Aphananthe Aspera   作:針島

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A

 私が東京に出てきたのは都会に憧れたからではなかった。たった一人で暮らすのは心細いと思うこともなく快適だった。煩わしいもの全てを取っ払ってしまったから楽になれたのだろう。そう思っておくことにした。行きたい学部があったから、とか。就職活動に便利だから、とか。テレワークが主体となった今そんな理由を並べ立ててまで都会に来たのだから、絶対に成果を挙げなくてはならない。

 そう思い込まなければやっていけなかった。手元で震えるイナニスフォンが虚空にメッセージを表示する。『宙衣へ』から始まるいつものメッセージだ。もう既にその名前の人間はいないが、母に伝えるつもりはない。このイナホもそのうち解約するつもりだ。個人にひも付けられたそれを解約するのはとんでもなく面倒らしいが、一度別の手続きで手順は分かっている。

 この数年ですっかり浸透したイナホ、あるいは『稲』と呼ばれる通信端末は完全ハンズフリーで使える端末だった。その最大の特徴は、個人番号に紐付けられた完全にその個人専用の端末であることだろうか。申し訳程度の通話機能はともかく、それさえあれば店がなくならない限り死にはしないというスペックである。政府はそれを全国民に配布した。道端にしか住めないホームレスにさえも。

 自身で好きなコミュニケーションアバターを作成できて、メッセージに添えられる。そしてそれをその個人にしか視認できないよう専用のコンタクトレンズあるいは眼鏡で視界に表示するのだ。その技術がどこから来たのか、などという論争も今はどこへやら。便利なものを斯くあるものとして私たちはそれを享受している。

 そんな虚空のメッセージに添えられた名前こそが『宙衣』である。なお『そらえ』や『ひろえ』などではなく『ちゅーい』である。『ちゅうい』ですらなく『ちゅーい』。あだ名はちゅーちゃん。幸い入学させられたに等しい中高一貫校の担任が協力的だったので改名は簡単だった。公的書類なんかを母が管理することはなかったからだ。それは私の仕事だった。姉の玻瑠璃(はるり)ではなく。

 新しい名前。新しい生活。近くに煩わしい家族なんかがいないこの暮らしは本当に楽しみだった。

「おはよー」

「はよー」

「今日一時間目がさぁ……」

 ざわざわと周りはうるさい。イナホのウィンドウは可視化されていないようだが、ハイドモードで立ち上げている学生もいるのだろう。どこにも焦点があっていないそれはいっそホラーですらあった。勉学のために大学に通っているはずなのに、彼らときたら自分の快楽を優先しているようにも思える。新歓に飲みに合コンに。その全てを断り続けていたら見事に孤立したのは笑えない話だ。でもそれで良かった。そんな目的のために東京に来たのではないから。

「ほら、静かに席に着きなさい。講義を始めますよ」

 初老の教授の講義が終わればすぐに一人暮らしの家に戻る。カフェや図書館なんかに寄っても構わないのだが、都市部の図書館にはあまり学習スペースがないのだ。建物に余裕がないからだろうし、自宅学習が基本となった今では需要も見込めないからでもあろう。一応大学に向かうまでの間に毎日通る図書館があるのだが、学習スペースもないのにそこに立ち寄るのも面倒だと思っていた。

 講義のレポートを四苦八苦しながら仕上げてイナホを確認する。すると、虚空には珍しく可愛らしいコミュアバと誘いのメッセージが表示されていた。母の妹、つまりは叔母からだ。一昔前までは地下アイドルとして活躍していたらしい彼女から誘いが来るのは本当に珍しい。いくらこっちが誘っても乗ってこなかったのに。

 イナホ用のコミュアバを立ち上げ、メッセージを打ち込む。

『珍しいね、おばちゃん』

 するとあちらも表情とメッセージを添えて返答してきた。

『せめてお姉さんでお願いしたいんやけど』

『良いじゃん別に。事実でしょ?』

『事実やったら何でも言うてええわけとちゃうんよ?』

 実際に会えば関西訛りを感じさせないほどに標準語を話す玻月(はづき)叔母さんの膨れっ面を想起してしまって笑いが込み上げる。四十路も半ば近いはずなのにいつまでも若々しい彼女は美魔女というやつだった。もう地下アイドルは続けていないだろうに、スキンケアは欠かしていないらしい。

『急にどうしたの、つきねぇちゃん』

 いつもの呼び方に戻して返信すると、既読がついてから少しだけ間があった。

『近くまで来ててな、晩御飯でも食べに行かん?』

『ちょっと待ってね』

 晩御飯の誘いだった。本当に珍しい。我が道を往く、という言葉が相応しいあの叔母からこんな誘いが来るなんて何か裏がありそうだ。私にも下心しかないけれど。財布の中身を確認する。乏しいとは言わないけれど、潤沢だとも言えない。しばらくもやしとお友だちになれば賄えるだろう。

 オッケーのジェスチャーを送ると、行く予定の店のURLが送られてきた。許諾して映像を表示させれば確かに近くのドイツ料理屋だ。すぐに準備をして借りたマンションを出る。本当は坂の上に住みたかったが、体力をつけたかったのと公園が近いのが決め手だった。ドイツ料理屋は目の前の坂の上だ。えっちらおっちらあがっていって、きょろきょろと見回す。

「あ、いたいた。()()ちゃん!」

 つきねぇちゃんは私のことを新しい名前でしか呼ばない。前の名前を私が蛇蝎のごとく嫌っているのを知っているからだ。ゆき先生と一緒に考えた、絶対に誰からも読んでもらえる名前。川越(かわこし)ゆい。それが私の新しい名前だ。そして一生変わらない名前だろう。

「つきねぇちゃん、久し振り。どしたの?」

「近くまで来たからって言ったでしょ、ほら入ろ?」

 ドイツ料理屋に入り、手頃なプレッツェルのセットがあったのでそれを注文することにする。ちらりとつきねぇちゃんを見ると何故かそわそわしている様子だったけれどもすぐにメニューを見始めた。

「フラムクーヘンのセット……とビールで!」

「呑むの?」

「好きなの飲んで良いよ、未成年だからお酒はダメだけど」

「はあ……」

 とはいえろくなジュースがあるわけでもなく。私はどちらかと言われると変なジュースを飲むよりお冷やのほうが好きなので遠慮しておいた。注文を待つ間、つきねぇちゃんがイナホをいつもの習慣で見始めたので私も何となくイナホで掲示板を眺めてみた。代わり映えのしないつぶやきに溢れた掲示板を見ていると、近くの客の会話が聞こえてくる。

「あ、雪だ」

 それにつられて外を見ると、確かに雪が降っている。

「へぇ、東京って雪、降るんだね、つきねぇちゃん」

「……ん? 雪? あーうん、そうだね、最近は降るらしいね」

 イナホから顔を上げたつきねぇちゃんはそう返答した。勝手な偏見だが、東京の、しかも二十三区に雪が降るとは思ってもいなかったのだ。ビルの熱とか人口密度とかそういうので上空で全部溶けてるんだと思っていたけれども違うらしい。ちらちらと落ちてくるそれは粉雪と呼ぶには大きいし、ぼた雪というには小さい。典型的な雪だ。

「積もるの?」

「たまにね。あ、でもそれより歩道とか凍るらしいからそっち気を付けた方がいいよ」

「らしいって……詳しいね?」

「そうそう、はのんちゃん言ってたし」

「ふふっ、誰それVの人?」

 そのふざけたような問いは、つきねぇちゃんを凍り付かせてしまった。それは目の前の窓からこっちを羨ましそうに見やる人影が足早に通り過ぎるよりも長い。やけに真っ黒な人だったなぁ、なんて思いながら視線をつきねぇちゃんに戻すと、ようやく再起動したみたいだった。

「……と、もだち、そう、友だちだよ、うん」

 ぎこちなく答えるつきねぇちゃんに、何となく悪戯心がわいてにやにや笑ってからかってみることにする。

「ふーん、恋人とか?」

「こいっ!? 違、違うよ流石にもうっ! おませさんめ!」

「もう十八だって。成人してるよ?」

「ああ言えばこう言うでしょ……」

 口を尖らせてぶつぶつ言うつきねぇちゃん。こうしていると本当に同年代の友だちみたいだ。これで小さな店を経営するオーナーだっていうから恐れ入る。

「お待たせしましたー」

「おお……」

「美味しそう……」

 置かれたプレッツェルに気を取られてしまって、私はそれ以上のことを聞けなかった。久々の外食。いつものもやしだらけの生活ではない、まともなごはん。いやまあもやしは美味しいんだけど、お金は貯めておきたいのだ。この先どれだけ必要になるかも分からないから。無い袖は振れないというけれども、それをさせるのが母であり、玻瑠璃なのだから。

「ふわぁ、美味しかったぁ」

「美味しかったねぇ」

 にっこにこしながらつきねぇちゃんは素早く伝票を奪っていった。

「へ?」

「んふ、付き合ってくれてありがとねぇ」

 上機嫌なままに奢られてしまって、今度何かで返そうと心に誓う。ほとんど実家には帰ってこなかったらしいつきねぇちゃんと外食できるというのは何かとても特別なことのような気がしてならないのだ。

「こ、今度は奢るね」

「年下が無理しないの。臨時収入あったから誘ったってだけだし、気にしないで」

「何かそういうの、嫌なんだけど……」

「……んじゃあ、今度また遊びに行くの付き合ってくれる?」

 もちろん付き合うに決まっていた。誰よりも親しい人だから。他に友だちを作るのも面倒だし、何よりも目的のために邪魔になりそうだから。つきねぇちゃんと親しくなるのが一番の近道のはずなのだ。

「もちろん」

 何故なら私は確かめに来たからだ。つきねぇちゃんこそが、私のお母さんなのかを。

 

 *

 

 物心ついた頃は、とても甘やかされていたように思う。何をしても褒められて、あまり怒られることもなかった。はーねぇちゃんがいつも膨れっ面をしていて、何でかなってずっと思っていた。私は『カワイソウナコ』だったから、誰からも可愛がられていた。

 それが変わったのは小学校に上がってからだ。名前でからかわれて、泣いて家に帰って。お母さんに名前でからかわれたんだよって言ったらすごい剣幕で電話をかけていたのを覚えている。今ならその理由も分かるけれど、友だちも出来なかったし先生からも扱いにくい生徒だと思われていた。

 友だちが出来ないのは名前が変だからだと担任の先生は言った。お母さんに本当かどうか聞いたら、夏休みにいなくなってしまった。私のせいだった。行くところがなくて図書室に籠っていても、誰も何も言わなかった。何か言われたことを私が告げ口したら、また先生がいなくなるからだ。

 低学年のうちはまだ分かっていなかったけれど、そういう機微ははーねぇちゃんが教えてくれた。

『あんたの名前が変なんて言わせとけばええねん。ほっときほっとき』

『友だち出来へん? あんたがそうやって騒ぐからやろ。おかげでこっちも散々やわ』

『あんたは可哀想な子やからチヤホヤされてただけや。何も知らん子らにはそらぁおかしいやつに見えるやろ』

 刺々しい言葉だった。けれど、それは全て事実だった。家でチヤホヤされていたから、私は思い上がっていただけだった。どこにも私はいてはいけなかった。だから、誰よりも遅く学校に行って誰よりも早く家に帰った。そうすれば誰も困らないから。

 そう思っていた矢先にはーねぇちゃんが不登校になった。家の中の空気が変わっていって、お母さんとお父さんが夜中に喧嘩ばっかりするようになっていった。一応子どもには気を遣ってくれていたみたいで、起きているときにはやらなかったけど。

 でも、その時の会話が始まりだった。

『お前がもう一人欲しいなんて言わんかったら誰も不幸にならへんかったんや!』

 今はもうお父さんとは呼んではいけないあの人がそう叫んだ言葉。私の存在を全否定するそれ。

『あんたが浮気せんかったらよかったんやんか! 何でよりによって妹とするんよ!?』

 それを、お母さんは否定しなかった。私はいてはいけない存在だった。はーねぇちゃんは皆に望まれて産まれてきたけれど。私はお母さんに、いや、母にしか望まれていなかった。ぐるぐると思考が回って上滑りしていく。

 そして、それを聞いていたことに気付かれてしまったのは。

『全部……全部あんたのせいやったんか! この苦しいのも! 皆が冷たいのも! 全部……!』

 はーねぇちゃんが、玻瑠璃がそう叫んだからだった。結局近所の人から連絡がいって、警察が駆けつけてくるまで私たちは手も足も出して大喧嘩していた。母も、お父さんだった人も、玻瑠璃も。もう、誰も取り繕うことなんてしなくなった。

 その喧嘩からしばらくして、母は離婚した。私は小林宙衣から川越宙衣になって、そして玻瑠璃は学校に行くようになった。地元の中学から、受験して少し離れた高校へ。そして、私は誰からもチヤホヤされる子どもではなくなっていた。まるで液体窒素でも吹き掛けられたように周囲は冷たく、よそよそしくなってしまった。

 中高一貫校を受験させられたのは母の見栄だった。

『折角もろた慰謝料をつぎ込んでんやからな。ちゃんと倍にして返しや』

 そして借用書を見せつけた。中高一貫校に通うためにかかる費用と、その利息。大学まできちんと卒業して高給取りになって、私は母と玻瑠璃を一生養わなくてはならないと書いてあった。理由を聞く気力もなかった。だってそうだ。私がずっとぬるま湯の中で騙されていたのは、こうして負債を押し付けられるためだったと悟ったから。

 私には何一つ拒否出来なかった。嫌だと言えば痕の残らない暴力が待っていたからだ。見えるところを殴ったりはしない。ただ執拗に太ももを平手打ちするだけ。たまに痣になったりもするが、冷やせばすぐに元通りだ。そしてそんな場所を露出するような服装をすることもない。スカートなんて媚びた服装は、売女の娘にはさせられないのだそうだ。

 死んだ目で入学式に出て。死んだ目で授業を受けて。名前を呼ばれた瞬間にからかわれることが決定してしまって。そんなことをしていたからか、ある日突然担任に呼び出された。

『川越さん、ちょっと』

 断る理由なんてなかった。この人もきっと味方にはなってくれない。それが分かっていたから、当たり障りのない言葉で終わらせようと思っていた。

『先生な、今から変なこと言うかもしれん。せやけど出来れば正直に答えて欲しいんよ』

『はあ』

『川越さんは、自分の名前、好き?』

 そんなわけなかった。けれどもそんなことを教師になんて言おうものなら、何が待ち受けているのかなんて自明の理だった。

『……ごめんな、先生、川越さんの言葉で聞きたいんよ。お節介なんは分かっとる。でも、親御さんには何も言わんって、教師人生に誓うわ。せやし聞かせて欲しい』

 でも。それでも。真剣な目で、新任の先生が。吹けば飛ぶような木っ端教師が。手を握ってそんなことを言うから。私は言ってしまった。

『……です』

『うん』

『嫌い……嫌いです、こんな変な名前……! 私も嫌い……! 私がいなければ良かったのにって、ずっと思ってる……! 私なんて産まれてこなければ良かったのに! そしたら皆幸せだったのに! 何で……!』

 ダメだった。こんなことを言ったら、また扱いにくい生徒だと思われるのに。それでも止まらなかった。まるで幼児の癇癪のように、私は嫌だ嫌だとずっと駄々を捏ね続けていた。実際、全てが嫌だった。誰にも迷惑を掛けず消えることが出来るのなら、喜んでそうしたいとまで思っていた。

 全部吐き出し尽くして、自分のやらかしたことに真っ青になって。けれども待っていたのは温かい手だった。

『よう頑張ったな。よう我慢したなぁ……!』

『頑張ってない! 我慢なんてしてない! 全部私が……!』

『……先生は! あんたに会えて良かったって思っとるよ……!』

 温かい抱擁だった。久方ぶりのその感覚に、私はダメにされてしまった。もうダメだった。興味を持たなさすぎて名前すら思い出せないこの人が、どうして泣くのか分からなかった。どうして抱き締めてくれるのかも分からなかった。どうせ、この人も。そんな気持ちが吹き飛んでしまうほどに先生は温かかったのだ。

 先生は落ち着くまでそうしてくれていた。そして、一つずつ私に道標をくれた。

『あんな、川越さん。あんたには自分の名前を変える権利があるんよ』

『……でも、そんなことしたら、母が』

『その名前で生きるんは川越さんや。お母さんやない。一生その名前と付き合ってくことあらへんのよ。変な名前は変えられる。それも、実績があればな』

『実績……?』

 その提案は、先生が担任であればこそ強力な手助けになるものだった。そして母がここに来ることがないからこそ実現する可能性の高いものとなった。そのために必要だったものは、皆の協力だった。呼び出しの次の日にあった道徳の時間は、丸々私のために使わせてしまった。

『人の嫌がることはしたあかんって言われとる。分かっとるやろ、皆も』

『でもちゅーいさんはちゅーいさんなんでしょ?』

『……鈴木くんはそんな名前つけられて一生そのままでいろって言われたらどうする?』

『うーん、何とかして変える? 変えれるか知らんけど』

『やろ? ……正直に言うて先生の皆の印象は、名前だけで他人を笑う子ら、でしかない。このまま社会人になったら絶対に困るんよ』

『何で? 変なもんは変やろ?』

『変なもんは変やって、田中さん。あんたは川越さんの何を知ってて笑うんか教えてみ?』

『な、名前……』

『それしか知らんねんろ。他のこと知らんとそこだけ笑うんは、卑怯やで』

 先生は、決して私のことを褒めちぎったりはしなかった。むしろ皆よりも厳しい評価を与えていたようにも思う。ただ、周りの目は確かに変わった。教師から卑怯呼ばわりされたのが悔しかったのか、それとも思うことがあったのか。少なくとも意識的な仲間外れはなかったように思う。

 先生は、竹野雪枝という名前だったその人は、実はそんなに新任でもなかったらしいというのはその後で知った。童顔過ぎて意外だったが、母の二歳下でしかないと知ったときには思わず美魔女? なんて聞いてしまって怒られたけれども。ゆき先生は、皆に平等だった。スタートラインにすら立てていなかった私を導いてくれたから。

 職員会議にも掛けてくれて、母には知らせない方向で私は通名を使うことを許してもらった。それが、『ゆい』という名前だった。漢字を当てても良いんだよ、とは教えてもらったけれど、それでも私はその響きが自分の名前だというのが嬉しくて仕方がなかった。

 ちょっと面映ゆいけれど、と私は先生に聞いてみたことがある。

『何で『ゆい』なん?』

『……せやねぇ、ちょっとずつ皆の声を聞いてたら何となく出てきたんよ。おっても不自然やないけど、おらんとなんか物足りんらしいよ』

『私ゃ隠し味か何かなんか……?』

『大事よ、隠し味。皆を離れんよう()うてくれるんや。せやから、ゆい』

『ほしたら『ゆう』でもよくない……?』

『んー……先生の好みやなぁ。川越さんが『ゆう』がええならそっちでお願いし直すけど?』

 正直に言ってどっちも好きだった。でも、やっぱり先生が付けてくれたから。だから私は『ゆい』でいることにした。出席簿から何から何まで全部書き換えてくれて、少しずつ浸透させていって。皆は数ヵ月も経たないうちに私が『ちゅーい』だったことなんて忘れてくれた。

 大学受験までの間に一緒に手続きしてもらって正式に私は『川越ゆい』になって。けれどもそれを知っているのは学校の人たちだけで。家族には一言も言うつもりはなかったから、二人とも何にも言わなかった。導入されたばかりのイナホの登録名もあちらが勝手に設定していただろうし、誰も教える人はいなかったのだろう。正直に言って、どうでも良かった。

 大学は先生と相談して東京の大学に決めた。上京して早く家族から離れたかったからだ。相談出来るのはゆき先生だけで、家族にするのは報告だけ。そういうルーチンが出来ていたから、やっぱり二人とも何も言わなかった。

 ただ、どこからどう聞き付けたのか父だった人から真顔のメッセージが入っていて、オーキャンに行くなら叔母さんの家に泊まらせてもらえるよう頼もうか? なんて書いてあった。無視しても良かったけれど、でも、気になってしまったものは仕方がないと思うのだ。父だった人にはお姉さんはいるらしいけれど、妹はいない。そして年上のおばさんのことは大体伯母と書くって知っていたから、だから思ってしまったのだ。

 

 叔母さんこそが、私のお母さんなんじゃないかって。

 

 もちろん一も二もなく頷いて、その日を指折り待った。叔母さんはほとんど帰省してきたことがなくて、ずっと東京に住んでいるそうだ。だから私は一回も会ったことがない。写真も見たことがなかったけれど、向かう当日になって父だった人から送られてきた。

『川越玻月という人だ。くれぐれもよろしく』

『わかった』

 もちろんコミュアバには出さなかったが、内心では失笑している。簡潔にそう返事した。だってそうだろう。父だった人が母の妹と浮気して私が産まれた。なら、その人は父だった人のイイ人で、私の母親になるかもしれない人だったから。だからくれぐれもよろしくしないといけないのだ。

 表示された画像もそこそこすごいものだった。他に選択肢はなかったんだろうかっていうくらいに扇情的な服装をしたアイドルっぽいかわいい女の子だったのだ。今ではそれがドイツの民族衣装であり、ディアンドルというらしいことを知っているのだが、何も知らずにみれば上乳丸出しの変態衣装でしかない。グラビアアイドルでももう少しマシなコミュアバを着ているだろう。

 オーキャンに行くと母に言えば散々嫌味を言われ、土産まで買わされる約束をさせられたけれども。たった二日であっても家から離れられるというのは心浮き立つものがあった。

 そうして出会った女性は、思ったよりも露出のないひとだった。ブラウスにロングスカート。あとはブーツ。見た目は清楚なお姉さんだった。それはそうだ。あの服装で彷徨いているなんて流石にないだろう。

『初めまして、になるかな。川越玻月です。貴女の叔母だけど、出来たらおばさん呼ばわりはやめて欲しいかなぁって』

『……ゆい、です。よろしくお願いします、はづきさん』

『ゆいさんね。ゆいちゃんって呼んでいい?』

『好きにすれば』

 このときの私はとんでもなく無礼な小娘だったに違いない。突き放すように言った私につきねぇちゃんは困ったように笑っていたのを覚えている。ふて腐れたような小娘相手につきねぇちゃんは本当に親切だった。オーキャンには一人で行かせてくれて、終わったらメッセージでそれを伝えれば良かった。

 ランチの時間もあっただろうに、わざと連絡しなかった私につきねぇちゃんは怒らなかった。

『楽しめた?』

『……別に』

『そりゃあかんな。折角ここまで来たんやし、楽しまな損やで』

 唐突に訛った言葉にポカンとした私の手を引いて、つきねぇちゃんは繁華街へと繰り出した。お洒落な服屋さんには全く興味はなかったけれど、つきねぇちゃんはそんなところに私を連れていくことはなかった。服装をみて判断したのか、あるいは何か聞いていたのか。雑貨屋を冷やかしながらお洒落なカフェに入った。

『好きなん頼んでええで』

『好きなんって……』

 好き嫌いの激しい私は迷うしかなかった。コーヒーはともかく、ケーキは魅力的ではあるのだがいかんせんベリーと名のつくものは好きではないからだ。大体のケーキやパフェなんかには含まれていることが多いため、結局は飲み物だけで終わるのがデフォルトなのである。ここもどうせ同じだろう。

『ちなみにおすすめはオペラや』

『……何? それ』

『分かりやすく言うとチョココーヒーケーキかなぁ。私の友だちなんかは好きよ、ここのは果物アレルギー引っ掛からんから』

 その言い方でもうダメだった。この人は誰かから私のことを聞いて知っている。言葉が刺々しくなるのを止められない。

『父親からでも聞いたの? 私の好みなんて』

『よしさんから?』

 その言い方がもう親しげで、浮気してたんだと本気で思った。

『ふーん、そんな呼び方するんだ。自分の姉の夫を』

『いや、元私のファンやしなぁ……趣味じゃないけど』

『こんな写真まで持ってるぐらいだし……ファン?』

 そこでようやく知ったのが、この清楚な女が元々地下アイドルだったという事実だった。

『うわ、なっつかしぃ。それオクフェスのやつやん』

『オクフェス……?』

『そうそう、ドイツのビールの祭典。日本でもやっとるよ、オクトーバーフェスト。オクトーバーやない時にやっとる方が多いけど』

 これこれ、と手慣れた様子で画像を転送されて促されるままに見てみれば、確かにビールとソーセージが屋台で売られていた。しかも売り子は軒並み変態衣装でしかないそれだったのだ。

『うわ破廉恥……』

『ディアンドル。ドイツの民族衣装な。まあ、同意はするけど……盛り上げるためにライブやっててな、そのステージに立ってたときの写真やなぁ』

 懐かしそうにそう言う顔に嘘はなくて。連れて帰ってくれたアパートの一室はとても元地下アイドルとも思えないほどに綺麗に片付いていた。出された晩御飯も好きな味で、どんどん自分が絆されていくのを感じてしまった。

 本当は衣装部屋と彼女が呼ぶ部屋に泊めてもらうつもりだったのに、寂しいからと彼女の自室に入れてもらったのは本当に下心があったからなのか。私には分からなかった。二人きりならきっと聞ける。そう思った。

『あ、の』

『早よ寝よしよー。明日帰るとき寝過ごしたら面倒やでー』

 でも、聞けなかった。心地よさ過ぎる空間に、布団から安心するいい匂いがしていて。それですぐに眠ってしまったからだ。

 朝になってしまったら、もう何も聞けなかった。どうしてかは分からない。けれども何となく――そう、本当に何となく。聞いても無駄な気がしたのだ。この人ではないのかも知れないという漠然とした思いが、私の目的だったはずの言葉を閉ざした。

 母はたまに私を『売女の娘』と呼ぶ。その『売女』が本当にこの人なのか。私は確信を持てなかった。そしてたとえそうであったとしても。私はきっとこの人を母とは呼ばないだろう。

『つきねぇちゃん』

『はへ?』

『……そう、呼んでもいいですか』

 多分、呼ぶとしたら。そう呼ぶのが良いだろう。そう思って聞いてみたら、つきねぇちゃんはくしゃくしゃの笑顔で頭を撫で繰り回してくれた。ふわりと匂う、やさしい匂い。それは布団と同じ匂いで。この人は、本当に私のお母さんなんだろうかと。私は錯覚してしまいそうになった。

 疑問は疑問のままで家に戻り、嫌味をやり過ごして。受験の時もまたつきねぇちゃんのおうちに泊めてもらって。東京に出るなら一緒に暮らしてくれないだろうかと思ってしまった。けれどもつきねぇちゃんは自身の生活の乱脈さと大学からの距離を理由に断った。私は気にしないのに。その線引きが分からなくて、私はまだ答えを知れないでいる。

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