劇場では、パンフレットが配信されていた。表紙には『Aphananthe Aspera』と筆記体で記されたそれには、概要が書いてあるらしい。スワイプして開いて曰く、
この劇場にはどれだけ騒いでも完全防音の個室席しか設けられていないらしく、舞台にはかなりのお金がかかっているらしいことが見て取れた。時間が来て、集められた関係者が揃って。そして、開演のブザーが鳴った――
*
スポットライト。
「雛は巣立ちの時を迎える。いつか大人になって、自由へと羽ばたく時が来る。それは、至極当然のことだ。そうあらなくてはならないのだ」
女がそう告げてうつむき、スポットライトが増えた。
「元気に産まれて良かった」
「ええ、本当にね」
「大切にするよ、アセビ」
夫婦に当てられた照明が消え、女はゆっくりと顔を上げて口を開く。
「しかし、それが本当に彼らの雛であればの話だ。愛すべき雛ではない、異物であったなら。それは、巣立つまでに――」
切り替わる。女から、夫婦へ。けれどもそこには女しかいない。代わりにその前には紺色の星座柄のチュニックを身につけた女がいた。
「お前はレンゲのために産んだの。レンゲのために死になさい」
「そんな……」
「お前に普通に生きる権利なんてないのよ。お前はあたしのもの。所有物ごときがあたしに逆らうな!」
振り上げられる腕。防御本能からか、顔を守るように白い腕が振り上げられるけれどもそれは無駄だった。演技であるはずなので実際には当たっていないだろうが、チュニックの女はワンピースの女に暴行され続けている。
やがて照明が切り替わって、またジャンパースカートの女に戻った。
「幸いにして、この雛は生き延びることが出来た。生存権を売り渡し、奴隷となることで。それが幸いであったかは、雛のみが知る」
スポットライトから全体照明へと切り替わる。乏しい表情だった女は、表情を変えてくるりと一回転した。
「私はネリネ。椋鳥ネリネ。お父さんはいなくて、お母さんと呼べるひとはいてもそれが本当かは分からない。あのひとは私を娘だとは思っていない。だから、探しにいく。本当のお母さんは、どこにいるの?」
数歩歩くと、前からまた女が現れた。片方は緑色のマントを身につけたズボンの女だ。どこか魔女じみた風貌である。もう片方は白いレースのワンピースを身に付けている。
「お母さんを探しているのかい?」
「ええ、そうよ。貴女は誰?」
「あたしはユキノシタ。こっちはサザンカ。あたしたちは、きみを支えるためにここに来たの」
マントからユキノシタが取り出したのは真っ白な卵のような形の小道具だった。
「これは何?」
「きみのためのものさ。託すよ――きみのためにね。しかるべき時が来たら分かる。きみが進むための道はこっちだ」
「いらっしゃい、ネリネ。貴女の未来はこの先にあるの」
手招きして下手へと導こうとするユキノシタとサザンカ。けれども上手から現れたレンゲ柄のワンピースの女が声をあげる。
「どこに行くのよ、ネリネ」
「……どこでも構わないでしょ、私のことなんて気にもしてないくせに母親面しないで」
「お前はあたしのものなの。勝手に出歩くな」
ネリネに近付いて引き戻そうとするが、ユキノシタがそれを制した。
「この子はものじゃない。れっきとした人間の女の子だよ」
「あたしのものよ。サザンカはともかく、ひとの家庭環境に口出ししてくんな、部外者風情が」
「部外者だと思っているのはきみだけだ」
ばちりと視線が絡み合って、険悪な雰囲気になる。それを打破するためにかもう一人舞台上に現れた。
「そう、ユキノシタは部外者じゃない――わたしの、伴侶よ。それなら文句はないでしょう、レンゲ」
それは星座柄のチュニックの女だった。どこかに感情を置き忘れてきたかのような表情で、静かにレンゲを見つめている。
「今更往生際が悪いわよ、レンゲ」
サザンカがさらに言葉を続けると、レンゲは顔を歪めて叫んだ。
「……好きにしなさい! でも、帰ってくる場所はないと思いなさい、ネリネ。お前の価値なんて、あたしのために在るしかないんだから。それから逸脱するんだから、もう戻るところなんてないと思いなさい」
「……おかあ、さん」
「消えなさい。あんたなんか、あたしの娘じゃない」
冷ややかにネリネを睨み付けたレンゲは舞台上から去っていった。その後ろ姿をネリネは見つめている。まるで未練があるかのように。そんな彼女を見てユキノシタと星座柄のチュニックの女は顔を見合わせる。
うつむいたネリネはポツリと言葉を漏らした。
「……やっぱり、あれはお母さんなんかじゃなかったんだ」
「……大丈夫かい?」
「うん、大丈夫……決めたんだもの。探しに行くって。疑いが正しかったんだって分かったんだもの。大丈夫よ」
「あまり頑張らなくて良いのよ、ネリネ。進むのは少しずつで良いの」
言いながら抱き締めるサザンカ。それにしばらく甘えたネリネはサザンカから離れると、ユキノシタに笑みを向けた。次いでネリネは星座柄のチュニックの女に顔を向けようとした。しかし視線をそらしていた間に女は舞台からハケている。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「今、そこにいたひとは……」
「んー? ……あららぁ。あの子は恥ずかしがり屋さんだからね。出てきて何か言えただけ成長したよ」
「そうね。昔と比べれば月とすっぽんよ」
うんうんと頷きながら二人はネリネに手を差し伸べた。
「ま、そんなことより行こうか」
「無理はしないでね」
「うん……そうだね」
二人は下手にハケていく。その直後にアジサイ柄のワンピースの女が上手側から現れ、照明が上手のスポットライトだけに変わった。
「あたしはアジサイ。椋鳥アジサイ。先祖はうるさく囀ずるからって椋鳥の姓を与えられた。娘を大切に守り、慈しんで育て上げた。悠々自適な老後を送る老婆さ。あたしにうるさく言う夫ももういない。ただ、日々を無為に貪る暇人だ」
アジサイが横を向くと、照明が切り替わってそこにネリネとユキノシタ、サザンカが現れた。
「おやまあ、よくもあたしの目の前に顔を出せたものだね、泥棒猫どもが」
「あたしも二度と会いたくはなかったけどね。でも、必要なことさ」
「今更許しを乞う必要もないでしょう? 赦す気のないひとにそれをするだけ無駄だわ」
険悪な雰囲気になるが、アジサイはネリネを見ると表情を和らげた。
「どうしたんだい、ネリネ。変な顔をして」
「ううん、おばあちゃん。何でもないよ」
「そうかい? まあそれはそれとして、何でお前がそいつらと一緒にいるんだい?」
いつもと変わらない調子で言ったからなのか、ネリネは目に見えて困惑した。
「どうしたの? おばあちゃん。いつも優しいのに『そいつら』だなんて。何か変だよ?」
「そんなことないさ。あたしは至って普通だよ。そいつらがおかしいだけだ」
敵意のこもった目をユキノシタとサザンカに向けるアジサイ。その視線を真っ向から受け止めて、ユキノシタは笑った。
「はは、五十歩百歩、どんぐりの背比べさ。あたしはおかしい奴。認めてあげるよ。でもね、アジサイ。あんたも十分におかしい奴だ」
「貴女が普通だったら、私は出ていってなんていないわ」
険悪な三人に挟まれて困ったように互いの顔を見るネリネ。すると、ふとアジサイの視線がネリネの持つ卵に向いた。
「ネリネ。お前は何を持っているんだい?」
「さあ……分からないわ。でも、きっと悪いものではないんじゃないかしら」
「……そうかい。そう思うんなら離すんじゃないよ。大事だと思うものは、きちんと身近に置いておきな。あたしのように誰かに落っことされないようにね」
「うん……分かった」
それを抱き締めるネリネに、優しい顔を向けるアジサイ。卵のオブジェはネリネに撫でられていて、少しだけ色が変わった。純白から、薄い紫色に。それにネリネが気付くことはない。
「じゃあね、おばあちゃん」
「ああ、また来な、ネリネ」
手を振ってネリネは下手にハケる。それを見送ってアジサイは独白した。
「いつか必ず戻っておいで、ネリネ。お前はレンゲのためのものなんだから」
そしてアジサイは下手へと足早に歩いていく。ハケる直前に上手から星座柄のチュニックの女が現れて叫んだ。
「ネリネはあなたのものじゃない……! ましてや、レンゲのものでもない! あの子はあの子自身のものよ!」
「二度と帰ってくるなと言ったろう。折角椋鳥のようにしてやったのに、今更権利を主張してんじゃないよ」
「どの口が……っ! あなたがしたことは、正しいことなんかじゃない! 絶対に!」
照明が消える。その間にアジサイがハケて今度はネリネとユキノシタ、サザンカの三人になる。そして舞台全体が照らされ、三人は連れだって歩きはじめた。
が、不意にネリネが立ち止まった。
「……どうしたんだい?」
「お母さんも、おばあちゃんも、私のことどう思ってたんだろうって、思っちゃって」
観客席まで響くほどの吸気。それを全て言葉に変えるようにネリネは続ける。
「お母さんは、私のことを娘だなんて思ったことがなくて。おばあちゃんも何か変で。おばあちゃんも、だったら私のことなんか孫だなんて思ってないんだなって、思っちゃって」
ふう、と息を整えて、ネリネは二人に向き直った。
「ユキノシタさんと、サザンカさんは……私のこと、どう思ってるの?」
「あたしたち? そうだね……それをちゃんと伝えるには、見せなくちゃいけないものがある。いいね? サザンカ」
「もちろん」
そっとユキノシタとサザンカの手がネリネの手に添えられて。抱えられていた卵に触れた。卵はその直後に白く光り出す。
「え、何、何なの!?」
「見て。聞いて。そして――決めてほしいんだ。あたしはきみに幸せになってほしい。そのために見ておいで。きみにまつわる本当のことを。他でもないきみ自身のために」
「私は願ってる。貴女が、貴女の意思でつかみ取ることを。それがどんな答えでも……私は、貴女の背を押すと決めているわ」
一際強く卵が光り輝いて。そして暗転する。舞台の下手に椅子が二つ用意され、そこにネリネとユキノシタ、サザンカが座った。舞台の中央には星座柄のチュニックの女が現れた。その腕には卵を抱いている。
俯いたまま虚ろな声で女は独白する。
「――わたしは、名乗るべき名を持たない。ただの道具。親は娘のためにわたしを産んで、けれどもその娘のためには使われることはなかった、ただの道具。目的を果たされないままに捨てられることも壊されることもなくただそこに取り残されたモノ」
そこで女は顔を上げた。道具と名乗るにはふさわしくないほどに力強い瞳が観客を射貫く。
「この爪先から頭の天辺まで。流れる血も、細胞も、何一つわたしのものではない。けれど、わたしは人間だ。決して使い捨てにするために産み出されるような資源ではないし、好きで産まれてきたわけでもない。他の誰にも望まれなかったのなら、わたしはどうやって生きていくべきなのか。あるいは全てを終わらせるべきなのか。それを考えあぐねている」
ふい、とそこで上手側を向いた女の目の前に、アジサイが現れた。それに女が宣言する。
「……わたしは、出ていきます」
「お前ごときが何を偉そうに。道具ごときが一人前に一人暮らしだなんて出来ると思うな、このグズ」
威圧するように吐き捨てるアジサイ。けれども女は引かなかった。
「それでも、出ていきます。あなたにはわたしなんてもういらないでしょう?」
「ふざけるな! お前がいなかったらあの子はどうなるんだ!」
「姉さんはもう健康だもの! 何も憚ることなく生きられる! もう、だから、わたしはいらないはずよ!」
その言葉にかっとなったアジサイが手を振り上げる。女は一歩下がって、けれどもその視線をアジサイから離すことはない。
「この、親不孝者!」
「あなたがわたしの親であったことなんて一度もない! ただの名義貸しでしかなかったくせに!」
アジサイの右手が振り下ろされて、音高く女の頬が張られた。そして左手が振り回されて卵を掴む。
「何するの!?」
女の手が伸びるが、アジサイはそれを取られないよう高く掲げた。
「これは預かっておく。お前には必要ないもので……何よりもレンゲに必要なものだからね!」
「それは貸し借りして良いものじゃない! 預かるってったって、返す余地はないって知ってるくせに……!」
「だからさ。レンゲのはもう使えない。なら、お前のを使うしかないじゃないか。それとも――サザンカのを使うかい」
すると、女はそれまでとは打って変わって俊敏な動きでアジサイにつかみかかった。
「サザンカに手を出したら、絶対に赦さない……!」
「はん、最初から赦すつもりなんてないくせに」
「――ッ!」
「それに、お前は使わないだろう? お前は誰よりも潔癖だからね」
アジサイは女を振りほどいて卵を奪い去った。それを、女は追うことが出来なかった。その場に蹲り、何かを堪えるように肩を震わせる。
「……ばかなひと。そうなるって分かっていたから、あの人は……」
そう独白して俯く。暗転。次いでそこにはレンゲが恭しく卵を抱いて現れた。女は変わらずそこに蹲っている。
「生涯ではじめてあんたに感謝してやってもいい気がしてきたよ。こんな幸せなことってあるかね? 一人じゃ嫌だと思ってたんだ……」
愛おしそうに、狂おしく。レンゲは卵を撫で回しては顔を近づけていた。まるで赤子をあやすかのように。
「……そ、おめでと」
「はっ、興味ないって? そりゃそうよね。あんたはその権利を行使しないって決めたんだものねぇ!」
卵に頬擦りしながらレンゲは女を蹴った。
「昔ッからあたしのためだけに生かされて、何もかも奪われて、奪い返す気概もないってさ! あんたの人生惨めすぎない!?」
いくらレンゲが蹴り続けても動こうとはしない女。
「抵抗ぐらいしたらどうなの! このグズ!」
「しても意味のないことをする意義を感じられないわ」
「意味あったらやるの? やらないでしょ、あんたは。意思なんて必要ないって言われ続けた道具だもんねぇ!」
哄笑し始めるレンゲに、女は何も答えない。それが事実であるからだろう。無言の肯定。
「じゃあね、二度と会いたくないわ、グズ。この子にも会わないでね」
「……会わせてくれるつもりもないくせに」
「よく分かってるじゃない」
もう一度蹴りを入れてレンゲは卵を持ったまま去っていった。取り残される女。暗転。次いでスポットライトが女に当てられた。
顔を伏せて女は嘆く。
「だから――わたし、は。もう、ぜんぶ、おわらせようとおもった。意味なんて最初からなかった。必要のない道具は処分しなくてはいけなかった。いらないいのちだった。だから、終わらせなくてはいけなかった。間違いだった。わたしは、うまれてきては、いけなかった」
ザ、と音響でノイズが入る。
『僕は、君に償わなくちゃいけないんだ』
「そんな必要なんてどこにもない! やめて! いや……!」
『ごめん……でも、僕には、こんなことしか思い付かない』
ザ、とまた音響でノイズが入る。
「にいさんは、間違った。間違いだった。わたしは、それを、受け入れてはいけなかった。苦痛に負けてはいけなかったのに。どうしても彼を跳ね退けることは出来なかった」
顔を伏せた女は手でそれを覆った。
「わたしは! なにもかも、間違った……! だから終わらせなくては! 全てを! この、呪われた身体ごと! 肉片の一欠片まで、この穢れた魂まで焼き尽くさなければ、わたしは救われない……!」
その悲嘆に傍観者だったサザンカが飛び出した。頭をかきむしるように苦しむ女に向けて叫ぶ。
「アセビちゃんは! 何も間違ってない……! 私を何度も守ってくれた。助けてくれた。好きな道に進ませてくれた。支えてくれた……! それを間違ってたなんて言って欲しくない!」
そして抱き締める。その激情を受け止めるために。何かを言おうとして、やめる。女――アセビはそうしてサザンカからそっと離れた。
「アセビちゃん……?」
「サザンカは、すごい子だ。努力を怠らない。諦めを知らない。見ていて気持ちよく応援出来る子だ。自分だけの人生を生きられる。
「アセビちゃん!? 何言って……!」
「だから、わたしに囚われていてはいけないのだ。分かっていた。そう、分かっていた……分かっていたのに、甘えてしまっていた」
どうしようもなく遠い。物理的にではなく、心理的に。力なく伸ばしたサザンカの手が空を切る。何度も手を伸ばすのにサザンカはアセビに触れられない。
「もう、解放してあげなくてはいけない。サザンカには枷なんてかけるべきではない。わたしという呪縛は、サザンカには必要ない」
声が聞こえていないようだ。その瞳は観客を見つめている。隣にいるはずのサザンカの声は。何一つ聞こえてはいないようだった。
手を伸ばす。届かない。それを何度も繰り返して。
「さあ、ぜんぶ、おわらせよう」
「待ってよっ……アセビ、お姉ちゃんッ! アセビお姉ちゃぁああああああんッ!」
その声は届かない。その手は届かない。そうしてアセビは悲嘆に暮れるサザンカから遠ざかっていった。ライトの範囲から外れたサザンカは項垂れながら傍観者としての席に戻る。アセビは上手にハケた。暗転。
雨音の効果音が鳴り始めた。また出てきたアセビは傘を差してはいない。ただ幽霊のように舞台の中央まで出てくる。歩く後ろにはベンチが用意されていた。
「どこに行く気だい」
それを呼び止めたのはユキノシタだった。アセビはその声に少しだけ反応して、けれども振り返ることなく答えた。
「……どこか、わたしの、いてもいいところ……かな」
「見つからないのかい? それとも、そんなものはないと信じているのかい?」
ユキノシタの言葉にアセビは言葉を選んだようにゆっくりと返答した。
「……そうね。ない、わね。どこにも、ない……」
「……あたしが男だったら、迷わせないのにね」
「ユキノシタ……何、言ってるの?」
数歩静かに近づいて、ユキノシタは傘を床へと転がした。しっかりと視線を合わせて。そして捕獲するように両腕を開いた。
「な、に?」
一歩アセビが後ずさる。けれどもユキノシタはその距離をも分かっていてアセビを抱き締めた。その重みでベンチに無理矢理座らせる。そして首筋に顔を埋めて、何事かを囁いた。
「なっ、えっ、ちょっ、なん……え?」
混乱したアセビは逃げようとしたが、腕に捕らえられたまま逃げられない。
「知ってたかい、アセビ。あたしは、あんたがいなかったらあたしを終わらせてたんだよ」
ユキノシタはアセビを抱き締めたままそう告げた。
「……え?」
「あたしは――あたしはユキノシタ。家族のために生きていた。母の介護と、妹の進学のためだけに頑張っていた。いっつも背伸びして、苦しくて、辛くて。ずっと逃げたかった――何もかもから。でもね、アセビ。あんたが近くにいてくれたから何とか生きてこられたんだよ」
腕をほどいて、ユキノシタはアセビに視線を合わせた。大切なことを伝えるために。
「あたしには、あんたがいないとダメなんだよ、アセビ。だから、あたしがあんたの居場所になりたいんだ。あたしのいるところが、あんたのいるところだ。そうなりたいんだ。ずっと、初めて会ったときから、ずっとずっとそう思ってたんだ」
だから、と言葉を継ぐ前に。アセビが口を挟んだ。
「……ダメだよ……わたしじゃ、ダメなんだよ……そんなの、そんなの、わたしじゃなくて良いんじゃない……!」
「あたしは、あんたが良い。そう言ってるのに?」
「わたしが良くないんだよ……! そんなの、空っぽの道具の分際で、欠けてしまったひとのなり損ないの分際で、ひとさまに何かを貰うなんて………そんな申し訳ないこと出来ない……!」
逸らしたアセビの顔を、ユキノシタは強引に向き直らせて言った。
「なら、満たす。アセビ、あんたはあたしのよ」
「へっ……!?」
覆い被さるようにユキノシタがアセビをベンチに押し倒す。暗転。傍観者として見ていたサザンカとネリネに当たる照明が消え、二人は椅子を片付ける。
そうして今度は舞台の照明がついた。ベンチの左端にはネリネが座っていて、右端にはアセビが座っている。
ネリネはアセビに話しかけた。
「……あ、の」
「……はい」
「貴女は……ううん、貴女のことを、聞いても良いですか」
それにアセビは淡々と答えた。
「ユキノシタと……サザンカから聞いたのではないの?」
「聞きました。でも、それでも、私は貴女の口から聞きたいです。本当のことを……貴女の、ことを」
身体をアセビの方に向けてネリネは告げる。
「私は、貴女のことを何て呼べば良いですか?」
それにアセビは呆れたように返答した。
「聞いたのなら、分かっているのではないの?」
「分かっていて、聞いてるんです。アセビさんと呼べば良いんですか? それとも――」
「そちらで呼んでも、別に構わないけど。でも、わたしはそれにはなれないわよ」
ネリネはその言葉を手を握りしめて聞いていた。言われたくないことを言われたかのように。
「……わたしはね、ネリネさん。誰のことも幸せにはしてあげられないの」
「そんなこと……」
「だって、分からないのよ。幸せって一体何なの? それを感じてどうするの?」
アセビは立ち上がって言葉を続けた。
「あるひとは言ったわ。誰かとあいしあうこと。それが幸せ。そんなのもう出来っこないわね。もうないもの」
「そういうことをするだけが、愛し合うことじゃないと思うけど……」
「一番確かなかたちではあるわね。そしてそのひとは更に言ったわ。そのあいの結晶が、更に幸せを豊かにしてくれる――どの口が? と、わたしは思ったわね。持っていったのはそのひとなのに。そして恐らくわたしはその子をあいすることは出来ない」
ベンチから勢いよくネリネが立ち上がる。アセビの顔を直視するために。
「どうして?」
「あいされる幸せを知らないわたしが、誰かをあいすることが出来るだなんて思えないからよ」
その瞳は潤んでいた。言葉とは裏腹に慈愛に満ちていた。アセビがその身を引こうとしているのは、きっと。
「わたしは悪意しか知らない。だけど、それを善意からのものだと曲解しようとした。全てには意味のあることだと思い込んだ」
視線がネリネから離れる。観客席の誰かと視線が交錯する。
「だから、奪われたのではなく、託したのだと。そう信じることにした。でも、託した子が大切にされていないのならば――わたしは、決めなくてはいけないと思ったそれがどれだけ困難なことであったとしても。でも、進まなくてはいけないと思った。あなたのために、と恩着せがましく言うつもりはないわ。わたしの自己満足のためよ」
アセビは腕を広げた。翼のように。まるで慈母のように。
「――わたしにとっておかあさんは憎しみと苦しみの象徴だった。だから、わたしはおかあさんにはなれない。けれど、あなたが赦してくれるのなら――わたしは、あなたの一番近い友だちになりたい」
言葉の余韻が舞台上から消える。その答えを、ネリネは――言葉ではなく行動で示した。そっとアセビの前に回り込み、手を取って。そして、最後が見える前に幕が下りていく。足だけが微動だにせず、最後まで近付くこともなく。幕が下りきって、暗闇が全てを支配した。
「――私は選んだ。幸せを掴み取るために。どういう選択をしたのかは……内緒にしておこう。だって、恥ずかしいじゃない。雄弁は銀、沈黙は金って言うじゃない。私の選択は、きらきらと輝いている。尊い色に――永遠に」
*
無音。暗闇。もう、何も語られることはない。機械的なアナウンスが流れて、そしてその舞台は終わった。誰かに選択を突き付けて。
アジサイ――『移り気』『冷酷』『高慢』『無情』
アセビ――『犠牲』『献身』『あなたと二人で旅をしましょう』
レンゲ――『あなたと一緒なら苦痛が和らぐ』『感化』
ネリネ――『また会う日を楽しみに』『忍耐』『箱入り娘』
ユキノシタ――『待望』『愛嬌』『処罰は行われなくてはならない』
サザンカ――『困難に打ち克つ』『ひたむきさ』『愛嬌』『あなたはわたしの愛を退ける』