あのディナーの日から数日経って。私は本格的につきねぇちゃんのことを調べ始めることにした。調査対象はSNS。あとから消してさえいなければスケジュールを辿ることなんて簡単なはずだ。十八年間のデータは膨大すぎて一瞬では色々分かるとは思えなかったけれども、キーワードはいくつかあるはずだ。
朝から気合いを入れて紅茶と適当につまめるものを横に添える。きっと時間が掛かるだろう。何度か温めなおさなくてはならなくても、眠気を吹き飛ばすカフェインは必要だった。プライベートモードでイナホを起動する。そして検索ワードを少し考えて入力した。
例えばオクフェス。あるいはオクトーバーフェスト。つきねぇちゃんの芸名はずっと変わらず『京華はつき』で活動していたらしいのでそれも絡めて検索する。可視モードのイナホは私に見える範囲でつぶやきを張り付けてくれる。スマホ時代には戻れなくなりそうなほど快適だ。『京華はつき』のアカウントを捕捉したまま検索を始める。
「うわ……これ、ええ……」
すぐにヒットしたのはまさかの昔の父だった人の痕跡だった。『よし』。本名の
「いやもうほんと、オクトーバーとは、みたいな感じやね……」
ドイツビールにザワークラウト。ソーセージやプレッツェルなんかもたくさん載せられているようだ。つぶやきいわくシュニッツェルサンドも興味がある。牛カツサンドイッチなんて美味しいに決まっているのだ。ただしアイスバイン、君はもう少し映えてみよう。なんて馬鹿げたことを考えながらも食欲の誘惑を断ち切って集中する。
いや出来ない。
「……温めるかぁ」
ちょうどお昼だから、と自分に言い訳をして冷蔵庫へと向かう。クリスマスの名残の冷凍のピザが残っていたらしい。それを電子レンジに突っ込んでしまい、温め始める。激安大型スーパーで手に入れた四十円のコーラも添えればジャンキーな昼ご飯の完成だった。先日に引き続き、少し贅沢し過ぎだろうか。
「今月の予定」
呟いてイナホに今月の予定を表示させる。幸いなことにアルバイトは思ったよりも出勤出来るらしい。出勤しさえすれば賄いがつくので、その分食費が浮くと考えればこの罪悪感も紛れる気がした。熱々のチーズを堪能しながらコーラで流し込む。手を洗って一通り欲を満たせば、またウィンドウに集中出来る気がした。
ノートに書き出していく日付には、やはり求めている期間の日付はない。けれども探るのをやめられなかったのはどうしてなのだろう。何かがおかしいと思う根拠が分からない。何故か手が止められない。思わず引き込まれるようなぴかぴかの笑顔を追う。少しばかり露出の多いものも、バチバチに決めたロリータファッションも。薄桃色の良く似合うアイドルの写真を追い続けて。
そして。
「……あ、れ?」
それに気づいてしまって、私はもう一回重点的に日付を追い始めた。視認。ウィンドウ切り替え、視認。白にピンクに黒に笑顔。目がチカチカしてきたけれど、それでも何とか追い続けて。やっと効率が悪いことに気付いて日付ごとに並び替えて、年月日を見て。
そうしてやっと、違和感の正体を理解した。
「……いや、待って? この写真……」
目立ちにくい人もいるらしいとは聞いている。だが、それでも。臨月になっても見た目で分からないほど妊婦の腹が膨らまないとは思えない。つぶやきだけでは捉えきれなくなって今度は写真投稿アプリも並列で立ち上げで一気に十九年前へ。こちらは規制が緩いのか水着も多いようだ。なかなかに豊富な種類の衣裳の写真がある。
時間はもう気にしてなどいられない。ただ何かを求めるように情報を集めていく。欲しいものがひとつも見つからない。代わりにただ根拠を否定する証拠だけが集まっていく。
そして、決め手となったのは。
「……うそ」
三月十八日。私の誕生日に、輝かんばかりの笑顔を浮かべて上げられた一枚の写真。先日解除したばかりのセンシティブフィルターには確実に引っ掛かるであろうビキニの写真だ。その見事なまでの腹筋の中には、到底赤子がいるようには見えなかった。撮り貯めの放出という単語も脳裏を掠めたが、重点的に見たこの期間に『京華はつき』が活動を制限していた痕跡は一切なかった。
「え、じゃあ、え……?」
震える手で写真を漁る。周囲に人がいれば勘違いされかねないほどに、拡大する場所は同じ場所だ。そこにあって欲しいものは、ない。縫合痕もなければ妊娠線もだ。加工して消している可能性もある。けれども、『京華はつき』の撮影会で撮影したファンの全員が加工しているわけでもないだろう。
「な……い……?」
つまりそれは。『京華はつき』が私のお母さんではないという事実を示していた。透過するウィンドウの向こうで空が白み始めている。けれども私はその手を止められなかった。あるはずのものを探し求めていたのに、そこにある証拠は全て彼女が『母』ではないことを示していた。
分かっている。もう、分かってしまっている。つきねぇちゃんは、私のお母さんではない。そして、母も私の母ではない。ならば、私のお母さんは誰だというのか。母の言う『売女』とは誰なのか。実家には母が赤子の私を抱く写真がある。その事から考えても、母と繋がりのある人物ではあるはずなのだ。
しかし、つきねぇちゃんではない。ならば一体誰が私の母なのか。取りたくもない手段を取らなくてはならない。背に腹は代えられないのだ。DNA鑑定。そのために母の髪の毛は保管してある。けれども問題はそこではないのだ。
「……切り詰めるかぁ」
お金がない。切実な問題だった。一応毎月送金はしているが、その量を減らすわけにもいくまい。家計を切り詰めることになるだろう。毎日の食費を抑えて、切り詰めていかなければ貯まらないだろう。月に三万の仕送りと、家賃四万と、光熱費と食費で一万。対する月収は八万だ。越えると税金やら何やらで面倒なことになる。なお学費は全て奨学金で賄っていた。
流石にパパ活や何やらに手を出すつもりもなければ向いているとも思わないので色々と覚悟すべきだろう。アルバイトももう少し考えて入る必要があるだろうし、学業もきちんと修めねばなるまい。そこを怠って職に困ってしまったら、文字通り路頭に迷ってしまう。
母と縁を切ってしまっても構わないのだが、今そんなことをすれば大学まで乗り込んでくるだろう。それは流石に避けたいし、今の住まいから夜逃げするのも流石に無理がある。やるならば完全にこの件が落着してからにしたい。今更本当の『お母さん』を見つけてまで誰かに養って欲しいと願うわけではないが、生活が安定するまでは庇護者は絶対に必要だった。
「……人付き合い、減らさなくちゃね……サークル入ってなくて本当に良かった」
アルバイトはこれ以上増やせないとしても、廃棄を貰えるときに貰っておかなくてはなるまい。とんだ貧乏学生だった。これから先が思いやられるが致し方ないだろう。まずは食をどうにかすべきだった。大量のもやしをストック出来るほどうちの冷凍庫は大きくないのだから。
となれば、善は急げである。来月のシフト申請ウィンドウを立ち上げ、登校日に被らないようにしながら忙しい早朝と、ごみ捨てがあるからあまり誰も入りたがらない閉店前を固定にして申請を終える。これで好感度を稼ぎながら廃棄を持てるだけかっさらう予定だ。
さしあたっては明日、どれだけ持ち帰れるかによって目安を考えるべきだろう。周囲のウィンドウを消して私はベッドに寝転がった。
*
東京へ行ったちゅーいは、あたしにとってはずっと人生の障害でしかなかった。ずっとずっと、あたしが真っ当に生きるのを邪魔していた。全ての元凶だった。だから、目の前から消えてもどうでも良かった。家に金を入れると言わなければ一生飼い殺してやるつもりだった。それがあたしに対する償いってやつだと思っていた。
最初に嫌だな、と思ったのは長女のあたしを差し置いて親戚に可愛がられていたからだった。言葉の意味を理解した今では鼻で笑うだけだが、『カワイソウナコ』だというだけであたしよりも優先されるのはどうしても許しがたかったのだ。あたしの方が可愛いのに。あたしの方がワガママじゃないのに。どうして。
次は、ちゅーいという名前が変だと言われてからかわれ始めたことだった。あたしとしては可愛い名前だと思っていたけれど、周囲にはそう思われなかったらしい。そのからかいはちょっとずつあたしの周りにも広がってしまって、それが原因であたしも変だと思われてしまった。挙げ句の果てにはあたしの名前も変だなんて言われてショックだった。
何でちゅーいはそれを否定しなかったんだろうか。名前が変だ、なんて最大の侮辱でしかないのに。名前は親から貰った大事な宝物じゃないか。今でもそう思っている。あたしはこの
名前の意味だってあたしに負けず劣らず素敵だ。あたしはキラキラ輝く玻璃と瑠璃のように美しい子になって欲しいって願われたからこの名前で。ちゅーいは、その日に
ともかくそれであたしはいじめられた。間違いなくちゅーいのせいだった。あたしは何も悪くない。なのに誰もそれを信じてくれない。毎日が辛くて、でも言い出せなくて、ついに学校に行けなくなった。その日にお母さんに泣きついて、全部ぶちまけた。これまでの不満を、全部。
『何でちゅーいばっかり』
『ちゅーいのせいでへんな名前って言われるん』
『皆あたしのこと見てくれへん』
『何であたしばっかり我慢せんなんのよ』
そう、伝えて。すごく苦しいその気持ちを伝えたって、きっと変わらないって思っていた。今までもそうだったんだから、これからもずっとそうなんだって。
『ごめんな、玻瑠璃』
でも、違った。伝えなくっちゃ、何も変わらなかった。
その日から、世界は一変した。お母さんとあの男は喧嘩しちゃったけど、それで良かった。あんな汚い男が父親だなんてあたしは信じたくなかった。そして、あの男がお母さんを裏切った結果がちゅーいだって、分かった。だからあたしはちゅーいのことなんて嫌いになったし、それを皆にも伝えた。それが正しいことだと思ったから。
そうしたら、もうちゅーいを目に見えて特別扱いする親戚はいなくなった。『フリンノコ』のちゅーいが妹で可哀想ねって、皆許してくれた。いじめはなくなって、あたしは何も我慢しなくてよくなった。あの男だって出て行った。あたしの天下だった。歯止めをかけるものは、もう何もなかった。
少しエスカレートし過ぎたかなって思うときはあった。でも、ちゅーいは自分で誤魔化したから気のせいなんだろう。下着に剥いて、正座させて、布団叩きでその生意気な大根足を叩く。お母さんは平手でやっていたけど、あたしは手のひらが痛くなってしまうから布団叩きでやっていた。それがいつものちゅーいへのお仕置きだった。特に何か悪いことをした、というよりは、生きているだけで赦せなかったからそうしていた。
だってそうだろう。ちゅーいさえいなければ、あたしはずっと幸せだったに違いないのだから。その代償は支払われなくっちゃ公平じゃない。
給料の良い会社に勤めさせるために、良い大学に行かせなくちゃいけない。良い大学に行かせるために、良い中高一貫校に行かせなくちゃいけない。そんなことを言ってお母さんは怠け者のちゅーいに頑張って勉強をさせていた。中堅の中高一貫校にしか合格しなかった日は特にひどいお仕置きをしたものだ。ちゅーいの分際でそんなのは赦されない。
だから、頑張って勉強させて。通信ででも構わないのに東京へ送り出したのは単にそこに拠点が欲しかったからだ。アイドルコンサートに行くための拠点にしてもよし、観光の拠点にしてもよしだ。しかも下手に逃げられないように物価も高い場所を選んだ。完璧だった。
あたしは将来お嫁さんにしかならないし、婚活に忙しいのだ。稼ぎなんて雀の涙で構わないし、それを自分のためだけに使っても誰も困らない。実家暮らしだから家賃も光熱費もいらない。その辺がどうなっているのかさえ興味がない。だってそれはあたしが知らなくて良いことだから。
あとは誰かイイ人を見付けるだけ。それだけであたしの全ては肯定される。あたしの未来は薔薇色なのだ。それは当然の権利で、あたしは幸せになれるのだ。その結果ちゅーいがどうなろうが知ったこっちゃない。あたしが苦しんだ分、ちゅーいも苦しめばいい。いや、それ以上に苦しんで欲しい。
これが汚い感情だなんてあたしは思わない。当然の権利だ。ちゅーいなんて、苦しんであたしたちに貢いでくれればいいのだ。このぬるま湯のような心地良い空気がいつまでも続いて欲しい。たとえそれがちゅーいの苦しみを燃料にしていたのだとしても。
それが、あたしたちへの償いってものでしょう?
*
廃棄のサンドイッチを大量に貰えるようになってから、私の食生活は一変した。もやしを買わなくなって久しい冷蔵庫の最上段にはところ狭しとサンドイッチが並んでいて、冷凍庫にも詰め込まれている。運が良ければここに廃棄の牛乳やコーヒーなんかが加わったりもするのだが、今はない。
イナホをプライベートモードで起動すれば周囲を照らせるので照明のブレーカーすら落としてある。節約モードだ。なおこの物件は元々オール電化だったのでガスは設置していない。冷蔵庫ももったいないなと思わなくはないけれど、流石にそれはサンドイッチが腐るだろう。
食費を削減したからといってすぐに結果が出るわけではないことは分かっていた。光熱費と食費を半減させたところで毎月貯まるのは五千円だ。目標まで貯めるにはこのまま何も贅沢しなくても一年半はかかる見込みである。
「……あと、切り詰められるのは……」
そこに考えが至るあたり、私も早く結論を知りたいのだと実感させられてしまう。お金さえあれば大体のことが解決するのだ。けれどもパパ活にも夜のお仕事にも手を出すことは出来ないことくらいは理解していた。イナホの普及によってより厳格化された収入の監視は、今時古すぎる現金手渡しの取り引き以外では逃れることもままならない。そして、そういう場所は得てして監視されているのだ。
今やパパ活などは現金を手っ取り早く手に入れる手段ではなくなった。もらったブランドものを下取りに出すようなマネーロンダリングじみたことをしなければ現金は手に入らず、それを下取りに出したところで収入扱いされかねないのだ。
切り詰められるものはもう、ほとんどない。浴槽にお湯を溜めたのすらどれ程前だったかも思い出せない。今やシャワーで全てを終えてしまって、流したお湯すらももったいないと思い始める始末だ。リンスインシャンプーも半押ししかしなくなって、ドライヤーも自然乾燥に切り替えてしまって。飲み水も大学の給水器からペットボトルに詰めて持ち帰っていて、本当に最低限だけ家で使うようにしていた。
だから、あとは。
「……邪魔やしなぁ。伸ばす意味もないし……やるかぁ」
ばさりと自分の長かった髪を切り落とす。イナホが視界の端でヘアドネーションボックスなるものを見せつけてきたが、ここからは遠い。送りつけるのも寄付という観点からは外れるだろうし、と燃えるごみ袋に突っ込む。わざわざ電車賃を使ってまでやりたいとは思わない。
「軽っ……」
これでやっと髪の毛のストレスからは解消されそうだ。鬱陶しいまでに多い毛は本当に乾かなかったから。いらないものを切り捨てて、一応身嗜みだけは気をつけて。それでもお金はすぐには貯まらない。仕送りを止めてやりたいと思っても、やっぱりそれは出来ない相談なのだ。
「あとは……電気代、もうちょいどうにかならんかなぁ」
切り詰めて、切り詰めて、追い詰められていっても。それでも私は、知りたかった。知りたかったのだ。どうして私は売女の娘と呼ばれなくてはいけなかったのか。どうして私だけがそう呼ばれるのか、どうしても知りたかった。
そんな折だ、イナホが鳴ったのは。
「えー……出たくは、ないなぁ……」
表示は『クソオヤジ』。とはいえ出ないわけにもいかない。向こうにはプライベートモード中だと表示されているのだろうから。のろのろとウィンドウに触れ、通話を開始する。
「何?」
『えーと、その、元気か……?』
「まあ、元気やけど。唐突にどしたんさ。あの人に知れたら面倒やで」
初期設定のおっさんアバターが困ったように笑っている。けれどもそれ以上に父親だった男は困ったように返答してきた。
『いや、知られても困らんとは思うよ……一応僕も東京住みやから頼れるとこは頼らせろって言い捨てて切りよったけど……』
「流石おかん。相変わらずクソ外道なこって」
『辛辣やな……まあ、せやし、その、何や。困ってないか?』
困っている。そう答えてやったら、この男はどうするんだろうか。どうにも出来ないはずだ。養育費は払っているはずで、それ以上に金の無心もされていそうなこの男に何が出来るっていうんだろうか。
「困ってたら何なん。今更何かしてもらおうとか思ってないで」
『……せやな。そうよな……僕、何もしてやれへんかったもんな……』
コミュアバが萎れた青菜のようにコミカルに萎んだ。五十前の男の仕草にしてはちょっと気持ち悪い。
「何なん? 酔うてる?」
要領を得ない言葉と僅かに回らない呂律にそう問うてみるけれど、男は懺悔するように独り言を呟くだけだ。
『名前も……生活も……何も、してやれへんかったもんなぁ……覚悟してやったはずやのに、何でこうなったんやろうなぁ……』
「知るかボケ、切るで」
通話を切るためにウィンドウに指を滑らせようとして、私は次の言葉に凍りついた。
『雪枝さんにばっかり迷惑かけて……僕は、情けないやつやなぁ……』
「……え?」
雪枝さん。それは、私の知る限りではゆき先生のことだ。それを何故こいつが知っているのか。
『何でこう、僕ってうまく出来ひんのやろか……』
「おいこら酔っぱらい、今なんてった?」
『僕は情けないやつやなぁ……』
「その前! 雪枝さんって……ゆき先生の、竹野雪枝先生のこと?」
酔っぱらいに問答を仕掛けることほど意味のないことはない。それは分かっていたけれど、でも、聞かずにはいられなかった。何故かゆき先生との思い出を汚されたような気がする。あれに、こいつの意思が関わっているとは思いたくはない。
長い沈黙。その後にクソオヤジは答えた。
『……そうや』
「何……何を、知っとるん。ゆき先生に何を頼ったん、なあ」
その焦りに似た感情をもて余していると、ゆっくりと彼は答えた。
『……具体的なことを言うたんは、僕やない。でも、いっぱい助けてもろたとは聞いてる』
伝聞調のそれは、確かにその間に誰かがいることを示していた。ゆき先生と、クソオヤジと。この二人を繋ぐようなものは何もないはずだったのに。
「誰からよ」
『それは……言えん。約束したから』
「約束したからって……誰とよ」
『言えん』
「言えやクソオヤジ!」
『言えん! ……お前のためにも、その人のためにも、雪枝さんのためにも言えん』
「言え! 今更誰かに義理立て出来るんか!」
これほどまでにムキになるのは、きっと直感していたからだった。『その人』が全てを知っている。きっと。身悶えしたくなるほどの葛藤と、沈黙。それを乗り越えて告げられたのは、クソオヤジの最後の砦のような矜持だった。
『……僕からは、言えん。死んでもや。でも、お前から頼んでみたらどうなるかは分からん』
「頼むって……誰によ」
『雪枝さんや』
その返答に鼻白む。
「どうやってさ。ゆき先生、京都やろ。連絡先もあの人変に潔癖やったから教えてもろてない。会いに行くにもそんな余裕ないし無理やって」
八つ当たりに近いその言葉に、クソオヤジはゆっくりと答えた。
『……東京におる。お前の卒業を見届けてすぐ、東京に引っ越したんや』
「え……」
ゆき先生が? 東京に? その問いは口から出なかった。何も教えてくれなかったから、というのもある。それをまずこの男が知っているというのが気持ち悪い。
『僕からは、雪枝さんの連絡先は言えん。個人情報やからな……』
「知っとるんがキモい」
『そ、その言い種は……まあ、分からんくもないけども……』
母以外の女だけでは飽き足らず、ゆき先生にも手を出していたらぶっ殺すだけじゃ済まさない。その意思を込めて私は聞いた。
「ゆき先生には手ぇ出してへんやろな?」
『出すわけないやろ! はーさんにぶっ殺されるわ!』
反射的に答えた言葉に、クソオヤジは息を呑んでいた。どうやら口走ってはいけないことを言ってしまったらしい。
「……はーさん? ああ、母親のこと? 他の女にも手ぇ出してたくせに生きとるんちゃうん、あんた」
『……か、返す言葉もないわ……けど、誓ってええ。雪枝さんには手ぇ出してない』
「『その人』には出したってこと?」
イライラした。問い詰めてやる、と思った。そうだ。こうして連絡してくるぐらいなのだ。お金なんて貯めなくったって、聞けば分かるはずなのだ。
『言わん……言えん』
「『その人』が私の産みの親?」
『それは違う! お前を産んだんは
玻澄。それは母の名前だった。それが本当であるならば、何故私は売女の娘と張本人から呼ばれなくてはいけないのか。だから自然と私はそれが嘘だと断じていた。
「嘘つき! ほんまは、ほんまは違うのに何でそんなこと言えるん!」
『嘘やない! お前の父親は僕で、お前を産んだんは玻澄。それだけはほんまや。そんなとこで嘘なんか吐いても意味ないやろ』
「じゃあ何で私は売女の娘って呼ばれんなんの! 他に女がおらんかったらこんな呼ばれ方されへんやろ!」
と、そこで昂った感情に冷や水を被せるようにウィンドウに警告が表示された。騒音認定寸前のアラート。このままだと罰金である。慌てて声を抑えるように深呼吸する。うまく息が吸えない。
『……玻澄……あいつ何考えて……いや、考えてへんのか……』
「自分の節操なし棚に上げんなや」
『むぐ……と、とにかく。困ったらちゃんと教えてや。こっちから雪枝さんに話はしてみるから。思い詰めんでも、あの人はお前の味方やからな』
「……知っとる」
言われなくともゆき先生が味方だ、なんてことは分かっていた。けれどもなんとも言えない気持ち悪さが胸のあたりでもやもやしている。これが何なのか、私には分からない。
強引に話を切り上げて通話を終えたクソオヤジは、その後しばらく連絡してくることはなかった――