BEGINNING 作:山尾萩桃
人類に仇なす人ならざる者、魔族。その首魁たる魔王が人間たちの英雄である勇者に敗北を喫し、人類が魔族との戦いに決定的な勝利を収めてから一ヶ月。かつて魔王の膝元として栄えた王都には、人類の主力たるノルスラン連合の正規軍が進駐してきていた。既に王都に暮らしていた者のほとんどはより敵の手の届かない奥地に逃げ出しており、残るのは手つかずのまま残された彼らの財産か、或いは死体のどちらかしかない。その財産は争うようにして兵士らに奪われ、家財は破壊され、残された死体は冒涜的な扱いをされていることは言うまでもないだろう。
そして、次々に荒らされ、片っ端から浄化と称して火が放たれていく街を眺める外套姿の男が一人。フードからはみ出た鬼のような二本の角が、火に照らされる。しかしその男は特に何かするというわけでもなく、橙の光に背を向けると、そのまま夜の闇の中へと消えていった。
◇◇◇
魔王が負けた。ある魔族、アルバ・ウォルナットは、他の大半の魔族や連合の兵士と同じように、その報を王都から北西に少し進んだところにある、とある平原で戦っている最中に受け取った。戦線が崩壊し、精強を誇った魔王軍が潰走を始めるまでに、そう時間は掛からなかった。ありえないと一笑に付し、敵に突撃していった者は、たった一人で戦意の高揚した兵達に飛び込むことになり、そのほとんどがわずか数人の敵を道連れに、今生に別れを告げた。アルバは敵が叫ぶのを聞いた。曰く、抵抗しなければ命は助けると。曰く、神に仇なす魔族を、その一片までも殺せと。もはや魔王軍の中で、まともに戦えるものは圧倒的に少数だった。
アルバは恐らく、その中でも最も勇敢な者の一人だったのだろう。アルバが戦場に背を向けた時、既に大勢は完全に決していた。アルバは半ば殿の役割を果たしていた。しかし戦いは最早追撃戦の様相を呈しており、それはアルバにはもう敗走の選択肢しか残ってはいないことを意味していた。
アルバの多くの戦友が、この一戦の為に命を落とした。彼と幾度となく腕を競った者は、その身に幾本もの槍を刺され、その身体はついには原型を留めなかった。何度も酒を酌み交わした者は、敵に助けを乞い、しかし聞き入れられず頸のない死体を地に晒すことになった。冗談混じりに愛を語らった相手は、トレードマークのスカーフ一枚を残し行方が分からなくなった。
その勇猛さで知られていたある将軍は、部下の大半を逃がし、自身は殿となって死んだ。誰からも馬鹿にされていたある参謀は、最期に多くの敵を巻き込んで果てた。名の有無の区別なく、多くの者達が命を散らしていった。
そんな中、アルバは一人生き残った。夢中で逃げ込んだ先が、勝手知ったる森の中であったことも幸いした。最低限しか人の手の入っていない複雑な森は魔族ゆえの身体能力の高さに味方したし、何よりその面倒さから、彼を追うことを諦めさせた。
そして今、アルバはその森の奥、かつて自身が暮らしていた古い家に潜んでいた。だが、それも長く住むことにはならないだろう。決して王都から遠くはないこの森を、人間がいずれ開発、そうでないにしろ探索することは明らかだ。つまりこの隠れ家が見つかるのは時間の問題であり、そうなる前に、どこかへ移動する必要があった。
そのことを理解しつつも、アルバはすぐさま行動に移すことも出来ず、一ヶ月が経った。既に王都はほとんどが原型を留めておらず、かつては勇者をその威容を以て出迎えた城は、人類側の拠点として、生き残った魔族を睨んでいた。
◇◇◇
その城内、以前は魔王が使っていた最上階「謁見の間」では、一人の女性が、ノルスラン連合からの使者の報告を、瞑目して聞いていた。彼女の名はリオン・ダルトニア。ノルスラン連合の盟主にして、連合を構成する国の中でも最大規模を誇るダルトニア王国を治める現ダルトニア王の末の娘にあたる。
「兄上が、こちらに来ると?」
リオンは報告を聞き終わり目を開くと、使者に対しそう問い掛ける。
「はっ。先日、ミルアード王太子殿下は、陛下よりリオン王女の政務を補佐する役目を賜り、騎兵三百を率いて居城をご出発なされました。ご到着は、三日後となる予定です」
「委細承知した。ノルツウェスト平原でお出迎え申し上げると、そう伝えてくれ」
リオンの言葉に使者は深く一礼し、部屋を退出していく。
リオンは、自分のいる場所よりも数段高い場に据えられている、豪奢な玉座を見上げた。
「もう二年も経つのか」
リオンの口から零れ出たのは、そのような言葉だった。この二年とは、彼女が今の立場に就いてからの期間だ。
彼女の兄や姉は皆、既に父から領地を与えられているか、或いは他国へと嫁いでいる。妾腹である彼女の王位継承権は兄の子供、すなわち甥よりも低い最下位であり、この戦いの指揮官に据えられたのも、他の兄達が皆魔族を恐れ、誰もこの役を務めようとはしなかったからだ。他の王子達に見られるような、「臣下となって主が王となったときに重職を狙う」という博打をしようとする者すら出ないような立場であり、彼女自身、自分には大した価値を見出してはいなかった。だが、彼女には他の兄姉達が持っていない戦いの才があった。それは軍を動かすような類のものではなく、自身が矢面に立つ部類の才ではあったが、それでもその才能は彼女を助けた。自身に直接襲撃を仕掛けてきた魔族と剣を交えたのも、一度や二度の話ではない。
「それにしても、魔王はまだ見つからないのか」
勇者や同行していた兵士らの報告によって、魔王がほとんど致命傷を受けて撤退したことは判明していた。だが王都が陥落してから一カ月が経過してもなお、死体や或いは目撃報告でさえただの一件も挙がっていないのが現状だった。
「そういえば、奴もまだ見つかっていなかったな」
奴、というのはリオンに何度も襲撃を仕掛けてきた魔族のことだ。名はついぞ聞くことはなかったが、顔は未だに思い出せるほどに瞳に焼き付いている。
リオンは執務用の机に山と積まれた手紙を退け、一枚の紙を手に取った。魔王を始めとした、依然として見つかっていない魔王軍の有力者や一般兵のリストだ。決して多くはないが、かといって少ない訳でもない。リオンはその中の「アルバ・ウォルナット」という名に目を留める。だがそれは、他の名と同じように、ほんの一瞬のことだった。
ノルツウェスト平原でリオンが兄のミルアードを出迎えたのは、彼女の元に使者が辿り着いてからちょうど三日後のことだ。肩甲骨にかかろうかというくらいの髪を風に靡かせ悠然と立っていたリオンは、こちらに駆けてくる馬の音に気付くと頭を垂れ、跪く。
「お待ちしておりました、ミルアード王太子殿下」
「出迎えご苦労、リオン南征指揮官」
虎を思わせる精悍な顔立ちに、熊かと見紛うほどの逞しい肉体。胸に燦然とノルスラン連合の国章を煌めかせた馬上のミルアードは、リオンに対しそう声を掛ける。兄妹の情に類するものは何一つない、至って事務的な口調だった。しかしリオンはそれを気にすることはない。何もこれまでと変わらない。
「そうだ、この後で少し散歩に行かないか」
張られた天幕へと向かう途中、そういえば、といった調子でミルアードはリオンにそう言った。これまで一度足りとも聞いたことのない提案に、リオンは面食らう。
「散歩、ですか? 構いませんが」
「そう、散歩だ。いくつか話したいことがある。兄妹二人きりで、な」
先程までと変わらぬ調子でリオンに対して言い放ちながら、ミルアードは天幕の中へと入っていく。そしてリオンも、表情には出さないながらも困惑した様子でその後ろに続くのだった。
簡単な報告とミルアードが「手土産に」と持参した会食、そしていくらかの事務的な手続きを終えると、事前の約束通りミルアードとリオンは連れ立って、平原の西側にある森へと歩いていく。ある程度の地域までであれば大概の獣は既に追い払われ安全は確保されており、王族二人が歩くのにはさしたる問題もなかった。またこれは彼ら自身は知る由もないことだが、この森はアルバが逃げ込み、今なお潜んでいる森でもあった。
「それで兄上、話とは?」
脇目も振らずに奥地へと進んでいくミルアードに、リオンが痺れを切らして声を掛ける。それを聞き、ミルアードは立ち止まり、振り返った。
「まあ、この辺りで十分かね」
口中でそう小さく呟いた言葉は、リオンの耳に入ることなく溶けて消えた。そしてリオンの疑問に答える代わりに、ミルアードは指を一つ鳴らす。決して大きくはない音はすぐに木々に吸い込まれて行くが、直後、リオンたちの背後から茂みが揺れる音がする。リオンが振り返ると、そこには見慣れない制服を着た二人の男の姿があった。
「兄上、何を」
「いや、そろそろだと思ってな」
同時にリオンは、身体が少しずつ痺れていたことを自覚する。
「あ、兄上、まさか」
「ああ、死んでくれ。私の為にな」
それを聞き、リオンはようやく自身が嵌められていることを悟った。
「何故、何故なのですか、兄上!」
「私を兄などと呼ぶな、穢らわしい」
これまでの事務的な声と異なり明らかに嫌悪の感情が込められた言葉に、リオンは凍り付いた。ぎこちない動きで自身を見るリオンを全く無視しながら、ミルアードは続ける。
「お前は邪魔なんだよ。これまで通りどこぞで大人しくしていればいいものを、このように、功など! ……まあいい、後は頼むぞ」
何の躊躇もなく言い放ち、振り返ろうとする素振りすら見せず、ミルアードは森の外へと歩き出した。それを止めようとしたリオンの前に、先程の二人の男が立ちはだかった。
「そこをどけ! 私は兄上に、ミルアード王太子殿下に用がある!」
男たちはそれに答えることなく、無言で剣を抜き、リオンに向かって斬りかかる。しかしそこはさるもの、リオンも素早く剣を抜き放ち、女の細腕とは思えぬ力でそれを受け止める。
「兄上! これは、これは何かの間違いではないのですか!?」
思うように動かない身体を必死に動かしながら、リオンはまだ決して遠くには行っていないであろうミルアードに向かって精一杯呼び掛ける。しかし返ってきたのはその兄の声ではなく、眼前の男の声だった。
「気付いているだろう。もはや殿下はここにはおられない。お前は魔族に内通し、我らの軍の犠牲を徒に増やした犯罪者だ。お前の罪状は全て、一つの例外もなく挙げられた。既に裁きは下されている。我らは、ただの処刑人だ」
予想だにしなかった言葉に、リオンは思わずよろよろと数歩後退る。これまで気合で誤魔化していた心身の不調が勢い良く彼女に襲い掛かり、思わず剣を取り落とす。視界が歪み、立っていることにすら耐えられなくなり、リオンは地面にへたり込んだ。
「私が、内通者? 裏切り者だと?」
「そうだ」
もはやリオンには、抗う気力は残されてはいなかった。ただ虚ろな目で地面を見つめ、降ってくる死をただ受け入れることしか出来なかった。
そのはずだった。
「おい、聞き捨てならねえな」
もはやぼやけて使い物にならなくなってきた瞳で、リオンは自身の前に立ちはだかる人影を見た。
「こいつが裏切り者? 馬鹿も休み休み言え。こいつが、一体何人、俺の仲間を殺しやがったと思ってんだ?」
意識が遠のきまともに聞こえなくなってきた耳で、強烈な怒気を孕んだ声を聞いた。
「逃げるぞ」
最後に、身体が宙に浮く感覚と共に、何か、人肌くらいの温かさのものに包み込まれるのをリオンは感じた。驚くほどの速さで、かつ同時にリオンを気遣いながらの動きに、いつしかリオンは、完全にその意識を手放していた。