それは放課後、スタジオ練習前での会話だった。
「伊地知先輩って、いっつも髪が一房浮いているんですよね」
ふとそう呟いたのは、喜多郁代だ。
ところはSTARRYのフロア、店の看板と同じ六角形のテーブルを囲んだ郁代とリョウ、それにひとりはふむと小さく頷いた。
「確かに、いつもですね⋯⋯」
「あれはアホ毛。出会った時からいつも浮いてる」
リョウはいつも通り表情を変えず、淡々とした口調で言う。虹夏の幼馴染にあたる彼女の言葉は、それは今日の髪型がどうこうという問題ではないことを示唆していた。
「私、いっつもアレに見えちゃうんですよね。お菓子の⋯⋯」
「ドリトス」
「そう! ドリトスです!」
意思が伝わったことが嬉しいのか、郁代はリョウに笑顔を向ける。
「お腹空いてるといつも、ドリトスに見えちゃうんですよ。あー、食べたいなぁって」
そう言った郁代の頭の中では、あるシーンが流れていた。
場所はいつものSTARRY、その練習スタジオ。ライブを念頭にした通し練習の後、郁代は言う。
『はぁ、お腹空いてきましたね⋯⋯。伊地知先輩、いつものお願いしていいですか?』
『もー、また? 仕方ないなぁ』
郁代がそう言って口を開くと、虹夏のアホ毛──ドリトスがその中に向けて飛んでいく。
一枚ではない。郁代が咀嚼し、口内が空になって唇が開くたびに飛んでいくのだ。
これが虹夏の
「私は⋯⋯ピックに見えたことはあります」
そう呟いたひとりの脳内には、あるシーンが流れていた。
ところはドーム。熱狂する観衆。最高の演奏の後、ひとりはピックを聴衆に放り投げる。
(虹夏ちゃん⋯⋯!)
(分かってるよ、ぼっちちゃん!)
ひとりのアイコンタクトに虹夏はアホ毛──ピックをスティックで弾き飛ばす。
それを受け取ったひとりは、セットリスト最後の曲を弾き始める。
「⋯⋯虹夏のアレは、そんなんじゃない」
三人の中でただ一人、神妙な表情を浮かべたリョウが言った。
「私は昔、
「え⋯⋯?」
「りょ、リョウさん⋯⋯。冗談ですよね?」
ひとりの問いかけにリョウは首を横に振ると、重々しく語り始める。
──あれは私たちが小さい頃、虹夏とよく遊ぶようになってしばらくしてからのこと。
ある日、初めてできた親友とも言える存在を喜んだ両親が虹夏に泊まりに来ないかと誘った。
幼かった私たちは一緒にご飯を食べ、風呂に入り、当然のように一緒に寝ることになる。
夜中にふと目が覚めて虹夏の方を見ると、
気になって見続けていると
そして唖然としていたいる私の前で、
『ネエ、モットアソボウヨ⋯⋯』
「「ひぃぃぃぃぃっ!!」」
リョウの迫真の演技に、ひとりと郁代は絶叫に近い悲鳴を上げていた。
その反応に満足したリョウは、珍しく楽しそうに笑っている。
「もうっ! リョウ先輩、からかったんですね!」
郁代が可愛らしく怒っていたその時、STARRYの扉が開く。そこから姿を表したのは、渦中の人である虹夏だった。
「ねえ、すっごい声が聞こえたんだけど、なに話してたの?」
挨拶もそこそこに、虹夏は純粋な興味でそう聞いた。
ひとりはその問いかけに逡巡する。正直に話していいものだろうか。しかし、アレに見えたこれに見えたという、他愛もない話題には違いない。
「あの、虹夏ちゃんのアホ毛って」
「ドリトスに見える時がありますよねって話をしてたんですけど、リョウ先輩が──」
「──ふぅん」
ドリトス、という言葉が聞こえた瞬間、虹夏の目からハイライトが消えた。
「気づいちゃったんだ⋯⋯」
虹夏が呟いた瞬間、ひとりには彼女がありえないほど巨大な何かに見えた。
彼女のまとう歪なまでの存在感。それは急速に膨らんでいき、ステージを丸ごと飲み込むほどになる──。
その日
「知られてしまった以上は、このままじゃいられないなぁ」
虹夏は凍えるほど冷たい声で言うと、両手を広げた。それに狼狽を見せたのはリョウだ。
「に、虹夏⋯⋯まさか」
「え⋯⋯。リョウ先輩、それってどういう──あ」
瞬間、目の前が爆ぜた。
ひとりはあまりの眩しさに、目を瞑る。
そして、目を開けた次の瞬間。
「き、喜多さん⋯⋯。リョウさん⋯⋯?」
ひとりの目の前には、人の大きさほどもあるドリトスが浮いていた。
それだけではない。それは分裂を続け、
「このドリトスはね、ぼっちちゃん」
夜空に瞬く星ほどもあるドリトスが、その切っ先をひとりに向けたままゆっくりと回っていた。
「あなたを
不穏な空気をまとったドリトスたちは、ひとりという獲物に狙いを定め続けている。ゆらゆらと揺れながら回転を続けるそれは、まるで幾多の矢、あるいは剣だった。
これこそが虹夏の持つ宝具──
「ぼっちちゃんには、陽キャになって楽しいこと以外全部忘れてもらうね」
まるでシンバルでも叩くかのように虹夏が手を振ると、一斉にドリトスたちがひとりの口へと向かっていく。
「うわあぁぁぁっ──!!」
口いっぱいにドリトスを詰め込まれるひとり。
見えない力に
「さあぼっちちゃん! あなたはこっち側の人間になるんだよ!」
その光は燃え尽きる星の如く、あまりに眩しく光り。
そして、彼女は──。
* * *
「うわあぁぁぁ──!!」
「っ! び、びっくりしたぁ⋯⋯」
ひとりが叫びながら目を覚ますと、そこは見慣れたSTARRYのフロアだった。
「あ、あれ⋯⋯」
「ぼっちちゃん、だいぶ疲れてたんだねぇ。こんなところで寝ちゃうなんて」
仕方ないな、なんて笑顔を浮かべながら言ったのは、虹夏だ。いつものように、人懐っこい笑みを浮かべている。
そんなやり取りを見ていた郁代とリョウは同意を示すように頷くが、声を発しない。代わりにもぐもぐと、何かを食べているのか口を動かしている。
「あ、ぼっちちゃんも食べる?」
そう言って虹夏が差し出した物。
それは──。
「──っ!?」
──それは、ドリトス(メキシカン・タコス味)であった。
「ひぃぃっ!!」
「えっ、ちょっ、ぼっちちゃん!?」
ひとりは飛び跳ねるように椅子から下りると、脱兎の如く逃げ出した。
早くしないと、
「ん? どうしたぼっちちゃん。そんなに急いで」
「──っ!」
星歌に立ちはだかれ、瞬時にひとりは踵を返した。
どいて下さいのその一言が言えない。それが陰キャという生き物なのである。
「お、おーい⋯⋯。ぼっちちゃん?」
ひとりが駆け込んだのは、控室だった。
暫しの時の後に出てきたひとりは、いつかのように
「う、受けてたつぅ!!」
「なんの話!?」
わぁわぁと騒ぐひとりたちを見ながら、郁代とリョウはなおも手と口を動かしている。
「ぼっちは」
「相変わらずですねぇ」
ひとりの奇行を眺めながら、二人はもぐもぐとドリトスを食べ続けていた。
「それにしてもこれ、食べだしたら止まらないですね」
「確かに」
そう言いながら、郁代とリョウは交互に袋の中へと手を伸ばす。
さっきから食べ続けていても、一向に減らないドリトス。
その正体を、何かも知らずに⋯⋯。