BEGINNING 作:山尾萩桃
「随分と迷惑かけたな。少ししかねえが受け取ってくれや」
そう言ってアルバが差し出した革袋を、ホーシュはにこやかに拒否した。
「いえいえ、お気になさらず。義父の心残りの一つでもありましたから。この先何かと入用でしょうし」
ホーシュの視線の先には、早くも露店の食品を物色し始めたリオンがいる。エアに滞在していた数日の間、こうして屋台を買い食いするのがリオンの日課だった。
「あんまし大きな声じゃ言えねえんだけどよ、あいつは自分の立場ってのを自覚してんのか?」
「全くです」
アルバの言葉にホーシュは苦笑する。色々と工夫をして誤魔化してはいるものの、彼女の人相書きは既にこの街にも回ってきている。そして、この数日間、毎日露店に現れては見ていて気持ちのいいほどに料理を平らげていく彼女の姿は人々に認知され始めている。長居すると無用な問題を引き起こしかねなかった。
「そうそう、言い忘れてました。私は普段学術院……ここから南、首都のすぐ近くにある施設にいるんですよ。良かったらまたお訪ね下さい。当然ここと比べて圧倒的に警備は厳しいですがね」
「なあに、任せろ。呼んでくれりゃいつでも行ってやるよ」
アルバはわざと厳しい顔で自信たっぷりに言うと、再び破顔する。ホーシュにはその姿がガトルに重なって見えた。腕を組み豪快に笑う義父の姿が頭を過ぎる。しかしそれも一瞬のことで、すぐにその姿は消え眼前にはそれよりずっと若い魔族の男が再び現れた。
「よく考えてみると、私と貴方は兄弟ってことになりませんか? 同じ人を養父に持っていることですし」
ふとホーシュがあまりの馬鹿らしさに思わず小声で言った言葉は、遠くからリオンが叫んだ言葉に掻き消されてしまう。
「おーい! 随分と長いじゃないか!」
アルバはその言葉に対し軽い罵声のようなものを返し、改めてホーシュに向き直った。
「悪い、上手く聞き取れなかった。……世話になったな。短い間だったが、楽しかったぜ」
「私もです。これからの旅路に幸多からんことを」
「おう、ありがとよ」
そう言って、アルバは片手を振りながら外套を翻し、街の外へと向かっていく。その後ろ姿はやはり、ホーシュにはガトルのそれと重なって見えていた。ところが歩き始めていくらも立たないうちに、アルバはふと立ち止まる。何かあったのだろうかとホーシュが訝しんでいるうちに、アルバは振り返ると、ホーシュに向かっていたずらっぽく笑いかける。
「お前も頑張れよ、兄弟!」
言うやいなや走り出してしまった外套姿は、すぐに人混みに紛れて消えてしまった。しかしその言葉の余韻がホーシュの耳から消えるには、まだしばらく掛かりそうだった。
「ちゃんと別れの挨拶は済ませられたのか?」
両手に数本ずつ串焼きを構えながら、リオンがアルバに言った。答え代わりだとでも言わんばかりにアルバがその頭を小突く。当然抗議しようとするリオンだったが、その最中にも串焼きを頬張ることをやめなかったために、発言は意味不明な音の羅列にしかならなかった。
「それで、ここからはどうするんだ。目的地でもあるのか?」
もう街を出ようかという頃、ようやく両手から串が消えたリオンが問い掛けた。
「そうだな、しばらく考えてたんだが、クライスタとかどうだ?」
アルバの答えに、リオンは言葉にならない呻き声を上げる。アルバが挙げた名はかつてリオンが暮らしていた離宮、『水晶宮』の存在する街だ。そう広くない敷地に反比例するかのように所狭しと装飾やら何やらが詰め込まれた建物の数々を思い出し、リオンは頭が痛くなるのを感じていた。
「確か、『水晶宮』は中央の建物以外は自由に入れるって昔ガトルが言ってたんだよな。ずっと気になっちゃいたんだ」
子供のように興奮するアルバに対して、自身が勝手に付いてきている負い目もあってかリオンは「行きたくない」と言い出すことが出来なかった。結局二人は「水晶宮」の街、クライスタへの道を辿り始めるのだった。
◇◇◇
クライスタへと向かう道中のことだ。お尋ね者同士の旅路ゆえに人が行き交い各地に関所のある街道をそのまま通るという訳にもいかず、二人は本道から少し外れた、半ば獣道のような山道を歩いていた。場所で言うとエアからやや南東、かつてエアへと向かった際に通った道からはやや西に当たる森の中だ。太陽が天頂を通り過ぎたばかりだというのにも関わらず、山の中は不気味なまでに静まり返っている。見慣れぬ山とはいえその不自然な様子に、二人の足はいつもよりも速くなっていた。
不意に、アルバが立ち止まった。
「なんだ、どうかしたのか?」
訝しむリオンを片手を上げて制止し、アルバ自身は神経を張り詰めらせる。その表情は少しずつ硬くなり、額には冷や汗までも流れ始めた。目に見えて緊張状態に入っていく同行者に、リオンは思わず声を掛ける。
「おい。一体どうし──」
しかしその声は、最後まで続くことはなかった。突然アルバがリオンを掴んだかと思うと、勢い良く駆け出したからだ。鹿や猪でさえ追い付けないであろう速さでアルバは山道を疾駆する。しかしその表情は依然として硬いままだった。
「おい! 何があった!?」
アルバの小脇に抱えられたリオンが、その体勢のまま叫ぶ。それに対するアルバの返答は非常に簡潔なものだった。
「わからん!」
「なんだと!?」
「何かヤバい物に目ぇ付けられた! それが何かとかどこにいるかとかは分からん! とにかくここを出る!」
その瞬間、二人は聞いた。いや、実際にはそんな音は全く発されてなどいなかったのかもしれない。だが、確かに二人は聞いたのだ。恨みが、苦痛が、恐怖が、怒りが籠もった、何者かの咆哮を。
結局、アルバが走るのを止めたのはその日の夕方のことで、その頃には既に例の森からは十分過ぎるほど遠くへと離れていた。しかしその額からは、疲労や暑さからの物ではない汗が、いつまでも滴っていたのだった。
◇◇◇
クライスタは観光地として知られている街であり、連合の人間に「生涯で一度は行ってみたい街はどこか」と尋ねれば、王都と並んで最も多く挙げられる街の一つだ。ダルトニア王国の離宮の一つ、通称「水晶宮」を中心として、そこから広がるように発展してきた経緯を持つ。関所を迂回し若干の回り道やトラブルを挟みながらも、二人は五日後には水晶宮のシンボルである、硝子製の巨大な像の前に立っていた。
「へえ、こいつが水晶宮か! 綺麗なもんだなあ!」
連合内でも屈指の美しさを誇る庭園を見回しながらアルバは叫ぶ。他の場所であればひどく悪目立ちしていたであろうが、幸いにも彼らに特別の注意を払うものは少なくともこの庭園内にはいなかった。ダルトニア王国初代国王によってとある側妃のために建てられたとされるその建物は、丹念に手入れされているおかげか今なお当時の輝きを残していた。
「あまり騒ぐな、私まで恥ずかしくなる」
そう窘めるリオンだったが、その顔はわずかに上気していた。それも仕方のないことだろう。リオンがこの庭園をゆっくり眺められるのは、彼女がまだ南に派遣されて以来、実に二年ぶりのことだからだ。これまでの人生の大半を過ごしてきた場所の変わらぬ姿を見られたことは、彼女に少なからぬ喜びを与えていた。
「確か、あっちには大きな金木犀の木があったな。ちょうど今頃が花が咲く時期だったと思うんだが……」
「この硝子の像は毎日丹念に磨かれていてな、そのおかげでどんな日でも曇り一つないんだ」
結局、リオンの方がアルバよりもはしゃぎ出すのにそう時間は掛からなかった。クライスタに到着した時の沈鬱な表情はどこへやら、あくまでフードの下に隠しながらではあるが、まるで少女に戻ったかのように顔を綻ばせながら庭園内を案内していく。しかしリオンはとある人影を見つけると、突然黙りこんだかと思うと人目を避けるように物陰に隠れてしまう。
「なんだ、急にどうした?」
アルバが不思議そうに尋ねてみれば、彼女は苦々しげに庭園の一角を指差した。そこでは二人にとっては見慣れた軍服を身に纏った、リオンと同じか一回りほど年上くらいの男と、もう高齢に差し掛かろうかというほどの女性が建物の方へと向かっている。歩きながらも何やら話をしているようで、その会話の内容までは聞き取ることは出来なかったが、その青年の態度と女性の反応は、アルバの警戒を呼び起こすには十分過ぎるほどの怪しさを秘めていた。
「……兄上だ」
男の方を見て、リオンが呻くようにそう漏らす。
「兄っていうと、例の?」
例の、というのは、言うまでもなくリオンの命を狙ったミルアードのことだ。アルバにしてみれば彼女の兄という存在はその一人しか知らない。しかしリオンは黙って首を横に振った。
「いや、あれは一番上の兄で、今度は二番目の兄だ。正直な話、昔から二番目の兄は苦手でな。……それにしても完全に失念していた。よく考えてみれば当然のことじゃないか、正真正銘私のいなくなった後に誰かが入るなど!」
「どうした、今度は急に」
突然ブツブツと何事かを呟き始めたリオンを心配し、アルバは思わず声を掛ける。リオンはそれに構わずアルバの襟元を掴むと、庭園の外へと引き摺っていく。そのまま路地裏へと連れ込まれた先でアルバが告げられたのは、リオンの出自に関し、彼がまるで想像だにしなかったような事実だった。