親愛なるウォーターウッド先生。
私はあなたの顔を知りません。
私はあなたの声を知りません。
だけど私はあなたの作品を知っています。
あなたの生み出したものの素晴らしさを知っています。
世間がそれを認めなくても、誰がなんと言おうとも。
私にとってそれは自分の人生の方向性を定めてくれた輝かしい光だったのです。
◇
クレイルという街がある。
主要な街道から外れた辺鄙な所にある街だが、それ故に保たれている豊かな自然や静かな雰囲気から、あえてここに居を構える者もそれなりにおり、こういった街にありがちな寂れた雰囲気は微塵もない。落ち着いた雰囲気の中に程よい活気が混ざり、ゆったりと時が流れているような街だ。
そんな街の外れにある一本の道を旅行鞄をぶら下げた一人の女が歩いていた。
午前の光を受けて輝く金糸のような髪はやわらかに編み込まれダークレッドのリボンで飾られている。身に付けているのは一目で上等なものだと見て取れる、積もったばかりの雪のような白のワンピースドレスにプルシアンブルーのジャケット。そのまま高級服飾店の店先に展示できそうな服装は、人気のない野原を通る荒れ果てた道よりも華やかな街の石畳の上を歩いている方がよほど似合っていそうだが、それを纏う女の足取りは力強く、規則正しく刻まれる足音は小気味いいほどだ。
大きな旅行鞄を持ったまま、もう十分近く、舗装もされていない赤土がむき出しになった道を歩いているというのに疲れた様子など見せないまま歩き続ける彼女の視線の先に、やがて古びた一軒の家が見えてきた。
手入れが行き届いていないのだろう。植えられた庭木はそれぞれ勝手気ままに枝や葉を伸ばしていて、処理しきれていない雑草が庭のそこかしこに蔓延り、建物に至っては鮮やかな緑の蔓草が壁一面を覆っていて、まるで緑に飲み込まれているような有様だ。そんな荒れた庭の中で門から玄関までの間だけはゴミ一つみあたらず整えられていて、この家が無人ではないことを無言のうちに語っている。
庭を横切りチリ一つない玄関にたどり着いた女は、日に焼けた木の扉をノックした。
「はい。どちらさまかな?」
両開きの扉が開いて、顔を出したのはひょろりとした感じの中年男だった。あまり日に当たる生活をしていないのか肌は青白い。穏やかそうな垂れ目の顔に大きな丸眼鏡が印象的な男だ。
「お初にお目にかかります。お客様がお望みならどこにでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
女――ヴァイオレットはスカートの裾をつまむと膝を曲げて頭を下げる。お手本のように優雅なカーテシーを見た男は目を丸くして息を呑み、それから小さく笑った。
「ようこそ。待っていたよ。僕が依頼を出したサイモン・グレンジャーだ」
◇
ヴァイオレットを応接間に案内して、サイモンは部屋の中央に備え付けたソファーにすわりこんだ。彼に促されたヴァイオレットも一言断ってからその向かいに腰を下ろす。
机の上にはサイモンが急いで用意した紅茶のカップが2つ置かれて、芳しい香りと湯気を立ち上らせている。
「さて」
久しぶりの来客だからだろうか。心なしか気持ちが高ぶっているのを感じながらサイモンは話し始めた。
「君は今回の依頼についてどこまで会社の方から聞いてるんだい?」
「好きな小説家の方に送る……いわゆるファンレターを書くのだと聞いています」
「そのとおり。手紙の宛先は小説家の先生さ。ゲール・W・ウッドという人なんだが知っているかい?」
「……いえ。すみません、聞いた覚えがありません」
「いや、謝ることはないさ。知る人ぞ知るといった感じの、端的に言えば無名の作家だからね。でも僕にとっては特別な作家なのさ」
困ったような笑みを浮かべながら、サイモンは気恥ずかしそうに頭の後ろをポリポリとかいた。
実際、活動期間の長さや著作の多さに比べて、ゲールの知名度が高くないのは事実なのだ。伝承や言い伝えを下敷きにした幻想的で時に陰鬱、時にシニカルな彼の作風はどうにも万人受けはしないようらしい。それこそが彼の著作の魅力だとサイモンは信じているのだが、悲しいかな薦めてみた知人たちからの評価も散々だったということを思い出したところで、関係のない方向に行きかけた思考を引き戻す。
「それこそ何年も前から彼に手紙を出したいと考えるだけは考えていたんだけどね。なんだか気恥ずかしいとかあれこれ考えては後回しにしていたんだけど、最近になって少し事態が変わって、ようやく気持ちが固まったんだよ」
そこまで話したところで、サイモンは紅茶をぐびりと飲み干した。ふぅ、と一つ息をつきながら、ちらりと壁の時計に視線を走らせる。
「さて、じゃあそろそろ始めようか。散々無駄話をしておいてあれだけど、時間は限られているからね。よろしく頼むよ」
「了解しました。ところで旦那さま、作業はどちらで行いますか?」
「そうだね、ここでいいんじゃないかな。わざわざ場所を移すこともないだろう」
南向けに大きな窓があって、いつも自然の光がさしこんでくる応接室はサイモンのお気に入りの場所だ。本を読むときも読むつもりの本を暗い書庫から山積みにして持ち出して、ここで読みふけっている。なら好きな作家に送る手紙を書くのもこの場所がいいと、サイモンは考えたのだ。
依頼人がそう希望したのならヴァイオレットが異論を挟むわけもなく、程なくして応接間にはヴァイオレットのタイプライターの音が響きだした。軽快なその音を聞きながら、サイモンは手紙の文面を考える作業に没頭する。
「『そうしていつの頃からか、私の心の中には貴方の作品が……』。どうも違う気がするな。気取りすぎた感じがする。でもあまり普通な感じなのもなぁ」
ううん、と頭を悩ませるがどうもうまい言葉が出てこない。様々な本を読んできた読書家の端くれとして、色々な表現や言い回しこそ浮かんでくるのだが、いざそれを使って文章を組み立てるとなるとなかなかこれといったものが出来上がらないのだ。
やはり文章を読むのと書くのでは違うなと、サイモンが渋い顔つきで首をひねっていると、黙っていたヴァイオレットが口を開いた。
「でしたら……そうですね。このような表現はどうでしょうか」
そうして彼女が示した修正案は、サイモンがいくつか考えていたどの文章よりも彼の伝えたいことを過不足なく形にしたものだった。
――そうだ、自分はこういうことを言いたかったのだ。
いかがでしょうか、と尋ねてくるヴァイオレットに、サイモンは満足げにうなずきを返す。
「いいね。それでいこう」
「了解しました。それではこの後はどのように続けますか?」
「そうだな……」
改めて考えた手紙の続きを口にしながら――サイモンはふとヴァイオレットに目をやった。今しがた見せた働きぶりなど当たり前の仕事を行っただけとも言いたげに得意げな様子ひとつ見せず、人形のような無表情を貼り付けた彼女をそれとなく見つめる。
――それにしてもすごいな。有名になるだけのことはある。
銀に光る機械の指を踊らせタイプを続けるヴァイオレットを眺めながら、サイモンは心のなかでそうつぶやいた。
読書家を自認し人並み以上には言葉に詳しいと自負していた自分を軽々と超えていく豊富な語彙と自分には及びもつかない適切な言葉の組み立て方。やはり専門家は違うのだなと感心するしかない。
――もしも自分に彼女の能力の十分の一でもあったなら、あるいは……。
「旦那さま?どうかしたのですか」
「ん、ああ……ぼんやりしていたみたいだ、ごめんね」
「疲れたのなら少し休まれますか?」
「そうだね、そうしようか」
意識してみれば酷使し続けた頭が熱を持って思考が少しぼやけてきているのがわかる。
幸い作業は順調で、時間にはまだ余裕がある。ならばお茶を片手に一休みするのも悪くないだろう。
さて。お茶は入れ直すとしてお茶菓子の残りは二人分あったかななどと考えながら、サイモンは立ち上がった。
◇
「そういえば代筆屋というものは文章を読むのも好きな人が多いイメージがあるんだけど、ヴァイオレットさんは本を読むほうかい?」
休憩時間の最中、三枚目のクッキーを平らげたサイモンがふと口にしたのはそんな些細な疑問だった。深い意味はない、ふと思いついたことを口にしただけ、ただの時間つなぎの雑談の種だ。
ヴァイオレットが飲みかけのティーカップを皿に戻した。かちゃりと陶器同士が触れ合ってかすかな音を立てる。少しだけ考える素振りを見せてからヴァイオレットは口を開きその玲瓏な声を響かせた。
「そうですね、おそらく読む方だと思います。古い詩集や物語は手紙を書く際の参考になりそうな言い回しや表現を学ぶための教本として最適ですし、それ以外のことでも知らなかったことを知れるというのは面白く興味深いですから」
「なるほど」
サイモンは得心したようにうなずいた。ヴァイオレットが詩集や小説を教本と呼ぶのには少し驚いたが、自分自身、人並み以上には語学に堪能だと自認していられるのも小さい時から本に親しんでいたお陰だと認識しているサイモンにとって、その言葉は納得のいくものだった。
会って一日も経っていないが、まるで機械仕掛けのような印象すら受ける程に彼女が真面目な為人をしていることくらいは分かっていて、そんな彼女が勉強のためにと黙々と本を読み進める姿は容易に想像できる。
「でもそうなると、やっぱり仕事の役に立つような本以外は読まないのかな」
「いえ、それは違います」
サイモンの質問に対し、今度はヴァイオレットは首を横に振った。
「そういったこととはまた別に、本を読むこと自体も嫌いではありません。そうして読書をしていると時が過ぎるのを忘れてしまうことがあります。物語の風景が思い浮かぶような気がしたり登場人物の気持ちを考えたりすることもあります。現実の存在ではないと理解しているのに、懸命に頑張っている彼ら彼女らがハッピーエンドを迎えるとなぜか安堵を覚えるのです」
そう話すヴァイオレットの表情に変化はないが、心なしかその雰囲気が柔らかいものになっているようで、つられるようにしてサイモンも微笑みを浮かべた。
「ふふふ、その気持ちは僕も分かるよ。子供の頃のことだけど面白い物語を読みだして辞め時が分からず徹夜をしたことも何度もある。ちなみにヴァイオレットさんは特に好きな話はあるのかな?」
「そうですね……。本ではないですがオスカー・ウェブスター様の『オリーブの冒険』は……好きというか思い入れがあります」
「なるほど。あれは僕も観に行ったけれどたしかに良かったね。子供を対象に書かれたものだけど子供だましじゃない、大人が見ても楽しめる。あれこそ正しく子供向けのお話というものだよ」
ゲール先生の話は、そういう意味では子供向けっぽくなかったからなあとひとりごちる。
「なんといえばいいかな。子供向きの話って子供が楽しめるようなものが普通だろう?だから勇気とか友情とか夢とかが大切で、登場人物たちはみんなそんな感じのもので着飾ってキラキラしてるものだ。なのに先生の作品にはそういうのがないんだ。いや、なくはないけど少ないし分かりにくい。おかしな話さ、れっきとした児童文学作家なのにね」
困ったように笑うサイモンの語り口は、その内容とは裏腹にゲールという作家とその作品に対する彼の強い思い入れが感じられるものだった。熱っぽく語られるその言葉を、ヴァイオレットは同意も否定もすることなく、ただ静かに耳を傾けている。
「子供の頃、あの人の本を初めて読んだときには衝撃だったよ。あんな話は読んだことがなかった。世界の無常や社会の矛盾、人の愚かしさを隠したり誤魔化したりすることなく書いていて、その癖読後感はからっといていてさ。理不尽なものをむやみに美化も否定もせず、そんなものだと笑い飛ばしてただ受け止めるみたいな……うまく言えないな」
だからだろうか。それに釣られるようにして、話すつもりのなかった事柄がするりと口からこぼれてしまったのは。
「なのにそれが僕の心をひどく打ったんだ。僕が物語を書こうなんて考えたのも、あの時の感激があったからさ」
つぶやいた自分の声にはっと我に返る。恐る恐るヴァイオレットの方に目をやると、眉一つ動かさずにこちらを見つめる彼女と目があって反射的に視線を横に向ける。
気まずそうにヴァイオレットを見ては視線をそらすサイモンと特に大きな反応を示さず黙って視線を返すヴァイオレット。互いに黙ったまま時間だけが流れていく。
なにか言うべきなのか。それなら何を言うべきなのか。なんとも言えない気まずさに焦れるサイモンを見かねたわけではないだろうが、先に沈黙を破ったのはヴァイオレットだった。
「旦那様も物語を書かれているのですか?」
反射的に違うと返しそうになったところでサイモンがその言葉を呑み込んだのは、一見冷静に見えたヴァイオレットの瞳に確かな熱がこもっていることに気がついたからだ。
いっそ機械かと錯覚するくらいに落ち着いた言動を見せていた彼女らしからぬ、子供じみた好奇心や憧れの籠もった目で見られるという初めての経験に、サイモンは顔を赤くした。なんだかとてもむず痒くて気恥ずかしく、しかし嫌ではない不思議な感覚に内心悶えながらも、覚悟を決めて口を開く。
「まあね。昔から書くだけは書いてる。でもなかなか芽が出なくてね」
「そうなのですか」
「うん……。実を言うとね、今までゲール先生に手紙を送れなかったのはそれが理由なんだ。『貴方に憧れて自分も作家になりました』って、伝えたかった。最初に送る手紙の最後はそれで締めたかったんだよ」
くだらないこだわりと言われれば返す言葉もない。だけど、彼の作品に感銘を受けて作家を志した身としては、どうしてもこだわりたかったことなのだ。貴方の作品は一つの人生を変えてみせたのだと、感謝の言葉とともに胸を張って伝えたかったのだ。
「……過去形なのですね」
「まあね」
入れ直した茶を飲み干して、サイモンは憂鬱そうに息を吐いた。
「さっき事態が変わったって言っただろう?出版社に務めている友人が教えてくれたんだけどね、先生が病気になったらしいんだ。年齢のこともあるしそう長くはないらしい」
それを聞いたときの頭を殴られたような衝撃は今も覚えている。次に襲ってきた身を焦がすような激しい焦燥感も。このまま、彼に何も告げないままでいればきっと自分は後悔する。そんな気持ちに追い立てられるように、気づいたときにはサイモンは街で見かけた広告を頼りにCH郵便社に依頼を出していた。
「……依頼を出したことを後悔されているのですか?」
静かにそう問われたサイモンがはっと顔をあげると、人形のような少女の宝石のような瞳が、気遣わしげにこちらを見つめていた。
「……いや、後悔はしていないよ。ただ悔しいんだ。いつか一人前になって先生に夢を与えてくれたお礼を伝える。夢だけじゃなくその目標もあったから僕は頑張ってこれたんだ。なのにそれが叶わないまま終わる……。それがたまらなく悔しいのさ」
結局夢は未だ叶わないまま。しかも仮にも、ものを書くのを生業にすることを目指しながら恩人への手紙一つ自分では書ききれず自動手記人形に依頼を出すような体たらくで。
そんな自分が情けなくて仕方ないと、話を結んでサイモンは黙り込んだ。再び静寂に満たされた応接間に、規則正しく動き続ける柱時計の振り子の音だけが響く。
そして今回静寂を先に破ったのはヴァイオレットだった。
「旦那さま。一つお聞きしたいのですが、今書いている手紙にはそのことを書くつもりはありますか?」
「え?」
「作家を志しているということ、そしてその理由がゲール様の作品を読んだ感動に拠るものであることを、です」
そういった話は代筆のときにはされていなかったので、と続けたヴァイオレットに対し、それはそうだよとサイモンは苦笑を返した。
「言っただろう、まだ僕は作家になれてないって。夢を叶えていないんだ。伝えることなんてないんだよ」
「……そうでしょうか」
「え?」
「確かに旦那さまはまだ夢を叶えられていないのかもしれません。そしてその夢が叶うと断言することも誰にもできません。ですが、夢というものは叶わなければすべて無価値なのでしょうか。そこにたどり着くまでの道のりにはなんの意味もないのでしょうか」
――私はそうは思えません。
ずっと透明で冷たく聞こえた玲瓏な声に、小さくて、だが確かな感情の色が混じった。そんな感想がサイモンの脳裏に浮かんだ。それに惹かれるようにして彼は続く言葉に耳を傾ける。
「主人の役に立ちたい一心で戦い、知らないうちに償いきれない罪を背負っていた兵士のように。あるいは特別な相手が残した言葉の意味を知りたくて歩くうち、人間になれた道具のように。それがどんなものであれ、生きている限り、歩みをやめない限り、目的地に辿り着くその道筋にも自然と何かを残していく。きっと私たちはそういうものなのです」
「歩いているだけでなにかを……」
言葉の意味を噛み締めて確認するようにサイモンはつぶやいた。不思議とそんなことはないと反論する気は起きず、代わりのようにじわじわと胸中に沸き立つような何かが生まれてくるのを感じる。
もしもそうなら、未だ夢をつかめなくて、それでも諦めきれずにもがいているみっともないとばかり思っていた今の自分も、気づかないうちに何かを残してきたのだろうか。
「君は僕が作家を目指していることを先生に伝えたほうがいいと思っている……?」
恐る恐る尋ねると、ヴァイオレットは困ったように少し眉を下げた。
「いいかどうかはわかりません。ただ個人的には伝えるべきではないかと思います。言葉では伝えきれない想いも届けられるのが手紙ですが、それを届けたい相手が手の届かないところにいってしまっていてはどうにもなりませんから」
「……ああ、それはたしかにそうだね」
しごくまっとうな意見にサイモンはそれ以上何も言えず苦笑するしかなかった。
言われてみればそのとおりだ。いちばん大事なのはそこなのに、今まで気づいていなかったなんてと自嘲する。
そもそも胸を張って作家だと名乗れるまで手紙を出す気はなかったのを、ゲールの余命が短いと知って居ても立っても居られなくなり、自動手記人形に依頼を出すことまでしたのだ。それなのにみっともないなんて理由で気持ちに蓋をしたまま済ませてしまえば、きっと自分は後悔する。
――先生の本を読み返すたびに、伝えそびれたことがあったことも思い出して落ち込んで。昔みたいに楽しむことができなくなるんだろうな。
それでいいのかと自問自答するまでもない。そんなの、答えは決まっている。
「そう、だね。伝えたいことを全部伝えきれないまま永の別れなんて哀しいことは、避けられるならそれに越したことはないね」
知らないうちに強張っていた肩の力を抜くようにため息を一つ吐いて、サイモンは顔を上げた。静かにこちらを見つめているヴァイオレットに少し気まずげに言葉を切り出す。
「……さっきの手紙に少し手を加えたいんだ。粗方書き終えたあとですまないけれど、頼んでいいかな?」
「お客様が望まれるのでしたら」
いつもより少し柔らかい声。かすかに微笑む彼女に釣られるようにぎこちなく笑いながら、サイモンは改めて書く手紙の文面をどうするか、頭を悩ませ始めた。
◇
「本当にありがとう。おかげで無事に書き上がったよ」
改めてゲールに送る手紙を書き終えて。帰還するヴァイオレットを見送るため、サイモンは玄関先に出た。既に陽は傾きかけているが、旅慣れた自動手記人形の足ならば、暗くなる前には問題なくクレイルの街まで戻れるだろう。
「私は役目を果たしただけです」
「それでもだよ。君がいなかったら、僕は先生に伝えたいことを全部伝えられないままだった。本当の気持ちに気づかず蓋をしたままだったんだ」
そうして取り返しがつかなくなってから気がついて、一生そのことを後悔しただろう。それを止めてくれた彼女には、どんなに感謝してもし足りなくて、そして同時に憧憬のようなものが湧き上がっていることをサイモンは感じた。
誰かの人生に大きな影響を与えるような仕事をしながら、きっと彼女は特別なことをしたとは思っていないのだ。きっと今までも、そしてこれからも、同じように何でもないような顔をして多くの人の想いに寄り添い、それを形にしてきたのだろう。
彼女のそんな姿が、名前しか知らない憧れの老作家と重なる。
作家と自動手記人形という違いこそあるが、きっと二人とも特別成果を出すことを意識していなかった。ただ自分の仕事に真摯に向き合い、ひたむきにその道を歩き続けてきただけ。だからこそ人の心を揺り動かすような文章を生み出せたのだ。
「おかげで、絶対に夢を叶えてやるって改めて決意できたよ。それこそ何年掛かることになっても」
「……旦那様」
なにか答えを探すように、少しの沈黙を挟んでヴァイオレットが口を開いた。
「私は物語を代筆することはできても物語を考えることはできません。ただそれが簡単なことではないと推測できるだけです。そんな私が軽々しくこんなことを言うべきではないのかもしれませんが……旦那様が夢を叶えられることを心から願っています」
「……ありがとう、とても励みになるよ」
真摯な口調で紡がれた言葉に、思いがけずサイモンは目を丸くして、それからにこりと微笑んだ。
大人びたその外見とは裏腹に子供のように真っ直ぐなヴァイオレットの言葉は、長く誰にも何も期待されることのない生活を送っていたサイモンに、久しぶりに人に期待される喜びと、それに付随してくる期待を裏切れないという重圧を与えてきたが、今はその重さも心地よく感じる。
「いつになるかわからないけど、胸を張って作家を名乗れるようになったら書き上げた本を送らせてもらうよ、せめてものお礼として」
「はい。その時を楽しみにしています」
いつかどころか本当に果たされるのかもわからない口約束を告げると、ヴァイオレットは小さく、だけど確かな笑みを浮かべてうなずいた。
そうして遠ざかっていく自動手記人形の背中をしばらく見つめてから、サイモンは大きく一つ伸びをすると踵を返した。
「信じてもらったんだから返さないといけないな」
さっき別れたばかりの自動手記人形が最後に浮かべた表情を思い出す。もしかしたら社交辞令の類だったのかもしれないがそんなことは些細なこと。少なくとも自分の本を待っていると言った人が確実に一人出来たのだ。もう自分の夢に期待しているのは自分一人だけじゃなくて、ならそれを裏切るようなことはできない。したくない。
そうして決意を固め直しながら、作家志望の男は原稿用紙を前にペンをとった。
◇
それから幾ばくかの時間が過ぎたある日のこと。ライデンのCH郵便社の休憩室で、ヴァイオレットは新聞の片隅に載せられたゲール・ウォーターウッドの訃報に気づいてその形のいい眉をひそめて無言で目を走らせた。その記事は小さなもので、彼が生涯を執筆活動に捧げたこと、この数年闘病生活を続けていたことなどが短くまとめられ、最後に故人に対する哀悼の言葉で結ばれている。
記事を読み終えたヴァイオレットは小さく息を吐いた。彼の作品を読んだのをきっかけに将来の夢を定めたと、嬉しそうに語っていた男の顔が頭に浮かぶ。彼はもうこの報せを知っているのだろうか?作家になれたという報告をすることはできたのだろうか。
考えても仕方ないと分かっている疑問をどれだけ自分に問いかけただろうか。誰かが近づいてくる気配に気づいて顔をあげると、肩から配達カバンをかけたベネディクトと目があった。
「どうしたんだよ、ヴァイオレット。ぼんやりして。らしくないな」
「少し考え事をしていました。ベネディクトは配達帰りですか?」
「ああ……っと、ちょうどよかった。郵便社(ここ)宛に届いた荷物の中にお前宛の物が混じってたんだ。ほら、こいつだ」
ベネディクトが差し出してきた小さな包みを受けとり視線を落としてみると、確かに宛先のところには郵便社の住所と、そしてヴァイオレットの名前が記載されている。
一体誰からだろうか。送り主を確認しようと包みを裏返したヴァイオレットが一瞬目を見張る。急いで包みを解くと中から出てきたのは一冊の文庫本だった。内容に関するなにかの隠喩だろうか、表紙には栞が挟まれた本と一輪の花が描かれ、飾り気のないシンプルな字体のタイトルの下に同じ飾り気のない文字で見覚えのある著者名が記されている。
「なんだ、小説?どこかの作家の新作の代筆をした礼とかよ?」
「……そうですね。そんなところです」
どうやら彼は殊の外早く約束を守ってくれたようだ。まえがきに記された作者の言葉を目で追いながら、ヴァイオレットは薄っすらと柔らかな笑みを浮かべた。
◇
この本を手に取ってくれた親愛なる読者の皆さん。
あなたたちがどんな顔をしていてどんなふうに笑うのか。何が好きで、何が嫌いで、何に幸せを感じるのか私には知りようもありません。
だから代わりに、私が好きなこと。嫌いなこと。幸せを感じること。胸が踊ること。思いつく限りのそんな素晴らしいものをできるだけ集めてこね回して、この物語を書き上げました。この本が一人でも多くの人の心に心地よい揺らぎを与えてくれれば、これに勝る喜びはありません。
そして未熟な私の道標になり、あるいはそっと背中を押してくれた、偉大なるウォーターウッド先生と美しい花のような自動手記人形にありったけの感謝を。