岡崎エミは運命論者だ。
彼女が運命論者を自覚するようになったのは、彼女が4歳だった頃に遡る。
朝、母の愛車であるミニバンに乗って、母が作ってくれたサンドイッチを頬張りながら、幼稚園に向かっていた時のことだ。出勤ラッシュと被った道路は車たちの長蛇の列となっていて、エミは退屈そうに曇り空を眺めていた。母はイライラしていたのか、ハンドルを指でコツコツと突いていた。
ミニバンのエンジン音。母の指のコツコツ音。ダンプカーの轟音。母の指のコツコツ音。道を歩く小学生のはしゃぐ声。
人が造った無機質な音は、エミの退屈感をより強めていた。4歳のエミにとって、世界はまだ退屈だった。
そこに、母が気晴らしに点けたラジオから、落ち着いた透明感のある女性パーソナリティの声が飛び込んだ。
『みなさんおはようございます。それでは、本日最初の1曲です。これは私が希望した曲なんですが、これを聞いて、今日も1日無事に過ごしましょう』
今思い出すと、この女性パーソナリティはエミの人生を変えた存在と言っていい。けど、きっと彼女はそんなことなんて知らず、今も朝早くにラジオ局から綺麗な声を電波に乗せて、日本中の人々に「おはようございます」を言っているのだろう。
『ビル・エヴァンスで、Someday My Prince Will Come』
軽やかで、それでいて荒涼感あるピアノの音色がエミの鼓膜に噛み付いた。
まるで踊っているようなメロディー。大中小三者三様な音がトランポリンで飛び跳ねている光景が目に映った。そしてその音色はただ楽しい感情を与えただけではなくて、そこに至るまでに流れた汗の香り、薄く照らす照明の下で1人ガムシャラにピアノを奏で続けるビル・エヴァンスの姿を見せた。
エミは思わず拍手をして、そして窓の外の曇空とは対照的な明るい笑みを浮かべて、母に、人生最初のお願いをした。
「お願いピアノ買って!エミ、ピアノやりたい!」
今でも、エミはあの車の中での出来事は人生を変えた運命的な出来事だと信じているし、このビル・エヴァンスのピアノを聴かなければ、今の人生は色彩の無い歯車のような人生になっていただろうと思っている。
だからどれだけピアノのレッスンで教師から嫌味を言われて、悩んだ挙句に自分の中の哲学を曲げて演奏しようが、そしてステージで自分の哲学を表現して叱られようが、ピアノを嫌いになることはなかった。
それでも、今のエミに、ビル・エヴァンスと出会った頃の情熱は、残っていなかった。
岡崎エミ、15歳。
今の彼女に残っているのは、ピアノへの無償の愛と、どうしようもない無限の孤独感だけだった。
バスの中。
桜は花を散らして、初夏の空気がジリジリと日本に歩み寄ってくる気配を感じながら、エミはポータブルCDプレイヤーの電源を落とした。
聞いていたのは、エミが8歳の頃に出場したコンクールの音源。このコンクールの演奏で、エミは他の年上の少年少女を押し退けて金賞に輝いた。どうやらこのコンクールは由緒ある歴史の長いコンクールであるらしく、クラシックの業界では著名人に当たる人や、何人かの記者も来ていたらしい。全出場者最年少の岡崎エミは、一躍天才ピアニスト少女としての名声を得た。
とは言っても、エミにとっては不満の残る演奏ではあったが。
やっぱり、好きになれない。
この時、エミは面白がってピアノの先生の指示に忠実に従って「亜麻色の髪の少女」を演奏した。普段のエミは先生の言うことは聞かず、自分の気持ちに正直に、そして自分の哲学に沿って演奏していた。しかし、このエミの感性と演奏スタイルは、どうやらクラシックの世界では異端に当たるらしく、先生は常に怒って、そして嫌味たっぷりの小言を、エミに聞こえないようにブツブツと呟いていた。
当初は、自分の世界を取り巻く人間1人だけが言っているだけだと、エミは何も気にはしていなかったが、天才ピアニスト少女の名がエミの肩に乗ってから、その人数は増えていく一方だった。
せっかくの才能が。
これはバッハじゃない。
モーツァルトを思いなさい。
みんながエミに言うのは、作曲者の思いが注ぎ込まれた楽譜を忠実に弾け。
しかしエミの持っている哲学は、学校のグラウンドのように広がる譜面に、白線を自由に引くように演奏する。
音楽というのは、自由じゃないのか。
小学生のエミには、理解し難い光景が広がるばかりだった。中学生の頃に気がついたが、エミにとってのピアノのルーツはジャズであり、クラシックではない。ジャズは即興演奏が主流で、楽譜に忠実なばかりではなく、その時に抱いた感情の赴くがままに演奏すること。クラシックとは正反対の音楽が、エミをこの世界に連れてきたのだ。
クラシックの世界は、私が吸っている空気とは違うみたい。
11歳の時、エミは母にピアノ教室を辞めたいと告白した。母からは叱咤や説教が飛び出すかと思ったが、意外にも母は穏やかな声で「うん」とだけ言って、ピアノ教室に電話をした。その時の母の、大きくて、憑き物が落ちたような優しい雰囲気を今でも覚えている。
ピアノ教室を辞めて、天才ピアニスト少女の肩書きを押入れの奥深くにしまったエミは、人前でピアノを弾かないようにした。自分の音楽は自分が理解していればいいと思うようになったエミは、合唱大会にも、ピアノがある友達の家に遊びに行っても、ピアノを弾くことはなかった。ピアノを弾きたくなったら家に帰ってピアノを弾いて、1人満足してまた家を出る。
ささやかで密度の濃い楽しみと、少しの寂しさを噛み締めながら、エミは16歳になった。
「岡崎さん、今日帰りにファミレス行かない?」
クラスメイトの少女がエミに声をかける。エミは孤独感を抱いていたが、決してその孤独感を表には出さない器用さはあった。
だって、それじゃあ友達できないもん。
孤独感を持っているからこそ、孤独を避けたかった。仮初の、ドミノ倒しみたいに指をちょんと当てるだけで崩れてしまうほどの脆い友情でもいい。エミは人との繋がりを維持していたかった。
「ごめんね、今日お母さんが帰り遅くて夕飯は私が作らないといけないの」
嘘だ。実際はただその気分ではないからだ。人間関係は大事ではあるものの、その一方で自分のリズムを崩したくはない。自分は1人しかいないが、友人はこれから先いつでも何人でも作れる。
放課後に、誘いをくれた少女に「先生に呼ばれちゃってね」と適当な言い訳をついて鞄ごと教室を離れた。下駄箱方面に向かうと見せ掛けて、2階の東棟の1番奥にある音楽室を目指す。
エミにとって音楽室は学校で2番目に好きな場所だ。1番は図書室で、人々が本を1ページ1ページ捲る音に心落ち着かせながら、あまり心に響かない言葉がつらつらと書かれている自己啓発本を読むのがエミにとっての至福の時間。
2番目は、音楽室に鎮座しているグランドピアノを、窓を開け放って風を感じながら眺めること。弾くのはいいけど、この広い音楽室で、バッハやベートーヴェンの肖像画に囲まれながら独りでピアノを弾くのはあまりにも寂しすぎるし、エミも高揚感を感じれない。どうせ何にも縛られずに鍵盤を叩くのなら、自分が楽しめる空間で音を奏でたい。
今日は吹奏楽部の活動が休みであることはトロンボーンパートを担当している友人から聞いている。今日はいつもよりゆっくりと長い時間ピアノを眺めることができそうだ。
音楽室の窓を開けて、静寂に包まれた空間を一番乗りで全身で浴びようと身構えると、学校では聞きなれない、乾いた音がエミの耳に飛び込んだ。
覇気のない、風に揺られる麦たちのような音。エミはその楽器の弾き方も、コードの押さえ方も知らないが、それが弦楽器であることはすぐにわかった。
電気を通さないと、こんなにも痩せ細った姿になるのね。
それはまるで空気を入れてない風船のように、火がついてない暖炉のように、己の役割を果たす前の姿だった。
普段隅に追いやられてる椅子に座った桃色の髪の少女は、幽霊のように背を曲げてギターを奏でていた。
厚みのない音で、意識して聴かないとわからなかったが、少女が弾いているのはエリック・クラプトンのTears in Heavenだ。このイントロのギターの旋律はピアノで弾いたことがある。
少女が奏でるTears in Heavenは、全てを見てしまって自暴自棄になりつつも、それでも生きることを諦めきれずに、心に残る苦しみを世界に訴えているようだった。緑とアスファルトとガラス張りのビルが混ざる世界で生きる、人間の独奏。
この娘、良い音奏でるなぁ。
エミはギターは素人だが、素人でも感じる、音に乗った演奏者の想い。この少女はきっと何度も何度もギターを練習して、それでも自分に納得がいってなくて、その強い屈辱感を向上心が、ギターを弾かせているのだろう。
実に人間らしくて、泥に塗れてて、美しい音だ。
エミは次第に少女の奏でる音に脳内でピアノの音色を付け足した。ここでマイナーコードを弱目に入れてみよう。Cm、Fm…ここはフラットに。次のフレーズは少女に任せてしまおう。エミの脳内では、名も知らない少女との演奏会が開かれていた。客席は0人。ステージにはエミと少女の2人だけだが、役者が良い、至高の時間を提供できると確信する。
この娘となら、楽しめるかも。
演奏を終えたらしい少女が、曲げていた背を戻して、1度深呼吸をしようと顔を上げる。えみの姿が目に映ったらしい少女は、ビックリしたように小さく声を上げて、席を立ち上がり壁に飾られているシューベルトの下まで退却した。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃった、よね?」
「ぁ…いえ……」
少女は捕食者を前にしたリスのように震えて、目線を泳がせながらも首を横に振る。
「私岡崎エミっていうんだ。あなたは……名前なんていうの?人を覚えるのは得意なんだけど、出てこなくて」
少女は過呼吸とも言える程の深呼吸を連続して、震える声を絞り出した。
「ご、後藤……です」
「後藤さん、ね。後藤さん、すごく良いギター弾くね!」
「あ、い、いえ……そんな…」
「今のエリック・クラプトン感動しちゃったよ。ギターの演奏動画とか見たりするんだけど、後藤さんの音色が1番好き!」
エミの言葉に嘘偽りはない。ギターの演奏で、エミが立ち尽くして集中して音色を聴き取ったのは、初めてのことだった。
「後藤さん、よければ一緒に弾いてみない?」
「え!?あ、あの…無理ですよ……」
「大丈夫、ジャズみたいに手探りでメロディー作るとかそんなことしないから。そうだな…有名な曲は…」
グランドピアノに掛かっていた布を畳んで、椅子の高さを調節する。後藤は1人で進めるエミを困惑した様子で眺めている。
エミの脳内にある、有名で、それでいてギターが入りやすい、音がシンプルな曲を探す。Let It Be?このテンポのは今は弾きたくないな。戦場のメリークリスマス?有名だけどギターが入り込む余地あるかな。だったら…。
BとA#の美しい旋律が奏でられる。キャッチーで、それでいてどこか寂しさを感じさせるメロディーに、後藤は思わず頷いた。
「A Thousand Miles……それなら…」
「よし、じゃあ…」
「あ、その…!」
後藤はエミを呼び止める。
「今、アンプないから……私の音、聞こえないから……い、意味、無いんじゃ…?」
確かに、エレキギターはアンプが無ければ、その真髄を発揮することはできないだろう。それが象の鳴き声のように荘厳な音圧を出せるグランドピアノが相手なら尚更だ。
「そうだね。でも大丈夫。私、耳が良いから」
エミは音を聞いてるというより、感じているといった方がいいのかもしれない。
彼女の脳内に理論なんてなくて、ただの音が永遠に反響して溶け込む空間があるだけで。
「安心して後藤さん。あなたの音は、ひと欠片たりとも聞き逃さないから」
そして始まる小さな演奏会。
最初から相手もよく知らないとトップスピードで走り出すエミに、後藤は度肝を抜かれた。入り込めるスペースなんてこれっぽっちも無い。エミの背中を眺めてギターが抱えているだけでは、音は奏でられない。どうにかして追いついて、並走しなくては。
後藤はA Thousand Milesのメロディーを思い出す。暫くはピアノの独壇場。ここで入り込んでしまっては逆に浮いて着地点を見失ってしまう。そうだ、サビに入れよう。シンプルな音の歪みを入れよう。そこに一音だけ、曲を引き立てるための、踏み台のような立てる場所を作ろう。
イントロよりは有名ではないサビに、後藤は静かに音を入れ込んだ。エミはその音に気がついて、心の中で拍手をする。
ここまで何もしなかったのは、最善の判断だね。でもそれだけじゃ、ギターは輝かないし、曲も中途半端になる。次のAメロでは差別化するために強引にでも何かを入れるのをオススメするよ。
エミがそう念じるよりも先に、後藤は再びシンプルなノイズを入れた。しかもさっきより半音高い。より良いものを作ろうと切磋琢磨し合っていたところに、牙を向けてきた。まるで戦国時代の謀略だ。
ここで、そうきたか。
エミは原曲通りに弾くように努めていたが、後藤の演奏を聴いてプランを変更した。Cメロに入り、エミはアレンジを加えた。C#とF#とBの旋律の間に小さく音を付け加える。それは意識的に聞いていないと聞こえないほどの音。この旋律の波に飲まれて、人々が認識するよりも前に姿を消してしまう妖精の足跡のような音。
最初、後藤はこのアレンジに違和感を覚えた。この違和感こそが、エミの狙い。恐らく後藤は原曲に忠実に弾くことしかできない。自己流アレンジを意識的に行うことは、後藤にとって未知の領域。踏み入れたことのない世界だ。だが––––––。
今度の後藤は、シンプルで綺麗な一音を奏でた。
踏み入れたことがないだけで、閉ざされているわけではない。
目の前でダイヤモンドが輝いていれば、誰だって手を伸ばす。今の後藤に必要なのは、アレンジの応酬による快感を得させることだ。
そして後藤は、その領域に一歩、踏み出した。踏み出したばかりか、エミにとって予想外の音で仕返された。
これは傑作!この旋律に、白昼夢のような音で隣に立つのか!
エミにとって、協奏は語り合いであり、戦争でもある。戦争から生まれるものは、醜さと共に美しさを伴っている。この二面性を、エミは狂おしいほどに愛していた。
後藤の奏でる旋律に、エミは電気が通った時の本来の姿の音を想像した。ああ、これはとても良い。カナダの深い森の中で、美しいカエデの木の香りが漂っているのがわかる。取り繕っている音色なのに、どこか雄大な自然を思い出させるこの感触。
後藤さん、あなたの音はとても愛おしいよ。
エミは恍惚とした感情を抱き締めて、演奏を終えた。
「後藤さん、ギターすごく上手だね」
「えっ、そ、そんなこと」
「咄嗟にアレンジを返してくるの、未経験なのにすごいよ」
「ど、どうして未経験って……」
エミの指摘に、後藤は怯えたように震え出す。
「なんとなくわかるの。女の勘ってやつ?」
「……た、たぶん、違うんじゃないですか…?」
「そうかな?まあ気持ちよかったからいいや!」
「こんなに楽しくピアノを弾けたのはいつぶりだろ。後藤さんのおかげだよ」
「い、いえ…私なんて、そんな大したこと……」
「大したことないわけないよ。自信持って。私が宣言するよ。後藤さんの演奏は、とても綺麗で、感情が乗ってる、最高の演奏だって」
後藤の手を掴み熱弁するエミに、後藤は思わず声を上げた。目線は変わらず泳いでいて、足も震えている。そんな逃げ場のない彼女に、1人の助け舟が現れた。
「ごめんなさい後藤さん、遅れちゃった!」
現れたのは赤毛の、校則にギリギリ触れないほどのメイクをした少女。名前は確か。
「喜多さん?」
「あれエミちゃん!どうしたのこんなところで」
喜多郁代はエミの友人の1人であり、エミの中では比較的、付き合いが深めな少女だ。
「そこの後藤さんとセッション」
「え、セッション?」
「そうそう。ピアノと、電気が通ってないギターで」
喜多はエミの言葉に困惑しながらも、布がどかされていたグランドピアノを目にして、納得をしたように頷いたが、すぐに顔は驚愕に変わった。
「エミちゃんってピアノ弾けるの!?」
あー、これ言ってなかったわそういえば。
エミはピアノを弾いていたことを公言していない。別に周囲の人々からピアニストとして見られたくない、自分の過去を詮索されるのが嫌だ、などと言った理由ではなく、単純に言う機会も無いのだ。自己紹介では特技ではなくて趣味を語ったので、エミがピアノを弾けることを知っているのは学内ではここにいる2人だけになる。
「うんそうそう。言ってなかったっけ?」
「聞いてないよー。みんな楽器弾けるものなのねー」
「喜多ちゃんこそどうしたの」
「あ、そうだ、さっき、スタジオに集合するよう連絡がきたから後藤さんを探してたんだった」
固まっている後藤を揺さぶって意識を回復させる。事態を聞いた後藤はオドオドと小刻みに震えながらギターを丁寧にケースに収納する。
「スタジオ?喜多ちゃん何か音楽やってるの?」
「そうなの。後藤さんと、他の学校の先輩たちとバンドやってるの」
「へー!喜多ちゃんが!楽器は何?」
「ギター。後藤さんがリードで、私はリズムギターで歌も歌ってるの」
見れば、喜多の左手の指の爪は綺麗に切られて、木々が刈られた山のように丸いシルエットをしていた。彼女はネイルを楽しんでいたことを5月の中旬に、移動教室ですれ違った時に聞いていたので、おそらくギターを始めるにあたって止めたのだろう。真面目に、夜な夜な自室でギターの練習をしている喜多の姿を想像して少し好感を覚えた。
「後藤さん行きましょう。先輩たちを待たせちゃう」
「あ、はい……」
「ごめんねエミちゃん、私たち行かなきゃ」
「うん、またね」
「今度エミちゃんのピアノ聞かせてね!」
「気が向いたらね」
大急ぎで音楽室を後にする喜多と、喜多の後を追って、重そうなギターケースを背負って小走りに駆け出す後藤。すれ違いざま、後藤は伏目がちにエミに軽く会釈をした。
その後藤を見逃さなかったエミは、自分のチャームポイントだと思っている笑みを作って、後藤の顔を覗き込んだ。
「また一緒に演ろうね、後藤さん」
後藤は、肯定とも怯えとも取れる曖昧な声で返事をして、廊下から聞こえてくる喜多の声に向けて去っていった。
いい娘だな。
グランドピアノの椅子に腰掛けて、適当に指に触れた白鍵を叩く。
ポーン。軽くて情けのない、人が死んだ時に発する呻き声のような音。
鳥の声。ボールが地面につく音。遠くで誰かが話してる声。配達物を運ぶ運送トラックのエンジン音。
生活音の渦の中では、白鍵の一音はあまりにも脆い。
テッテテレテレテッテー。
頭に浮かんだフレーズを弾いてみる。
正体はアート・ブレイキーのMoanin'。キャッチーで、何かが始まるような高揚感を与えてくれるこのメロディーは、今のエミにピッタリだった。
やっぱり、脳は正直だ。
「また明日、会いたいなぁ」
忘れられないA Thousand Miles。
手に取るように思い出せる後藤の奏でる音。
想像力働かせる未完成のエレキギター。
自分の隣でギターを奏でる後藤の姿を形成しながら、空が橙色に染まるまで、Moanin'のフレーズを繰り返し奏で続けた。