BEGINNING 作:山尾萩桃
クライスタの街を出たセイレンが向かったのは、そこから馬で二日ほどの軍の演習場だった。身体を覆う黒い靄を払い、そのまま野営地のど真ん中を悠々と歩いて行く。奇妙なことに、そんなセイレンに対し他の兵士たちは怯えこそすれ、決して危害を加えようとはしなかった。
「おい、魔王」
「……僕をそんな名で呼ぶな」
セイレンが一際大きな天幕の前を通り過ぎようとした時、それに声を掛ける者がいた。それは大して友好的な口調ではなかったが、かといって敵対的な訳でもない。対するセイレンの方でも、邪険に応対はするものの無視しようとする素振りもなかった。
「もう水晶宮に手を出したらしいな。俺はそんな指示は出した覚えは無いが。どういうつ もりだ?」
「別に。ただの気紛れだよ」
「そうか。本当にそうだと良いがな」
セイレンに声を掛けた人物は、天幕の陰からセイレンの方へと歩み寄る。その過程で、その姿が月明かりに照らされ露わになった。虎を思わせる精悍な顔付き、熊と張り合っても遜色ない丸太のような肉体を持つ男──他でもない、ダルトニア王国王太子、ミルアード=ダルトニアだ。
ミルアードはそうしてセイレンの前に立ち、彼より一回りも二回りも小さいセイレンを威圧するように続ける。
「今回は咎めるようなことでもなかったからこの程度で済ませておいてやる。次は一週間後だ、覚えておけ」
最後にセイレンを一睨みしておいて、ミルアードは天幕の中へと入っていく。だがその直前で振り返り、こう付け加えた。
「いいか、俺がいなければ貴様は死んでいたことを忘れるなよ」
そうしてその巨大な背中は布の後ろへと消えて行く。残されたセイレンは、しばらくそこにミルアードが居るかのように誰もいない空間を睨みつけていたが、不意に一つ、言葉を溢した。
「忘れるもんかよ、そんなこと」
そう言ったセイレンもまた、暗闇に溶けるように消えて行く。野営地は再びいつもの兵士の喧騒に包まれるのだった。
翌朝のことだ。一人行く当てもなく、昨日の襲撃で壊れた牢の中に忍び込んで寝ていたアルバは、階段を誰かが下りてくる音で目を覚ました。そちらに目を遣ると、ちょうど複数人が、一際広い牢の中に寝台を運び込んでいる。何のために、というアルバの疑問はすぐに氷解することとなった。その寝台の上に、未だ意識がないと思われるリオンも運び込まれたからだ。いくつかの房を隔てていながら、彼女の荒い呼吸はアルバの耳にも容易に聞き取ることが出来た。応急ではないきちんとした手当てがされ、後は目覚めるのを待つだけだった昨晩の様子を思い返し、アルバは訝しむ。彼の見立てでは傷はそう深いものではなく、傷を洗い出血さえ止めることが出来ればそう悪化することはないはずだった。
だが現に、リオンの様子は明らかにただの怪我ではない。頭に次々に浮かび上がる不安を振り払うように、アルバは努めてその呼吸を意識しないようにしていた。
そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。再びいくつかの足音が響き、今度は軍の人間ではない、恐らく薬師なのだろう老年の男が地下へと下りて来る。その後ろにはアマディオと、ここの兵士だろうか、三人の屈強な男が続いていた。
「……本当に、それで治せるんだな?」
「申し訳ありませんが、確証はございません。何分、私も実際に見るのはこれが初めてです」
そんな二、三のやり取りの後、薬師がリオンの枕元に、兵士達がリオンを囲むように、アマディオが少し離れたところに立った。事前に打ち合わせをしていたのだろう、その動きは淀みなかった。
「では、始めます」
そう言って薬師が懐から小瓶を取り出す。その中の液体が放っているのだろう甘ったるい匂いに、アルバは思わず顔を顰めた。それと同時に、動悸が僅かに早くなったのを感じる。
男が小瓶の中身を、そっとリオンの口に含ませ、飲み込ませた。
刹那、離れた場所にいたアルバすら肌が粟立つ程の、異様な雰囲気がリオンから放たれる。
次の瞬間アルバの目が捉えたのは、寝ていたリオンが全身で跳ねるように飛び起きた姿だった。だが、とてもそのことを手放しに喜べそうにはない。血走った目を剥きながらも油断なく構え、眼前の三人の兵士を見据えるその姿は、人というよりもむしろ獣のそれだ。
リオンが次に動いたのと、兵士達が動いたのとはほとんど同時だった。三人がかりで押さえ込もうとするよりも早く、リオンが牢内を跳ねる。壁、床、天井、壁、天井、壁。所狭しと跳ねるその度に、兵士達の体が腕で、脚で、或いは体当たりで打ち据えられていく。
「おいおい、こいつは不味いんじゃねえのかっ!?」
隠れることを止めたアルバがリオン達のいる牢に突進するのと、リオンが己を閉じ込める檻から出ようとするのとはほとんど同時だった。予期せぬことだったのだろう、アルバに弾かれリオンは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに雄叫びを上げてまた牢内を跳ね回り始める。
「おいジジイ! こいつはどういうことだよ!」
今はアルバの存在を気にしている場合ではない、と判断した兵士三人と、即席の連携を組みながらアルバが叫んだ。リオンに轢かれないよう隅でしゃがみこんでいた薬師が叫び返す。
「『獣憑き』だ!」
「ケモノツキだぁ? ……まあいい、それでどうすりゃいいんだ!」
そうしている間もリオンは片時も動きを止める素振りを見せない。無理な動きを繰り返す為に、下手に手を出せばリオンを大きく傷付けかねない。結果としてアルバ達もそれを捌くことしか出来なかった。
「彼女を押さえ続けてくれ!」
「いつまで!」
「止まるまでだ!」
「くそったれ!」
そんなある意味無責任とも言える言葉に、アルバは思わず悪態を吐く。それでもリオンは止まらない。それどころかアルバ達を完全に敵と見定め、その速度を増す。
「ああもう、やってやるよ!」
半ば捨て鉢になりながら、アルバは再びリオンへと向き直るのだった。
◇◇◇
「まだ、止まんねえのかよっ」
そうアルバが漏らすのも無理はない。日が頂点に差し掛かる幾らか前に始まったにも関わらず、日が傾き始める今になっても尚、リオンの動きは止まらなかった。三人の兵士も少し前に体力が尽きたのか倒れ、薬師は薬師で精神が限界を迎えたのかそれより前に気絶している。立っているのはアルバ一人だ。幾ら魔族と言えど、その体力も無限ではない。唯一の出入口を守る動きにも、少しずつ粗が目立ち始めていた。リオンの方でもそれは分かっているのか、外へ逃げ出す隙を虎視眈々と窺っている。人を呼ぼうにも、お尋ね者二人がいるとあってはどう転ぶかが分からない。結果としてアルバは一人で入り口を守らねばならなかった。
「っ、しまっ」
跳んでくるリオンを弾く手の動きがわずかに逸れる。衝撃を流し切れず、アルバの身体が揺らいだ。それによって開いた、入り口への半身分の隙間。それを逃さず、リオンはその細身を牢屋の外側へと捩じ込んだ。あと一歩でも踏み込めば、リオンは自由の身であっただろう。
だが、牢の外には、もう一人いた。
「……っふ、ぐぅ……!」
ここまで傍観を決め込んでいたアマディオが、咄嗟に入り口に立ちはだかった。勢いよくリオンとぶつかり、派手に倒れながらもその腕はリオンを抱いて離さない。リオンの方でも、アマディオに対しては無理に抗おうとはしなかった。リオンはしばらくアマディオの腕の中で身体を捩らせていたが、不意にその身体から力が抜け、すぐに穏やかな寝息を立て始める。
「これで、終わり……か?」
「……みたいだな」
安堵からか疲労からか、いずれにせよアルバはその場に座り込んだ。そのまま硬い石の床に大の字になって寝転びながら、アマディオの方へ恨みがましい目を向ける。
「全く、傍観決め込んでたかと思えば、急に手ぇ出してきやがって。その上良いところ持ってくってのはどういう了見だ?」
「仕方がないだろう。別に俺はお前達みたいに強い訳じゃない。あんな状況に飛び込んだらあっという間に轢かれて終わりだ」
「だったら尚更あそこで動いた理由が分からねえな。俺は、お前らはそいつに死んで欲しいものだとばかり思ってたんだが」
アマディオに抱かれたままのリオンを見ながらアルバが言う。
「別にお前に関係はないな」
そう言いながらアマディオは立ち上がった。リオンを抱き上げ、寝台に運んでいく。アマディオが彼女を見つめる目には、アルバ以上の安堵と愛情が浮かんでいた。
「出て行くならとっとと出て行け、魔族。お前には妹を助けて貰った恩もある、今どこぞに消えるのなら追いはしない」
「そうかい、そいつはお優しいこって。だったらお言葉に甘えて、おい、と、ま……!?」
軽口を叩きながら立ち上がろうとした矢先、アルバを強烈な眩暈が襲う。思わず鉄格子に手を付き、一つ、荒い息を吐いた。
「……どうした?」
「なん、でも、ねえよ」
そう言ったアルバの顔はとても平静とは言い難かった。心臓が異様なまでに拍動を繰り返し、視界が歪む。それと同時に覚える、どこか甘美な酩酊感。
(何だ? こいつ、は? くっそ、一先ず、人のいない、方へ……)
心中でそう毒づきながら、アルバは外へと歩いていく。
足元から立ち上った微かな靄に、気付くこともなく。