サイレンススズカと同棲する30日間   作:十六夜みやこ

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28日目

【1月28日】

 

「トレーナーさん、歯ブラシって持っていきます?」

「うーん……旅館とはいえ、アメニティは用意されてるんじゃないか? こだわりがなければいらないと思うぞ」

「そうですか、ならやめておきます」

 

 思いもよらぬくじ運によって、一泊二日温泉旅行のペアチケットを引いてしまった俺たちは、明日からの泊まりに備えて身支度をしていた。

 もともとこの家にはひとつのスーツケースしかなかったが、スズカがここに来る際に持ってきたキャリーバッグのおかげで、新しいものを買い足す必要もなかった。なんというか、すべてが仕組まれていたかのように噛み合っていて、いささか恐怖を覚えてしまう。

 

「あら?」

 

 整理整頓をしていたスズカの手が止まる。

 

「どうした?」

「その、懐かしいものを見つけて。この家に持ってきたつもりはないのだけれど、いつの間に入っていたのかしら」

「どれどれ……」

 

 見ると、スペシャルウィークやトウカイテイオー、そしてスズカの限定衣装が描かれているフェイスタオルが、彼女の手元にあった。

 

「あー、そういえば去年、学園と遊園地とのコラボ企画があったっけ。たしかスズカも撮ったんだよなぁ。俺も現地まで付き添った記憶があるよ」

「はい。正直、今の今まですっかり忘れていましたが……」

 

 スズカは手元のタオルを眺めながらどこか懐かしそうに、

 

「私たちって、いろいろなことをやってきたんですね」

 

 と、笑った。言われてみれば、密度の濃い数年間だったと思う。

 トレーニングに勉強、取材、そしてイベント。彼女は文句のひとつも言わず、どれもストイックにこなしてくれた。そう考えると、「温泉旅行くらいなら」とつい気を緩めてしまう。

 

「あっ」

 

 ふと、自分も彼女と同じく、今この瞬間まで忘れていた出来事を思い出す。

 

「どうしました?」

「えっとな、スズカには言ってなかったんだけど、実は俺と施設の役員さんだけの打ち合わせもあったんだよ」

「はあ」

「そのときにサービスとして、遊園地のチケットを二枚分貰ってたんだが……当時はスズカのレースも近かったし、集中を乱してはいけないと思って、あえて言わなかったんだ。一段落ついたら渡そうと思ってたはずなんだが……申し訳ない、すっかり忘れてた」

「そうだったんですね」

 

 さすがに期限も切れてしまったかな、と考えながらタンスを漁る。

 チケットは上から四段目の、普段はまったく使わない引き出しに入っていた。これは見つけられないわけだ、と肩を落としつつ、表紙に記載されている有効期限を確かめる。

 

「あの、お気になさらないでください。当時はなにかとバタついていましたし、忘れるのも無理のない話ですから」

「でもなぁ……って、あれ?」

「トレーナーさん?」

 

 見間違いを疑った。本当に、偶然にしては出来すぎていたから。

 

「いやまさか、そんな」

 

 だけど、そこに記載されていた数字は、何度目をこすっても変わることはなくて。

 

「……スズカ」

「は、はい」

「このチケット、今日までだ」

 

 そんなことあるのかよ。口からは、乾いた笑いしか出てこなかった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「遊園地で遊ぶのなんて、いつ以来でしょう……!」

「まあ、こうなるよね」

 

 スズカの決断は速かった。キャリーバッグから外出に必要なものを再度取り出し、普段使いしているポーチへと移し替えた。自室に戻り、スウェットの上にジーパンという動きやすさを優先した一式に着替えた。俺はまだ何も言っていないのに。

 しばらくして、スズカからメッセージが届いた。「助手席で待っています」とのことこだ。

 ここまでくると、もう受け入れるしかなかった。母親が赤子の夜泣きに勝てないように、俺はスズカのお願いを断れない。しかし不思議と、それが心地よくもあった。

 

「なんだかんだで、車出しちゃうんだよなぁ」

「トレーナーさん? 入場券、見せにいきましょう」

「はいはい、今行くよ」

 

 小走りでチケット売り場へと向かっていた彼女を追いかけるように、自分も歩きだす。周りを見ると、ほとんどがカップルまたは家族連れで、自分たちが特別目立つということもなさそうだった。

 ゲート前でようやくスズカに追いつくと、彼女は右手に持っていた二枚のチケットをスタッフに手渡した。

 

「期限よし……大人二枚……はい、大丈夫です。楽しんできてくださいね!」

「ありがとうございます」

 

 確認が済んだスタッフに礼を言って、園内へと入る。通路の脇に避けてから、事前に貰っておいたパンフレットを取り出して全体図を眺めていると、スズカがひょいと横から覗き込んできた。

 

「スズカ、どこ行きたい?」

「そうですね……お化け屋敷、なんてどうでしょうか?」

「お、お化け屋敷? いいけど、意外なチョイスだなぁ」

 

 スズカのことだから、てっきりジェットコースターや空中ブランコのような、全身で風を受け止められるアトラクションを選ぶと思っていたが……まさかお化け屋敷とは。もしかして、怖い話とか好きだったりするのだろうか。

 

「では、行きましょうか。かなり近いですし、二分も歩けばつきそうですね」

「そうだな、じゃあ──」

 

 目的地に向かって歩を進めようとした、そのとき。スズカはどこか遠慮がちに左手を差し出して、俺の手首をそっと掴んだ。

 

「ス、スズカ?」

「はぐれそうな人混みだったら、手をつないでもいいんですよね……?」

「えっと、それは」

 

 ……やられた。過去の自分の発言を逆手に取られた。原因そのものは俺にあるのだから、これを断るのは筋が通らない。

 この件も然り、今の自分を苦しめているものは九分九厘俺から始まっているようにも思えてくる。自分の軽率さが恨めしい。これではまるで、俺が望んでスズカを傷つけにいったようなものじゃないか。希望を与えるだけ与えて、最後にすべて壊して──。

 

「トレーナーさん」

「え」

「その、もし嫌だったら、遠慮なく言ってください。私のわがままだってことは、自覚しているつもりですから……」

 

 ──何をしているんだ、俺は。

 今じゃないだろ、それを考えるのは。変わらないだろ、過去は。

 振り返ったときに後悔がないように、最大限の楽しい思い出を作ってあげる。そう心に誓ったはずだ。これは恋愛において、見せかけの希望を与えることとは矛盾しない。思い出というものは、それだけでは罪にはなり得ない。この遊園地へのお出かけだって、俺が思わせぶらないようにさえ立ち振る舞えば、純粋な楽しかった思い出へと昇華できるはずだ。

 少なくとも、今彼女を悲しませることだけは、間違っている。

 

「手くらいなら、いくらでも繋いでやるよ。それに俺から言ったことなのに、嫌なわけがないだろ。ほら、切り替えて楽しむぞ」

「は、はい……っ!」

 

 スズカの手をやさしく握ってから、俺たちはお化け屋敷へと向かっていった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「さて、ここで合ってるはずだけど」

「は、はい」

 

 パンフレットから顔をあげると、瓦屋根を備えた真っ赤な城塞のようなものが建っていた。

 これでもかというほどに和を全面に押し出しており、基本的に西洋を模したアトラクション郡のなかでも、明らかにこの建物だけが浮いていた。

 これがお化け屋敷でなかったら逆に何なのか。そう主張したいくらいには、全身でお化け屋敷を体現していた。

 

「なんというか、雰囲気ありますね」

「怖い?」

「すこし、怖いです。でもトレーナーさんと一緒なので、きっと楽しめます」

「そ、そういうもんか?」

 

 一緒だからと言われても、俺は何をすればいいのやら。出現したお化けの解説でもすればいいのだろうか。いや、そういうことじゃないよな。うーむ、わからん。

 

「とにかく、入り口に行こうか」

「そうですね」

 

 立ち止まっていてもしかたがないので、俺たちは入場口へと足を運んだ。見たところ、スタッフらしき人はいなかった。勝手に入って勝手に出ろ、ということらしい。

 

「よし、入るぞ」

「は、はい」

 

 合図とともに、暗闇に足を踏み入れる。辺りは壁掛けの提灯でほんのりと照らされてこそいるものの、個物をはっきりと捉えることはできない。それこそ、密着しないとお互いの顔すらもよくわからないほどに。今だってスズカの顔がぎりぎり見えるくらいで──。

 

「……スズカ」

「ひゃいっ」

「なんで、俺の右腕を抱きかかえているのかな」

「お、思ってたよりも怖くて」

「俺にはこの状況のほうが怖いよ」

 

 いやダメだろ、スズカの顔が見えたら。いつの間にこんな密着していたんだよ。

 それに……なんかこう、当たってるし。抱きついているのだから当然のことではあって、恐怖からくる反射的な行動であることもわかるのだけど、だからといって許されるわけではない。

 彼女の胸部から伝わってくる鼓動よりも、倍近く速いBPMを俺の心臓が刻んでいる。今お化けとか出てきたら、ショックで死ぬかもしれない。

 

「ト、トレーナーさん……あれ、なんですか?」

「え?」

 

 スズカが指をさす方向を見やる。

 通路から外れた暗闇の広場から、夜光虫のごとくぼんやりと光る何かがこちらに近づいてくる。

 目を凝らして見ると、それはたとえに使った虫なんかよりも、ずっと巨大な──。

 

「ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛!゛!゛!゛!゛」

「きゃぁああああああああ!!」

「うおおおおおおおっ!?」

 

 化け物らしき飛行物体が、叫び声を上げながら手すりギリギリを横切った刹那。スズカが驚いた拍子に、俺の右腕を強く抱きしめた。しぐさそのものは可愛らしいのだが、これがウマ娘のパワーともなると、なかなか洒落にならないわけで──。

 

「ギブギブギブギブ! スズカ折れる! 腕折れるからっ!」

 

 涙目になりながら、不吉な音が鳴りひびく右腕を手放すように懇願した。

 

「あ……ご、ごめんなさい。びっくりして、つい」

「か、かまわないさ」

 

 結果論だが、腕を絡めててよかったとさえ思った。これが手だけを繋いだ状態のままだったらと思うと……想像もしたくない。

 

「それにしても、あれは一体……?」

「なんだろうな。だるまのような、獅子舞のような」

「と、とにかく進みましょうか。はやく出口まで行かなくちゃ」

 

 スズカはふたたび歩き出し、引っ張られるように俺も歩き始めた。

 ギシ、ギシと木製の床が鳴るたびに、スズカの肩がぴくりと跳ねる。先ほどのような驚ろかしを警戒しているのだろう。無理もないな、と思った。ああいったタイプの脅かしは、大人になっても普通に怖い。

 

「ん?」

 

 入り口から数えて、二つ目の曲がり角。そこには手すりの代わりに、十人は余裕で映せそうな鏡が立てかけられていた。

 

「鏡……ですよね」

「そうだな。ほら、ビビってるスズカがよく映ってるぞ」

「か、からかわないでくださいっ……!」

「悪い悪い。まあでも、これは普通の鏡っぽいな」

 

 試しに左手を上げると、鏡の中の自分もそれに対応した動きを見せる。スズカも俺の真似をすると、これまた同じ結果になった。

 

「そうみたいですね。私とトレーナーさん、あと後ろのお客さんの動きも、まったく同じですし。設置場所を間違えたのでしょうか……?」

「かもしれな……い……」

 

 待て、後ろのお客さん?

 

「トレーナーさん?」

「あの、スズカ」

「はい」

 

 俺は左手で握りこぶしを作ってから、親指を突き出して後ろを指す。

 

「お客さん、俺たち以外いないんだけど」

「……え」

 

 スズカの顔がみるみる青ざめていく。

 

「じゃ、じゃあ、この人は……?」

 

 震える声で、彼女が訊いてくる。身体の振動が俺の腕にまで伝わってくる。そうでもしないと心臓まで血液を送れないと、彼女の身体が雄弁に物語っているようだ。

 

「……幽霊?」

「ゆっ」

 

 素直にそう答えると、彼女は両目をくるくると回しながら──。

 

「……きゅう」

「す、スズカっ!」

 

 俺にもたれかかるようにして、魂が抜けたように気絶してしまった。

 そのまま彼女をおぶってから、ひとり寂しくで屋敷を抜けたちょうどそのとき。スズカはあくびをしながら、気持ちよさそうに目を覚ました。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「ご、ご迷惑をおかけしました……」

「別にそんな……半分くらいは俺が悪いし」

 

 近くのベンチに座って休憩しながら、先ほど訪れたお化け屋敷を振り返った。

 スズカが気絶した後に何が起こったのかを話すと、彼女は耳をぺたりと前に折りながら、またしても小刻みに震えだしてしまった。この話は終わらせることにして、もう一度パンフレットを開き、彼女に見せながら尋ねる。

 

「次はどこ行く?」

「えぇと……コーヒーカップ、行ってみたいです」

 

 スズカはそう言いながら、該当するマップ上の場所を指さした。

 

「そんなのもあったなぁ。休憩がてら行ってみようか」

「ありがとうございます……!」

 

 立ち上がり、コーヒーカップの方角を見定めて出発する。

 人波に飲まれないようにぐねぐねと移動をしていると、気がつけば入場口へと到着していた。待ち時間は五分ほどあったが、スズカと話しているとあっという間に過ぎ去った。

 

「お好きなカップをお選びください!」

 

 スタッフにうながされるままカップのある場所まで足を運ぶと、ケーキやクッキーといった菓子類をモチーフにしたカップが五、六個設置されていた。乗り場を選ぶようスズカに言うと、彼女はショートケーキの形をしたカップへと入っていった。

 

「ひさしぶりですね、こういうの」

「そうだな。最後に乗ったのは……小学生?」

 

 彼女と向かい合うように、ハンドルを挟んで座る。しばらくすると、アナウンスから先ほど案内を受けたスタッフの声が流れてきた。遊具の解説や諸々の注意点を述べ、「それでは、アトラクションをお楽しみください」と結んだのち、徐々にコーヒーカップが回りはじめた。

 

「おおっ……!」

「わっ……」

 

 不規則な円運動を伴った回転は予測がむずかしく、来ると構えていた景色が来なかったり、逆に予想もしていなかった景色が飛び込んで来たりと、脳が絶えず騙されているような感覚を覚える。

 スズカのほうを向くと、黒目がくるくると忙しなく動いていた。俺と同じで、目まぐるしく変わる視界に混乱しているのだろう。

 

「……そうだ」

 

 ようやく回転に慣れてきた俺は、少し意地悪なことを思いついた。

 手元のハンドルは、まだ一度も使われていない。もしここで逆方向に舵を切ったら、彼女はどんな反応をするのだろう、と。さらに目を回すのか、はたまた思ったよりもなんともないのか。どうにも気になってしかたがなかった。

 

「悪いな、スズカ。しっかり掴まってろよ」

 

 そうと決まれば、善は急げだった。

 

「はい?」

「よっ、と!」

 

 俺は自然な回転とは逆向きの──右方向に、思いっきりハンドルを傾ける。

 

「きゃっ……!」

 

 スズカは驚いた声を上げて目をつぶる。コーヒーカップは左回転に切り替わったが、彼女の身体には慣性の法則が働き──。

 

「ちょ、スズカお前、ハンドル……!」

 

 なぜかハンドルを手放していたスズカの身体は、投げ出されたように左側へと倒れてきた。

 

「あぶねっ」

 

 右腕を伸ばして、反射的にキャッチする。そのまま彼女の右肩を掴んで、胸元に引っ張ってきた。俺は安堵のため息を吐いてから、

 

「ごめんスズカ。不用心だった」

 

 と、謝った。下手したらスズカに怪我をさせていたかもしれないと思うと、自分の浅はかさに嫌気が差す。

 

「い、いえ……その、これはこれで」

「え?」

 

 意味がわからないまま、スズカの顔を覗く。彼女の頬はすっかり上気していて、目と口元はとろんと緩んでいた。どう見てもショックを受けている表情ではない。

 

「……あ」

 

 そこで気がついた。俺は今──さながら恋人のように──スズカを自分の身体へと抱き寄せていることに。

 

「トレーナーさんって、けっこう大胆なことするんですね」

「ご、誤解だ!」

「もう、素直じゃないんですから」

 

 しまった、すっかりトランスしている。今は何を言っても通じないだろう。

 かといって今手を放しても、ふらふらと足元に崩れ落ちてしまう。結局のところ、回転が止まるまでこのままでいるしかないようだった。

 

「こんな時間が、ずっと続けばいいのに」

「目眩で死ぬつもりか?」

 

 俺はハンドルから手を放し、青空を仰ぎながら、時間いっぱいカップの縁へともたれかかった。次はどこに行こうかと、現実逃避を手慰みにして。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 コーヒーカップを後にした俺たちは、ジェットコースターに空中ブランコ、メリーゴラーランドにバイキングと、一通りのアトラクションを制覇した。

 気づけば夕日が辺りを照らしはじめていたので、「そろそろ帰ろう」とスズカに呼びかけると、彼女は自分の真上をそっと指さして「最後は、これに乗りませんか」と言った。  見上げると──その近さゆえに気がつかなかったが──大きな大きな観覧車があった。

 

「そうか、すっかり忘れてた。これは乗っとかなきゃなぁ」

「ええ……遊園地といえば、やはり観覧車ですから」

 

 観覧車は運良く待ち時間なしに乗れた。俺は手前に、スズカは奥の席に腰掛けると同時にドアが閉まり、ゴンドラがゆっくりと高度を上げはじめた。

 

「この瞬間は、いつもわくわくするよ」

「私もです。少しずつ、少しずつ見える景色が広がっていく様子が、たまらなく楽しくて……これって、なんだかレースみたいですね」

「言われてみれば。何事も、本質はそう変わらないってことかもな」

 

 ゴンドラは半分の高さまで上ってきた。もはや大抵の建物は見渡せるようになったが、それでも上昇は止まらない。贅沢なものだな、と笑ってしまう。

 彼女の言うとおりで、この観覧車はレースの縮図だ。付け加えるなら、サイレンススズカと瓜二つだった。

 比類なき才能で実力を伸ばし、頂点を取るだけでは飽き足らず、上へ上へとひたすらに自己を磨き上げる。それこそ、他者の姿など視界に入らないほどに。このまま限界を超えて、宇宙まで──そしてその先へと突き抜けてしまうのではないか。そんな夢想をしてしまうくらいには、彼女は特別で溢れていた。

 だけど、彼女にもこの箱と同様に、設定された頂上がある。下落があり、収まるべき場所がある。ゴンドラが人を下ろし、また新しい回転をはじめるように。彼女もレースを引退して、学園を去って、俺のもとからも離れて自分なりの道を歩みださなければいけない。

 

 はたして彼女に、それが耐えられるのか? 

 

 レースとトレーナーを──彼女にとっては、依存とも呼べるほどに大切にしているものを──同時に奪われてしまえば、たちまち彼女は壊れてしまうのではないか?

 

 サイレンススズカは弱くない。俺が一番近くで見てきたんだ、それはわかっている。

 

 わかっているのだけれど……本当に、俺がいなくなっても大丈夫なのか?

 

 彼女のためを思って突き放したことが、結果的に彼女を深い暗闇へと突き落とすことになってしまったら?

 それこそ、落ちたら二度と上ってこれないような──この乗り場よりもずっと下の、一閃の光すらも届かぬ暗闇に。そう考えると、胸が重くなってしかたなかった

 

「今日のトレーナーさんは、よく考え事をしますね」

「あ、いや」

 

 スズカに指摘されて、我に返る。一体何をやっているのだろう。彼女を楽しませるためにやってきたのに、これでは心配させてばかりじゃないか。

 

「隣、失礼します」

 

 必死に言い訳を探していると、彼女はスッと立ち上がり、俺の右隣までやってきて腰を下ろした。

 

「えっと、なんで?」

「逆光がまぶしくて。それに──」

 

 突然、スズカは俺の右腕を持ち上げた。その間に潜り込むように身を寄せてから、首元に俺の腕を回して、

 

「ここまで来たら、最後までこの位置がいいです」

 

 と、微笑んだ。それを祝福するかのように、夕日は角度を変えて彼女を照らしていた。

 

「……そうか」

 

 何も言えなくなってしまった。あまりにも、彼女が綺麗だったから。息だけでなく、言葉さえも呑み込まざるをえない光景だった。この空間だけは、すべてを純粋なものだけで飾り付けておきたかった。

 そのままスズカを抱き寄せると、ゴンドラは不意に動きを止めて、ゆるやかに下降していった。

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