行事を大切にするタイプなのだろうか。ならば、朝食のお礼というわけではないが、ここは彼女に付き合うのが筋だろう。

 

「……よし! 一日遅れではあるけど、今日は正月の遊びをいろいろとやってみるか!」

「は、はい!」

 

 スズカが嬉しそうな顔を見せる。提案してよかった、と素直に思えた。

 

「何からやります? 羽つき? 福笑いとかもいいですね」

「そうだな、まずは──」

 

 もったいぶるように一呼吸置いたのち、告げる。

 

「百円ショップで、遊び道具揃えに行こうか」

「あ、はい」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「この店もひさしぶりに来たけど、思ってたよりいろんな商品があるんだなぁ」

「ほんとうですね……あ、トレーナーさん、あそこにお正月コーナーがありますよ」

「お、ナイス。じゃあ適当に買ってくか」

 

 百円ショップに到着した俺たちは、店内を道なりに進みながら、棚に並んでいた商品をポイポイと買い物かごに入れていく。

 ひとつ百円とちょっとなのだから、あまりケチってもしょうがないだろう。

 

「コマに凧、羽根つきセットに……そうだ、筆と墨汁も買っておかないと」

「筆に墨汁? 書き初めでもするんですか?」

「それも一興だけど、羽根つきといえば顔への落書きだろ?」

「な、なるほど」

 

 察したような目で俺を見るスズカ。その瞳は「ただでさえ運動不足のトレーナーさんが、私に勝てるのかしら」とでも言いたげに引きつっていた。

 そうやって油断していると、痛い目を見るということを思い知らせてやらねばなるまい。俺はひとりで、静かに心の炎を燃やした。

 

「こんなところかな。他に何か欲しい物あるか?」

「そうですね……あ、あのマグカップ」

 

 そう言ってスズカは、食器類のコーナーに鎮座しているコップを指さした。

 

「マグカップ? それなら寮から持ってきてたよな?」

「いえ、手前の棚にあるマグカップ、トレーナーさんが使っていたものと同じだなって」

「……そういうこと言わなくていいの」

 

 こっちへ引っ越してきたときに購入した、無地にワンポイントが入ったマグカップ。別にこの店で買ったことを隠していたわけではないが、いざ指摘されると小っ恥ずかしくなる。

 

「私、あれが欲しいです」

「え?」

 

 ところが、次いで飛び出してきたのは予想外の言葉で。

 

「あ、あれが? 構わないけど、あんなのでいいのか? スズカが持ってきたやつのほうがしっかりしてるだろ?」

「値段では、ないんですよ」

「……?」

 

 プラスチックの質感か、はたまたデザインが気に入ったのか。

 なんにせよ、お値段は当時と変わらず百円なので、こんなので喜ぶのなら安いものだと商品をカゴの中に放り込む。

 

「これで終わりかな。んじゃ、会計済ませてくるわ」

「わかりました。出口で待っていますね」

「おっけー」

 

 小さく右手を上げ、スズカを見送ってレジに並ぶ。

 先客もいなかったので、会計もスムーズだった。店員が慣れた手付きでバーコードをスキャンしていき、キャッシャーの画面に数字が加算されていく。百十円……二百二十円……五百五十円……千百円……ちょっと待って、そんなにたくさん買ったっけ。

 最終的に、合計金額は二千五百円近くまでのぼった。百均だからといって、調子に乗って買いすぎると痛い目を見る。トレーナーノートにでも書いておくことにしよう。

 思わぬ出費に涙目になりつつ、スズカの待つ出口へと向かっていった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「よっしゃ、せっかくだから思いっきり遊ぶぞ! 年の功ってやつを見せてやろう!」

「はあ、よろしくお願いします」

 

 帰省する人が多いため、トレーナーもウマ娘も殆どいない学園の運動場。その中でもさらに端のほうで、俺とスズカの熱い戦いが始まろうとしていた。

 

「なんだスズカ、ずいぶんと余裕じゃないか。今どきの若い子は、こういった遊びの経験なんてないはずだよな?」

「そうですね……あ、でも小学生の時、男の子たちが教室でベイブレードで遊んでいるのを見てました」

「あれをコマ回しと一緒にしたらダメだろ」

 

 最近の若い子にとって、コマ回しといえばあの玩具なのだろうか? 意外すぎるジェネレーションギャップだ。

 

「早速始めようか。何からやるんだ?」

「やはり……羽根つきでしょうか」

「お、いいねいいね。こう見えて俺、バドミントンなら小中学生のときに腐るほど遊んできたからな。いくらウマ娘とは言え、素人くらい一捻りだぞ」

「大人げないですよ……」

 

 女子高生にド正論を言われてしまった。でも気にしない。だって正月だから。

 彼女に羽を渡し、十分な距離を取ってから、適当なタイミングで始めるように言う。

 

「いつでもいいぞー!」

「わかりました。それでは……ふっ!」

「さあ来──」

 

 言い終える間もなく、スズカは宙に飛び上がり──その体躯を目一杯しならせて羽を強打する。

 刹那、風を切り裂く音が聞こえた──かと思えば、異様な速度をともなった羽の固い部分が地面に激突し、俺の足元に小さなクレーターが発生した。

 

「……一ポイント、ゲットですね」

「まてまてまてまてまてまて」

 

 二発目を打とうとしているスズカを、両手を前に突き出しながら必死で止める。

 

「羽根つきってそういうゲームじゃないから! 打たせる気がなさすぎる! なんでテニスのスマッシュばりに本気で打ってるの!?」

「だってさっき勝負って……」

「言ったよ、言ったけどさ。羽つきの本質は、羽を打ち合って楽しむことなんだ。変に煽った俺も悪かったけど、まずは普通にのんびり遊ぼう?」

「そうだったんですね……恥ずかしい」

 

 スズカは顔を赤らめ、両手で覆い隠してしまった。

 こういうところは年相応なのか、とすこし安堵する。

 

「あ、それはそれとして、トレーナーさんの負けですから落書きしますね」

 

 それでいて抜け目ない。うーむ、強か。

 

「わかったよ、ルールはルールだしな。でも次からはほどほどに頼むぞ?」

「もちろんです。では目を瞑ってください」

「お、おう……」

 

 言われるままに目を閉じる。おそらく定石通り、目の周りに丸でも描くのだろうか。

 ひやっとした墨汁の冷たさの後に、筆特有のさわさわしたくすぐったさが右目の周りを襲ってきて……あれ、妙に長くないか。なんだか同じようなところを、十秒以上いじられているような。

 

「はい、終わりました。もう開けていいですよ……ふふっ」

 

 目を開けると、スズカが口元を抑えて笑っている。

 笑ってしまうほどおかしく描かれたのかと気になって、スマホの内カメを起動して顔を確認する。

 

「なあ」

「はい」

「丸は丸でもさ、なんで渦巻きにするのかな。しかも幅が狭すぎてほとんど黒点なんだけど」

「すみません、癖の左回りが……」

「そんなことある?」

 

 錯視アートよろしく渦巻いてしまった右目に絶望しながら、次のゲームでは絶対に負けられないと、頬を叩いて気合を入れ直し、スズカに向きなおる。

 

「次だ次! 二回戦やるぞ! でも今度は優しく、上に放り投げる感じで頼む!」

「はい。では、いきますね──」

 

 その後、スズカはルール──というよりはマナーに近いものだが──を理解してくれて、それなりにまともな羽根つきを遊ぶことができた。

 が、純粋に俺が弱すぎて、ゲームが終わるころには、顔面の八割は墨で埋まってしまった。

 油性マジックで代用しなくてよかったと、心の底から思った。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「あー疲れた……ひさしぶりに、本気で身体動かした気がする」

「ふふっ、トレーナーさん、ずっと元気でしたもんね。無邪気にはしゃぎまわってて可愛かったです」

「えっとね、ずっと元気だったのは君がコマ回しでアスファルトを抉ったり、けん玉で手がすっぽ抜けて、針の部分が俺の喉元へと刺さりそうになったりしたからなんだけどね。はしゃいでたというよりは、びっくりして叫んでたんだけどね」

 

 寮に戻って一日を回顧する。子供(?)の遊び相手がこんなに大変だとは思わなかったが、遊びそのものは純粋に楽しかったり、童心を思い出すことができたりと収穫も多かった。本当に色々なことがあった一日だったが、後悔はない。

 それに、スズカもすごく楽しそうに遊んでいた。その事実だけでも、がんばって付き合った甲斐があったというものだ。

 

「トレーナーさん、晩ごはんなんですけど、お雑煮にしませんか? おせちは、今からだとちょっと間に合わないので」

「そうだった。俺はおせち作ったことないんだけど、スズカは経験あるのか?」

「はい。といっても、遠い昔に家の手伝いをしてたくらいですので、ちゃんと覚えてるかはわかりませんが……」

 

 彼女は少し不安げに答える。

 

「はは、無理に再現しなくてもいいぞ。スズカのオリジナルも、それはそれで楽しみだし」

「つまり、私お手製のお雑煮が食べたい……むしろそっちのほうがいいと。そういうことですか?」

「言ってないけど」

「では、調理してきますね。お疲れでしょうし、トレーナーさんは休んでいてください」

「ありがとな……手伝いが必要になったら、いつでも呼んでくれ」

「はい。失礼します」

 

 そう残すと、スズカはソファーから立ち上がり、台所へと歩いていった。

 

「にしても、お雑煮かあ。食うのは何年ぶりだ?」

 

 おそらく最後に食べたのは、大学生のとき。あのころはまだ、毎年のように実家へ帰省して年末年始を過ごしていた。

 忙しさにかこつけてろくに帰っていなかったが、考えてみれば、親の顔をあと何度拝めるのかもわからない。今度の長期休みにでも、ひさしぶりに顔出してみようか。

 しかし、お雑煮の味というのもやはり、家庭によって違うのだろうか。そう大差ないとは思うのだけれど。

 

「できましたよ、トレーナーさん」

 

 手持ち無沙汰のまま、とりとめのない思考をつづけていると、スズカが小さめの厚底鍋を持ってこちらにやってきた。

 焦げた醤油のいい匂いが漂ってきて、つい腹の音がなる。

 

「ありがとう、スズカ。美味しそうだな」

「ええ。うまくできた、と思います。トレーナーさんのお口に合うはわかりませんが……」

「不味いわけないだろ。もし失敗してても、スズカが作ったやつなら余裕で完食できるさ」

「ふふっ、お優しいですね。今取り分けますから」

 

 醤油ベースの出し汁に、かまぼこやほうれん草、焼海苔、そして主役である餅を合わせた彩りがふたつのお椀に注がれてゆき、視覚と嗅覚の双方から食欲を煽ってくる。

 彼女は鍋をコンロの上に戻してから、テーブルの前に座り直した。

 

「いただきます」

 

 いつものように合掌をしてから、汁を一口啜る。

 

「ん、おいしい……」

 

 甘すぎずしょっぱすぎず、しかし風味豊かな出汁の味わいに確かな満足感を覚える。

 同時に、スズカは本当に料理が上手なのだと確信し、その多才ぶりに感心させられる。今日はまったく、彼女に驚かされてばかりだ。

 

「よかった……少し薄めの味付けなので、心配だったんです」

「いやいや、凄くおいしいよ。何でも濃ければいいってもんでもないしな。正月だけと言わず、定期的に食べたいくらいだ」

「もう、それじゃ意味がないですよ?」

「ははっ、わかってるさ」

 

 食卓を囲んで生まれる、何気ない会話、そして笑顔。

 父は、母は、今の俺達と同じように、雑煮を囲みながら笑えているのだろうか。

 自意識過剰かもしれないが、俺がいないばかりにこの喜びを味わえずにいるのなら、非常に申し訳ない気持ちになる。やはり来年は、実家に帰省して年末年始を迎えよう───。

 

「あの、トレーナーさん」

「どうした?」

「来年もまた……いっしょにお雑煮、食べませんか?」

「えっ」

 

 ……これはまた、絶妙なタイミングで差し込んで来たものだ。

 

「あの、もしかしてご迷惑でしたか……?」

 

 数秒の沈黙が残ってしまい、まるで禁忌にでも触れてしまったかのように心配そうな目で見つめてくるスズカ。

 そんな顔をされたら──無理だなんて、言えるわけがなかった。

 

「そんなことないよ」

「なら……っ!」

 

 スズカの顔が見違えたように明るくなる。

 俺なんかと雑煮を食べる約束をするだけで、ここまで喜んでくれる人なんて、世界中の男女を合わせても彼女くらいしかいないだろう。だとすれば、答えは一つしかなかった。

 

「来年も同じように、一緒に食べような」

 

 ……そんな優しい子を実家に誘って、両親同伴で年越しを過ごしても、一度くらいならバチは当たらないだろう。

 俺は心のなかでそっと、彼女へのご褒美を追加した。

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