Aphananthe Aspera   作:針島

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 あれから少し経って。私は根本的な電気代節約のために公共施設に滞在することに決めた。イナホの充電代を削減するためだ。政府はイナホを強制的に普及させた時、公共施設にもてこ入れしたのである。イナホ限定非接触型充電室を公共施設に備え付けたのだ。イナホの普及からそこまで時間は経っていないものの、ここは流石東京都と言うべきかその充電室が豊富に揃っている。

 そして、私が選んだのは大学への通り道にある図書館だった。何故かヒエログリフが透かし彫りされた金属板で装飾されている瀟洒なレンガ造りの図書館は、誰でも利用出来るというという理念を持つからかいち早くその部屋を取り入れていたのだ。ちょうど建て替えの時期も来ていたのかもしれないが、東京都でも一二を争うレベルで早く実装されたらしい。

 心理的に少し入りにくい自動ドアを抜け、登録コーナーと書かれた円筒状のスペースに入り込む。するとイナホに図書館からアクセスがあって、案内を開始して良いかどうかの許可を求めてきた。

『案内を開始しますか?』

「お願いします」

 返答は肯定の意であれば大体通じることになっている。技術の進歩というよりはレスポンスの入力による進歩らしい。すると、少し低い柔らかな女性の声が案内を始めた。

『ようこそ図書館へ。こちらは東京都、関口図書館分館(ブランチ)です。利用者さまのイナニスフォン登録情報にアクセスし、利用パスを作成いたします。イナニスフォン登録情報へのアクセスにご了承いただけない場合、お手数ではありますが総合受付カウンターへお越しください』

 アクセスへの許可を求められたので了承の意を伝えると、またアナウンスが続く。

『……確認しました。利用パスを発行するにあたりまして、確認させていただきたいことがあります。お手数ではありますが、総合受付カウンターへお越しください』

 そして視界に表示されたのは矢印だった。どうやらそのカウンターへ向かわねばならないらしい。理由は良く分からないが、もしかして利用パスの発行に問題があるのだろうか。それとも皆そうなのか。アナウンスはハイドモードでしか立ち上がらないので周囲を見回しても分からない。

 矢印に従って総合受付カウンターへとたどり着くと、古い児童書に目を落としているスタッフがいた。セミロングの髪を後ろで束ねた中年女性だ。あまりに熱心に読み込んでいるからか、近付いても気付いてもらえていないようだ。

 覗き込みながら声を掛けてみる。

「あの」

「……へ? あ、はい、どうぞお掛けください」

 ぶっきらぼうにそう告げた女性は児童書を閉じて私に向き直った。何だかあまり感じの良くないひとだ。視線が合わないのも気になるけれど、このご時世これは普通だった。パソコンなどの端末関連は全てイナホが成り代わっていたからだ。視線は基本的に合わせないもので、対応するためのイナホのウィンドウを見ているのが基本だった。

「えーっと、登録Bコーナーからの……はぁ」

 とはいえ、不審なものを見る目でじろじろ見られるのは気分のいいものではない。

「失礼ですが、イナホの初期登録と今のご登録が違っちゃってるみたいなんですけれども、なにかお心当たりありますか?」

 ざっくばらんにそう問うてくる女性は何だか無遠慮で距離が近すぎるように思う。一応お客であるのだから、もう少しこう、あるだろう。

「違ったら何かあるんですか? というか、図書館でそんなこと分かっていいんですか?」

「いえ、その、最近イナホの乗っ取りですとかそういう事態が頻発しててですね、念のための確認なんですけど……」

「は?」

 その薄味の顔には疑念がたっぷり盛られていた。念のための確認でこんな犯罪者みたいな扱いを受けなくてはならないんだろうか、図書館って場所は。心当たりはある。改名したからだ。だからといってここでそれが相手に伝わるとも思っていなかったし、それが何か問題になるとは思ってもみなかったのだ。

「何で違うんでしょう?」

 疑念たっぷりにそう問われても困る。私はそれを女性に説明しなくちゃいけないのだろうか。あまり触れられたくない問題を、自分から、しかもこんな失礼な女性に。

「……理由を貴女に説明しなくちゃいけない理由って何ですか?」

「それが、本人確認が出来ないと利用パスを発行出来ないんです」

「それは分かります。でも、初期登録のあとに申請を出してちゃんと行政に変更は通ってるんですよ。だから初期と今とでは違って当然ですし、これまで他のところでこういう聞かれ方をしたことないんですけど。図書館だけ何か厳重なんですか、そういうセキュリティ的なのって」

 捲し立てるように言えばその女性は面倒そうに眉をしかめる。そんなことされたら、もう、駄目だった。こういう手合いは自分の中で正しいと思った物差ししか信じないからだ。わたしはそれを身に染みて分かっていた。この人は、わたしの言うことを信じる気はない。

「何でそんな面倒そうにするんです? 私、変なこと言ってますか?」

 ここは図書館、ここは図書館と内心で繰り返して落ち着こうとはするものの怒りがおさまりそうにない。何故ならその女はやっぱり面倒そうに言ったからだ。

「済みません」

 まったくもって謝罪する態度ではない。もう苛立ちを抑えなくたって構わないだろう。

「……謝罪は別に求めてないんですが。取り敢えず、学生証で良いですね?」

「は、はい」

 苛立ちながら学生証を提示すると、何故かまだ怪訝そうな顔をしている。これ以上譲歩させられるような何かがあるとも思えないが、何を疑問に思うことがあるのだろうか。

「まだ何か?」

「あ、あの……以前ご登録いただいたことありませんか?」

「は? 初めてですけど?」

 初めてだから利用パスを発行しに来たのだが、この女は何を言っているのだろうか。

「ええっと、でも、以前にご登録いただいたようなデータが残っていて……」

「……はい? いや、初めて来ましたけど、ここ」

「子どものときとかにいらしたこともないです?」

「ないですが?」

 もう面倒だった。他の施設を探そう。流石にもう無理だった。ここまで身に覚えのないことで馬鹿にされてそのまま利用しようだなんて思えない。そうして用意されていた椅子から立ち上がろうと腰を浮かした瞬間。

「大丈夫そう……ではないですね」

 ひょっこりと顔を覗かせた眼鏡の女性が後ろから失礼な女のウィンドウを見ていた。その仏頂面には感情が浮かんではいない。

「あ、ゴエさん」

 ゴエというらしい女性は顔色ひとつ変えずウィンドウの確認を終えると、冷ややかに女を睨み付けた。

「職務中にあだ名で呼ばない。……臼井さんここ変わります」

「え、でも」

「時計見て。何回も言ってると思うんですが、集中しすぎです」

 冷淡な言葉は失礼な女に刺さったらしい。ただ食い下がる様子だけは見せた。

「あの、せめて横で……」

「いいから、事務室行っててください」

 コンコンとインカムを叩いたゴエは、そうして以降、臼井とかいう女を見ることはなかった。渋々と去っていく臼井に背を向け、ゴエは深々と頭を下げる。

「対応変わりました竹野と申します。この度はこちらの不注意と不手際でご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」

 その臼井とゴエの対応は全く違いすぎて私は混乱した。その温度差で風邪を引いてしまいそうなほどだ。ついでにゴエはどこから出てきた、どこから。

「……ど、どういうことです?」

「説明の機会をいただけて幸いです。まず、イナホの初期登録との齟齬の件ですが……トラブルも確かにあるんですけれども、結婚離婚改名など、戸籍に変更があった方は軒並み引っ掛かってしまうんです。それも引っ越しされていれば尚更」

 それはめちゃくちゃ不便では。思わず突っ込みそうになったが、話を続けてもらう。

「前の居住地と都道府県が同じであればギリギリ修正情報が回るそうなんですが、修正情報の申し送りが膨大過ぎて後手に回っているのが現状だそうで……行政の対応待ちをしているところなんです」

「行政……」

「加えて私事ではありますが、先程のものは病気休暇から戻ってきて初めてこのシステムを知りまして。本日初めて齟齬によるエラーを見てパニックを起こしていたようです。申し訳ございませんでした」

 本当に私事だった。臼井とやらはどうやら性悪説に基づいて生きているらしい。ぶっちゃけどうでも良いし、学生証で確認が取れるならもうそれで良い。それですら確認が取れないというのなら、もう来る気も起きないだろう。

「はぁ……あ、でもじゃあ学生証見せたのにまだ何か言われたのは何でなんです? 前に登録したデータなんてあるわけないんですけど」

 それについても解説してくれるのだろうか。まあ、納得出来ようが出来まいがあの人には二度と当たりたくないが。

「そちらにつきましては行政ではなくこちら側のミスです。新規……っと、利用パスの発行ですが、イナホが導入される以前は全て手書きの手入力登録を行っておりまして。以前勤めていたスタッフが研修用にと自分の名前を弄った架空の情報を手本として使っていたんです」

「自分の名前を……? え、昔川越ってスタッフがいたってことですか?」

「はい。しかも生年月日をでたらめにしたもので、それがどんな偶然なのか年月日が同じになってしまったんです」

 どんな偶然だ、と思わず突っ込みかけたが、手書きされたものをアーカイブしていたらしい画像で示されたその登録情報は確かに見間違いそうなものだった。

「R5とH5ですか……しかもHの上汚れてるし……」

「ええ、当人はHのつもりで書いたらしいんですが、研修で何故かRで登録したらしく……字が汚すぎて名前も見間違えられたそうで……これまた更になんですが、どんな天文学的数字なんとは思うわけなんですけれども、登録までやらかしたスタッフがいたようでして」

 川越ゆ()、H5/3/17。住所こそ違えど、確かに見間違いそうだった。とはいえ間違われた側としてはたまったものではない。

「それはなんか、マズくないです? 情報管理とか、諸々」

「ええ、非常にマズいです。具体的には始末書三枚確定しているくらいには」

「……竹野さんの?」

 この人が書くわけではないだろうが、作業が大変そうなのは良く分かった。だって竹野さんの顔が死んでいる。手は裏腹に激しく動いているようだが。

「わたしの分を合わせるとちょっと降格で済まないかも知れませんが……まあ、それはそれといたしましてですね」

 すい、と指がスライドされて、イナホに通知が来る。図書館利用パスのアクセス許諾だ。

「もしよろしければご利用いただければ幸いです」

「あ、ありがとうございます……」

 ここまで面倒なことになったのだから、むしろもっと面倒な手続きが必要になるかと思ったのにそれはあっさりと手に入ってしまった。ここにまた来るかは別の話だが、手間が省けたというべきなのだろうか。複雑な顔で許可ボタンに触れると、竹野はほっとしたように表情を緩めた。

「こちらは関口ブランチと呼称している分館となっております。関口ブランチではレファレンス、お探しもののお手伝いとニュースの閲覧、芸術関連の書籍を取り扱っております。その他の現物資料をお求めの場合は、大変申し訳ございませんが基本的に取り寄せは行っておりません。どのブランチが所蔵しているのか、というご案内は行っておりますのでお気軽にご相談ください」

 怒涛のような説明に、スライドで利用案内が共有される。

「それと、差し出がましいようですがお住まいの場所から比較的楽にご利用いただけるブランチがございます。川沿いにメトロ駅方面へ向かっていただければ、写真集と建築関連の書籍を取り扱う水道ブランチがありまして、そちらですとあの長い階段坂を利用いただかなくとも図書館分館をご利用いただけるようになっております」

「あっちですか……通り道じゃないんですよねぇ」

「なるほど……あともう一つ、一応他管轄の鶴巻ブランチも付近にあります。こちらも恐らくは通り道ではないかとは思いますがご案内しておきますね」

 ざっくり利用案内を見る限りでは、特に困ることはなさそうだ。目的の非接触型充電室も申し込み制ではあるものの利用出来そうである。芸術書には余り興味がないが、たまには良いだろう。

「あの、充電室って……今からでも申し込み出来ますか?」

「充電室は……今からご利用されますか?」

「はい」

「空きは……うん、ありますね。1-Fブースに空きがありましたので確保いたしました。基本的には一時間のご利用となっております。他にご利用の方がいらっしゃらなければそのまま閉館までご利用いただけます。他にご利用の方がいらして満室になっている場合、入館された順にこちらからお声がけいたしますので速やかに利用を停止していただけますと幸いです。その後もう一度ご利用いただくことも可能ではありますが、利用パスの都合で一時間はご利用いただけなくなっておりますのでご了承ください」

 やはり怒涛のような説明があって、何となくしか理解は出来なかった。取り敢えず使えて、待っているひとがたくさんいなければずっと使えるという認識で良いだろう。

「次回より都内充電室統合検索をご利用いただけます。利用パスがあればすぐに申し込みが出来ますのでご活用いただければ幸いです」

「あっはい」

「……長々と済みませんでした。お手数ではありますが利用案内にも目を通していただければ幸いです」

 椅子から立ち上がった竹野は丁度わたしと同じくらいの背丈だった。

「充電室1-Fはこの階にございます。このまま左に曲がっていただきまして突き当たりのブースとなっております」

「……あの、ありがとうございました」

「いえ、また何かありましたらお声掛けください」

 不器用そうなぎこちない笑みを浮かべ、竹野はわたしを見送ってくれた。それが誰かに似ているような気がしたのは――きっと、気のせいだった。

 

 *

 

 あたしが彼女に名前を変えさせたのは、苦しむ姿が友人と被ったからだった。世界一大切な親友も、同じようにおかしな名前で苦しんでいたから。DQNだとかキラキラだとか、そんなものはどうだって構わない。ただ、あの子が苦しんでいたから。そしてその子も苦しんでいるから。だからあたしは全力を尽くしたのだ。教師として、そして親友として。

 子どもは親の所有物ではない。そうはいえども親がいなければ自立出来ないのもまた事実だ。金銭的に独立出来ないうちは、子どもは親の所有物に成り下がるしか生きる術がない。経済力。それは子どもを物に貶めるひとつの指標ですらあった。

 高校生だったときのあたしは、どれほどこの手に札束が欲しいと願っただろうか。両親は不仲で、中学から高校に上がるときに離婚したけれど。どちらにもついていかないという選択肢はあたしにはなかった。だから選んで、母についていって、そうして家事を担うようになった。アルバイトも始めた。当然だった。そうしなければ生きていけなかったからだ。

 支えてくれたのはひとりの友だちで、彼女がいなければあたしはここにいない。まあ流石に別に金銭的に支えてくれたってわけじゃないんだけど。精神安定剤みたいなものだ。疲れたときには愚痴を聞いてくれて、受験勉強も一緒にしてくれた。お互いに志望校は違ったけれど、大学にだけは必ず行くのだと誓っていた。

 

 そうしなければ、あたしたちに生きる術がなかった。

 

 養育費なんて払われることもなかった。母はいつもギリギリを生きていたから、あたしたちに皺寄せが来るのは当然のことだったのだ。だから、妹のためにもあたしが家を出なくてはならなかった。より稼ぎのいい東京の企業に勤めるだけのマージンなんて積めない。遠方への引っ越しのリスクだってある。だから、あたしは公務員か教員。どちらかになると決めていた。

 その二択で教員を選んだのは友だちの言葉があったからだ。

『ゆきちゃんには、公務員よりも先生の方が向いてそうやと思うよ』

『えー? はーやんはどうなんさ』

『わたし? わたしは……せやなぁ、出来ることをやるだけや』

 そう言ったはーやんは苦笑して、遠くを見ていた。今なら分かる。あの子は、分かっていた。自分が社会府適合者なのだと。どれほど周囲から高評価を得られたのだとしても、それは何度か接触した人間にしか理解出来ないものなのだと、きっと分かっていた。本人の致命的なまでの自己アピールの下手さ。そして、周囲の人間ほど彼女を評価する。本人の認識とは全くズレたところで。それが、彼女の人生を狂わせていたに違いない。

 思えば兆候はあったのだ。

『わたしは空っぽやからな』

 口癖のようなこの言葉が、はーやんにいつまでも呪いのように纏わりついていた。だから、あたしが何とか大学を卒業して母校に就職が決まっても。あの子は大学しか卒業出来ずに家に囚われていた。はーやんは一度ももう頑張れないとは言わなかった。けれど、限界は近かったはずなのだ。

 切欠があれば。そう思い続けて、けれども手は出せなくて。やがて先生としての職務に追われて気にしてあげられなくなった。たまに会う程度。けれども見るからに目からは生気が失われていくのが分かった。どうにかしてあげたかった。けれどどうにかしてあげられるだけの稼ぎは、あたしにはなかった。

 そうしてしばらくして、はーやんは就職を決めた。詳しくは聞かなかったけれど、家族とは喧嘩別れして妹に連れられて東京に出たらしい。その頃にはもうほとんど会えていなくて、あたしも色々あったからただ就職おめでとうとしか伝えてあげられなかった。

 東京に行ったはーやんは、どうしていたのかは分からない。ただずっと心配はしていた。帰ってこないのだ。喧嘩別れしたから、とか。感染症が流行っていたから、とか。そういう理由じゃなくて。もっと別の理由があって、帰ってこなかった。

 

 はーやんは、故郷っていう概念なんか、帰省の安堵感とか、そういう感情を知らなかった。だから、帰るという考えすらなかったんだろう。

 

 物理的に距離が離れてしまったから自然と会わなくなって。あたしの方も妹を大学卒業までさせて。妹は就職したら家に寄り付かなくなって、母の面倒はあたしが見ることになった。その頃にはもう、母には若年性のアルツハイマーの兆候があって、ほどなく発症した。今度は介護に追われることになった。仕事は正規から非常勤にならせてもらった。

 毎日が戦場だった。辛くて、家出したいとも何度も願った。でも出来なかった。逃げたら母が死ぬ。だから、逃げられなかった。仕事に行くのも辛い。仕事の間は行政に頼ったけれど、少しも楽になんてならなかった。帰れば逃げられない現実が待っている。

 妹は家に寄り付かなかったけれど、幸いなことに口を出すことなく金銭的に負担してくれた。それがなかったら二人で首を吊っていただろう。その地獄のような生活が四年ほど続いて、唐突に終わった。施設に入れられたからとかそういう理由ではない。母が通り魔に刺されたからだ。

 葬儀をやって、ハイエナのように遺産を狙う親戚連中をかわして。家を売って、小さなアパートに住むことにして。一年休職することにして、落ち着いたときにはもうどうしようもないほどに疲れ果てていた。

 

 あたしの人生って何だったんだろう。あたしって、自分のために生きていたんだろうか。

 

 三十路に突入してしまったあたしに、これから新しく出来ることなんてもう何にもないような気がして。結婚はおろか恋人なんて作りようもなくて。妹も家を売った金を半分持っていったあとあちらから縁を切られてしまっていて。もう、ひとりぼっちだった。縋れるものなんて、もう。

 もう、終わりにしてしまおうか。そう思ったときだった。鳴ることなんてないと思っていたスマホが、鳴った。液晶に表示されているのは『はーやん』の四文字。見間違えたかと三度見したが、間違いでも何でもなかった。

『……どしたの?』

 通話に応じたのは気紛れからだった。

『急に連絡してごめんな……えーっと、何や、ゴールデンウィークにそっちにちょっと帰ることになって。会えたらな、と思うわけなんやけど……時間あったりする?』

『……まあ、あるんちゃう? 今ちょっと色々あって非常勤やし……』

『そっか……』

 沈黙。けれどあたしはこの沈黙は嫌いじゃなかった。はーやんは、言葉を選ぶのが超絶に下手くそなのだ。あと電話をかけるのも。だから、今こうして話しているのはそこそこ奇跡レベルの事態なのだ。

『……てか、ゴールデンウィークて。めっちゃ混むで?』

『分かっとるけどまあ……そこしかまとめて休み取れへんからなぁ。ゆきちゃん的にはどのへん空いてそう?』

『うーん……最終日辺りならまあ?』

『……んじゃ、最終日に。いつもの場所でええかな?』

『駅前公園な。ええよ』

 この他愛ない会話が、一生後悔する羽目になるなんて。あたしは思ってなかった。ただ、はーやんに会えるなら。もう少しだけ生きていようって思っただけで、何も考えなかった。考える余裕がなかった。

 ゴールデンウィーク。その最終日にファーストフード店で会ったはーやんは、少し顔色が悪かったけれど。でも、前と変わらなかった。何も。下手くそな化粧も。下手くそな笑顔も。聞き上手なところも、何もかもが変わっていなくて、安心してしまった。

 

 だから、あたしは何か変わっていて欲しくて。不用意に聞いてしまったのだ。

 

『で、相変わらず彼氏はおらんの?』

 おらんおらん、おるわけないやん、って返ってくると思っていた。それこそいつものように。けれど、はーやんの顔は真っ白だった。

『……どした?』

『……もう、ないよ』

『……え?』

『もう、そんなん、わたしには……持つ資格ないよ』

 ぐしゃりと歪められた顔は、それがはーやんの本心からの言葉だと告げている。

『何か……何があったん』

 自分もいっぱいいっぱいだった。けれど、それ以上にはーやんの精神状態は限界を超えていた。

『……はーやん?』

『ごめん、こんな……こんなつもりやなかった……』

 その様子は、昔ずっと口癖のように言っていた『空っぽ』にぴたりとはまってしまうようで。

『どしたん、ほんま』

『……いつもみたいに……このまま『またな』って……それで全部、終わろうと思とったのに……』

『……何、言うとるん……終わるって……』

『何でこんな……っ、大したことあらへんのに……っ!』

 歪んだ顔のまま、止めどなく流れる涙を見て。あたしは分かってしまった。はーやんも、終わりにしようと思っていたのだと。自分を――死ぬことで、終わらせようと思っていたのだと。

 そんなのは、嫌だった。だからあたしは手早くトレーを片付けると、はーやんの手をとって強引に連れ出した。

『ゆきちゃん……? どこ行くん?』

『黙ってついて来いや』

 頭に来ていた。自分のことを棚にあげて、あたしははーやんに怒っていた。あたしははーやんをそのまま強引に自分の安アパートに押し込んで、鍵を閉める。部屋の中にはほとんど何もない。必要最低限のものを残して処分してしまったからだ。

 そして、自分のことを棚にあげて、あたしははーやんをめちゃくちゃにした。

『ちょっ、ゆきちゃ、まっ……』

『待つかいボケ。大人しゅうしとれや』

『――っ!?』

 泣いても謝っても赦してなんてあげなかった。ただただ苛立たしくて、はーやんがそんなことを口走らなくなるまで啼かせた。それがとんでもなく気持ちよくて、行為に溺れた。そういう性癖がなかったとは口が裂けても言えないくらいに、あたしははーやんに――()()に溺れた。

 そうして全部聞き出した。全部だ。今までのことも。行為の途中で見つけた傷跡のことも。全部。そこまでしなくとも話してくれた確証がない。酒に酔わせたのだとしても、恐らくは聞けなかった。事故のようなものだった。

『……あの、()()?』

『何やの。謝らへんで』

『いや、んなこと求めてないけどや……本気なん?』

『何がよ』

『……()()()のことや。何や見るだの何だの言うとったやん……』

 事後に焦点の合わない目でそんなことを聞いてきた玻音に、湿度の高い目を向ける。

『見るよ。当たり前やろ。あたしは玻音を貰うつもり満々やからな。そこに責任持つんも当然や』

『もっ……いや、わたし貰われるん? 他にもっとええのおるやろ……』

『あ? もっかい啼かせたろか?』

『ひぇ……』

 伴侶が欲しいと願ったことはなかった。けれど、それが玻音であるのなら。別にそれはそれでいいかと思った。

『こっち……戻る気あらへんよ?』

『構わん。長うても六年程度や。その程度であたしらは変わらん』

『そりゃあ……せやろけどもさ……何やろうなぁ。多分、わたしには無理なんやと思う。そういうのはさ。せやから全部縁切ってきたわけやしさ……やし、気にせんでええんやで?』

『あたしが気になるし、あんたもそこまで割り切れるわけないで。自分で思っとるよりあんたは情ありまくりなんよ』

 それだけは断言出来たけど、玻音は首をかしげていた。やっぱり分かっちゃいなかったのだ。普通は、あそこまでされて縁を切るだけで済ませるわけがない。復讐してしかるべきだ。それをしないのは、やっぱり玻音に情があるからだと思うのだ。

 そしてそれは当たっていた。娘だと分かった子どもが成長して。あの最低女が、自分から欲しがったのに貶めるようになったから。玻音が気が気じゃなさそうにしているのを知っていた。だから、あたしは最低女が取るだろう手段を推測して常勤の教師に戻ったのだ。

 川越宙衣。そんなふざけた名前のあの子は、間違いなく玻音の娘だった。必要以上に自分を貶め、他人のために動くことしか出来ない少女。顔はともかく中身はそっくりだった。だから、まずは玻音が叶えられなかったことを叶えることにした。改名。そして、信頼出来る大人。その機会を与えた。

 育て直している気分になった。玻音が『玻宙』から『玻音』になるまでの過程を、ゆいちゃんで早回しで送らせている気分に。どんどん素敵な少女になっていく。それが玻音に与えられなかったことに、嫉妬してしまいそうになる。嫉妬が燃え上がる度に、あたしは玻音を侵食するがごとく啼かせた。結婚して改姓させた。何かに囚われたままのような長い髪を切らせた。あたし好みに染めていった。

 けれどもあたしはそんなどろどろした気持ちを隠し通したはずだ。ゆいちゃんが卒業するまで、見守ってあげられたはずだ。母親のように支えられたはずだ。勿論あたしだけで支えたわけではないけれど、ゆいちゃんは見事に彼女の望み通り東京の大学に入学出来た。

 

 後は、三人でハッピーエンドを迎えるだけのはずだ。その時は近い。

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