【1月4日】
一月四日と聞けば、人々は何を思い浮かべるだろうか。
社会人ならば、その答えはおおむね一致するだろう。それは学生にとっての九月一日、すなわち仕事始めである。
学生の休みが大晦日から一月末までという一ヶ月間の長期休みであることは先に述べたとおりだが、トレーナーの休みは、世間一般の社会人となんら変わりない。官公庁が法律で定めたものと同じで、十二月二十九日から一月三日までの七日間である。
ここまでは、普通のトレーナーならば皆が了承していることである。
そして俺も同様に、今日から仕事が始まる……はずだったのだけれど。
「あの、スズカ」
「……なんですか」
「えっと、そうやってワイシャツの袖をつままれると、仕事に行けないんだけど……」
「……いかなければいいと思います」
「クビになるわそんなん」
ご覧のありさまである。
スズカは俺の右袖を、左手の人差し指と親指でちょこんとつまんでいる。
しかしながら、込められている力はまるで万力のようで、しかも足元から根を張ってるのかと錯覚するほどに、どっしりと踏ん張っていて微塵も動かない。
かといって無理やり引っ張れば、今度はワイシャツが破れてしまう。なんという詰みゲー。
「どうしたものか……」
ずっとこのままというわけにも行かないので、解決の糸口を探るために、今朝起きてからの記憶をたどる。
今日は早朝のランニングを休むと聞いていたので、七時の目覚ましでふたり一緒に起床した。
それから歯磨きをしたり、着替えたりして。朝食を作って、楽しく話をしながら食べて。その後、食器の片付けをして──。
「そういえばトレーナーさん、今日はワイシャツにネクタイなんですね。どこかお出かけの予定でも?」
「いやお出かけじゃなくて、今日から仕事だぞ。言ってなかったっけ?」
「え……」
「まあそういうわけだから、昼食は自分で……あの、スズカ? スズカさん? なんで無言でこっち詰め寄ってくるの?」
……今、確信した。俺は何も悪くない。
甘える仕草そのものは可愛いし、できることならこのままずっと眺めていたいところではあるが、仕事となるとそうも言っていられない。
というかこんなことを毎日やられて、その度に了承していたら、あっという間に有給が消し飛んでしまう。
「なあ、スズカ」
「……はい」
スズカはうつむき、依然指先に力を込めながら答える。
「その、最近ずっと一緒に居たから、離れるのが寂しいのはわかるけどさ。俺もトレーナーとして、やらなきゃいけないことがたくさんあるんだよ。おまけに俺は新人だから、覚えることも多いしな。だから、あまり休むわけにはいかないんだ」
「……トレーナーさんにとってのいちばん大切な仕事は、私のことじゃないんですか」
「間違いないな。でも、やらなきゃいけないことってのは、それだけじゃない」
スズカの目を見ながら、諭すように語りかける。
「ちょっと違うかもしれないが、スズカにとってのレースと勉強みたいなものだと思ってくれ。その二つに個人的な優劣こそつけられても、片方を完全に疎かにすることはできないだろ? どちらも大切で、欠かしてはいけないものなんだ」
彼女は、俺の言ったことを咀嚼するように押し黙って。
「俺たちだって、運動力学や生理学、栄養学の勉強なんかをレースに活かしてるよな。 それと同じで、スズカ以外のことについての仕事でも、回り回ってスズカのためになるんだよ」
「……そうですよね。我儘言って、ごめんなさい」
彼女の耳と尻尾がしゅんと垂れるのを目撃して、若干の申し訳無さを感じつつも、力が抜けた彼女の指を袖からそっと離す。
「どうせ同僚たちとの付き合いもないだろうから、今日は早く帰ってくるよ。そしたらなんか、うまいものでも食いに行こうぜ」
「……! はいっ、楽しみに待ってますね」
先ほどとは打って変わって尻尾を勢いよく揺らすスズカ。本当にわかりやすいやつだな、とつい笑ってしまう。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい……気をつけてくださいね」
手を振るスズカに見送られつつ、ゆっくりと玄関のとびらを閉める。
早朝の空気はまだまだ冷たくて、コートを着ていても思わず身震いしてしまう。
さあ、新年一発目の仕事だ。ここは完璧にこなして、気持ちのいいスタートを切ろうじゃないか。
◇◆◇
「……トレーナーさん、このミス、もう何回目ですか?」
「す、すみません」
……家を出たときの威勢はどこへやら。
年越し前に幾度となくやらかしたミスを、またしても新年早々にやってしまった。端的に言えば、提出書類の記入ミスである。
はじめは「慣れていないことなので、しかたありませんよ」と仰ってくれたたづなさんも、ミスを重ねるごとにその眉は徐々につり上がり、ついぞ本気で注意を食らってしまった。言うまでもなく、百パーセント俺の責任だ。
「一生懸命に仕事をしているのはよくわかりますが、どうも先走り過ぎるというか、勢いそのままに済ませがちというか……」
「はい、そのとおりで……本当に申し訳ございません」
精一杯の誠意を込めて謝罪をする。こんな体たらくでは、胸を張ってスズカのトレーナーを名乗れない。そう考えると、無力感から反射的にため息が漏れてしまった。
そもそも、スズカには日々の振り返りが大切だの、教わったことの復習が大事だの言っておきながら、自分は書類一枚にすらそれを実践できていなかった。教育者として恥ずべきことであり、大いに反省せねばならない。
「いえ、わかっていただければ……幸い、そこまで重要な資料というわけではありませんし。引き続きがんばってくださいね。では、失礼します」
「はい……ご指摘いただきありがとうございました」
さて、残りの仕事も終わらせないと。今日はスズカに早く帰るって言ってしまったし、ここからは急いで──いや、急いで適当にこなそうとしたから、指摘されたようなミスを重ねてしまったのだ。これからはゆっくりと、そして丁寧にやらなくては。
ああ、これは定時どおりには帰れないかもしれないな。
彼女には申し訳ないことをしたと、トレーナー寮がある方角を向きながら、届くはずもない謝罪の念を送った。
◇◆◇
「ただいま……」
想定以上に振り分けられていた仕事を捌ききって、ようやく帰路についたころには時計の短針が八を回っていた。
運動をしたわけでもないのに、くたびれきったスーツ。疲労で丸まりきった背中と、憔悴した相貌。トレーナーバッジがなければ、同僚にすらも気づかれることはなかっただろう。
「おかえりなさい……って、どうしたんですか、トレーナーさん。凛々しいお顔が見る影もないですよ……!?」
「けっこう言うね、君」
ドアを解錠した途端、電光石火の如くスズカが飛んできた。
普段は寮生活のために、ひとりで過ごす機会というのもあまりないだろうから、よほど心細かったのだろうか。
ここまで寂しがられると、将来無事に一人暮らしができるのかどうか、どうも心配になってしまう。
「その、あれだ。ひさしぶりの仕事って、思ったよりも疲れるんだな。早く帰るなんて言ったのに、こんな時間になっちゃったよ。ごめんな」
「いえ、そんな……トレーナーさんの方が、よっぽど大変だったんですよね。私の我儘のせいで、またトレーナーさんを困らせてしまって……」
「そんなわけないだろ。俺だって早く帰りたかったんだから」
艷やかな髪が乱れないように気をつけながら、彼女の頭を撫でる。
「……なにか、あったんですか?」
「なにかって?」
「お仕事で、辛いことでもあったんですか?」
心配そうなまなざしで、濁りきった俺の瞳をじっと見つめるスズカ。
今の彼女を、嘘や隠し事で煙に巻くのは忍びない。観念して、正直に話すことに決めた。
「……じつは、仕事でたくさんミスしちゃってさ。気をつけないと、気をつけないとって集中して取り組んでたら、こんな時間になっちまった」
「そうだったんですね……」
「でも、大変なのは最初だけだ。すぐに慣れるよ。そんなことより、スズカは今日──」
と、話題を替えようとしたそのとき。
「トレーナーさん」
不意に短く、そしてハッキリとした口調でスズカが遮る。
「は、はい」
ごくごく稀に見る、彼女が本気で怒っているときの目だ。
もしかして、強がりがバレてしまったのか? それとも、他になにか……だめだ、想像もつかない。
「靴を脱いで、こちらに来てください」
「わ、わかりました」
言われたとおりに靴を脱ぎ、スズカの目の前に立つ。
何をされるのかと、不安と混乱で目を回していると。
「……えいっ」
スズカに正面から羽交い締め──もとい、腕を回して抱きつかれた。
「す、スズカ!?」
「……しばらく、このままでいてください」
スズカの匂いが、俺の鼻腔を直接くすぐる。身長差のせいだ。
視界に映るオレンジ色のロングヘアは、抱擁からくるあたたかさを体現しているよう。
身体を包みこんでいる腕は、ほんのすこしの衝撃で折れてしまってもおかしくないほどに華奢で、それでいて込められている力は強く、不思議な多幸感を与えてくれている。
そして──あまり目立たないが、それでも確かに存在する、膨らみ。
トレーナーとしての責任感とやらも本能には勝てず、意識がふわふわと微睡んでいった。
「……はっ」
しばらくの間、口をだらりと開けて呆けたのち、おもむろに理性を取り戻す。
これもまた、彼女なりの我儘なのだろうか。学園でだれかに見られていたら、誤解では済まなかっただろうな。などと考え出してから、さらに十数秒後──俺の背中に絡みついていた腕が、そっとほどかれた。
「ハグには癒やしとか、安らぎの効果があると聞きました……いかがでしたか?」
「……はい、効きました」
素直に答える。
「よかったです……トレーナーさん、聴いてください」
「な、なんだ?」
またしても、俺の瞳をじっと見つめるスズカ。
しかしその目は先ほどとは違い、どこか悲しみと憂いを帯びていた。
「私がここまで走り続けてこれたのは、『走るのが好きだから』という理由だけではありません。つい無理して走りがちな私を、トレーナーさんが止めてくれていたからなんです」
そこまで言われてようやく、彼女の行動の意味がわかった気がする。
「だから今度は、私が無理するトレーナーさんを止める番です」
彼女も俺と同じように、パートナーの無事を願っていただけなのだ。
ふっと微笑を浮かべて、スズカは続ける。
「私は、むずかしいお仕事のことはよくわかりません。私のやるべきこととは違って、多少無理をしてでも、やらなければいけないものなのかもしれません」
それでも、と強調するように呟いて。
「辛いときは、遠慮なく吐き出してください。私を頼ってください。耐えられなくなるそのときまで、隠さないでください。私はいつでも、あなたの味方なんですから」
「……ああ」
彼女はこんなにも、こちらに心を開いてくれている。なのに俺のほうが心を開かなくて、何が信頼関係か。
「ありがとう、スズカ。もう無理はしない。多少することになっても、隠したりはしない。スズカに心配かけたくないからな」
「トレーナーさん……!」
完璧な人間など存在しない。仮に存在したとしても、ひとりでもがく日々は辛く苦しい。
事実、天才奇人と言われた人物の多くは、精神的な瑕疵を理由に命を絶っている。凡人である俺がそれに抗おうとしたところで、ハナから無理な話なのだ。
俺にはスズカが──支えてくれる人がいる。
その報恩として、俺はスズカを精一杯支える。こうして紡がれるのが”絆”であり、”想い”なのかもしれない。
想いを背負って成長していくと言われるウマ娘。そんな俺の想いが、彼女の成長の一助となるのなら、トレーナー冥利につきるというものだ。
「でも、なんでとっさに出てきたのがハグなんだ?」
「タイキのが伝染ったのかと……」
そのあたりの常識については、少しだけ補修が必要なようだった。