Aphananthe Aspera   作:針島

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Aspera

 二ヵ月はすぐに経ってしまった。自分なりに調べたけれど、私は何も得られなかった。悩んでいるのがバレバレだったのか、授業の後に教授に呼び止められて吐かされた。その教授によれば、そういうときこそ図書館らしい。調べるべき手がかりから適切なものを引きずり出してくれる、と。

 けれども私が相談したい人はいなかった。どこにも、いなかった。のんさんは、関口ブランチから姿を消していた。教えてもらおうと聞いてみたが、流石に個人情報だからと教えてはもらえなかったのだ。それは確かにそうなのだが、私はのんさんから教えてもらいたかった。

 ぼんやりと近くの無料の庭園を散歩していると、何故かまた教授に会った。

「おや、川越さん」

「先生……何でこんなところに?」

「ここは景色が良いですからね」

 ほら、と杖で指された先には池と僅かに綻んだ梅がちらほらと見えている。確かに良い風景ではあるのだが、鑑賞し続けるにはまだ少し寒い。けれども教授は穏やかに笑って告げた。

「よかったら少し、話しませんか」

「はあ……」

 備え付けのベンチに座って、教授を見る。すると、彼は授業では絶対に見せない悪そうな笑みを見せた。

「本当はね、川越さん。君を合格させる気はなかったんですよ」

「うえっ!? いきなり何ですか!?」

 唐突すぎる暴露話に思わずむせそうになる。冗談の類いかとも思ったが、そうでもないようだった。

「昨今ではどこにいても授業を聴講出来ますからね、わざわざ地方から出てきてまで東京に来たい動機なんてアイドルライブの拠点にしたいだとか、都会に憧れて、だとか。そういう理由ばかりです。だから、地方から受けた生徒は軒並み落とすことになっていました」

「そ、そう、なんですか……」

 何故今そんな話を始めるのだろうか。理由は確かに分からなくはないし、そういう理由のために他の学びたい学生を押し退けてまで遠方の学生を取る意味がないのも分かる。数少ない登校が必要な授業に、遊び半分の学生なんて確かに必要はないだろう。

 何故に内心首をかしげていると、柔和な笑みを浮かべた教授は言葉を続けてくれた。

「もちろん、全員がそんな理由だとは思いませんからね、面接まで進ませる子もいます。ただ、君は進ませる気はなかった」

「え……」

 いつも笑顔の教授の顔が恐ろしいくらいに無表情に変わる。それは、何かを蔑むようでさえあった。

「いわゆるキラキラネーム、DQNネームなんて呼ばれ方もされますがね。そんな名前を付けられた子の置かれた環境がまともなわけがない。親の教養も知れていますし、その親に毒された子どもも然り――そう、思っていたからです」

「まあ……そうでしょうね」

 でも、当然だとは思った。母がまともだとも思わないし、私自身がまともに育った自信がない。想像力と教育の欠如が著しい危険因子をわざわざ選んでまで自分の教え子にする理由がないからだ。時間の無駄で、 真面目に勉学に励みたい人間に対する害悪にしかならない。

 ふ、とそこで教授の顔が緩んだ。

「でもねぇ、そんな私に教えてくれた人たちがいました。子どもがそれを望んだのかってね」

「望むわけないです……そんなの……」

「そう。望むわけないんです」

 そう言って教授は空を見上げた。もう取り戻せないものを懐かしむような、遠い目。

「呑み友だちがね、いるんですよ。ちょっとやらかして離婚されたおじさんなんですけどね……その奥さんがちょっとアレな人で。彼に知らせることなく子どもに勝手に愉快な名前を付けて出生届を出してしまったそうです」

 その言葉に私は驚いた。まるでうちのクソヤロウのようであったからだ。

「へえ、そんな人他にもいるんですね」

「で、そのお子さんというのがもう大変に苦労したらしくてね。幸いにして周りの大人がしっかりしてくれていたそうなので改名したそうです。君のようにね」

 確かに私は恵まれていた。ゆき先生がいてくれたから、私はくそったれな名前から逃げ出すことが出来たのだ。そのひとも周りに恵まれたのなら良かったのだろう。嫌なものから逃げ出せたのならば良いことだ。

「そうなんですね」

「ええ、そうなんです。まあそれだけではないですが」

 微笑んで、教授は言葉を続けた。

「改名した。だからどうだというのだ、という話です。本質なんて変わりないのに、何故それだけで選考基準から外さねばならないのか。そう思っていました」

 思いの外辛辣な言葉だったが、その言葉は過去形だ。つまりその考えは変わったのだろう。また、誰かの影響で。

「また……誰か、教えてくれたんですか?」

「はい。君も知っている人です」

「……え?」

 悪戯っぽく目を煌めかせた教授は視線を空から庭園の向こうへと変えた。その先に何かがあるかのように。

「その人に出会ったのは数年前のことです。当時、イナニスフォンの普及によって様々なものが変わりました。公共施設なんかは例に漏れず、一気にデジタル化が進められたそうです」

 数年前。プリントなんかはもう直接タブレット端末に配られるようになっていたが、それがイナホに変わり。手続きも煩雑なものからイナホ本体があればほとんどのことが一瞬で終わるようになり。電子書籍は爆発的に増え、紙の書籍はほとんど記念品のような扱いになって値段が高騰し。紙という紙がほとんど消え去って、デジタル化の波が全てをさらっていった。

 教授はその視線の先にあるはずのものを口にした。

「この先にある図書館もそれは同じ。区内十館あった図書館は中央を除いてすべてブランチという名の公共施設に成り代わってしまいました。一時期は中規模でも十数万も資料があったのに、です」

「そんなにあったんですか……」

 今では考えられない量の本の数に眩暈がしそうだった。今は電子が主流で、もう紙の本なんて高級品だ。それをズラリと並べているなんてどうぞ盗んでくださいと言っているようなものだった。

「今は何でしたっけ、非接触型充電室? そんな感じの名前になっているところはね、全部本棚だったんですよ」

 ずらりと並ぶ数々の本。それを自由に手に取れる環境。たった数年前までは当たり前だったそれは、今では最早考えられないことだった。

「もちろん、図書館全体としてそんなことを赦せるはずもありませんでしたよ。けれども、国は紙の資料的価値よりもデジタル化に伴う利権の方が大事だったようでね。専門用語では除籍と呼ぶんですが、多くの本が廃棄されてしまった……」

 歴史の教科書には確か焚書という言葉があったように思う。数年前に行われたそれはまさにその言葉で示すに相応しいことだったのだろう。流石に燃やしてはいなさそうだが。印刷業界は大打撃を受けて多くの企業が倒産したらしい。

「そして、あの図書館の本も例外ではありません。都立図書館や国会図書館が持っているもの以外の資料はほとんど破棄される運命にありました」

 それは大量のリサイクルが出来たことだろう。中身の価値に目を瞑れば、確かに魅力的な量の資源だ。

「でも、そうはならなかった?」

「ちょうど五十五周年で何かと交流した直後のことでね。そのときうちと交渉してくれたある一人のスタッフが頭を下げてきたんです」

 彼女は頭を下げて言ったそうだ。このままだと当時の資料はすべてデジタル化されてしまって、情報として不十分になってしまうのだと。載っているものだけが情報ではなくて、資料そのものが情報の塊なのだと。都立や国立がそれを所蔵してくれないと分かった資料については、どうか大学で受け持ってはくれないかと。

 それを、若い教授ほど笑って聞いていたらしい。デジタル化して損なわれてしまうような情報なんてないと信じていたからだ。その資料が作成された当時、どのように紙を作っていたか。あるいはどうやって装丁を作り、製本していたか。どこが印刷を担当し、どの出版社が出版したのか。そんな情報が失われてしまうかもしれない可能性に思い至らなかったそうだ。

 老害と呼ばれても、教授はそれを受け入れることに決めた。彼女が図書館のスタッフとしてではなく、個人として来たからだ。おかげで研究室の資料は充実して、大学図書館にも豊富に本が増えた。学生たちがたまに小遣い稼ぎに盗んでいくらしいが、受け入れるときにICチップを仕込んでいるのでことごとくが失敗に終わっているらしい。

「それって……色々大丈夫なんですか? そもそも公務員なんじゃ……」

「いえ、彼女は公務員ではありませんでした。形態としては指定管理者というらしいですね。簡単にいえば契約社員です。まあ、会社から切られる可能性もありましたけど……それでも、彼女を始めとする有志たちが活動を始めたことで救われた資料がありました」

 歴史の転換の狭間に消えたものもある。けれどもこぼれ落ちるものは少ない方が望ましいと行動した結果らしい。まあ、私はあまりよく知らない歴史の話を聞いているようなものなのだが。図書館なんて、こっちに来てからしか来たことがない。あの親が行かせてくれるわけがなかった。

「もちろんうちで受け入れきれないものもありましたからね。そこは大学教授のつての使いどころといったところでしょうか、出来得る限りのことをやりました。彼女の行動という切っ掛けがなければなし得なかったことです」

 誇らしげに語られるそのひとはさぞかし立派なひとなのだろう。少なくとも私はそう思った。

「……すごく、行動的な人なんですね」

「ええ。本来であれば唯々諾々と従っていればいいはずのものを、将来をかけてでもやったのは素晴らしいことでしょう。私もね、そう思ってそれを伝えたんです。あらん限りの言葉を。そして、それは間違っていた……」

 私の後ろを見るように、遠くに想いを馳せるように。教授はその言葉を口にした。

「さぞ、素晴らしい両親に育てられたのでしょうね、親御さんも誇らしいでしょう、と。伝えた瞬間彼女は照れ臭そうな顔を一変させたんです」

 それが間違いだというのなら、私は何が間違っていたのか何となく分かる気がした。それは地雷だ。それも特大の。私がそんなことを言われたら――

「そこには一切の表情がなくて……彼女は言いました。『わたしへの称賛としてだけ受け取っておきますね』、と。そう言って……川越さん?」

 その言葉は、教授の言葉と同じタイミングで吐き出されていた。だって、分かる。私だったらそんなこと、絶対に褒め言葉として言われたくない。今の私があるのは、断じて両親のおかげなんかじゃないからだ。

「……その人は、親のことが嫌いだったんですね」

「ええ……そうです。よく分かりましたね?」

「私も、誇れる親がいるわけではないので」

 クソヤロウは浮気野郎なわけで、母は別に『育てて』くれたわけではないわけで。外聞に関わるから衣食住だけはあったが、それだけで。それすらない人たちがいるのは分かってはいるが、不幸なんて他人と比べるようなものではない。私は不幸だった。親ガチャは外れだった。今は肉体的には逃げ出せていても、金銭的には囚われている。

 不幸を自慢したいわけではない。けれども、それを他人からとやかく言及されたいわけでもない。今の自分があるのは確かに親の影響ではあるだろうが、それが良いことだとは全く思わない。

「今の私は、親に育てられたからある訳じゃない……自分が頑張ったから、なんて言うつもりはありません。どれだけ親がクソでも、周りの人たちが優しかったからで……だから、私を評価するのに、保護する義務があるっていうだけであの親を使われるのは、嫌です」

 両親のおかげでここまで来られた、なんて胸を張って言えるような人生を送ってはいない。むしろ両親のせいで、なんて言いたくなるようなことの方が多かった。だからそれを褒められるのは腹が立つのだ。

「……ええ、彼女も同じことを言っていました。あなたと彼女との違いは、周囲からの手助けだけです」

「……え」

 その人はね、と教授は続ける。

「必要として生まれながら、必要とされなかった人でした。彼女のお姉さんには心臓移植が必要で、秘密裏に海外で移植する予定まであったそうです。けれど、彼女の心臓もまたあまり強いものではなかった……お姉さんは、結局募金でお金を集めて海外で移植したそうですが、お姉さんが無事に生き永らえても彼女が家族として認められることはなかった……ただ、いないものとして扱われたそうです」

 それは、こんな昼間に聞くような話ではなかった。明らかに法に触れそうな話を、こんな昼下がりに堂々と話す教授はどんな心境なのだろうか。少なくとも私はドン引きしているが。

「彼女が出来たことは、親の求めるレールの上を姉の代わりに歩くことだけで。結局それは、大学を卒業してからも続いたそうです」

 重い話だった。何の話を聞くためにここにいるのか忘れそうなほど重い話。そもそも聞いて良いことだったかすらも私には分からない。でも、続きが気になって仕方がないのはどうしてなんだろう。

「その人は……抜け出せたんですか」

「ええ。彼女には妹がいたそうでね。その妹さんの助けで東京に引っ越してきてからは比較的穏やかに暮らしていたそうです――あの日までは」

 冷えた目で虚空を睨む教授には、私情が多分に見て取れる。そのひとのことを、きっと教授は特別に気に入っているのだろう。

「彼女はまた搾取された。それが何であるのかは、私には分かりません。けれども奪われた。それだけは確かです」

「……そんな」

「私が彼女に会ったのがその時であったなら。絶対にそんなことにはさせなかったのに、なんて年甲斐もなく思ったりしてね……」

 この教授はきっとそのひとのことが好きなのだ。私はそう思った。だけどそのひとにはきっと伝わらないんだろう、とも思えた。だって伝わるのならこんな悔やんだ顔をしていないはずだ。特別に気に入っているだけでここまでは想わない。

 取り繕うように教授は言葉を続けた。

「まあ、その後も色々あったそうでね。それでも妹さんと、そしてパートナーと手を取り合って立ち向かったそうです」

 微かに苦々しい顔をするのは、そのパートナーに嫉妬しているからなのだろうか。それとも、そのひとに降りかかったことが余程に赦せないことだったのか。流石にそこまでは分からない。

「そんな修羅場を潜り抜けて、彼女は立派なひとになった――中身も、それ以上のものも、です。本人はそれを頑なに認めようとはしませんけどね」

 虚空から視線を戻して穏やかに笑った教授は、そして言葉を続けた。

 

「――竹野玻音(はのん)。それが、彼女の名前です」

 

 ――衝撃だった。唐突におとされた爆弾は、確かに私の情緒を木っ端微塵にしていった。けれども、同時に腑に落ちた気分だった。親近感が湧いていたのは、似たようなひとだったからだ。話しやすいと思ったのも、全部きっとそういうことなのだ。

「のんさんの、ことだったんですか」

「ええ。搾取されるだけの人生を抜け出して、大切な人と歩み始めるだけの勇気を持てた彼女はきっと、今は幸せなのだと思いますよ」

 それに、と教授は続ける。

「彼女はね、君と同じように改名して、キラキラネームに負けないような強さを手に入れた。ですから、似たような境遇の君の話だけでも聞いてみようと思ったんですよ」

 そんなことが、まさか私に関係してくるなんて思いもしなかった。あのあんまり感情表現の苦手そうなひとが、そんな目に遭っていたなんて思いもしなかった。それが教授に影響を与えたんだとも、思うわけがなかった。だって想像の埒外だ。流石に。

「それで……私を落とさなかったんですか」

「ええ。話を聞いてまともな娘さんだと分かりましたから。それに親元からは離した方が君のためになると思ったのでね……」

 目を細めて笑う教授は、変な話だけれどお祖父ちゃんみたいだった。

「君は、今幸せですか?」

「……どう、なんでしょうか。私は、幸せになれるでしょうか。そうなりたいと願って、赦されるでしょうか」

「……幸せになる権利は誰にでもありますよ。ただ、それを行使するのには困難を極めるひとがいるだけで。君がそうなりたいと願うのなら、迷わなくて良い。迷う時間が無駄です」

 迷いたいわけではない。ただ、それを掴み取るためには何かを失わなくてはならないと思うだけで。

「幸せになるために、私は何を犠牲にしなくてはならないでしょうか」

「犠牲にしなくてはならないことが嫌ですか? それとも、いつか後悔するかもしれないと?」

「犠牲にするのは……多分、私は、心を痛めたりしないでしょう。むしろそうしないときっと幸せになんてなれない……でも、いつか……切り捨てたことを後悔する日が来るんだと、思うんです。後悔しないことなんてないはずなのに……」

 絶対に、私は幸せになりたいと願っているわけではないのかもしれない。私なんて幸せになんてなれっこないって分かっているから。でも、今のこの苦しいのをどうにかしたいと思っているのを。間違いだとも思いたくはなかった。

 だから。

「やる前から後悔に怯えていたら、どこにも進めませんよ」

 そう、言わせたようなものだけれども。教授の言葉に迷いを封じ込めたのは、必然だった。

 

 *

 

 明日、あたしははじめて妹の舞台を見ることにしていた。前々からチケットは送られてきていたけれど、行くつもりはなかったのだ。あたしから()()()()()を奪っていったあの子の舞台なんて、本当は見てやる気はなかった。

 でも、今回は違う。今回だけは必ず見ろと言われたから見るのだ。前回までの投げやりなそれではない。しかも劇場に足を運ぶ必要もなく、ただ配信を見れば良いだけだ。チケット代も全部妹が持ってくれるらしいし、この際暇潰しにも良いだろう。玻瑠璃も出掛けるようだしちょうど良い。

 それに、母さんも見たいと言っていたから。どうせなら三人で見ようと思った。久し振りに、あんまり好きじゃないけれども家族だから。たまには娯楽を一緒に楽しんでも良いだろう。そういう何でもないことを一緒に楽しめるのが家族ってやつでしょ?

 演目は『アファナンセ・アスペラ』。脚本が誰かもどうでも良いし、演者が誰なのかも興味はない。カタカナは苦手だし、意味を調べるのは面倒だ。あたしは待っていさえすれば答えが転がり込むものだと分かっているから、無駄に楽しみを暴くつもりはなかった。

 カフェインレスのコーヒーと、クッキーと、後は何を用意しようか。そんなことを考えながらふとイナホのメッセージ欄を見る。相変わらず替えの心臓からは連絡がない。不肖の愚妹のくせに、向こうに行ってから一言も連絡を寄越しては来ないのだ。縁でも切りたいのだろうか。死んでも切らせてはやらないけど。

 こちらから連絡してやろうか。そう思わなくもないけれど、それもそれで癪なのでやめた。だって、あれはあくまで替えの心臓なのだ。あたしのこのポンコツな心臓の替え。いつか止まるときが来たら、抉り出してあたしのものにする予定の肉塊だ。それに割く情なんてあるだろうか。いやない。

 あれはそのために生まれて来たのだから、そのために生きて死ねば良い。あたしのための替えの心臓。他の内臓も悪くなれば貰う予定だ。最初からそのために用意されたものを使わなくてどうする。あれは人間じゃない。あれは妹なんかじゃない。ただの肉塊なのだ。

 あたしが産まれたばかりのとき、今にも死にそうな状態だったらしい。成人出来るかどうか、というよりも明日を知れぬ状態だった。両親と医者が頑張ってくれていなければ、あたしは今ここにはいない。その点については感謝している。そもそもそんな身体に産むなとは言いたかったが。

 何度も何度も苦しい思いをした。一番危険な時期にはあれから心臓を摘出してあたしのと替える予定だってあった。結局は持ち直してそうはならなかったけど、それでもそのために生まれて来たあれよりずっと苦労して苦しんで生きてきたはずだ。だから、のうのうと生きているあれももっと苦しめば良いのだ。あたしがそうであるように。

 ああ、ちなみに妹は愛し守るべきものだという倫理は知っている。けれどもあたしに妹は一人だけだ。あれは妹なんかじゃない。あたしのための内臓を詰めただけの肉袋だ。だから、あたしはあれを妹と認識することはないし、愛し守るつもりもない。誰が予備の内臓に愛着を持てるっていうのか。

 まあでも、都合良く利用はする。介護要員にもするし、金を搾り取るための手段としても使う。そもそも生かしてやっているだけありがたいと思っていて当然なのだ。今あれが生きているのは、あたしたちがあれを使わなかったからだ。だから、感謝して貰わなければならない。生かしてやっているのにだって、色んなものが必要なんだから。

 だから、あたしは夫とあれがナニをしたことを赦すつもりはない。夫はあたしのものだ。あれに手を出して良い許可なんて出すわけがない。ましてや、あたしのものになるはずだったものに()()()()()()()()()だなんてもっての他だ。最早それは永久に消え去ったけれども、憎しみは煮えたぎって仕方がない。

 当然、生まれたそれに愛情を注げるはずもなかったのだ。夫を立てるために、あるいはあれに気遣う周囲のためにそんなふりをしていただけ。化けの皮を剥がしてしまったなら、もうそんな素振りなんて必要なくなった。だって全ては明かされてしまったから。あれは、あたしの娘なんかじゃあないのだ。

 あれはただのスペアだ。替えの心臓のスペア。あれの次に搾り取るべき対象。口が裂けたってあれが娘だなんて思わないし、愛するつもりもない。誰が何と言おうと、あたしの娘は玻瑠璃だけ。あんな不義の結果みたいなやつは内臓のスペア扱いで十分だ。

 だから。あたしは。明日、何が起きたって関係ないと思っていた。

 

 *

 

 脚本は出来た。台詞も、演出も、何もかも叩き込んだ。根回しも十分で、あとはしかるべきひとたちに届けるだけだ。使える伝は全部使った。あとは、私が伝えるだけ。全身全霊をかけて。

「ごめんな、はのんちゃん。有給使わせて」

「ええのええの、どうせあり余っとるから」

 ゆいちゃんにも。そして、はのんちゃんにも。私が伝えるだけだ。私ははのんちゃんが――おねぇちゃんが、幸せになってくれるなら。どんなことをしたって構わない。

「で、ほんまにええの? いつもみたいにちゃんと買うよ?」

「今回は私の我が儘やから。ええ席で見て欲しいんよ」

「そっか。楽しみにしとく」

 明日だ。明日、全てを終わらせる。もしかしたら二度と会えなくなるかも知れないけど、それでも、私はやり遂げる。困難を乗り越えて、なお先へ。かわいい姪っ子とおねぇちゃんのために。

 オリジナル舞台『アファナンセ・アスペラ』。二十年の時を経て、明日十四時開演だ。

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