保健室に入ると、そこには先に
「あ、ひとりちゃん⋯⋯」
「ど、どうして喜多さんがここに⋯⋯」
私⋯⋯の中に入った喜多さんは、少しだけ驚いた表情を浮かべてベッドに腰掛けている。
ひょっとして、私の同じような状況になったってことだろうか。あるいは。
「えっと、ひょっとして本当に体調が悪くなっちゃったとか⋯⋯」
「んっ、んん~~? あはは⋯⋯。そういう訳じゃないんだけど⋯⋯」
だったら、どうしてなんだろう。確かに顔色が悪いわけではないけど、私になりたいと言っていたのは喜多さんの方なのに。
「ちょーっと人気者になろうと頑張ってみたら、先生から『少しおかしいみたいだから保健室で休んでいなさい』って言われちゃった☆」
「うわああぁぁぁ⋯⋯」
私よりもっと酷いことしてる人がここに居た。
言われちゃった☆ じゃないんだよ可愛いなぁぁ⋯⋯っ! もうやだ、元に戻れても学校行きたくない⋯⋯。
「それで、ひとりちゃんはどうしてここに?」
「⋯⋯喜多さんの名誉を守るために」
「そう⋯⋯。何となく分かったわ」
皆まで言うな、とでも言うように、喜多さんはかぶりを振った。
最初から期待されていなかったみたいで、ちょっとショックだ。実際上手くやれるように期待されていたとしても、できなかったわけだけど⋯⋯。
「とりあえず、放課後まではここで時間を潰しているしかないわね」
「はい⋯⋯」
喜多さんの言葉に返事をしながら、放課後というキーワードに引っかかりを覚える。
そうだ、放課後。今日はバイトはないけど、スタジオ練習の日だ。
「そう言えば、今日のスタジオ練習、どうしましょう⋯⋯」
「え⋯⋯。行くでしょう?」
「行くのはいいんですけど、虹夏ちゃんたちにどう言ったら⋯⋯」
「普通に話したらいいんじゃないかしら。頭ゴッチンしたら入れ替わっちゃいましたって」
ええ⋯⋯。喜多さん、楽観的過ぎる⋯⋯。
もちろん、虹夏ちゃんやリョウさんに隠す必要はないと思うし、絶対おかしいことに気づくと思う。でも、そうだとしても。
「信じてもらえますかね⋯⋯?」
「大丈夫よ。私たち、そこまで信用ないわけじゃないわ」
喜多さんは二人のことを信じてやまない様子で、その言葉は自信満々だった。
本当に信じてくれるかなぁ⋯⋯。こんな突拍子もない話⋯⋯。
* * *
「え、嘘でしょ?」
──と、そう思っていたら、案の定な反応が返ってきた。
放課後になってSTARRYのスタジオに入るなり事情を打ち明けると、虹夏ちゃんもリョウさんも目をぱちくりさせていた。
「ほ、本当ですよっ。ね、ひとりちゃん?」
「は、はい⋯⋯」
私は喜多さんの声で、いつも通りの調子で返事をする。そんな私たちの様子を虹夏ちゃんは混乱した様子で見比べていた。
「郁代」
そしてリョウさんは、何故か喜多さんを⋯⋯
「今から、本当に入れ替わっているか試してみる。郁代はキャッシャーで、私は客。いくよ」
「は、はい」
キャッシャー、というのはどのバンドを見に来たか聞いて、チェックと会計をする受付係のことだ。ちなみに私は、任されたことがない。
リョウさんはベースをスタンドに置くと、喜多さんから少し距離を取る。そこからテクテクと歩いて行くと、喜多さんの目の前で足を止めた。リョウさんはじっと喜多さんを見たまま、何も喋らない。
そして、喜多さんは──。
「いらっしゃいませ! 今日はどのバンドを観にこられましたか?」
とびっきりの笑顔で、私の声だって信じられないぐらい明るい声音で、聞き慣れたフレーズを口にした。
⋯⋯私、笑うとあんな顔になるんだ。もうちょっと笑顔の練習してみようかな⋯⋯。
「うん。本当にぼっちの中に郁代が入ってる」
「どうやら本当みたいだね」
「信じてもらえてよかったです」
「うわああぁぁぁ⋯⋯っ!」
そして信じちゃう理由! 私、確かにあんな風にはできないけど!
自分の内蔵スペックの低さに悶えていると、虹夏ちゃんが「それで」と切り出した。
「どうしよ。とりあえずは、元に戻る方法を探さなくちゃだよね」
「それなんですけど、伊地知先輩」
喜多さんはそう言うと、ケースからギターを取り出した。私の、黒のパシフィカを。
「先に練習やりましょう。私、ひとりちゃんになってギター弾いてみたいなって思ってたんです!」
「え、えぇ⋯⋯」
また喜多さんは、突拍子もないことを言い出した。
ギター上手い人を見て自分もああなりたいと思う気持ちは、私も経験があるから分かる。でもいざ本人になったからと言って、いきなりそのパートが弾けるとは限らないと思うんだけど。
「んー、まあ面白そうだからちょっと試してみるのもアリだと思うけど⋯⋯」
だけど、ちょっと待って欲しい。
それって、つまり⋯⋯。
「そ、それって私が喜多さんのパートを
「もちろん、そうよ?」
「む、むむむ無理ですっ! 私、歌えません!」
どう考えても、無理難題だった。いくら今私が喜多さんの中に入っているからって、いきなりできるものじゃない。
「どうして? 歌詞を書いたのはひとりちゃんだし、メロディだって覚えているでしょう?」
「そ、それはそうですけど⋯⋯」
バッキングのパートは、喜多さんに教えるために弾いたことはある。歌だって、たぶん歌えるはず。
けど私がフロントマンというその事実に、押しつぶされそうなほどのプレッシャーを感じてしまう。
「別に恥ずかしがることない。歌っているのはぼっちじゃなくて、郁代ってことになるんだから」
「りょ、リョウさんまで⋯⋯」
そう言ったリョウさんは、珍しく楽しそうな表情を浮かべていた。
喜多さんも虹夏ちゃんも乗り気だし、どうしよう⋯⋯。
「さ、ギターと孤独から演ろっか」
そうこうしているうちに、みんな準備を進めてしまう。
こうなってしまったら、もう仕方ない。私は初めてステージに立った時みたいな緊張にまみれながら、喜多さんのギターを手に取った。
みんなの準備が終わると、いつものアイコンタクト。振り上げられた虹夏ちゃんのスティックが、カウントを刻む──。
そして、数分後。
「ぜ、全然弾けない⋯⋯」
「ぜ、全然歌えない⋯⋯」
結果は言うまでもなく、ズタボロだった。
ギターは弾けても、まともに歌が歌えない。音程は外しまくり、メロディラインは前後にズレて、それはもう酷い演奏だった。
「ひとりちゃんのパート、難しすぎるわよ! いったいどうやって弾いているの!?」
「わ、私も無理です⋯⋯。どうして弾きながらあんなに歌えるんですか⋯⋯」
そもそも結束バンドの曲のバッキングは、初心者には難しめだ。それを弾きながらあそこまで歌えるなんて、喜多さんってひょっとしたら凄い才能の持ち主なのかも。
絶望している私たちを見て、虹夏ちゃんは苦笑を浮かべていた。
「まあ、なんか思ってた通りになっちゃったけど⋯⋯。お互いリスペクトし合うきっかけになったかな?」
「たぶん。⋯⋯でもこれじゃ、練習にならない」
リョウさんの言うことはもっともだった。元々のポジションにこだわって練習するのは、きっと無理だ。私も一曲歌っただけで、だいぶ心がすり減ったし⋯⋯。
「やっぱりまずは、元に戻すのが先決だねぇ」
虹夏ちゃんの言葉に、私たちはこくっと頷いた。
少しの間だけど入れ替わった状態で学校生活を送って、スタジオ練習もして⋯⋯。これで喜多さんも満足してくれたと思う。
「喜多ちゃんとぼっちちゃんは、ぶつかり合ったら入れ替わってたんだよね?」
「はい⋯⋯」
「なら、もう一回同じ状況を作りだしたらいい」
リョウさんの提案に、やっぱりかと思った。こういう時は『同じ状況になれば元に戻るはず』と考えるのは、みんな一緒みたいだ。
「そうですね。痛いのは嫌ですけど、やってみるしかありません」
喜多さんも覚悟を決めたようで、神妙な顔つきで拳を握っていた。その決意に背中を押されるように、私も覚悟を決める。
「それじゃ、なるべく状況を再現した方がいいよね」
「ですね。こうやってひとりちゃんが下になって、私が上から落ちて頭ごっちーんって感じです」
あの時の状況を再現するように、喜多さんが床に仰向けに倒れて、私はそれに覆いかぶさる形になる。
「ぼっちちゃん、準備はいい?」
「は、はい⋯⋯」
「じゃあ、怪我はしないようにね? でも、同じぐらいの強さにはなるように。はい、いってみよー」
新曲の合わせみたいなノリで虹夏ちゃんが言うと、私たちは見つめ合う。
お願いだから、一度で戻って欲しい。そんな願いを込めながら。
「い、いきますよ⋯⋯」
「いいわよ、ひとりちゃん⋯⋯」
私はあの時と同じように、
そして、結論から言うと。
「いったた⋯⋯」
「あー⋯⋯。またダメっぽい?」
私たちの入れ替わりが、戻ることはなかった。
強さを変えてみたり、実際にギターを倒してかばいながらぶつかったりしても、結果は変わらず。何度もぶつかったせいでおでこはヒリヒリしているし、そろそろ本気で怪我をしてしまいそうだった。
「虹夏。そろそろ時間」
「あ⋯⋯本当だ」
それにもう、スタジオを使える時間は五分を切っている。そろそろ片付け出さないと、間に合わない。
意気消沈しながら片付けると、私たちはスタジオを出てフロアに向かった。いつものテーブルを囲むと、思わず溜め息をついてしまう。
「困ったねぇ。来週のライブ、どうしよ⋯⋯」
そう、それに来週はここでライブがある。中身が入れ替わったままじゃ、ライブだってままならない。
「かくなる上は、ポジションチェンジしかないか」
「最悪はそれしかないかなって思うけど⋯⋯。それじゃお客さんびっくりしちゃうよ~」
リョウ先輩の言葉に、虹夏ちゃんが力なく答えた。
たぶんだけど、びっくりされるだけじゃなくてガッカリされてしまうかも知れない。ファンの人たちは喜多さんの歌を聞きにきていて、リョウさんのベースを、虹夏ちゃんのドラムを⋯⋯私のギターを聞きにきている。その期待に応えられないのは、なんだか凄く嫌だ。
「そうですね⋯⋯。でもまだ手はあるとは思いますので⋯⋯」
「え? 喜多ちゃん、ひょっとして何か思いついた?」
「いえ、あの⋯⋯。まだ試していないことはあるんですけど、それは最後までとって置きたいというか、あまり人には話せないというか⋯⋯」
「うん⋯⋯? そっか。よく分かんないけど」
虹夏ちゃんの言う通り、本当によく分からない会話だった。喜多さんに奥の手があるなら、もう使っちゃった方がいいと思うんだけど⋯⋯。
「とりあえず、今日これからをどうするかだね」
その言葉に促されるように、私は時計を見た。もうそろそろ帰らなきゃいけない時間だ。そうなると、私は喜多さんの家に帰る必要が出てくる。
「そ、そうですね⋯⋯。ただ私、喜多さんのお家に行けたとしても、隠し通せる気がしません⋯⋯」
「そうね。⋯⋯でもそれには、私に考えがあるの」
そう言って喜多さんは私の方を見る。
そして喜多さんは私の顔を見て凄く楽しそうに笑うと、そのアイデアを口にした。
「
「えっ⋯⋯?」
* * *
下北沢から電車を乗り継いで片道二時間。
見慣れた我が家を、私は喜多さんと一緒に見上げていた。
「ひとりちゃんの家に来るのも、ちょっと久しぶりね」
喜多さんの提案はこうだった。
私の家に喜多さんが泊まりにくる
「いいですか喜多さん。電車で伝えた通りにして下さいね⋯⋯」
「大丈夫だいじょうぶ。それじゃ、行きましょう」
私はここまでの道すがらに、家での過ごし方を喜多さんにレクチャーしていた。とは言っても基本的に押入れでギターを弾いているだけだから、どちらかと言うと家族への接し方がメインだ。
それにしてもメール一つで外泊が許されるなんて、喜多さんの家族は寛容だなと思う。それを言ったら、私の家族もなんだけど。
「ただいま⋯⋯」
「お、お邪魔しまーす」
玄関に入ると、教えた通り喜多さんはちょっと元気のない感じで帰宅を告げる。そして私は、なるべく声を張って我が家に『お邪魔』する。
「喜多ちゃんだー!」
「わんっ! わんっ!」
靴を脱いで家に上がった瞬間に駆けつけてきたのは、妹のふたりとペットのジミヘンだった。
真っ先に私のところに駆けつけてくれるのは嬉しいんだけど、何だかなぁという気分になってしまう。本当の私は、隣にいるんだけど⋯⋯。
「あらあらいらっしゃい、喜多ちゃん。ちょうどご飯ができたところよ」
エプロン姿のお母さんも出てきて、にこにこと優しい笑顔が迎え入れてくれる。家族に歓迎されるのって、本当に不思議な気分だ。
「きゅ、急にすいみません。お邪魔しますね」
いつもと状況が違い過ぎて、少し緊張してしまう。お母さんとふたりに案内されてリビングに入ると、夕飯の香りが鼻をくすぐった。キッチンに立つお父さんの方から、焼き立てのパンの香りとビーフシチューの香りが漂ってきている。
「さあ、たくさん食べてね~」
手洗いやその他もろもろを済まして食卓につくと、私たちは「いただきます」と手を合わせた。するとすぐに口を開いたのは、嬉しそうな顔をしたお父さんだ。
「いやー、また来てくれて嬉しいよ」
「本当ね~。私、喜多ちゃんともっとお喋りしたかったのよ~」
「あ、はい⋯⋯」
そんな受け答えの末に、私は今さらながら気がついた。
これ、大変なのは喜多さんになりきらないといけない私の方だ。だって、喜多さんは黙っていてもあやしまれないし、前に喜多さんが来た時も私は疎外感を覚えるぐらい誰も気にしてなかったし。
「喜多ちゃんって本当にお肌綺麗よね~。普段どんなお手入れしているの?」
ぐはっ⋯⋯。いきなり答えにくい質問が⋯⋯。
助けて! と喜多さんの方を見ると、口をパクパクして何かを伝えようとしてくる。口をパクパク⋯⋯あ。
「⋯⋯そうですね。夜寝る前にパックしたりとか」
「まあ。よかったら何を使っているか教えてもらっていいかしら?」
お母さんはそう聞いてくるけど、私はパックなんて使ってないからどんな商品があるかも知らない。横目で見た喜多さんはまた口の形で何かを伝えてようとしていたけど、今度は何を言っているのか分からなかった。
「ええっと⋯⋯。キュウリ、とかです⋯⋯」
「あら~。それなら家にあるものですぐにできるわね~」
これで良かったよね? と喜多さんの方を見ると、ふるふると小さく首を振っていた。え⋯⋯違うの?
「違いました。ゴーヤです」
「ゴーヤ? それは斬新ね~」
もう一度喜多さんを見ると、まだ小刻み頭を振っていた。これも違うの? でもこれ以上訂正するのも変だし⋯⋯。明日の朝、お母さんからゴーヤの匂いがしてたらごめんなさいとしか言えない。
そんなやり取りをお父さんはうんうんと満足そうに頷いて見ていた。だけど、もう一人の家族はと言うと、少し違う。
「喜多ちゃん、なんか変」
ふたりは私の顔をじっと見ていたかと思うと、ずばりそう言い切った。
「こ、こらふたりっ。お客さんに向かって変なんて言っちゃダメだよ」
「だって何か、お姉ちゃんが喋ってるみたいなんだもん」
うっ⋯⋯。す、鋭い⋯⋯。こんなところで家族の絆を確認したくなかった。
「わっ、私と一緒にいることが多くなったから、ついうつっちゃったのかも⋯⋯」
さっきまで無言のフォローに徹していた喜多さんが言うと、ふたりは納得のいっていない様子で「ふーん」と返す。
「さ、さあ。喋ってばかりだと冷めちゃうから、食べよう」
お父さんの提案に、助かったと思いながら私はパンに手を伸ばす。
うぅ⋯⋯。早く終わって欲しい、この時間⋯⋯。
いつもの憩いの時間を修羅場のように感じながら、私はこんがり焼かれたパンを齧った。
* * *
「つ、疲れた⋯⋯」
「私も何だか、気疲れしたわ⋯⋯」
夕食を終えて自分の部屋に入ると、私たちは思わずそんなことを口に出していた。
あれからの会話で喜多さんのイメージを木っ端微塵にしちゃった気がするけど、喜多さんは何も言わない。たぶん、そんな気力も残っていないんだと思う。
しばらく無言の時間が流れたところで、トントントンとノックの音が響く。
「ひとり。お風呂空いてるからね~」
「あ⋯⋯、う、うんっ」
慌てた様子で喜多さんが答えると、パタパタとスリッパの音が遠ざかっていく。
そうだ、お風呂をどうしよう。私が入っているのは喜多さんの身体なわけだし、特別なお手入れとかしているならちゃんとしなきゃいけない。
「えっと、どうしましょう⋯⋯。身体のケアの仕方とか、ありますよね⋯⋯?」
「その心配なら無用よ」
私と目を合わせた喜多さんは、急に元気になると自信満々にそう言った。畳で四つん這いになってこっちに寄ってくると、私の顔をのぞき込んでくる。私の顔が、近い。
「私もひとりちゃんの身体をどうしていいか分からない」
な、なんか他の人が聞いたら凄い誤解しそうな言い方⋯⋯。
なんて思っていたら、喜多さんはにっこりと笑って私に告げる。
「だから、一緒に入りましょう!」
「え」
ええぇぇ⋯⋯っ!?