【1月8日】
「ふああ……よく寝た」
ひさしく味わっていなかった充足感に感動しながら、枕元に置いてあったスマホを手に取る。
「え、十時?」
スクリーンに映る時刻は、なんと午前十時だった。平日なら大寝坊だ。
「いつもなら、遅くても八時にはスズカが起こしてくれるんだが……」
日常のルーティンが崩されると、人は大なり小なり不安になるものである。
スズカも寝坊をしたのだろうか。それだけならいいが、もしかするとスズカの身に何かあったのかもしれない。必死に焦りを沈め、彼女を捜すべくリビングのドアを開ける。
「あ、トレーナーさん。おはようございます」
「……お、おはよう」
リビングに入ると、私服に着替えたスズカがローテーブルの前で、女の子座りをしながらスマホをいじっていた。特段、何かあったわけではなさそうだった。
「時計見てびっくりしたよ。いつもは休日でも、もっと早く起こされるからさ。今日はどうしたんだ?」
「どうしたというか……トレーナーさん、一週間お仕事大変そうだった上に、お出かけにまで付き合っていただいたので。今日はゆっくり休ませてあげたほうがいいかなって」
「そ、そうだったのか」
さり気ない気遣いが、五臓六腑に染み渡る。ときどき暴走しがちな点に目を瞑れば、本当に心優しい子なのだ。実際に今までも、その優しさには幾度となく助けられてきた。
「ところで朝ごはんなんですけど、私は先に食べてしまって、トレーナーさんの分は冷蔵庫に入れて置いたのですが……こんな時間ですし、どうします?」
「朝と言うには遅いし、昼と言うには早いからなあ。夜ご飯がズレ込んでもあれだし、昼食のときに一緒に食べようか」
「わかりました」
スズカがうなずく。
職業柄しかたのないことではあるが、午前中からまったりと過ごす彼女を見ることができたのは、ずいぶんとひさしぶりなように感じる。実際は年始にも見ているはずだが、そう思えるほどにこの一週間が濃密なものだったということなのだろうか。
「ああそうだ……スズカは今日、何か予定とかあるのか?」
「とくにないです。今日は私も、ひさびさに一日ゆっくりしようかなって」
「そっか」
彼女と向かい合うようにテーブルの前に座り、机に頬杖をつきながら会話をする。
休息を取らずに頑張り続けたとて、いつか必ず限界が来る。急がば回れ。活動を太く長く続けるためには、つまるところ休養も必要になるわけだ。
ところで、サイレンススズカは現在、十二月頭から続く療養中である。
原因は、無意識のうちに蓄積されていた疲労による脚部不安。日々のケアを怠っていたつもりはなく、本人も自覚はしていなかったようだが、実際は深刻なダメージを負っていたことが秋の定期検診で明らかになった。
そのため、スズカはそれから一ヶ月ほどトレーニングを固く禁じられ、年始からようやく軽いランニングの許可が降りた。通常通りの練習を再開できるのは、どれほど早くとも来月からとのことだ。
では日中──俺が仕事に行っている間にスズカは何をしているのかというと、最近はもっぱら大学受験の勉強をしているらしい。これは、以前彼女に「卒業した後の選択肢は多ければ多いほうがいい」と伝えたことに由来しているのだと思う。進学するかどうかは、まだハッキリとは決めていないらしいが、彼女が自分自身の新たな可能性を広げられることには変わりないのだから、あれこれと口を出すべきではないだろう。
……しかし、彼女が勉強をしている時間は、本来なら彼女にとって最も優先すべきである走りに費やされていたはずの時間だ。自分の監督不行き届きでこうなってしまっていると思うと、自責の念が止むことはない。
「ごめんな。走れないと、こういうとき暇だよな──」
ああ、しまった。そう思ったときにはもう遅かった。
脳内でつぶやいたはずの言葉が、気がつけば口から漏れ出していた。
慌てて顔を上げると、スズカはうつむきながら悲しげに目を細めていた。このままでは、彼女に余計な気苦労をかけさせてしまう。
「トレーナーさん。そのこと、まだ気にしていたんですね」
「えっと、その」
上手い言いわけも思いつかず、言葉を詰まらせる。
「何度も言いましたよね。たしかにトレーナーさんの責任かもしれませんが、あくまで一部の話であって、すべてではありません。事実、私自身もまったく気がつきませんでしたし、走りにも見て取れる影響はなかった。なら、気づけと言うほうが無理な話です」
スズカは凛とした調子で、俺を慰める。その優しさには本当に何度も救われているが、この件ばかりは俺を罵ってくれたほうが幾分か気が楽だった。
「そうかもしれないが……」
「何も骨折したり、二度と走れなくなったわけじゃないんですから。それに、悪いことばかりじゃないんですよ?」
「え?」
それが何かと、思考を巡らせる暇もなく。
「その怪我があったからこそ、こうしてトレーナーさんと、同じ屋根の下で暮らせているんですから」
スズカは楽しそうに笑いながら、その理由を教えてくれた。
「そりゃあ、な」
自分との同棲が、彼女に対する贖罪として釣り合っているとは思えない。
今まで当たり前だったことができなくなってしまうのは、さぞ辛いことだろう。
けれども、俺との日常生活が、その苦痛をすこしでも和らげてくれているのなら──美しき思い出としてアルバムに残せるように、精一杯の努力をしよう。
走りの楽しさに負けないくらいの、充実した日々を作り上げよう。もちろん、節度は守ったうえで、だけど。
俺はポケットからスマホを取り出して、この街の観光スポットを調べ始めた。
◇◆◇
「……いざ休もうとしても、何をすればいいのか分からないもんだな」
「休むだけっていうのも、案外むずかしいですよね」
昼食のあと、掛け布団をローテーブルに乗せて作った簡易こたつに首から下をくぐらせながら、共にクッションに頭を置いて寝転がっていた。
「にしてもあったかいな、これ。このままだと寝落ちしそうだけど、床で寝るのはさすがにまずい。身体を悪くするし」
「そうですね……でも、やっぱり気持ちいいですよね」
「それな~」
暑い日にはクーラーとアイス、寒い日にはこたつと鍋。このときばかりは生を実感する。今は鍋の用意はないのだけれど。
とはいえ、それ相応のリスクも当然ある。いくらカーペットを引いているといえど、その真下は固い床だ。目が覚めるころには身体がバキバキになるし、なにより暖房がついているから、汗で体を冷やして風邪を引きかねない。
そうわかってはいても、簡単に抜けられるほど優しい誘惑でもなかった。
「とれーなーさん、声がふにゃふにゃしてますよ……だいじょうぶですか」
「スズカこそ……どんどん声が小さく……」
結局、極上のぬくもりに勝てるはずもなく。
何を話しているのかもわからないやりとりを続けているうちに、俺たちの意識は明るい闇へと溶け出していった。
◇◆◇
「……今、何時だ?」
暖房の風の音だけが鳴り響く室内で、ふと目を覚ます。
壁掛け時計を見ると、時刻は夜の七時。最後の記憶が十五時だから、四時間近く眠っていたことになる。
「やばい、スズカ起きろ! このままじゃ風邪引く……ぞ……」
こたつから這い出て、その上から覗き込むように声をかけようとすると──契約して以来初めて目にする、彼女の寝顔がそこにあった。
彼女を起こすために準備していた言葉は、刹那、感嘆のため息へと置き換わる。
──美しい。ただひたすらに、そう感じていた。
目の前の少女からは、普段とはまるっきり違う印象を受ける。
端正なその目は、閉じられることでむしろ蠱惑的な魅力を身につけており、幼さが混同していたはずの顔立ちは、純粋で大人びた美しさへと変貌している。
……今度からスズカよりも早く起きようか。などと考えながら眺めていると、スズカが微睡みから、少しずつ目を覚ましていく。
「んん……あれ、トレーナーさん……?」
「あ、おはよう……風邪、引いてないか?」
「はい、身体に異常は……って、えぇ!? も、もう七時……?」
「ところがどっこい、これが現実……やっちまったな、俺たち」
「えぇと、えぇと……とりあえず、ご飯にでもします?」
困惑しながら、スズカが一つの提案をしてくる。
真っ先に出てくる提案がそれか、とつい笑ってしまう。
「……ははは! 食っちゃ寝食っちゃ寝の理想的な休日だな! なら夕飯の支度をしようか。んで、どうせしばらく寝れないだろうから、ちょっと夜ふかしして遊んじゃおうぜ」
「ふふっ……わかりました。たまには、こういう休みもありですよね」
今までの俺たちからは想像もつかないような堕落っぷりに、顔を合わせて笑いあう。
ひとりだと日常的に起こることでも、彼女と一緒だと、かくも面白い非日常に早変わりする。
そんな不思議な出来事を、同棲が終わるときまでに、一つでも多く味わっておきたいものだ。