BEGINNING 作:山尾萩桃
一方でリオンたちは、その居場所が外に近かったため、他の者たちよりは比較的早く異変に気が付くことが出来た。とはいえそれも咆哮が響くわずかに前であり、勢いよく建物に異変の原因が突っ込んでくることに対し、防御行動が間に合っただけに過ぎなかった。だがそれが彼女たちの寿命を大きく伸ばすことに役立ったのも事実だ。
無残に破壊された部屋の奥で、ゆらりと土煙の中から立ち上がったそれは、辛うじてかつて人であったことが分かる程度にはその特徴を残してはいたが、裏を返せばそれはほとんど異形であったということだった。全身はどす黒い靄に覆われ、その厳密な大きさは判別できないものの、あまり背は高くないように思われた。その手はさながら猛禽の如く、頭には枝分かれした羊のそれとでも言うべき形をした黒曜石のような角が生え、靄から時折覗くその肌は鈍く光る鱗で覆われている。片方が潰れた目は赤く妖しく輝き、その口は醜悪に歪んでいた。それは未だ倒れ伏したままのアマディオを視界に認めると、一層醜い三日月の笑みを浮かべ、滑るように突進していく。
「とっ、止まれ!」
既のところでその間に先程の年嵩の兵士が槍を構え割って入る。その勇敢な行動はアマディオの命を救いはしたものの、死ぬ人間の数を減らしはしなかった。反射的に跳ね上がった槍は怪物の鱗の上を硬い音を立てながら虚しく滑り、それと交叉して怪物の鋭い歯がその喉笛に突き立てられた。その歯は何の抵抗もなく鎧を砕き、肌を切り裂く。
だがそのわずかな時間は、アマディオを退避させるという意味では十分なものだった。そうしてリオンは、同僚の死を目前にして立ち竦むもう一人から槍を奪い、構える。その間怪物はと言うと、既に事切れた兵士には興味を失い、今度はリオンの方へと視線を向ける。その姿からは、それが明らかに捕食やそれに類する行いではなく、殺戮を目的としていることがはっきりと感じ取れた。
リオンの手が嫌な汗で濡れる。それを意識すると同時に、リオンは軽く手の中で槍を握り直した。その槍の重さに、少しばかりの冷静さを取り戻す。
「っ!」
お互いに睨み合っていたことで辛うじて保たれていた均衡は、怪物がリオンに一気に肉薄したことで破られた。狙いは単調であり、それをリオンは半身になって避ける。そしてすれ違いざまに槍を手で滑らせ、その背を石突で勢いよく突いた。怪物の背が嫌な音を立てて大きく曲がり、その勢いのまま壁に激突する。リオンは視線を切ることなく振り返り、再び槍を構え直した。同時に何でもなかったように土煙の中から飛び出してくる怪物。それを槍で受け、すぐさま反撃に転ずるが怪物もさるもの、眼前で飛び上がり空中から鉤爪を大きく振るう。咄嗟に柄で受け流すしたにも関わらず、重い衝撃がリオンを襲う。たまらずたたらを踏んだところに、着地した怪物が追撃を加えていく。一撃目、二撃目、三撃目。次々繰り出される攻撃を、リオンはギリギリながら捌き、流し、凌いでいく。しかしただの人間には、その怪物の相手をするという役目は少々重すぎた。不意にそれまでとリズムを崩して振るわれた鉤爪が、ついにリオンの胸を捉える。服の破片と共に飛び散った鮮血が明かりに照らされるのが、リオンの視界に映った。幸いにも致命傷とまでは行かなかったが、一方でその一撃によって膝を突いてしまったことは、紙一重で渡り合っていたリオンには、あまりにも大きすぎる隙であった。そしてまた、相手はその隙を見逃してくれるほど甘くもなかった。続けざまに繰り出された無慈悲な一撃が、傷付いたリオンを切り裂かんと迫る。
その時だ。
「どうにか、間に合ったなぁ。……てめえか、あの時俺達を見てたのは……!」
もしもそれが直撃していれば、間違いなくリオンの命はなかっただろう。だが寸前に横合いから割り込んできた影が、それを防いだ。
「お前、どうして……」
息も絶え絶えに、リオンがその手の主──アルバへと問い掛ける。想像よりも重たい一撃だったのか、顔を顰めていたアルバは目配せで答えると、腕に力を込め怪物を外へと放り投げる。そうして跪いたリオンに歩み寄り、簡単に胸の傷の手当てをしていく。左肩から右脇にかけて大きく傷付けられてはいるものの、そう深くはない。やはり痛むのか、リオンの額に脂汗が滲む。
「大丈夫だ、傷は浅い。済まねえがちゃんとした手当ては出来ねえからな、後で薬師にでも診て貰え」
それだけ言い残すと、アルバは再び戻ってきた怪物に突進し、取っ組み合いながら外へと転がり出て行く。
「ま、待て……」
あっという間に見えなくなってしまったアルバに向かい、リオンが手を伸ばす。しかしその手は半ばで力尽き、リオン自身もまた、視界が急速に黒く染まっていく感覚と共に、意識を手放すこととなったのだった。
◇◇◇
水晶宮の外へと転がり出たアルバと怪物は、水晶宮の目の前の広場で互いを突き飛ばすように距離を取った。すぐさま立ち上がり油断なく構えるアルバだったが、その背筋には冷や汗が流れていた。怪物の力はアルバのそれをも上回っていたのだ。縺れ合っていた時に出来た妙に疼く掠り傷も、何時になく早鐘を打つその心臓も、アルバの不安を増大させていた。
怪物が、呻き声を上げながらアルバよりも遅れて立ち上がる。その声は普通の人間が聞けばそれはただ獣の唸り声でしかなかったであろうが、アルバの耳には確かに意味を持った言葉として響いた。
『ねえ、一つ聞きたいんだけどさ。君、もしかして、アル?』
自身のことを知っていると思しきその言葉に、アルバは思わず眉根を寄せる。そのように彼のことを呼ぶ人物をアルバは二人しか知らず、その二人はどちらももうこの世には居ない筈だった。
「だったらどうしたって言うんだよ」
返答を聞くと、怪物の靄が払われ、中にいた人物の姿が少しずつ露わになっていく。禍々しいまでに肥大化した角、かつては透き通るほどの白さだったその肌は見る影もないまでに黒く濁り、かつては二の腕や太股をわずかに覆うだけであった鱗は喉元にまで広がってしまってはいたものの、その容姿は間違いなく、アルバのかつての親友にして魔王、セイレンそのものだった。
言葉を失ったアルバに対し、セイレンは一歩だけ、いっそ妖艶なまでにゆったりと歩み寄る。
「お前……生きて、たのか……?」
唖然として問い掛けるアルバに対し、セイレンが微笑み掛けた。
『久し振りだね、アル』
「……なんで」
言葉にならない言葉を絞り出し、アルバはどうにかそれだけ口にした。それを見て、セイレンの微笑みが妖しさを増す。
『ふふ、驚くと思ってた。やっぱり、僕が死んだと思っていたから? それとも、この姿に対してかな?』
心底愉快そうにセイレンが言う。アルバが返事をするよりも速く、セイレンの言葉は続けられる。
『やっぱり、やっぱりアルだ、やっぱりアルだったんだ。僕の気のせいじゃなかった。死んでなんかいなかった!』
今にも飛び跳ねそうな程の喜びに全身を踊らせ、セイレンが叫ぶ。無邪気とはこのことを言うのだろう。アルバの眼前の存在は、今はただ単純にその生存を心から喜んでいた。
『ああ、ってことはこの間のは本当にアルだったのか。ごめんね、脅かしちゃって。てっきり死んじゃったものだとばかり思ってたから、同じ気配を感じてつい吼えちゃったんだよね。ごめんね、偽物だと思ったからさ』
「あ、ああ……」
見るものが見れば庇護欲を存分にそそられていたであろうセイレンの振る舞いは、しかしアルバの警戒心をより高める結果となった。何かがずれているのにそれが分からない、そんな感覚がアルバの内に沸き上がる。
『でもしょうがないと思うんだよね、まさか君が人間なんかと一緒にいるなんて思わないじゃん、普通。……そう、人間だよ。ねえ、なんであんな奴らと一緒にいるんだい? なんであんな女を庇うんだい?』
「……お前にゃ関係ねえだろ?」
アルバの声が意図せず上擦った。先程までの歓喜は嘘のように消え、打って変わってセイレンは剣呑な空気を放ち始めた。
『関係ない、関係ない。そうだね、僕には関係ない。でもね、腹が立つんだ。仕方がないだろう? 死んじゃいなかったとはいえ、仮にも親友の仇みたいな奴らなんかと仲良くするなんてさ』
でも、とセイレンは言葉を紡ぐ。いつの間にかアルバの目の前に立ち、自分よりも大きなその身体を撫でながら笑う。
『でも、僕は優しいから許してあげるんだ。どうだい? 僕と一緒にあいつらを殺さないかい? 今はまだ雌伏の時だ、僕だって表面上じゃ協力なんかしてあげちゃいるけどね。僕と君が揃えば何だって出来る。そうだろう?』
違うかい? と、セイレンは再びその中性的な顔に微笑みを浮かべた。無邪気、とでも言うのだろうか。その表情には期待も希望もない。そうして当然、と言わんばかりの顔だ。
だが。
(……違う)
だからこそ。
(こいつは、俺の知っているセイは、こんなことを言うやつじゃなかった)
そこにある違いを、アルバは見過ごすことが出来なかった。一つ一つは小さな、彼の記憶にあるセイレンとの違い。それが幾重にも積み重なり、アルバの中で大きな違和感となっていた。
「……悪いが」
セイレンと向き合った時に感じる酩酊感。彼の記憶にあるものとはまた異なるそれに抗いながら、アルバは一歩だけ後ろに下がった。
「そいつは、無理だな」
その言葉を聞いた時のセイレンの心中は、いかなるものであっただろうか。ほんの一瞬の間に、憤怒が、悲嘆が、失望が、絶望が、その表情に現れては消える。だが最後に残ったものは、何も無い、無表情だった。
『そっか』
無表情のままに、ただありのままの負の感情をアルバにぶつけながら。セイレンは少しだけ下がった後、アルバの隣を通り、背後へと歩いていく。その足元から再び黒い靄が立ち上り、瞬く間にその華奢を包み込む。
『またね』
その言葉と同時に、セイレンの姿が掻き消える。不定形の靄がどこかへと去っていくのを、アルバは見た。
「……どうしてだよ」
一人、アルバは呟く。
「どうしてだよ、セイ……!」
誰もいなくなった広場に、ただアルバの言葉だけが虚しく響いたのだった。