BEGINNING   作:山尾萩桃

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第9話

 水が滴り落ちる音に、リオンはゆっくりと閉じられていた目を開いた。身体を起こそうとして身体に力を入れるが、同時に全身の強烈な筋肉痛にそれを諦める。目だけを動かして辺りを見渡し、そこが一面石造りの壁に囲まれた場所であり、また自身が寝ているのがその場所には不釣り合いに上等な寝台であることにリオンは気付いた。

「目が覚めたか」

 はっとしてリオンはそちらを向く。だがそこにあったのは彼女の予想に反し、椅子に座りこちらを優しい眼差しで見つめるアマディオの姿だった。

「あ、にうえ、ここは」

 口から零れ出た言葉は、リオンが思ったよりもずっと掠れたものだ。続けて声を発そうとして、リオンはたまらず咳き込む。慌ててアマディオが差し出してきた水を口に含み、続きを口にした。

「ここは、どこなのですか?」

「地下牢だ。客人用の部屋は誰に見られているか分からんからな。……まあそれだけじゃあないが」

 そう答えるアマディオの口振りは、既に普段のものへと戻っている。だがその一挙一動には、隠し切れない安堵が表れていた。

(そうだ、私は)

 はっとしてリオンは自身の胸を見る。そこには未だ包帯が巻かれていたが、寝ている限りは大して痛むことはない。既に治癒しつつあるのは容易に察することが出来た。

「一体、どれほど、経ったのでしょうか」

 その質問にアマディオは指折り日を数え、リオンにとっては容易に信じられぬ答えを口にした。丸三日。それが彼女が眠っていた期間だ。少しずつ思考が鮮明になっていく中で、当然とも言える一つの疑問が浮かぶ。

「あの、兄上。奴は……あの男は、どこへ……?」

 アマディオは被りを振る。あの日以来、アルバの行方はようとして知れていなかった。街に現れるどころか、それらしき目撃情報さえ上がらない。そもそもなぜアルバが消えたのか、リオンが問い詰めて行くうちに、アマディオはとうとう全て白状してしまう。

「そうか」

 一通り聞き終えたリオンは、思わず、といった調子でそう呟いた。

「あの、馬鹿者が……」

 その言葉は石の壁に吸い込まれ、響くことなく消えていく。だがリオンの胸に宿った苦い気持ちはすぐには消えることはなかったのだった。

 

◇◇◇

 

(あれから、どれくらい経った?)

 クライスタからそう遠くない洞窟の奥で、アルバは蹲り、唸り声を上げながらそう考える。絶えず頭に響く酷い耳鳴りに、心臓の鼓動と共に赤く脈打つ視界。並の人間ならとうに発狂しているだろうそれを今尚耐え続けていることは驚異と言う他なかった。

 だがそれも限界に近付いている。刻一刻と、アルバは精神力というものが削られていくのを感じていた。もし一歩でも動いてしまえば、すぐに正気を失ってしまうであろうことは火を見るよりも明らかだった。

 突然、アルバは何かの気配を察知する。初めはかすかに、だんだんと、はっきりと。それは今のアルバには何の気配であったかは分からなかったが、だがそれが向かう先に、同じく向かわなければならないことは今の彼にも分かった。

 ゆっくりと、アルバが立ち上がる。腕が肥大化している為に、意図せず前傾姿勢となった。瞳は血のように紅く染まり、小麦色に近かった肌は毒々しい青紫色へと変わっている。切り落とした筈の角は却って以前よりも大きく、禍々しく曲がりくねって新たに生えてきていた。肩には何時ぞやの狼のように結晶が張り出し、妖しい輝きを放っている。もはやほとんど怪物と化したアルバの口から、吐息と共に唸り声が漏れた。身体をわずかに屈め、一瞬の溜めの後にアルバは駆け出す。雷の如く、一気に洞窟を駆け抜けた。

 その足が向かった先は、水晶宮だった。

 

◇◇◇

 

 アルバが洞窟を出たのとほぼ同時刻。未だ復旧の進む水晶宮の裏手で、リオンは剣を振るっていた。彼女としてはその手伝いをしたかったのだが、兵士たちにやんわりと断られ、手持無沙汰となっていたのだ。寝込んでいた分、動きに精彩を欠いているのを感じながら手を止め、木に吊るしてあった布で汗を拭う。細身ながら張りのある、しなやかな筋肉の上を水滴が艶やかに滴り落ちた。

 その時、リオンは聞いた。ほんの一週間前にも聞いた、実体の無い何かが風を切る音だ。先程までとは違う、嫌な汗がリオンの背筋を流れる。焦りを自覚しながらあくまで冷静に、素早く服を身に纏ったと同時、爆風が再び水晶宮を襲った。

「いずれまた来るとは思っていたが、こんな早くだとはな!」

 逃げる召使い達の流れに逆らいリオンはそれが着地したと思しき場所へと向かう。今なら敵う、などという傲慢な考えは、リオンは持ってはいなかった。ただ他の兵士であれば、時間稼ぎにすらならないだろうと、頭の片隅で考えながらリオンは走る。そのうちに自身の負けのビジョンは消え、如何にして倒すかに思考は切り替わる。

 抜刀しながら中庭に飛び込み、リオンは視界の真正面にその姿を捉えた。前回のそれとは大きく異なり、いくらか異形の面影こそ残しているものの、その容姿は華奢な少年、或いは少女のそれであった。太陽の下であるからか、前回とは大きく異なるながらも、黒い靄の中にその姿をはっきりと視認出来ることに、リオンは困惑とともにわずかに安堵を覚える。少なくともその姿が見えるのであれば、まだ対処のしようはあるからだ。

『へえ、生きてたんだ』

 今まさに一つの死体を投げ捨てた怪物──言うまでもなくセイレンである──がそう言った。驚くべきことに、その言葉は確かに、リオンの耳に意味を持った言語として響いた。

「っ……貴様、何者だ!?」

 リオンは眼前の怪物が言葉を発したことに一瞬面食らうが、そこは腐っても元軍人と言うべきだろうか、すぐに持ち直し、そう叫ぶ。

『何者……ねえ? それを知ってどうするんだい? これから死ぬって、言うのにさっ!』

 言葉と同時にセイレンはリオンに一気に肉薄する。リオンの方でもそれは覚悟していたのか、今度は一週間前よりも滑らかに、鮮やかに受け流す。

『いつまでそれが持つかなあ!?』

 セイレンの言葉が示す通り、変わらずリオンが不利であることは火を見るよりも明らかだった。今は日が出ておりセイレンの姿を捉え易いというのも、未だリオンは先日の怪我が治り切っていないということを差し引いてしまえば、前に相対した時よりも天秤はセイレンに傾くだろう。そしてその事実は、リオンにも痛いほどよく分かっていた。一瞬見えた反撃の糸口も、次の瞬間には潰され、また「死」の文字がリオンの頭を過ぎる。

 そのような攻防が幾度続いただろうか、痺れを切らしたセイレンがリオンを大きく弾き飛ばした。咄嗟に空中で体勢を整え着地するリオンだったが、そのために俯かせた顔を上げた時には、セイレンの笑みが視界一杯に広がっている。今度こそリオンが死を覚悟した、その時。

 轟音と共に水晶宮の壁が砕け、黒い影が一直線にセイレンの元へと飛び込んで来る。セイレンがその存在に気付いたのは、それが既に身体に触れた瞬間のことだった。そのままセイレンは勢いよく吹き飛ばされ、比較的小さな体躯が二度、三度と地面を撥ねた。黒い影の現れた場所とは丁度反対側の壁に激突してようやく停止する。

『……アルバ?』

 瓦礫の中から身体を起こしながら、茫然としてセイレンは呟く。その声は決して大きなものではなかったが、リオンの耳にもはっきりと聞き取れた。思わずリオンは、黒い影をまじまじと眺める。

 まずリオンの目を引いたのは、何と言っても肩から張り出した紫色の結晶だった。腕は先に行くに従って太くなり、指は蜥蜴にも似た鋭いものへと変化している。身体のあちらこちらでは、黒光りする鱗が煌めいていた。知らぬ者が見れば悪魔か何かだと思っただろう、だがその身に張り付いた衣服や装飾品の名残は、紛れもなくアルバの物であった。

 戦場に訪れた奇妙な静寂は、乱入者が再び動き出したことにより破られる。常人が見れば掻き消えたとしか思えないような速度でセイレンに迫ると、一抱え程もありそうな拳を叩きこむ。紙一重で避けられた拳は空を切り、瓦礫を粉砕するだけでは飽き足らず、水晶宮の石造りの床に放射状の罅を入れた。

『打って変わって随分と情熱的だねえ!』

 空間という空間を自由自在に跳ね回りながら、セイレンは心底愉快そうな笑みを浮かべる。一方のアルバはといえば、瞳に血を滾らせながら周囲を次々に瓦礫へと変えつつそれを追いかける。セイレンの方ではまともにやり合う気はさらさら無いようで、徒に被害が増えて行くのを楽しんでいる節さえあった。

 だが、終わりは突然に訪れる。不意にセイレンが顔を顰め、アルバから目を切り明らかに遠くの方へと目を遣った。

『……はあ? 今良いところ』

 言葉が突然切れたのは、セイレンが目を切った隙にアルバの拳をもろに受けたからだ。鞠のように宙を回り、先回りしたアルバによって勢いよく地面に叩きつけられ、周囲を陥没させる。続けて怒涛の如く繰り出される、息も吐かせぬ連撃。左右から挟み込むような連打に、見る間にセイレンの身体が傷付いて行く。

『っ、それは、面白くないなぁ!』

 笑みを消し、鬼の如き形相でセイレンは器用にアルバの腕を掴み取った。そうしてアルバの身体を軽々と持ち上げ大きく投げると、同時にその反動を利用して自身の身体を中に浮かせ、瞬く間にアルバとの位置関係を逆転させる。

『情熱的過ぎるのも考えものだよねえ!?』

 再び始まった攻防は、つい数瞬前までのそれ程一方的なものではなかったが、やはり起き上がったセイレンと、地にあおむけの体勢で居るアルバとでは、セイレンに分があると言えるだろう。苦し紛れの反撃を軽く捌き、尚もアルバを地面に釘付けにしながら、セイレンは自身の周りに無数の光球を作り出す。

「あれは……!」

 それをみて、リオンは思わず声を上げた。魔法、それは戦争中、稀ではあるが目撃者のあった、人知を超えた未知の能力。以前かの狼もまた、形こそ違えど似たような力を扱っていたことは、リオンの記憶にも新しい出来事だった。

 金属音に近く、それでいてそれともまた異なる甲高い音を響かせながら、光球がアルバに向かって矢の如く次々に撃ち出される。目と鼻の先から発射されたそれらは、避ける暇などアルバに微塵も与えないまま、一つの例外も無く命中した。あるものは即座に燃え上がりその素肌を焼き、あるものは氷の結晶と化してその身体に突き刺さり、またあるものは単純に眩い光を放ちながら炸裂してその肉を抉った。

 水晶宮にアルバの獣の如き苦痛の叫びが響く。雨霰と降り注ぐ光から逃れんと滅茶苦茶に腕を振るうが、その腕はセイレンに当たることなど欠片もなく空を切り、光もまた止むことはない。撃ち出された光球の数が百を超えた頃だろうか。アルバの腕が力を失い、地に落ちた。それを見てセイレンは攻撃の手を止め、そっとアルバから離れる。二人の周囲は先程までの戦いの余波によって抉れ、陥没し、無数の穴を穿っていた。それらの中心ではアルバが息も絶え絶えな様子で倒れている。胸を忙しなく上下させながら、アルバは幾分か理性を取り戻した目でセイレンを睨み付けた。青紫色だった肌は元の色に程近い焦げ茶色程度にまで変わり、全体としても元の姿に戻りつつあるアルバを一瞥すると、セイレンは空を仰ぎながら言った。

『ねえ、やっぱり僕を手伝ってくれるつもりはない? そっちの方が良いと思うんだよね、お互いにとって。……君も、そう思うでしょう?』

 セイレンの言葉の後半は、自身に向けて斬りかかっていたリオンに向けてのものだった。硬い物同士が衝突する激しい音が打ち鳴らされる。死角から、常人ならば反応すら出来ぬ速さで振るった筈の剣が片手で受け止められたことに、リオンはわずかに目を見開いた。

『本当なら君は殺しておきたかったんだけど……、もう時間みたいだね』

 そう言ってリオンが視線を向けた先の空には、何時の間にか黒い煙──狼煙が高く上がっていた。未だ握ったままのリオンの剣を軽く払うと同時に、セイレンの身体が黒い靄で包まれる。

「おい、待て……、待ちやがれっ……!」

 ふらつき、幾度もたたらを踏みながらも立ち上がったアルバが、掠れた声でセイレンに吠えた。その声にアルバの方を向いたセイレンはその姿を見て、かすかに驚いた様子を見せた。

『へえ、やっぱり凄いね。まだ立てるんだ?』

 セイレンの言葉が示す通り、今のアルバはどんな素人が見ても重傷だと断言するであろう程に傷だらけであり、正しく立っているのもやっとの状態だ。しかしそれにも関わらずアルバは強い光を宿した目で真っ直ぐにセイレンを見据え、一歩一歩踏みしめながらセイレンに近付いて行く。

「まだ……、終わってねえぞ……っ!」

『そりゃあそうさ、だってまだどっちも死んじゃあいない』

 でも時間だからね、とセイレンは微笑み、次の瞬間にはまた狼煙の上がっている方へと飛び去って行く。

『次逢う時が楽しみだよ、アル』

 そんな言葉を残して。

 伸ばされた手は空を切り、アルバは一際大きくよろめいた。今にも地面に倒れ込みそうな彼を、既のところで支えた者がいた。他でもない、リオンだ。

「くそっ……、待てって、言ってんだろうが……!」

「もういい、落ち着け」

 尚も前に進もうとするアルバを押し留め、リオンは彼にそう声を掛ける。

「ひどい傷だ、放っておくのは不味い。一先ず兄上のところまで行くぞ。場所くらいなら貸してくれる筈だ」

「っ……。済まねえな」

「別に例など要らん。私がお前に幾つ借りを作っていると思っているんだ」

 そう言ってリオンは苦笑する。今彼女が肩を貸しながら並んで歩く男に何度も助けられ、また逆に助けようとすることなど、かつての彼女が想像しただろうか。そのことは彼女自身、幾度となく自問したに違いなかった。

 

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