【1月27日】
「ふぅ、今日の仕事終わりっと」
提出書類を添付した一通のメールを送信して、ぐっと伸びをする。
壁掛け時計を見ると、針は午後の六時を指していた。定時は過ぎてしまっているが、許容範囲内だろう。
「食材でも買って帰るかぁ」
買うものを頭の中でリストアップしながら、ノートパソコンを鞄にしまっていると、不意に足音がコツコツと近づいていることに気がついた。
「ん……?」
その音は部屋の前で止み、代わりに三回、ノックの音が聞こえた。
「どうぞー」
帰り支度を続けながら返事をする。
わざわざこのトレーナー室を訪れる人物なんて、スズカかたづなさん、稀にスズカに会いに来た、彼女の友人たちやスペシャルウィークくらいである。生徒たちはまだ休みの最中なので、きっとたづなさんだろう。
──しかし今回、ドアノブを回して入ってきたのは予想外の人物で。
「お邪魔するよ」
「あれ、お前……」
部屋を訪ねてきたのは、俺とおなじく担当ウマ娘と同棲をしている、スペシャルウィークのトレーナーだった。
「お疲れ。そろそろ仕事も片付いた頃かと思ってね」
「あ、ああ。今終わったところだけど」
彼がこの場所に来るのは初めてのことだった。業務連絡も飯の誘いも、常にメッセージアプリで済ませていたからだ。ゆえに突然の来訪の意図が捉えられず、困惑する。
「そんな身構えないでよ。まあ、なんというか」
彼は部屋の隅から折りたたみ式のパイプ椅子を拾いながらゆっくりとこちらに近づいて、俺の机の前で椅子を広げ、浅く腰掛けた。
そして両肘を腿に。組んだ両手に顎を乗せ、口を開く。
「同棲のことで、ちょっと話があってね」
得体の知れない緊張に包まれながら、俺は静かに固唾をのんだ。
◇◆◇
「ほら、缶コーヒー。微糖でよかったっけ?」
「ありがとう……そうそう、これが好きなんだよ」
近くの自販機で買ってきた缶コーヒーを、彼の目の前に置く。
彼は礼を言うとすぐにプルタブを開け、ゴクゴクと喉を潤し始めた。
「それで、話って?」
机を挟んで真正面の椅子に腰掛けて、尋ねる。
「端的に言えば、同棲生活の終着点についてさ」
「……終着点?」
言葉の意図が捉えられず、反復する。
なんだその、絶妙に厨二臭い言い回しは。
「つまり、担当ウマ娘との同棲が終わったときに君は──いや、僕たちはどうするべきなのかを、しっかりと考えておかねばならないと思ってね」
「終わったとき、って」
俺たちはそれぞれの担当と元旦から同棲を始め、三十日後の一月三十一日をもってその同棲を終了させる。翌日からは新学期が始まり、また別々に過ごし始める……それが概要であり、最初に決めた約束事だった。
つまり今日を含めて残り四日間で、俺とスズカの同棲は終わりを迎えるわけである。そんなことは、今更言われるまでもなかった。
「どうするべきって、別にどうもしないだろ。スズカとスペシャルウィークが寮に戻り、またいつもどおりの日々が始まる。それだけじゃないのか?」
「ああ。順当に行けばそうなるだろうし、そうであって欲しい。だけど」
彼はコーヒーを一口飲み、こう続けた。
「それは
「……っ」
冷や汗がたらりと、首筋をつたう。
ここでようやく、彼の話の意図が理解できた気がした。
関係性──俺とスズカの、トレーナーと担当としての関係。
それに歪みが生じ始めていたことは、とうに気がついていた……そのうえで俺は、滑稽にも気がつかないフリをつづけてきた。
「覚えはあるみたいだね?」
「……ああ」
「いや、責めたいわけじゃないんだ……なんというか、僕も似たような悩みを抱えていてね。この前の食堂での様子を見て、君たちももしや、と思って相談しにきたんだ。こんなこと、他のトレーナーには話せないからさ」
「お、お前も?」
彼はやれやれとでも言いたげに、ため息とともに肩を落とした。
「……意外だな」
素直にそう口にする。
スズカはスペシャルウィークの提案を受けて、俺との同棲を決意した。
つまり、彼がスペシャルウィークとの同棲に否定的でなかったからこそ、スペシャルウィークは俺とスズカの同棲を嬉々として提案したはずなのに。
「てっきり、すべて承知の上で同棲を決めたのかと」
「まさか……担当ウマ娘とのトレーナーの同棲なんて、普通に考えたら容認できるわけがない。だけどほら、君はサイレンススズカに対して、よくご褒美を与えているんだろう?」
「そうだけど……それが?」
「彼女と同室のスペが、それを知らないわけがなくてね。僕にも同じことを提案してきたんだ。要求自体は、そちらがいつもやっているものよりもずいぶんとエスカレートしてるのだろうけど」
「す、スペシャルウィークが、俺たちのやつを真似たってことか?」
「みたいだね。実際、君のところはそれで結果を出してるわけだし、彼女のモチベーションにでもなればと、深く考えずに了承したんだが……」
「……そんな単純な話じゃなかった、と」
想像もしていなかった事実に驚きが隠せない。俺が考えたご褒美制度が、巡り巡ってこいつの首を締めていたらしい。その報いとも言うべきか、当然のように俺にも話が回ってきたわけだ。
「でも、断りはしなかったんだな」
「約束は破れないからね……。ここからが本題なんだけど、僕たちは同棲を通じて、彼女らの好意に気づいた。そうだよね?」
「……まあ」
「そして勘違いでなければ──彼女らは近いうちに、僕らに告白してくるはずだ」
「は、はい?」
告白って、スズカが俺に?
たしかに依然として危ない関係ではあるが、そこまで逼迫しているわけではないと思うのだけれど。
「いやいや、いくらなんでも急すぎるだろ?」
「急なもんか。逆の立場になって考えてみてよ」
「逆?」
「同棲している間は、想い人とずっと一緒にいられる。そうしてお互いの距離感が近くなったことも、当然彼女らは理解しているだろう。でも同棲が終わり、また寮生活に戻ってしまえば会える時間は激減し、やっとの思いで縮めた距離もふたたび遠くなりかねない」
「まあ、そうだな」
彼の言葉に頷く。
「ならばどうするか? 溝が深まってしまう前に、先手を打って塞ぐしかない。すなわち告白による、関係の固定化だよ。恋人であるという事実さえ作ってしまえば、いかに物理的に離れている時間が長かろうと、相手が自分のものであることに、まずゆらぎはなくなるからね」
「……なるほど」
同棲という非日常を通じて、俺がスズカを見る目も大きく変わってしまった。
今までは気にも留めなかった些細なしぐさ、そして言動が、毎分毎秒、俺の心を掴んで離さない。
そう──今の俺はまちがいなく、サイレンススズカに好意を抱いている。
しかしそれはあくまで、非日常が作り上げたもの。同棲が終わり、普段通りの生活に戻ってしまえば、その気持ちも徐々に日常へと溶けきってゆくはず。
などと気楽に考えていたが……言われてみれば、俺が相手の立場ならばそんなことを認めるはずがなかった。
「そうなった場合、僕たちに与えられた選択肢は、ふたつ」
彼は続ける。
「ひとつは、告白を素直に受け入れること。立場を度外視すれば、これがベストなんだけどね。残念ながら、依然として現役である彼女たちのことを考えると、今回はタブー中のタブーになる」
彼は乾いた口の中を潤すように、ぐいと一口コーヒーを飲んで。
「ふたつ目は、バッサリと告白を断って、今までどおり”トレーナーと担当ウマ娘”で居つづけること。事実上、この選択肢しかないようなものだけれど……彼女らの不安定な精神には、大きな亀裂が生じてしまうだろう。なにより、フラれた相手と今後も二人三脚なんて、気まずくてしかたないだろうし」
「……そうだな」
俺が答えると、彼は残りをすべて飲み干し、静かにテーブルへと置いた。
「マシな地獄はどっちだろうね? 同棲とはこの微糖のコーヒーみたいに、甘みと苦味が共存するものだったんだ。どちらの味も楽しむ、なんて甘ったれた選択肢は存在しないみたいだけどね。僕たちは、嫌でもどちらかを選ばなければならない」
「俺、は」
選択肢は、ひとつしかない。なのに、言語化できないような黒い靄が俺を包みこみ、その先の言葉を隠してしまう。
スズカはまだまだ子供だ。俺はトレーナーとして──なにより教育者として、彼女が大人になるまでの過程をそばで見守る義務がある。それは間違いないはずだ。
しかし、サイレンススズカというウマ娘の可能性を鑑みたとき、その未来に俺のような凡人がしがみついてれば、きっと彼女の足手まといにしかならない。
恋人としてずっと一緒に。なんて、願っていいはずがない。
「わかっているのに、どうして」
気づけば俺は、疑問符をため息のように吐き出していた。
「……疲れているところ悪かったね。この先はお互い、家に帰ってゆっくり考えようか。とはいえ家にいる娘が、そんな時間をくれるかはわからないけど」
彼は乾いた笑みを浮かべながらそう言うと、ゴミ箱の前まで歩き、真上でそっと手を離した。
コーヒーが入っていたものは、役目を終えたように吸い込まれていった。
◇◆◇
「あ、トレーナーさん……!」
「え、スズカ?」
「はい。偶然ですね」
学園を後にして、冷蔵庫の中身を補充するべく商店街をうろうろしていると、曲がり角でスズカと出会った。
右手には膨らみきったエコバッグをぶら下げており、俺が買おうとしていた食材もすべて買ってしまったようだった。
「こんな時間だし、俺が仕事帰りに買ってきたのに」
「いえ、けっこうな重量になりそうだったので、お疲れのトレーナーさんに無理をさせるわけにもいかないと思って……あと、これの期限が近づいていたんです」
「これ……?」
スズカはバッグのポケットから数枚のチケットを取り出して、こちらに差し出した。
見ると、この商店街限定で使える福引券だった。
「あー、福引か。そういえば買い物するたびに貰ってたっけ」
「ええ。せっかくなので、忘れないうちに使っておこうかと」
彼女がちらりと横を見る。視線の先には福引コーナーの一画があり、人あたりの良さそうな青年が、ハンドベルの音色を高らかに振りまいていた。
「そうだ、トレーナーさん。一緒に回しませんか?」
「え、俺と?」
「はい。くじ引きはふたりで引けば幸運も倍になると、フクキタルが言っていました」
「なんだそりゃ。適当にもほどがあるし、あれは福引だからまた違うような──」
「……ダメ、ですか?」
スズカはしょんぼりと肩を落とし、悲しそうな顔をしながら上目遣いで尋ねる。
その顔は反則……などと言いながら甘やかしつづけてしまったからこそ、非常な決断を強いられる羽目になったのかもしれない。
彼女を、悲しませることになってしまったのかもしれない。
「……いいぞ。ふたりで回そう」
「え?」
「スズカと過ごす時間も、あとわずかだしな。できる限りのわがままは叶えたいんだ。さ、行こうか」
彼女の手を取って、くじ引き台まで歩く。
贖罪のつもりはない。わがままも、スズカではなく俺のわがままだ。
あのとき、黒い靄が隠していた俺の本音。それは「レースも人生もすべてひっくるめて、いつまでもふたりで走り続けたい」というものだった。
しかしその願いは叶わない──叶ってはいけないのだ。
だから俺は、これ以上未練を増やしてしまわないように、彼女にはなるべくフラットな態度で接するべきなのだろう。
「店員さん、くじ引きお願いね」
「まいど! って、お兄さんたち、ふたりでハンドル握って回すんですか? アツアツですねぇ!」
「はは……なんかこうすると、運気が倍になるみたいなんでね」
「と、トレーナーさん。これ、思ったより恥ずかしいです……」
「俺だってめちゃくちゃ恥ずかしいわ」
……けれども、この程度の思い出づくりなら、今更何かが変わることもないはずだ。
「せーの……!」
息を合わせて、レバーを右に大きく回す。
ことり、と音を立てて、プラスチックの玉が受け皿へと落ちる。すぐに色を確認しようとしたが、スズカの頭で隠れて見えなかった。
「すまんスズカ、何等だったか教えて……って、スズカ?」
玉が落ち、回す手を止めた瞬間から、スズカは一言も喋らない。
それどころか目の前の青年の声も、からかうような視線を送ってきた周囲の人々の話し声さえも聴こえない。
まるで世界が突如フリーズしてしまったかのように、周囲から人の声だけが消えた。
「なにが起こって──」
レバーから手を放して、そのまま右にずれてから受け皿を覗き込む。
「え」
──俺の目に飛び込んで来たのは、息を呑むほどに美しい黄金色だった。
「なんとっ! おめでとうございまぁぁぁす!! 特賞『温泉旅行券』出ましたぁ~~~~!!」
「ウソでしょ……!?」
けたたましく鳴り響くベルの音で、トランスしていた意識が現実に戻ってくる。
「ほんとうに、倍になったのでしょうか……?」
「そんなはずは……いやしかし、現に結果が……」
戸惑いながらもブツブツと呟いていると、目の前の青年が満面の笑みで俺に券を握らせてきた。
「なーに暗い顔してるんですか! おふたりで行くんですよね? 楽しんできてくださいね!」
「ふ、ふたりで……!?」
青年は快活に笑いながら、目の前のスズカにチケットを渡す。
そこで初めて裏面が見えて、ようやくこのチケットがペアチケットであることに気がついた。
「な、なるほど。だったらスズカ、誰か友達とか誘って──」
「行きましょう」
「え?」
どうしてこっちを向きながら言うんだ?
「トレーナーさんに、『一緒に行きましょう』と言ったんです」
「はぁ!? ちょ、ちょっと待て」
「一泊二日みたいですし、明後日……29日からにしましょうか」
「待てって、俺はまだ承諾してない──」
「最後の最後に、思いもよらない幸運に恵まれましたね……!」
「だめだ聞いてくれねえ」
制止する声もなんのその。スズカは旅行券を大事そうに両手で持ちながら、耳と尻尾をせわしなく揺らしている。
「ふふっ、トレーナーさんと温泉旅行……♪」
その後、くるくると左回りを続けるスズカは、いくら呼びかけても止まる気配がなかった。
「……はは」
神様というのは、ずいぶんと意地が悪いらしい。
彼女が喜べば喜ぶほど、共有する思い出が増えれば増えるほど、別れを告げる時の苦痛が大きくなってしまうのに。よりにもよって、最後の最後にロマンチックな演出まで入れてくれるとは。
「いつかの天皇賞秋よりも緊張してきたな、こりゃ」
先ほど飲んだブラックコーヒーの苦味が、俺を嘲笑うかのように蘇ってきた。