朝食の用意を断って、始発から二本目の電車に乗った。今日は平日なので仕事があるうえに、かつ午前休しか取っていなかったからだ。丸一日の有給も取ろうと思えば取れたのだけれど、校舎の大規模点検のために行えなかった仕事が残っているので、早いところ片付けなければならなかった。
さすがにこの時間だと乗客は少なくて、全員がシートに座ってもまだ半分以上の空席があった。スズカは車掌側の一番端っこの席に、俺はその隣に座りながら、ぼうっと窓の外の景色を眺めていた。一晩立ってもまだ、昨日の余熱は抜けていないようだった。
「ちょっといいですか?」
ふと、スズカが話しかけてくる。
「なんだ?」
「昨日、『卒業するまでは恋人らしいことは禁止』とおっしゃっていましたが……」
「あー、言ったな」
「どこまでならセーフなんですか?」
「あのさあ」
どこまでってなんだよ、どこまでって。そもそも電車内でするような会話じゃないし。
「なんでこう、グレーゾーンを見つけようとするかなぁ」
「だって、あまりにも味気ないじゃないですか」
「じゃあ逆に聞くけど、スズカは何ならセーフだと思うんだ?」
「それは……」
スズカは数秒黙して思考したのち、答える。
「ハグ、とか?」
「ああ……いや、うーん」
どうしよう。なりゆきとはいえ、ハグは同棲中も数回ほど許してしまったから否定しきれない。
思い返せば今まで、やってはいけないことばかりをやってきた。愛してるゲームだの、あーんだの、手作り弁当だの……これらすべてを禁止にしたら、むしろ今よりも疎遠になってしまうのではないか。さすがにそれは嫌だった。
「まあ、本当はダメなんだけど……二人きりのときに、少しくらいなら」
「やった……!」
「あくまでもたまにだぞ、いろいろとリスクだってあるんだからな!」
「ふふっ、わかってますよ」
などと言ってはいるが、彼女はすでに恍惚とした表情を浮かべている。先行きが不安でしかたない。
「えぇと、あとは……手をつないで歩く、とか?」
「それは見つかりやすいからやめておこう。『私たち付き合ってます』って周りに主張してるようなもんだし」
「むぅ……なら、尻尾を絡めて──」
「もっとダメだろ!?」
つい大きめの声を出してしまい、周囲の目線が俺たちに集まる。すみません、と頭を下げる動作をしてから、また会話へともどった。
「あのな、今までどおりでいいんだよ。明日からはスズカも学校が始まるんだから、冬休み前と同じように接してくれればいい」
「でも私たち、カップルですし……」
「肩書きにとらわれる必要はない。人には人の恋愛があるんだから、臨機応変にやっていけばいいんだ。俺たちみたいな特殊な場合だったらなおさらな」
「そう、かもしれませんが」
未だ納得しきらない様子で、そわそわと身体を揺らすスズカ。その落ち着きのなさは、カップルとしての役目をこなすためといった義務感からくるものではなくて、ただ状況にかこつけて甘えたがっているようにも見えた。
……とはいえ、生殺しであることは事実なわけで。彼女を責めることなどできるはずがない。なぜなら元凶は、他でもない俺自身なのだから。
「スズカ、ちょっと考えてみろ」
「はい?」
苦し紛れに、一つの提案をする。
「普段走るとき、スズカは気持ちよさそうに走ってるよな?」
「そうですね」
「なら、休養明けに思いっきり走ったときは?」
「びっくりするくらい気持ちいいです」
「まあ、そういうことだ」
はっ、と何かに気づいたような顔をするスズカ。
「つまり我慢してから甘えれば、もっと幸せに……!」
「えっと……うん」
「わかりました。今は、断腸の思いで耐えてみせます。その先にある素晴らしい景色を、思う存分味わうために」
「そ、そうか」
ここまで素直に納得されると、一周まわって心配になってくるのだけれど……本人がやる気に満ちあふれているので、ひとまずはこれで良しとする。
そこで会話は途切れ、車体の揺れる音だけが辺りを包む。ふたたび窓の外を見ると、気づけば景色は見覚えのある街並みに変わっていた。
ビル看板から察するに、最寄駅までおよそ三十分といったところか。思ったよりも早く着きそうなのは、この電車が急行列車だからだろう。
旅の終わりとは往々にしてあっけないものだ──なんて、らしくもない感傷に浸っていると、
「えいっ」
スズカが、俺の右肩に頭を乗せてきた。勢いがあったので、骨と骨がぶつかる音がした。
「ス、スズカ?」
「今日はいつもよりも早く起きたのに、朝ごはんも食べていないので疲れちゃいました」
「それはわかるけど、これは……」
「ダメです。疲れすぎて身体を支えられません」
スズカは語尾を伸ばしながら、子供のように駄々をこねている。
視線を落として彼女の顔を覗き見ると、声の余裕とは裏腹に、頬が赤らんでいるのがわかった。しょうがない子だな、と苦笑する。
「なら、目をつむっててくれ」
「目を、ですか?」
「疲れて寝てしまったのなら、寄りかかっても不思議ではないだろ?」
「……あっ」
そう答えると、スズカは大げさなくらいにぎゅっと目をつむり、身体を数センチほど詰めてきた。芝居がかった口呼吸は、すぐに鼻呼吸の寝息へと変わっていった。疲れていたのは本当だったらしい。
俺は顔を上げて、周囲をぐるっと見渡した。そして乗客の目がこちらに向いていないことを確認してから、左手を伸ばしてそっと彼女の頭をなでた。
「悪いなぁ。スズカが現役でいるうちは、レースに全力を注いでほしいんだ」
彼女に小声で詫びる。理解しているのかしていないのか、「はい」と寝言が帰ってきた。
「もう少しだけ待ってくれ。卒業したら、ふたりでいろいろなことをしよう。手をつないだり、ハグしたり、デートをしたり。できることならなんでもしよう……そう、なんでも」
言い聞かせるように何度も呟く。それが俺にできる、レースを走りきった彼女への最大限のご褒美だと信じて。
不意にどこからか、笑い声が小さく漏れた。
◇◆◇
無事学園へとたどり着いた俺たちは、正門前に立ち止まって休憩をしていた。
スズカとはひとまず、この場所で解散することになっていた。俺は午後からトレーナー室に籠もって仕事を、スズカは明日の退去にむけての身支度をする必要があったからだ。
「荷物、こんなにいらなかったな」
「そうですね。お互い、次からは気をつけましょう」
そう言って、スズカは俺のスーツケースを手繰り寄せた。どうやら寮まで運んでくれるそうだ。「ありがとう」と礼を言うと、彼女は「どういたしまして」と言って微笑んだ。
「明日からはまた、離れ離れですね」
「そうだけど、毎日顔は合わせるじゃないか」
「私が心配してるのは、トレーナーさんの健康です。聞けば私が来るまでは、料理ができるのにもかかわらず冷凍食品ばかりで──」
「だ、大丈夫だって。俺が料理をしなかったのは、単に習慣がなかったからだ。最近はレパートリーも増えて楽しくなってきたし、これからはちゃんと作るよ」
「それならいいんですけど……」
スズカは心配そうにこちらを見つめる。初めて一人暮らしをする子どもの身を案じるかのように。俺は「大丈夫だから」と言って、もう一度彼女の頭をなでた。
「まあ、たまには飯食いに来いよ。そうすれば、さぼってないかわかるだろ?」
「そうですね。そのときはまた、一緒にご飯を作りましょう」
「だな。とりあえず、晩ごはんは何食べたい?」
「なんでしょう……昨日の夜は和食でしたし、オムライスにでもしましょうか。せっかくなので、デミグラスソースから丁寧に」
「そっか、楽しみだなぁ。それと今日はケーキを買って帰るから、少し遅くなる。リクエストがあるなら夜までに教えてくれ」
「ケーキ、ですか? 嬉しいですけど、何かありましたっけ」
そう言ってきょとんと首を傾げる彼女に、
「今日は同棲を始めてから、一ヶ月の記念日だろ」
と、答えた。彼女はぽかんと口を丸くしたかと思えば、途端に吹き出して、
「ふふっ、そうでした。一週間でお祝いしたのなら、一ヶ月でも祝わないとですね」
と嬉しそうに笑った。
「そろそろ行かなきゃな」
何気なしに腕時計を見ると、始業までは十分ほどしかなかった。
「じゃあ、また夜に」
スズカに背を向けて、門から学園の敷地へと一歩踏み出した、そのとき。
「──さん」
彼女が、俺の名前を呼んだ。それから振り返る暇もなく、いつもどおりの一言が聴こえた。
──いってらっしゃい!
サイレンススズカと同棲する30日間──完──
これにて本シリーズは完結となります。今まで本当にありがとうございました。
謝辞と解説を詰め込んだあとがきを同時投稿していますので、よろしければお読みくださいませ