関西にあるとある瀟洒な民家を警察官が包囲していた。中に住む容疑者たちを逮捕するためだ。罪状は殺人未遂、傷害、不法侵入。そして何よりも大規模な詐欺。まだマスコミには嗅ぎ付けられていないようだが、時間の問題だろう。チャイムを鳴らして反応を待つ。中に人がいるのは分かっているが、反応はない。
「
引き戸を叩いて声をかけると、陶磁器が砕ける音がした。それが連続して、警察官たちは尋常でないことが起きていると判断する。
「開けますよ!」
引き戸を破壊し、物音の方へと駆け寄るとそこには三人の女がいた。しかも陶磁器を投げ合っている。
「ふざけんな! ふざけんな、何やこれ!」
「やめなさい! やめろ!」
「あああああ消さな、消さな、消してしまわなぁああああああ!」
イナホを破壊せんばかりに踏み砕いている老女を取り押さえる。一人目確保だ。もう一人の女はティーカップを所構わず投げ捨てている。破片だらけで取り押さえるのに苦労したが、それでも鍛えた警察の敵ではない。すぐに取り押さえられた。
そして最後の一人が取り押さえられながらも絶叫する。
「嵌めよったな、スペアの分際でぇえええええ!」
白昼の捕物はすぐに周辺住民に知れ渡るところとなり、けれどもある種の納得と共に受け入れられた。彼女らならばやりかねないと。彼らもまた大規模な詐欺の被害者であったからだ。そのやり場のない怒りは、かたちだけ残された家に向けられることになった。最早誰も管理することのない家に。
*
――舞台を、見終わってなお。私は立ち上がることが出来なかった。最後にもう一度表示されたパンフレットに追加された文字が、劇中の推測が当たってしまったことを教えてくれる。『Aphananthe Aspera――ムクノキ。椋鳥が集うことより。なお、椋鳥は種内托卵をすることで有名』。
卵。托卵。その言葉が何を意味するのか、もう私には分かっていた。劇中のあの卵が何を意味しているのかも、分かってしまっていた。配役がどういうものなのかも。
唯一の謎は、それが誰であるのか、だった。ネリネは分かる。私だ。ユキノシタも分かる。きっとゆき先生だ。だったらレンゲは母で、アジサイは祖母だろう。芋づる式に分からされたのは、サザンカがつきねぇちゃんだということ。そして、最後の一人が――アセビが。誰なのか、理解したくなかった。
だって一度も会わせて貰っていないのだ。叔母は一人だけ。もう一人いるかも知れないだなんて思ったこともなかったのだ。だからそんな人はいないと、そう信じていたのに。
私は紛れもなく川越
そのひとは、玻澄のためだけに生まれた。搾取されるだけのひとだった。それで壊れてしまったひとだった。誰かのためにしか、生きられないひとだった。
「……ぁ、れ?」
そこで何かが引っ掛かった。けれどもその違和感はすぐに消え去ってしまう。打ち消した、といった方が正しい。だってそうだ。それが、そのひとが、既に出会ったことのあるひとだとは思いたくなかった。
つきねぇちゃんとは違って、私を助けてくれなかったひと。それがもう一人の叔母だ。そうでなければならない。だって、私はずっと助けて欲しかったのに。それを助けてくれないのは親じゃない。いや、本当に親ではないんだけれども。
でも、それはきっと仕方のないことだった。割り切りたくはない。けれども『あいされる幸せを知らないわたしが、誰かをあいすることが出来るだなんて思えない』から。最初から諦めていたのだ。そのひとは。わたしの親になることを、最初から諦めていた。そのひとにとって親は親愛の対象などではなかったからだ。
劇中の『わたしにとっておかあさんは憎しみと苦しみの象徴だった。だから、わたしはおかあさんにはなれない』、というあの言葉は。彼女なりのケジメであったのだろう。私にとっての『おかあさん』には、絶対になりたくなかったのだ。そのひとは。私を苦しめたくなかったから。私に、憎んで欲しくなかったから。
だから、付け加えたのだ。きっと。『けれど、あなたが赦してくれるのなら――わたしは、あなたの一番近い友だちになりたい』と。彼女にとって、その関係性が一番大切なものだから。家族というものは唾棄すべきもので、唯一安堵出来る繋がりは『友だち』だったから。
「……ぁ」
視界のパンフレットが、ゆっくりとほどけて消える。代わりに表示されたのは――着信の二文字。番号は、非通知。怪しいこと極まりない。けれども私はその着信を受けることにした。今この瞬間に私に用事があるとしたら、そのひとしかいないと信じたから。
コミュアバを立ち上げ、そして、視界に映されたのは。
「……真っ黒?」
真っ黒なコミュアバ。短い茶髪の、眼鏡をかけた顔。真っ黒なブラウスとズボン。見覚えのないそれが、感情を読み込み損ねたのかパニックになって走り回っていた。意味不明過ぎる。
「いや何で?」
『何でちょっといきなり何してって繋がってんやんあばばばばば』
読み込み損ねた、ではなかった。間違いなく通話先の誰かは混乱していた。
「えぇー……私の覚悟返してぇ」
『つきちゃここ劇場! 貸し切ったん!? バラシの間だけぇ!? 待ってちょい待ってほんまなぁ、ゲネやろこれ、なぁ、バラシってんなわけあるかい……え、本気ぃ?』
大混乱中の聞き覚えのある声は、どうやらそのひとであるらしい。そんな気は、していた。さっきから絶対に考えようとしてこなかったことだ。だってもしそうなら、どこから仕組まれていたのか分からない。まあ仕組むほど策略とかに長けてはいなさそうだけど。むしろ仕組まれた側のようにも見える。
「……のんさん」
私はその名を呼んだ。
『へっ……何でぇ? つきちゃバラしたん? アッハイすいませんこっち集中しますはい。む、む、向き合うって決めたもん、うぅ、頑張りゅ……』
何だこの気の抜けるひと。けれども久しく声を聞けたそのひとは、ようやく感情が落ち着いてきたようだった。まあ、コミュアバはソワソワしっぱなしだったけど。何だか緊張が果てしなくほどけていってしまう
けれども軽く深呼吸して気合いを入れ直し、私はのんさんに問うた。
「のんさん、は……その、私の、叔母さん、ですよね」
『うぁ……はい、そうです』
蚊の鳴くような声で、けれどもしっかりと答えた言葉は私の求めていたものだった。このひとが。この、話しやすい、変わったひとが。このひとが、私の。
「名前を、ちゃんと聞いても良いですか?」
『ぅ……竹野、
返ってきた答えはやっぱり想像していた通りで。けれどもやはり分からなかったのは名字だった。
「……改名は分かるんです。教授に聞いたので」
『教授……?』
「でも、結婚、したんですか」
そういうしあわせは、分からないひとなんだろう。そう思っていた。でも、分からせてくれたひとがいたんだろう。そうでなければそんなことはしない。
『……ゆきに押しきられて……はい。同性婚、しました』
「ってその竹野なん!?」
『そうなん』
まあその相手がまさかゆき先生だとは思わなかった。同じ名字だなぁとは思っていたのだけれども。そうだ。童顔だ、とは思っていた。きっと同年代なのだ、この二人は。
「……お友だちから始めました、的な」
『そんな感じ……中学と高校の同級生なんよ。まあ、そうなるとはどっちも想定してなかったやろうけど、そうです』
似ていない姉妹だと思った。玻澄と、つきねぇちゃんと、のんさんは、姉妹なのだ。そのはずなのに、誰も誰にも似ていない。顔も、性格も。それは気付かないはずだ。よく見れば確かに似ていなくはないのかもしれない。けれども、軽くしか見なければ本当にそうとは気付けないだろう。
「私のことは、知ってた?」
『まあ……産まれた時は、そっち帰ってたし。わたしには、子どもは育てられん。そんなんでけんし、ねぇは溺愛してた……ように見えた。言い訳やね。それに、約束したから』
約束。その言葉の響きは重かった。何よりも。
「……約束?」
『欲しけりゃあげる。だから、二度と関わんな。まあ、速攻で破られたけどな……実はまだ目も開かんころには、世話させてもろてた。介護休暇を最大限使わされてなー……まあ、幼稚園入るまでやった。それ以降はまったくや』
もちろん覚えてなんていない。ただ、あのひとならやりそうだった。面倒事は全て他人に。自分は美味しいところだけいただいておく。それが、玻澄というひとだ。
「私、が。……私が、どんな、状況だったか……知ってた?」
『……ゆきから、聞いた』
玻澄からではない、というのは少し意外だった。でもこのひとは知っていた。私がどれだけ苦しんだのか知っていて――
『わたしには……近くには、おることは、でけんかった。約束した……破るわけには、いかんかった』
「知ってたんだ……」
知っていて、このひとは。私を見捨てたのか。
『知ってた』
「何で助けてくれんかったん……私、私は……っ」
『わたしに出来ることは、なかったんや。親権もない。それどころか血もほとんど繋がらん。公的な立場もあるわけやない……まず、ゆいさんを助けるべき人は他におった』
それは、でも、そのひとは。ろくでなしの、クソヤロウだった。親権はない。けれども確かにあの男は私の父だから。
『まあ、遠回しにケツ叩いたけど煮えきらんかったからな……ゆきに頼んだ。ああいうのから簡単には逃げられんのは、よう知っとる。せやしちょっとずつ切り離していかんなんなって分かってた』
「……自分では、動かんかったんか」
このひとが隣にいてくれたら。どれ程心強かっただろうか。それを考えるだけで裏切られた気になるのはどうしてだろうか。
『動ける状況やなかった、というのはまあ言い訳でしかないわな。単純にそこはゆきの方が詳しかったから任せたんよ。わたしの改名のときに調べまくったみたいやし……』
「名前の話じゃない!」
『大事な実績や。どういう親で、何で家を出ていかんとヤバいかっていうのをひとつでも行政に示しとく必要があった』
思いの外冷えた強い言葉に、私の沸騰しそうなほどの怒りは冷やされた。
『児相は動かん。ねぇの時に動いてしもたから、基本的にはねぇの味方なんや、そっちの児相は』
苛立つような言葉には実感がこもっている。もしかしたらこのひとも、相談だけはしてみたことがあるのかもしれない。
「……玻澄の、ときに?」
『そう。ねぇには、生まれつきの病があってな。心臓移植をする必要があったんよ。でも、募金を募るだけ募ったはええけど海外行けんくて、そのまま移植も出来てへん。その環境が嫌やったんか、ねぇは児相に駆け込んだ……』
知らない話だ。でも、それはもしかしたら。
「……のんさんが、産まれたから……行かなかったんじゃなくて?」
細胞の一欠片から、全てに至るまで。そのために産み出された。そういうセリフがあったはずだ。それが大袈裟であったとは、私には思えない。玻澄ならやる。玻澄ならそう教え込む。洗脳じみたそれを、このひとはふつうに受け入れてしまいそうだ。そしてその親も、きっとそうだったのだろう。アジサイのように。
『さあな。そこは知らん。ただ、そこでおかんの目論見は失敗して、うちは一気に貧乏になった……まあ、それはええやろ。そのうち明るみに出るかもしれんけど今はあんまり関係ないし』
いつの間にかのんさんのコミュアバは落ち着いていた。
『改名の手続き。それとなく混ぜてもろた関西から離れたとこへの進学。事細かに付けたゆきの記録。その辺があれば多分いけると思った……まさかこんな近い大学に来るとは思ってなかったけど』
「確かに他にも選択肢はあったけど……でも、何となく。ゆき先生が押してたのはそこだったみたいだし」
『……狙ったな、もー……まぁええわ。それはええのよ、それは。わたしが、ゆいさんが一番大変なときにこの手で助けられんかったんは事実やから、んなこと言うても仕方ない』
黒い視線が、コミュアバ越しとは思えないほどの強い視線が、私に突き刺さる。
『……わたしは、わたしに出来ることをする。ゆいさんのためなら何だって、とは流石に言えんけど、でも、出来ることはやる』
それはきっと、私に選択を迫るものだ。分かっていた。見て決めろとつきねぇちゃんも言っていた。私はもうつきねぇちゃんの真実を突き付けられてしまった。だから、私は、選ばなくてはいけない。
「……それは」
『わたしは、ゆいさんの親にはなれん。それは絶対や……もし、そう願ってくれとるんなら、それは悪いけど諦めて欲しい』
「のんさんにとっての親は、まともじゃないから……?」
『あいされることを知らなかった道具が、あいすることなんて出来るはずがない――そして、まともにそうなれるとは、思えない。まあそういう理由もあるけど、多分、ゆいさんには親なんていらんしな』
軽く言われた言葉に私は目を見張った。確かに知りたいとは思っていた。でも、一緒に住みたいだとか愛して欲しいだなんて欠片も思ったことはなかった。欲しくない。いらない。そんなものがあったって、生きるのに邪魔なだけだ。
『ねぇから……玻澄と縁切りたいって言うなら何とかする。成人もしとるわけやし独り立ちしたって誰も文句言わんわ。どうなりたい? どう、生きたい……?』
どうなりたい。どうなりたい? 私は自問自答する。私は選ばなくてはならない。今すぐに、ではなくとも。選ばなくてはならないだろう。だってそうしないと、いつまで経っても動けない。
分かっている。分かっていた。けれども、私は――動けなかった。親はいらない。庇護者は欲しい。けれどもそれでのんさんに負担をかけるのは、違う気がする。私にまともな親はいない。それで良い。それはもうどうでも良いのだ。だけど、私が生きていくために必要なものは。
視界の端で何かが動いた気がして私はそちらに視線を向ける。コミュアバがぴょんぴょん跳び跳ねて、割り込み着信が来たことを主張していた。相手は――
「……へぁ?」
周囲にいる誰かかと思った。けれども違った。そこに記されていたのは、京都府警の四文字である。
「ごめん、のんさん、何か警察から電話来た」
『……こっちもや。一端切ろか。バラシも終わったみたいやし、そろそろ出なマズい』
「あ……分かった」
一端警察からの通話に場所を移動する旨をチャットで送りつけて席を立つ。劇場から出てイナホをハイドモードに切り替えたところで目の前にのんさんがいることに気が付いた。
「のんさん」
「ゆいさん……ちょっと、一緒におった方が良さそう。つきちゃにも京都府警から着信やて……あー来た」
あまりに真剣な顔だったので私は圧されてうなずく。するとすぐに劇場の搬入口から誰かが飛び出てきた。
「ゆいちゃん! はのんちゃん!」
メイクで一瞬誰か分からなかったが、つきねぇちゃんだった。後れ馳せながら気付いたがサザンカのメイクだ。
「つきちゃ……どっか、目立たんくて座れるとこ移動しよ」
「貸し会議室押さえたからそこ行くで。ゆいちゃんも、ごめん、一緒の方が良いと思う」
「あ、うん……」
そうして私たちはつきねぇちゃんに連れられて池袋の貸し会議室へと転がり込んだ。
*
その日、下らないニュースばかり流すテレビはまたしても愚にもつかないニュースばかり垂れ流すかに思われた。いつもと代わり映えのしないもの。殺人事件があろうが何があろうがそれは紗幕の奥の出来事で、自分たちには関係のないものばかりであるはずだった。
ただ、その日のニュースはひと味違った。四十年ほと前、誰もが涙したあの『はぁとちゃん基金』が大炎上したからである。生まれつきの重い心臓病で、海外で手術するしか生き延びる道はないと意思から宣告された『はぁとちゃん』。彼女の境遇に同情した者は多く、カンパは多く集めたあの基金が――詐欺だったというのだ。
そもそも別件で逮捕されたようだが、それよりも世間ではその『はぁとちゃん』の件を覚えているひとは多かった。他の心臓移植の基金の子どもよりもなお金額が高く、またメディア出演も多く同情を引いたからだ。テレビ、SNS、街角募金。様々な手段で集められたそれを、ついぞ使ったというニュースは聞かなかったというのもある。
更に言えば、テレビなどというオールドメディアをまだ使っている世代がちょうどその『はぁとちゃん基金』に募金した世代だったのだ。当然のごとくクリーンヒットした。今やイナホで全てが完結する時代になってしまっても、まだ年齢を重ねたひとはテレビに固執していたからだ。特に六十代以降の初老のひとびとはその基金を鮮明に覚えていた。
記者もそれを覚えていたからなのか、記者会見を開いた警察に飛んだ質問にはそのことが含まれていて。そしてそれが大規模な詐欺であることが発覚したのである。今回逮捕された川越
当然のごとくそれを覚えていた民衆は容疑者とその家族に厳しい目を向けることになる。当然だろう。余裕があるひとしか募金には参加していないとはいえ、自分たちの気持ちを蔑ろにされたのである。その家族に向けて社会的制裁が下されるのも時間の問題だった。
だが、それに待ったをかけた人物がいた。大学教授の水野という初老の男をはじめとする数人の有識者たちだ。彼らはその件についてコメンテーターとしてメディアに露出し、徹底的に情報をぶちまけて家族が被害者であることを強調したのである。
『では、『はぁとちゃん』の妹たちはずっと蔑ろにされ続けていたと?』
『ええ。マスコミへの露出頻度や講演の頻度を鑑みるに、物理的に育児放棄されていたのは間違いないでしょう。ほとんど帰宅していないようなものですから』
『しかも容疑者たちは恐ろしいことに妹から不必要に内臓を摘出して捨てたとか……倫理的にも有り得ませんね』
『本人からの証言では、『スペア』や『替えの心臓』などと呼ばれていたとか。およそ人間に対する呼び方ではないですよ』
好き勝手な方向に情報をねじ曲げようとするメディアに対して様々な影響を与えたのは何の共通点もないコメンテーターたち。それと、SNSでも容疑者家族に対する擁護がこれでもかとなされていて、世間的な認識は徐々に『家族すら切り刻む情け容赦ない鬼畜容疑者たち』にすり変わっていったのだ。詐欺にも目を向けるが、それ以上の非道――許可を強引に得て子宮を摘出して移植し、妊娠、出産を経てその使用済みの子宮を捨てたことに対しての批判が噴出したのである。もちろんそれを実行した大学病院も叩かれはしたが、そちらも脅迫を受けていたとして容疑者たちを提訴した。
もちろんこれにはタネがある。大学教授の水野はゆいのゼミの教授で、その他のコメンテーターたちはかつての『京華はつき』の――
容疑者たちを擁護する発言はほとんど聞こえてこない。聞こえてきても陰謀論に近いようなもので、それらは一笑に付された。それでも妹たちを割り出そうとするひとびとはいるもので、けれどもそれらは芳しくない結果に終わった。
今やプライバシーの問題やら個人情報保護などの影響で、卒業アルバムからは名前が消されている。故に玻澄にいるらしいもう一人の娘について、誰もたどり着けなかったのである。玻瑠璃の妹であるらしいその人物は、高校を卒業した後にふっつりとその消息を断っている。住民票の閲覧制限をかけているらしく、誰もそれを知ることが出来なかったというのもある。
そして玻澄の妹たちについても似たようなものだった。二人いるらしいが、どちらも名前を調べても出てこなかったのだ。戸籍まで当たるような記者もいないわけではなかったが、それも実在を確信するだけで本人にたどり着けてはいない。名前だけを残して消えてしまったかのようだった。こちらも住民票の閲覧制限をかけているらしい。
では、玻澄や玻璃江の夫や親族はどうなのかと躍起になるも、まずどちらも入婿であったことがネックとなった。戸籍に当たった記者は姓まではたどり着けたが、やはりその先にはたどり着けなかったのである。どうやら玻璃江の夫は死別しているようだが、玻澄の夫は雲隠れでもしたかのように見つからなかった。ありきたりな姓であったというのもそれに拍車をかける。見つからないのも当然といえば当然だった。
もちろんそれらにもタネはある。玻月と雪枝の策だ。舞台の公演を行うと決めてから、彼女らは何もしなかったわけではないのである。二ヵ月。その間に二人とゆいの父
まず、ゆいについてだ。そもそも玻澄がずぼらだったのか、高校卒業時点でのゆいの戸籍上の名は『小林宙衣』のままだった。親権は玻澄だが、手続きをするのを怠っていたのである。そこから改名手続きをして『小林ゆい』になっていて、ゆいはまだ父親の戸籍に入ったままだという事実を知らされていなかったのだ。記名についての全てで彼女は事情を忖度されていて、誰も指摘しなかったというのもある。
そこからまず住民票の閲覧制限をかけた。本人の承認が必要だったが、それは警察から電話がかかってきた時点で了解を取ってある。主に玻澄や玻璃江からの閲覧を制限したかったのだが、これが報道機関にも上手く作用したらしい。
ついでにゆいに相続を放棄してもらい、慰謝料云々からは切り離す。これで誰からも追求されない『小林ゆい』の出来上がりである。特別養子縁組まで出来ればよかったのだが、残念ながら成人したゆいには適用出来なかった。
次に玻月だ。本名を出したことがないので芸名を変える必要まではなかったが、流石に本名を変えないことには記者たちの追求は免れないだろう。そこで本名を強引に変えるためにまず玻月は改名した。『玻月』から『
そして改名が成ってすぐ、月音は婚姻届を出した。相手は善和である。こうして『川越玻月』は消えて『小林月音』が出現した。善和から何かしらを疑われたとしても月音の存在がそれを打ち消してくれるだろう。妻の妹と結婚するというのはあまり聞かない話だ。そうして善和もついでに追求を逃れた。
ゆいの実家の所有権は善和で、彼はそれをまっさらな土地にして売り払うことで手放した。逮捕された時点で、川越一家は立ち退きを要求されていながらもそれを知らずに滞在していた不法滞在者であったのだ。必要な証拠を全て運び出したあと、無数の落書きを施された瀟洒な川越家は跡形もなく取り壊された。
そこにはあれほどけたたましく騒いでいた家族が集うことはない。もう二度と。
*
――数年後。東京の片隅のちいさなカフェで、穏やかに暮らす四人がいた。偽りだらけのその四人を指弾するものは、いない。好き好んで虚偽を啄む騒がしい鳥は、もういない。ただ穏やかに時間の流れるそのカフェの名は――『
「……いらっしゃいませ」
叔母よりその立場を引き継いだ年若い娘が、その店を仕切っている。隣には初老の男がいて、キッチンには店長の座から降りた女が趣味のお菓子作りに励んでいた。そして訪れたのは髪の短い中年の女。
「ゆーいーちゃーん、コーヒーぃ。砂糖抜きでー」
「疲れすぎじゃない? のんねぇちゃん」
「んぇー、だってぇー……閉架で触るの職員しかいないのになぁんで棚当たりしないといけないのって話なのー……ちゃんとIC活用してよー……というかちゃんとNDC確認しろー? あんのアナログ脳どもめぇ」
穏やかな時のなかで、そんな会話があったとか、なかったとか。