【1月7日】
「そういえばトレーナーさん、今日、何の日かご存知ですか?」
「ん? なんかあったっけ?」
朝食の最中に、スズカに尋ねられる。
申し訳ないことに、俺にはまったく心当たりがなかった。一月の七日といえば、七草粥……なんて、今どきの女子高生が知っているかすら怪しい文化は、さすがに違う気がするけれど。
「記念日ですよ」
「……なんの?」
「私と、トレーナーさんの」
「えっ」
冷や汗が滝のように流れる。
今に始まったことではないが、この娘は何を言っているのだろう。
「……ほんとうにわかりませんか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、すぐに思い出すから」
呼吸を整えて、冷静に、かつ迅速に思考を回せるように集中する。
まず前提として、スズカは一月七日にレースを走ったことはない。ゆえに、レース関連の話ではないと判断できる。むしろ判断できてしまう方が危ないのだが、そこは置いておいて。
とすると、俺とスズカの個人的な話ということになるが……専属契約を結んだのは、そもそも一月ではない。当然ながら俺たちは恋人ではないので、付き合って〇ヶ月やら、結婚〇年記念日などでは断じてない。
……もうお手上げだ。スズカの脳内で、俺たちが恋人関係になっていないことだけを祈ろう。
「すまん、ギブアップ。正解を教えてくれ」
「もう、しょうがないですね……正解は、私たちが同棲を始めてから一週間の記念日ですよ」
「わかるかぁ!!」
思わず大きめの声を出してしまった。記念日と言うにはあまりにも細かすぎるし、そもそもこの同棲自体が例外的なものであって、そのなかでさらに特定の日付を祝うというのもよくわからない話だ。
「え? 一週間ですよ、一週間。一ヶ月や一年の記念日と似たようなものでしょう?」
「短い短い! カップルでもそんな頻度じゃ祝わないだろ!」
「祝うかもしれないでしょう!? トレーナーさん、彼女いたこと無いのになんでわかるんですか……!」
「おま、それ」
「あっ……ごめんなさい」
不意に残酷な事実を突きつけられて、肩を落とす。というか、昨日も似たようなこと言われてたっけ。来週をコンビ解散一週間記念日にしてやろうか。ちくしょう。
「……んで、今日がその記念日だとして、何かしたいことでもあるのか?」
諦めたようにスズカに問いかける。
「そういうわけでは……あ、でしたら、街へお出かけでもしませんか? 今日は土曜日ですし」
「お出かけか。まあ、たまにはいいかもな」
この一週間、初詣と正月遊びのための外出を除けば、近場のスーパーと職場にしか足を運んでいなかった。もう少し生活に色を付けたいと思っていたところなので、ちょうどいい機会かもしれない。
「だけどあいにく、今日は休日出勤なんだよ。仕事終わるのが夜七時くらいになるけど、大丈夫か?」
「もちろんです。楽しみに待ってますね」
そう言って、彼女はこちらに笑いかける。気恥ずかしくなるくらいの素直さもまた、彼女の美徳なのだろう。
それから朝食と洗い物を終えると、ほどなくして俺が家を出る時間になった。
「では、いってらっしゃい」
「ああ、行ってきます」
彼女のこの一言で、今日も頑張ろうと思える。
挨拶という文化が、形こそ変われど現代まで脈々と受け継がれてきた理由がわかる気がした。
◇◆◇
「やっぱ休み明けの一週間はきっついわ……この後スズカと出かけるし、もうひと踏ん張りだな」
仕事を終えて腕時計を確認すると、時刻は十八時四十分。移動の時間を考慮しても、五十分過ぎには家に帰れるだろう。
俺はこのままでもいいが、スズカは支度が必要だろうからそれを待って、ふたたび家を出るころにはちょうど十九時くらいになる。完璧な計画だ。
「って、あれ? なんだろう、校門の方が騒がしいな」
校門の前をよく見ると、ジャージ姿のウマ娘が十人ほど、誰か一人を囲うようにして立っており、それぞれが楽しそうな声色で話している。学園自体は休み中なので、おそらくトレーニングのために学校に来たウマ娘たちだろう。
それにしても、妙に黄色い歓声というか……誰か有名人でも来たのだろうか。足を止めずに心当たりを探ってみても、それらしい答えにはたどり着かない。
帰り道だからしかたないとはいえ、歓談中のところを退かすのは申し訳ないと思いながら、門まで辿り着いたそのとき。
群れの中心に居た人物──いや、ウマ娘の正体がようやくわかった。
「あっ……お疲れさまです、トレーナーさん」
「ス、スズカ?」
そこに居たのは、俺にとっては間違えようもない担当バ──サイレンススズカだった。
普段よく着ている私服や制服とは違い、ホワイト系の可愛らしく、かつ大人っぽさを想起させるセーターに、下はブラウンの高級感あふれるミディスカート。その上下に合う色をしたベージュのダウンジャケットを着ていた。
これがお出かけコーデというやつなのだろうか。いつもと違う格好をしたスズカに見惚れてしまいそうになりながらも、雑念を振り払って彼女に尋ねる。
「お前、どうしてここに」
「ずっと家で待ってたのですが、待ちきれなくなってしまって……気がついたらここにいました」
彼女がそう口にした途端、周囲がふたたび、キャーキャーと熱烈な盛り上がりを見せた。
おそらく、私服で門の前に棒立ちしていたスズカに事情を聞いたのだろう。加えて今のセリフ……なるほどこれは、どう考えてもデートの待ち合わせである。
「そ、そっか。じゃあ、行こっか……あ、みんな! 俺たち、別になにもないからね! 健全な関係だから、勘違いのないように! それじゃっ!」
スズカの手首を優しくつかみ、小走りで逃げるように学園を後にする。
走っている最中に気づいたが、これは悪手だった。捨て台詞も行動も、すべてが逢引のそれである。
週明けの職員会議の議題が、俺の処罰になりかねないという事実に戦慄しながら、生徒たちの声が完全に聞こえなくなるまで、街灯の灯りに頼りなく照らされている夜道をふたりで走り続けた。
◇◆◇
「はぁ……はぁ……スズカ、大丈夫か?」
「私はぜんぜん……ヒールを履いてたわけでもないですし。トレーナーさんこそひどい息切れですよ、心配です」
「これは走ったからというより、緊張のせいというか……ああいや、なんでもない。わからないなら気にするな」
「緊張……つまり、私とのお出かけに緊張してくれてたってことですね? ふふっ、トレーナーさんったら。純粋なんですから」
「ああそうだよ。多分、理由は違うけどな……」
スズカの天然は今に始まったことではない。そして彼女の言動に、一切の悪気はないのだ。
こうなったら切り替えて、お出かけを楽しみ尽くすとしよう。
散りばめられた星屑たちを仰ぎ見ながら、ひっそりと決意を固めたのだった。
◇◆◇
「やっぱり駅前は賑わってますね」
「そうだなあ。って、まだイルミネーション飾ってあるのか」
道なりに歩いてゆくと、電飾と人混みで満ち溢れている駅前に到着した。スズカはなぜか物珍しそうに、キョロキョロと人の波を見渡していた。
せっかくの休日、俺たちと同じようなことを考える人も大勢いるのだろう。ハロウィンやクリスマスほどの活気はないが、そこそこの人数が、駅前をピークに点在している。
「さてスズカ、どこか行きたいところはあるか?」
「そうですね……いえ。ここはトレーナーさんに、エスコートをお願いしてもいいですか?」
「エスコート?」
言っている意味がわからず、オウム返しをする。
少なくとも数年はこの街で暮らしているスズカには、特に案内が必要だとも思えないのだが。
「えっと、私が街に出るのってほとんど昼間ですから、夜に行くような場所には疎くて。トレーナーさんなら、そのあたりは私よりも詳しいかなと」
「あー、そりゃそうか。門限だってあるもんな」
納得したように、手のひらをポンと叩く。
「わかった。ならやってみるけど、あんまり期待すんなよ? 俺、彼女いたことないんだからさあ」
「ね、根に持ってる……」
どうしたスズカ。引くんじゃない。ちょっとしたジョークだぞ、笑ってくれ。
「……とりあえず行くか。ほれ」
人混みではぐれないよう、スズカの前に右手を差し出す。
車道が左側にあるので、この方が都合が良い。
「え?」
「手だよ、手。人混みではぐれたら大変だしな……あ、いやすまん、デリカシーなかったなら謝る。もうそんな歳じゃないか」
「……ふふっ。もう、変なとこで大胆なんですから」
動揺する俺を面白がるように、彼女はくすくすと笑って。
「……では、失礼して」
「お、おう」
小さな左手を差し出して、そっと俺の右手を握った。
「とりあえず食事にしようか。イタリアンでいいか?」
「ええ。案内、よろしくお願いしますね」
俺たちは夜の街に溶け込むように、繁華街へと歩きだした。
◇◆◇
「さ、ついたぞ」
「ここって……」
目の前にはそこそこ値の張る……じゃなくて。お洒落で雰囲気もよく、料理もしっかり美味しいわりに価格もお手頃な、俺一押しのレストランが立っていた。
グルメ好きの同僚から勧められるままに足を運んで以来、すっかり虜になってしまった。今では給料が入るたびに、自分へのご褒美として足繁く通っている。
「いやな、ここのコース料理がまた絶品なんだ」
「そ、そうなんですね」
「なんだよ、俺がこういう店を知ってるのがそんなに意外か? さすがの俺でも、こんなときに居酒屋やらファミレスやらには連れていかないって」
「……はい、そうですよね」
「なんだその間は」
気まずそうに苦笑いをする彼女を見て、そこまで甲斐性なしに見えるのかと軽く落ち込む。趣味も家庭ももっていない社会人が食に走ることなんて、珍しくもあるまい……なんて、自分で言ってて悲しくなってきた。
「す、すみません。でも、ずいぶんとお洒落なお店ですね。私なんかが入って、場違いじゃないかしら」
スズカが不安そうに声を曇らせる。学生なので無理もないが、こういったお店に入るのは初めてなのだろう。安心してもらうべく、フォローを試みる。
「場違いなもんか。中を見てみればわかるけど、普通の格好したお客さんばっかだぞ」
俺が親指で窓ガラスを指すのに合わせて、スズカも店内をちらりと覗く。しばらく見回すと、胸を手に当てて軽く息を吐き、納得した様子を見せた。
「それと、お前はもっと自分に自信を持て。こんな可愛いスターウマ娘をハブろうとする店があるとしたら、その店がひどい店ってだけなんだから」
「か、かわっ……!?」
突如、文字で表せないような音を発したかと思えば、彼女はふいと背を向けてしまった。
「ど、どうした、まだ不安なのか? ああでも、全然他の店でもいいんだぞ? 無理してここで食べさせたいわけじゃないし」
「そうじゃなくて……あーもうっ……! 今日のトレーナーさん、一体なんなの……!?」
ぽつぽつと何かを囁いているが、通行人が生み出す雑音と、そもそもの声量が小さいせいでうまく聴き取れない。
「ええと、スズカ?」
「……な、なんでもないです。レストラン、入りましょう」
「お、おう」
スズカは回転式の扉を押して、やや強引に俺の手を引きながら店内へと入っていった。
やはり年頃の女の子は、よくわからない。静かにため息を吐きながら、そう思った。
◇◆◇
「美味しかったな、コース料理」
食事を終えた俺たちは散歩がてら、木々をまるっと包み込むように輝いている巨大なイルミネーションを見物しに駅前へと戻ってきた。
「はい、本当に。今日はごちそうさまでした。トレーナーさんは、ああいったお店にはよく行かれるんですか?」
「まさか。給料日とか誕生日とか、何か特別な日くらいだよ」
「特別な日、って」
「今日、同棲を始めてから一週間の記念日なんだろ?」
「……あ」
スズカが驚いた顔を見せる。
覚えていたのか、とでも言いたげに口を丸くしながら。
「それがめでたいのかは、俺にはよくわからないけど……スズカが大切にしてることなら、俺もできるだけ尊重したいと思ってさ」
「トレーナーさん……」
イルミネーションの前にあるベンチに座って、らしくないセリフを吐く。直後、スズカが寄り添うように、俺の右隣にそっと腰掛けた。
遠近感のせいか、それとも意図的にそう作られているのか。目の前のピンク色に輝くハートが、俺とスズカをその枠で囲いこんでいるようで、どことなく小っ恥ずかしい。
「記念日らしいことなんて、これくらいしか思いつかなかったけど……満足してくれたか?」
不安げに横を向き、スズカの顔を見る。
しかし、どうやらそれは杞憂だったようで、口元がマフラーで隠れていても分かるほどに、満面の笑みを浮かべたスズカがそこにいた。
「はい、とっても……!」
「ならよかった」
目の前のイルミネーションよりも美しくかがやく笑顔に魅了されたのち、ふと一連の言動が照れくさくなって、背もたれに両腕を乗せながら、スズカとは反対方向に顔をそむけた。
「トレーナーさん。お出かけ、まだ終わりじゃないですよね?」
まだ逃さない、と言わんばかりにスズカが訊いてくる。
「なんだ、やっぱりどこか行きたいところあるのか?」
「いいえ。ただ……どこでもいいから、ぶらぶらとふたりで歩きたいなって」
「もう夜の九時だぞ? お前、門限が無くなった途端に……」
「大丈夫です、他の娘にはナイショにしますから、ね」
人指し指を唇の前に立てて、微笑む。彼女は、いつの間にこんな不良少女になってしまったのか。
とはいえ、学生なんて皆、そんなものかもしれない。些細なきっかけで崖から飛び降りてしまえば、あとは重力に乗って加速するように落ちていくだけだ。この場合、背中を押してしまったのは俺ということになる。
しかしその飛び降りを、堕落への誘いと取るか、滑空の一助として捉えるかどうかも、同じく俺次第にもなるわけで。
「……責任とって、舵取りしなくちゃなぁ」
スズカに聞こえないよう、そう小さくつぶやいた。
「トレーナーさん、何か言いましたか?」
「なんでもねえよ……しょうがない、もうちょっとだけ観光スポット教えてやるか」
「ありがとうございます……あ、そうだ」
「ん?」
彼女は立ち上がると、今度は彼女のほうから左手を差し出した。
「エスコート、お願いしますね?」
「わかりましたよ、お嬢様」
「……ふふ」
俺は丁寧にその手を取り、二度目のリードを開始した。
行き先は、歩きながら決めることにしよう。