図書館の充電室は本当に快適だった。食べ物を持ち込んではいけないことと、撮影などには使えないことを除けばプライベートが完全に守られるからだ。思う存分に充電出来て、本当に家には寝に帰るだけになってしまった。あれから関口ブランチの嫌味な女にも会ってはいないし、何なら少しだけあの竹野さん――のんさんと仲良くなってしまった。
のんさんは、聞けば昔私と同じように節約生活に励んでいたらしい。もやし生活は当たり前で、賄いのあるアルバイト最高、なんて言いながら生活していたらしい。近くの無料開放されている庭園の中で二人してペットボトルに詰めた水道水を飲みながら談笑することさえあった。
「そうそう、当時はもう少し物価が安くてねー。納豆三十円! なんて言ってたら同僚のおねーさまに『それは納豆じゃない!』なんて言われたりしてねぇ」
「やっすぅ……え、納豆ってあれすごい味しません? 掃除した後の生乾きの雑巾の味」
「あー、納豆オムレツにしたらわたしもそう思うかも。まあでも、納豆卵かけご飯の方が好きだなぁ」
「内容物変わらなくないです、それ?」
「それはそうー」
そんな他愛ないことで笑い合いながら、私たちは急速に仲良くなっていった。私も苦しい生活の中で癒しになっていたし、のんさんものんさんで迷惑そうにはしていなかったから嫌われるようなことにはなっていないはずだ。不思議だった。ひとと仲良くする方法なんて、知らなかったのに。のんさんは一緒にいても心地良い。
ある日、私はついに言ってしまった。
「のんさんって、へんな人ですね」
「そ、それは酷くない? まあ否定は出来ないけど」
「出来ないんですか……」
「ん、まあ……そうだねぇ。よく、変わった人だな、とは言われるねぇ」
変、というよりは不思議な人だった。距離感がすごくちょうどいいというか、そこにいて当たり前というか。ものすごく変な話なんだろうけど、普通のお姉ちゃんがいたらこんな感じなのかもしれないと思った。玻瑠璃じゃない、普通のお姉ちゃんがいたら。
だけどのんさんはやっぱり普通の人ではなかったらしい。
「基本的にわたしはこうやって、誰かと喋るのとか苦手なはずなんだけど……ね」
「あ……近すぎますか?」
「ううん、そんなことないよ。何だろう……ゆいさんは何か、トクベツみたい」
そうして空を見上げて、のんさんは不器用に微笑んだ。
「ずっと、人の気持ちが分からない空気の読めないやつだーって言われてきたの。そんなの、自分の気持ちもまず分からないのに、他人のなんて尚更分かるわけないじゃない。みんな分かるふりしてマウント取ってるんだって、思ってた」
「それは……」
「でも、違ったんだよね。感受性の問題なのか、わたしがサイコパスなだけなのかは知らないけど。確かにみんなは誰かに共感してるみたいだったから。わたしがポンコツなだけ」
誰かに共感出来ないのだ、とのんさんは言う。だけどそんなのは当たり前のことなんじゃないだろうか。誰かに必死に合わせて、誰かをはみ出しものにしないと自分がそうなってしまうから。それが嫌だから苦手な人を爪弾きにしたいだけ。そして弾かれるのは、共感できないやつだ。
「わたしは誰かに合わせるのが苦手。誰かに理解してもらえるだなんて思ったこともない。コイバナなんてもっての他だし、誰かを好きになるなんて、誰かに好きになられるなんて有り得ないって思ってたの」
その気持ちはすごくよく分かった。誰かに合わせられるだけのスキルもないし、私をちゃんと理解出来る人なんているわけがないって思ってた。ゆき先生でさえ、きっと私のこのどろどろした気持ちを理解してはくれないと思っている。これを受け入れてくれる人じゃないと、きっと私は前に進めないから。
「すき――たった二文字なのにね。その言葉を受け入れるのは、わたしにはとっても難しいことだった。だって言われたこともないし、言いたいとも思わないし、その陳腐な言葉で全部誤魔化されるっていうのがたまらなく嫌だった」
――好き。それは、人として好きだとゆき先生が言い続けてくれていなければ、きっと私も拒絶していただろう言葉だった。誰かが定義する『好き』は、いつも押し付けが多分に含まれていたから。
「……今は、違うんですか?」
「たった一人だけだよ。重たいやつだって思うかもしれないけど、あの人の『好き』しかわたしは受け入れない。そう、決められたのは……ゆいさんのおかげなのかもね」
「え……?」
私が何かしただろうか。特に何かしたわけではないと思うけれども。
「ゆいさんと話すようになるまで、わたしにはずっと決められなかったことがあるの。とても大事なことで、どう決めても後悔する。そんなことが」
「そう……なんですか?」
そんなことを、この人は私のおかげとやらで決められたのだろうか。それはいったい何なのか。それを知ることは出来ない。だって、私ものんさんと同じだから。他人に共感することなんて、誰かと分かり合うことなんて、ずっと昔に諦めたことだから。
「そうなの。だから、わたしはこのまま、ありのままでいようと思った――別人を装うなんて、そもそも無理だったしね」
「はあ……?」
「わたし、自分勝手なの。自分勝手に誰かの存在で救われて、だから今度は調子に乗って手を出しちゃう」
伸ばされた手は、誰かのものと重なって見えた気がした。それが誰のものなのかは分からない。それでもその手は悪いものではなくて――
「――何か、悩んでるでしょう?」
「……それ、は」
「話したくないなら、話さなくったっていいけど。わたしはいつでも聞くからね、ゆいさん」
その笑みが、私の意識に染み付いた。不器用で、きっと他の人が見たら仏頂面なんだろうけど。私から見れば確かに笑顔に見えるその笑みが。
私は、結局その日全てを話すことは出来なかった。
*
イナホが鳴ったのは深夜だった。相手はつきねぇちゃん。そして、表示されたコミュアバは二つ。つまり向こうの通話に追加で参加させられた形だ。それが誰なのかは、ほどなくして分かった。
『……正気かつきちゃん』
『もう繋がっとる。やっほー、ゆいちゃん。スペシャルゲスト用意しといたで』
「どしたん、つきねぇちゃん。酔っ払っとるん……?」
やけに陽気なつきねぇちゃんからの通話に紛れ込むもう一人の声は。電話では聞いたことのないその声は。
『酔っ払っとるわけやないよ――怒っとるんや』
「へ……?」
『よしさんに――あのクソヤロウに全部聞いた』
冷えた声が、陽気なコミュアバから響くのは軽くホラーでさえある。あのクソオヤジがいったい何をつきねぇちゃんに言うというのか。それすらも分からない。
「えーっと、どういう……?」
『あとゆきねぇちゃんからもや。黙ってんとちゃんと喋りぃ』
『……その、久し振り、川越さん……ゆいちゃんって呼んでええ?』
躊躇いがちなその声は、間違いなくゆき先生のものだったのだ。
「ゆき先生? 何でつきねぇちゃんと……? 知り合いなん?」
『い、色々あって……ね。ちょっとつきちゃん、やっぱり直接――』
『いや衝撃でか過ぎて無理やろ。私でも冷静になれん』
これは相当に怒っているらしい。コミュアバが感情を読み込めなくてバグっている。
「あの人に何聞いたん……?」
『全部や。あと、ゆきねぇちゃんにも聞いた。今あのくそったれ姉貴に払てる仕送りいくらや、ゆいちゃん』
「へ? え、さんまん……?」
素直に答えてしまったが、そもそも答える必要なんてなかったはずだった。これは私の問題だからだ。イナホの向こうで二人が大きなため息を吐いたのが聞こえた。
『ちょっと奥さん、色々無理がなくて?』
『ふざけとる場合ちゃうがな……バイトの賄いで生き延びとるんやな、ゆいちゃん?』
そこまで話していないはずなのに的確に当ててくるのは何故なのか。
「うえっ!? な、何でそれを……」
『ゆいちゃんならやりかねん』
『以下同文。後は電気代とか諸々家におらんことで何とかしてそう』
「ぎくうっ!? な、何で分かるん!?」
顔をひきつらせて答えると二人は盛大にため息を吐いていた。
『ゆいちゃんならやりかねん。カマかけただけで引っ掛かるんはチョロくて助かるわぁ』
「酷くない?」
『いや、分かってはいたけど想定以上になぁ……会わせたことないやろ、つきちゃん』
『あるわけあるかい。あっちが望まんかったんや』
私には分からない話だ。けれど、それがとても大事な話であるということだけは分かる。
「何、言うてるん……どういうこと?」
その漠然とした不安は。
『当てたろか、ゆいちゃん。今節約しとるんは、金貯めるためやな――それも、DNA鑑定するための』
それを言い当てられたことで溢れかえった。何故それを知っているのか。何故。
「なっ……」
『やっぱりな。ゆいちゃんならやりかねんと思った』
無機質なコミュアバが二つ、エモートを停止してこちらを見詰めている。それが示しているのは怒りなのか、あるいは何なのか。分からない。
「何で……」
『分かるわ。でもな、無駄や。そんな無駄金使うくらいやったらちゃんとまともなご飯食べぇ』
「無駄金って……」
そんなことはないはずだった。それは、全ての真実を明らかにするはずだった。
だと、いうのに。
『ゆいちゃん。あんたの両親は戸籍上も生物学上もよしさんと姉貴――玻澄や』
つきねぇちゃんは、そう断言してみせた。そんなはずはないのに。もしそうなら、何故母は私を『売女の娘』と呼ぶのだろうか。何故親戚は『不倫の子』と呼んだのか。前提から全てが崩れていく。
「そ……れは、でも、おかしない? じゃあ、何で……っ」
『理由があるんよ……それも、軽々しく言うようなもんやない理由がな』
「にしてもっ! それにしてもや……! 産んだ本人が分かっとるはずなんちゃうんか!?」
そんなはずはないのに、不貞行為の末の子どもだという認識が生まれるなんて意味が分からなかった。産んだ本人が売女の娘と呼ぶのならば、母は売女であるはずなのだ。そして普通は自分のことをそう蔑むひとはそういないはずで、母はそんな自分の不利になるようなことを他人のいる前で口走るようなひとではない。
怒りで沸騰しそうな私に、つきねぇちゃんはゆっくりと告げた。
『口で説明するんは簡単や。事実だけを知るんも、やっぱり簡単や。でもな、ゆいちゃん。私が知って欲しいのは――気持ちなんや』
「気持ち? そんな、曖昧なもん――」
『あんたの真実は、あんたの気持ちで決まる。少なくとも私はそう信じとる』
曖昧な答えなんて私は欲しくなかった。誰もが認める不変の事実だけが私の欲するものだった。けれど、つきねぇちゃんはそれを角度を変えれば別物に変わるものだと言うのだ。
「そんな、曖昧なもんで決まるようなもんちゃうやろ」
『……二ヵ月後。池袋の劇場で公演する舞台、見に来て。そこに全部詰めるから。伝えなあかんことも、全部』
「それは……そこまでせんと、伝えられんことか、つきねぇちゃん」
『ただ事実を並べるだけで伝えたくないんよ。ゆいちゃんのためにも……もう一人のためにも』
『つきちゃん!』
『ええやろ、これくらい……前情報全くないんも、酷や』
もう一人。確かに今、つきねぇちゃんはそう言った。ゆき先生も、それを知っていて隠していた。そこにきっと大切な事実が隠れているはずなのに。それを、私はあと二ヵ月も知ることは出来ないのだ。
「何なんそれ……気持ちなんて……そんなん、いるんか?」
『いる。自分の気持ちも未来も蔑ろにしすぎなんよ、ゆいちゃんは』
今、どう足掻いてもこの人は答えを教えてはくれないだろう。けれどもきっと、二ヵ月経てば示してくれるのだろう。その舞台とやらで。
「……舞台の、演目は」
『――『
その不思議な響きの言葉の意味は分からなかった。その単語が何語かすらも。それでも、私はそれを手がかりにするしかないのだ。
この二ヵ月の間に、私は私だけの真実の欠片をかき集めておかなくてはならない。そうしなくては、きっとつきねぇちゃんの真実に呑み込まれてしまうから。
*
最初の娘を授かった時、僕らは本当に幸せの絶頂だった。可愛い娘と愛嬌のある妻。仕事は忙しかったが、それでも家族は円満だったように思う。皆が笑顔で、幸せそうにしていた。
妻と出会ったのは、絶望の淵にいてどこともなしにさ迷っていたときだった。たまたま騒がしい場所があって、ビールが売っていて、それをしこたま呑んで。気付いたときにはひっくり返っていた。解放してくれたのが玻澄だ。一目で恋に落ちた。それからすぐにどこかへ行ってしまったけれど、また同じような喧騒と野外ステージを探し当てれば必ずそこにいた。
何故玻澄がそこにいたのかと言われると、盛り上げ役としてステージに立っていたあられもない姿の女が彼女の妹であったからだ。京華はつき。今は引退して普通の女性になってはいるものの、当時はコアなファンがいる地下アイドルだった。その応援のためにいたらしい。
何度もそのイベント――オクトーバーフェストに通い、京華はつきのステージに通うようになって。どちらともなく付き合うようになって。そして僕からプロポーズした。
そんな愛しい妻に疑問を覚えたのは、両親に娘を顔見せしたあとにした会話だったように思う。
『次は玻澄のご両親に顔見せしに行かないとな』
『あー……せやな』
妙に歯切れの悪い返答。気が進まなさそうだったのに、浮かれていた僕は気付かなかった。
『いつが良いと思う?』
『あとで聞いてみるわ』
そうしてそのまま数ヵ月経ってもその日が来なくて。不思議に思っていたら急に呼び出されたのだ。車で向かったそのさきには、会ったことのない人が混ざっていた。
『……初めまして』
それが、僕と彼女との出会いだった。元々はつきさんに紹介されて玻澄と付き合うようになった僕だが、結婚式にも両家顔合わせにも彼女はいなかった。どうやら彼女は玻澄ととても折り合いが悪いらしい。
『ようやった! かわええなぁ、流石うちの子!』
はしゃぐ義母と、それを苦笑しながら見ている義父。さらにそれを遠くから見ているだけの彼女。実に不思議な光景だった。玻澄は玻澄で生まれたばかりの赤子――玻瑠璃を彼女に抱かせることはなかったし、彼女は彼女で玻瑠璃に近付こうともしていない。
そんな彼女に義母が笑って告げた。
『あんたも早よ結婚して孫見せてや?』
『相手おらんよ』
『ほな早よ彼氏でも何でも作っといで、ほんま要領悪い子やなぁ』
それに仏頂面のまま無言を返した彼女は台所へと消えていった。それを一瞥することなく義母は玻瑠璃を可愛がっている。そうしているうちにもてなしのためなのか冷えた乳酸菌飲料を入れたグラスを持って戻ってきて、暇そうにしていたらしい僕に聞いてきたのだ。
『お
『ああ、いや……お気遣いなく』
この後どこかのファミレスにでも寄ろうかと思っていたのでそう答えたのだが、玻澄はそうは考えていなかったらしい。
『何言ってるん、はちゅーの分際で。あんた作りや。あたしハンバーグがええなー』
『……はいはい』
そのまままた台所へと消えていって、僕らはまた義母たちの相手をすることになって。一時間ほどそうしていただろうか。なんとも言えないいい匂いがしてきたのはそんな時分だった。
『お、出来てきたな』
『や、何か手伝ってこようか……?』
『いらんいらん、はちゅーにやらせとけばええねん。どうせ穀潰しなんやから』
赤子の世話で手一杯なのは分かる。気分転換になればと連れ出した側面もあるからだ。しかし、それはこうして妹を蔑んでいいことにはならないのではないだろうか。迷っているうちに食卓にはハンバーグとサラダ、そしてコンソメスープが並んでいく。
並べられた皿はどう見ても四人分で、並べ終わった彼女は玻澄から玻瑠璃を受け取った。
『預かっとく』
『ん』
そうして別室に去っていく背に、僕は追いかけて声をかけてしまった。
『あの、一緒に食べないんですか?』
『……抱いたままでは食べられないでしょう。たまにはゆっくり食事してくださいな』
乾いた声で言って、彼女は振り返ることなく玻瑠璃をあやしていた。
『よしさーん! 何しとんのー?』
『あ……』
『行って下さい。行かないとねーさんは面倒ですよ』
一瞥することもない。ただ、やらなくてはならないことをこなしているだけ。もやもやした気持ちを抱えたまま食卓に戻り、存分に舌鼓を打った。そうすることしか出来なかったのだ。料理しか僕は楽しめなかった。
義母からは、いかに玻澄が素晴らしい娘かを演説された。玻澄はそれを満更でもない様子で聞いていて、義父はほとんど話すことなく黙々と食事をしていた。誰も別室にいる彼女のことなんて、話題にもしなかった。必要な会話ではなかっただろうが、それでも不自然なほどその話題には触れられなかったのだ。
そうこうしているうちに夕方になり、結局玻澄はこの家にいる間玻瑠璃を抱くことはなかった。
『ほな、また来るわな』
『来るときは早めに教えてな。調整さすから』
『あー……うん、せやな、わかった』
帰り際にそんな会話をして、帰路について。それからしばらくは玻澄が実家に帰ろうとはしなくなっていた。僕も忙しかったし、何なら玻澄もそんな余裕はなかった。何故なら実家から戻ってから妊活を始めたからだ。
『玻瑠璃にな、妹か弟か欲しくない?』
『それは、うん、欲しいけど……』
『医者の言葉がなんぼのもんよ。あたしは欲しい』
実は、玻瑠璃を産んだときに玻澄は次の子は望めないかもしれないと宣告されていた。そもそも自然妊娠出来たのが奇跡のようなもので、更に難産の末に帝王切開で産んだからだ。夫婦生活が極端に減ったわけではなかったが、医師の言葉通り玻澄はその後五年も授かることはなかった。
そんな折のことだ。義母に呼ばれたのは。
『どしたん、急に』
『ええ話があるんや』
そうして告げられた言葉は、僕にとっては非人道的としか思えない言葉で。けれども義母も玻澄も乗り気だった。僕だけが消極的な反対をしていた。味方は、いなかった。義父も、口には出さないが賛成しているようにも見えた。仮にも娘のことだろうに、孫の出生が非合法とまではいかずとも非常にグレーなものになることを黙認するかのようだった。
僕は、結局それに反対し続けることなんて出来なかったのだ。
だから、というわけではないが、僕は償うように彼女を抱いた。泣いていた。嫌がっていた。そもそもが初めてのようだった。それほど若くもないはずなのに、彼女はそれを捨てられてはいないようだった。けれど、これが彼女にとって最初で最後であるはずだった。だから。僕は。最後の最後に、間違ってしまったのだ。
『あ、かんって……! 嫌っ……!』
制止の言葉はもはや遠く。最後まで致してしまった僕は、けれどその場で後悔することはなかった。これが最善だと思ったのだ。全てを奪ってしまうのならば、せめて形だけは残すべきだと。僕は頑なに信じていたから。
『あほ……このっ、あほ!』
勿論僕は彼女に怒られて、目立たないところを狙って殴られた。けれどもその考えを翻してくれることはなかった。僕は、彼女にこそ断って欲しかったのに。
次の日には彼女は出掛けていって、そしてそのまま奪われてしまった。そして、玻澄は念願の二人目を手に入れたのだ。奪われたものは二度と戻ることはない。そして、裏切ってしまった事実もなくなることはないのだ。
彼女は僕にされたことを誰にも言わなかった。けれど、僕は罪悪感から玻澄の顔をまともに見られなくなっていた。二人目が生まれて、その子のこともまともには見られなかった。二人目の、その子には。彼女と玻澄が姉妹であるからか、彼女の面影が濃く出ていたからだ。
玻澄はそれに気付いていたように思う。僕のいない間に義母に出してきてもらったらしい出生届には、二人で決めたはずの名前は記載されていなくて。ただ当て付けのように宙衣と記されていたのだから。彼女の名に沿うように、『そらえ』『ひろえ』ではなく『ちゅーい』と読みが添えられて。
歪な生活が始まった。僕は一人目にもきちんと向き合えなくなっていて、進んで残業するようになってしまっていた。けれども、出来るだけ僕は宙衣を優先するようにしていた。何故なら娘は過ちの証だと信じていたから。
過ちの代償はすぐに払われた。玻瑠璃が泣いて、玻澄が怒って。そして僕は三人に蔑まれて離縁することになった。僕が悪い。だから、出来る限り慰謝料と養育費は振り込んだし、自分からは彼女らに関わろうとはしなくなっていた。
その頃だ。僕が雪枝さんに会ったのは。仕事帰りにたまに行くバーにいた女性こそが雪枝さんで。出会い頭に頬を張られた。
『なっ……』
『……これで、赦したるわ。これ以上はあの子が赦さん』
『あの、どちら様で……?』
当然初対面である。雪枝さんは絞り出すように名乗った。そして、自分の伴侶が誰であるのかも教えてくれた。
『え……でも、女同士で、え……?』
『そこは、ええやろ。済まんな、憂さ晴らしに付き合わせてしもた』
混乱する僕に雪枝さんはそう言い放って、つまみと酒を注文している。
『呑め』
『あっはい』
有無を言わさぬ表情でそう告げた雪枝さんに勧められ、酒を呑む。そこまで強いわけではないのだが、それでもそれを受けないわけにはいかなかった。まあ、雪枝さんはザルだったので情けなくも僕が酔い潰れた訳だけれども。
『あんた、あの子のことどう思っとんのよ』
『……ぼくは、わるいことをした……ちゅーいにも、あのひとにも……』
『お、おう、それで?』
『でも、どうつぐなえばいいのか……ぼくにはもうわからない……』
そのまま眠ってしまって、次に起きたときには隣に雪枝さんはいなくて。夢だったのかと思ったが、しばらくたってから気付いた。メッセージアプリに見慣れない記号が増えていたのだ。雪のマークだ。それをタップすると、そこにはメッセージが添えられている。
『償わせたる。親権なくても手伝え』
そして添付されたファイルの音声を聞いた。それは、悲痛な娘の叫びだった。こんな名前になんか、というその願いは、確かに叶えてやりたかった。僕ですらそれはない、と思うような名前だったからだ。
『僕らは、その子に
すぐにそう伝えると、雪枝さんは嘲笑するように返してきた。
『そんな当て字バリバリの名前でええんか、ほんまに? 今変な名前やってからかわれてるのに、またあんまり聞かん変な名前に変えるんか?』
『それは』
『今もそうやけどな、はゆりおばーちゃんって呼ばれてるとこ想像せえや。こっちはまだギリいけんこともないやろうけどな?』
僕としてはなしだった。確かに世にはいるかもしれないが、あまり想定したい光景ではない。
『あと、その玻の字はいるんか? 必須か? ん?』
『玻澄だって、玻瑠璃にだってついているだろう』
『つきちゃんにもあの子にもついとるわな。でもあんたの二人目の娘にはついてない。今更あんたの娘がそんなくだらん繋がり作りたいと思うか?』
『……思わない』
『なら真面目に考えてや。こっちもこっちで考えるから』
あーでもないこーでもないと話し合って、恐らく彼女も手伝ってくれて。そうして僕らは娘に名前をプレゼントすることが出来た。改名も、雪枝さんが尽力してくれた。学校に頭を下げなくちゃいけないときも、僕は雪枝さんと一緒に出向いた。そんなことしか出来なかった。
家から出たいという願いも、僕はきちんと叶えてやれなかった。同伴を嫌がったからだ。それはそうだろう。娘にしてみれば、僕は不倫して玻澄以外の女に自分を生ませ、なおかつ玻澄にそれが自分の娘だと誤認させていた大悪党なのだから。嫌われていないわけがなかった。自然と頼れるのは雪枝さんになってしまって、忙しいだろうに本当に申し訳ないことをした。
そして今、また僕は不甲斐ないことに玻澄のわがままさを見誤っていたらしい。まさか学生に月三万も仕送りさせるような女だとは思わなかったのだ。それも、目的は『自立させないため』だなんて頭がおかしくなっているに違いない。
だから、僕は。今度こそ踏み出さなくちゃいけない。娘のためにも。そして、雪枝さんと彼女のためにも。
*
私はつきねぇちゃんとの通話が終わってからすぐにその単語をイナホで検索した。通話であったから、発音しか分からないけれど。それでも、調べてみた。『アファナンセ・アスペラ』。すぐにそれは『椋の木』の学名『Aphananthe Aspera』であることが分かった。『Aphananthe』は目立たない花のこと。そして『Aspera』はざらざらした、という意味。ムクドリが好んで食べるらしい。
そんなタイトルをつける必要がある舞台とは、一体如何なるものなのか。私は調べてみることにした。椋の木。近所に呪われた椋の木があるらしいが、それは流石に関係ないだろう。樹齢四百年ほどで、伐採しようとすると災いが起きるらしい。
「……いやぁ、流石にそんなオカルトを舞台にはせんやろ」
自分の考えを打ち消し、私は一旦頭を整理するために眠ることにした。