エミにとっての1番消したくない記憶は、母のミニバンの中で聞いたビル・エヴァンスが奏でたSomeday My Prince Will Comeの旋律だ。この記憶だけは、輪廻転生で神様に土下座をしてでも持ち込みたい。エミにとって、この記憶こそが故郷であり拠り所であり篝火であるのだ。
では、かといってビル・エヴァンスがエミにとってのヒーローのような存在であるかというとそうではない。
憧れのピアニストはいますか?
10歳の頃、地元新聞の記者に質問されたことがある。エミは確かに数多くのピアニストの音を教科書のように聞いてきた。アート・テイタム、キース・ジャレット、辻井伸行、フジコ・ヘミング……もちろんビル・エヴァンスも。しかし、その誰もがエミにとっての眼球を溶かすほどの光ではないし、胸を焦がすほどの憧れではなかった。エミにとって彼らは記録された音であり、蓄積された記憶の1つに過ぎないのだ。
いません。いつも鍵盤叩いてくれる私の身体に感謝と尊敬をしています。
エミは考えた末、ピアノに向き合ってくれる騎士のような自分の身体への感謝を示した。その時の記者の関心したような表情の意図を、エミは図れなかったが。
しかし、ヒーローというのはいつだって唐突に、何の脈絡もなく現れるものであることを、エミは映画で知っていた。
後藤。
彼女の名前は知らないが、確かに後藤はエミにとってのヒーローになった。自分の篝火に帰って、一息ついても後藤のギターサウンドはエミの耳の中で鳴り続けている。エミにとって、ずっと音が鳴り続けているのは初めての関係だった。
彼女のギターが、私を掴んで離さない。
彼女のギターから、私は離れたくない。
エミの中で鳴り続ける後藤のギターの音に、エミは恋と名付けることにした。
「やっほ、昨日ぶりだね後藤さん」
昼休み。喜多にクラスを教えてもらったエミは1番後ろの席に座っている後藤の下に向かった。突然のエミの来訪に後藤のクラスメイトは少し驚いたようにエミに声をかける。適当にあしらったエミは、後藤に軽く挨拶をする。後藤は昨日と変わらず怯えたようにエミから距離を取った。
人見知りって感じだよね、たぶん。
家に来たばかりの猫に接するように、距離は詰めずに、いつもよりも声を一音高くして後藤に問いかける。
「後藤さんのギターまた聞きたくてさ、今日って弾けたりする?」
震えながら首を横に振る後藤に「あ、もちろん今じゃなくてね」と補足をする。つい言葉足らずになってしまうのは、悪い癖だ。
「うーん、じゃあスタジオ、ついていってもいい?鑑賞みたいな感じでさ、ダメかな?」
「……わ、私1人の判断では…」
やっぱり厳しいかな。
後藤はあまり意志が強くない人間に見えたエミは、喜多に頼み込めばどうにかなるか…と考えていた時だった。
聞き慣れたチャイムの音が2人の間に割って入った。現代国語を担当する初老の教師が教室に入ってきたので、エミは退散するしかなかった。
あ、そうだ。
スカートのポケットに手を突っ込んで、一昨日コンビニで買ったミネラルウォーターのレシートを取り出す。後藤の机の上に置いてあったペンを拝借し、レシートの裏面に自分のメッセージアプリのアカウントのIDと電話番号を書き連ねる。
「よかったらこれに登録してくれる?追加してくれたら、すぐ連絡するから」
後藤の返事を聞かずに自分の教室に戻る。
自分から連絡先を出したの、初めてだ。
エミにとって、連絡先というものは差し出すものではなく来てくれるもの。これがエミの人柄からくるものなのか定かではないが、エミは友人を作ることに困ったことはない。友人を作ることに気をつかうことはあれど、悩んだりしたことはない。
だがどうだろう。今のエミにあるのは、後藤がエミの連絡先を登録してくれるかどうかを心配する感情だ。
なんてことだ。これじゃあまるで、舞い上がってるみたいじゃないか。
初対面の感情に戸惑いつつも、エミはこの感情を是とした。なぜなら、エミにとっての感情とは自分を形成する全てであって、間違いはないのだ。
思いの外早く後藤から連絡がきた。
後藤ひとりと申します。
よろしくお願いします。
業務連絡のように短い、何の加工もされてない石のような文。
後藤ひとりっていうんだ。エミにとってのヒーローを奏でる女王のことを深く知れたようで、エミは机の下で小さくガッツポーズをした。
今日スタジオについて行くのはやっぱりダメかなー?
後藤さんと喜多ちゃんが組んでるバンドに興味があってさ。
汗の絵文字を文末に付けて送ると、少し遅れて「あ」と一文字返ってきた。すぐにその一文字は消されて
喜多さんに相談したところ、許可が取れました。
おそらく、大丈夫だと思います。
私、1つ2つ年上の同僚と連絡でもしてるのかな。
普段見ることのない文章に笑みをこぼしながら、黒板に数式を板書する教師にバレないように素早く両の指を巧みに駆使して文字を打ち込む。
やったー!じゃあ放課後に後藤さんのところに行くね!
アポイントメントを取れたことに喜びながら、エミの送ったメッセージに既読がついたことを確認して、黒板に書かれた数式をそのままノートに写し始める。
エミの脳内で流れるのはベートーヴェンの春。空気はもう初夏だというのに、エミの心には春一番が吹き荒れている。温かい風が髪を撫でるヴァイオリンと、桜の花びらが地にゆらゆらと落ちて行く様を映しているようなピアノの旋律。
後藤さんが春を奏でるのだとしたら、どんな音で私に叩きつけてくれるだろう。
数時間後の未来に想いを馳せ、退屈な数式の羅列を機械的に書き写しながらエミは祝福される未来を待った。
後藤の教室に向かうと、教室前でギターケースを抱えた喜多と遭遇した。
「エミちゃん、後藤さんから聞いたよ」
「そーなんだ」
「ピアノを弾ける同級生って紹介したら、先輩たちもぜひ来てほしいって」
「よかったー、来るなーって言われなくて」
「そんなに怖い人たちなんかじゃないよー」
後藤のクラスはどうやらホームルームが終わっていないらしく、後藤を含めた生徒たちは皆大人しく席に着いていた。喜多と同じくメイクをした女性との何人かは背もたれに腕をかけたりと退屈を隠そうとせずに担任の教師の話を聞いていた。
「エミちゃん、ピアノ以外は弾けるの?」
「んーん、たぶん弾けない。触ったこともないしわかんない」
「普段は何を聞いたりするの?」
「色々。クラシックとかジャズとか、洋楽とかJ-POPとかかな」
「クラシックとかジャズはわからないなー…back numberとか聴いたりする?」
「あー聞くよ。寂しそうなギターが結構好きかなー」
「歌詞がいいのよーすごく」
「そうなんだ歌詞が良いんだ」
どんな歌詞だったっけな。
あのギターの音を思い出す限り、少々悲観的な、ネガティブな歌詞だったりするのだろうか。
そういえば、歌詞に注視して音楽を聞いたことはなかったな、とエミは思い出した。曲の伝えたい思いは音が伝えてくれる。歌詞というのは、いわばその音の注釈のようなものだと認識していたことにエミは自分で少し驚いた。
ようやくホームルームが終わったらしく、ギターケースを背負った後藤が教室から出てきた。
「……あ…大変、お待たせいたしました…」
「さっきぶりだね後藤さん」
「…は、はい……先ほどは連絡先の交換、あ、ありがとうございました…」
「いいのいいのー。後藤さんに聞きたいこといっぱいあるし、その都度直接会いに行ってたら後藤さんも私も疲れちゃうし。改めてよろしくねー」
「あ、はい……こんな私でよければどうぞ…」
喜多を先頭に学校から出て下北沢に向かう。後藤たちが通っているスタジオはライブハウスと併設されおり、実質的な活動拠点であるという。
後藤は歩く時は1番後ろで、バスや電車に乗った時は1番端に座って、まるで自分は道端で静かに佇んでいる地蔵であると主張するように口を噤んでギターケースを抱えていた。移動の間、喜多からバンドに関する色々な情報を教えられた。
バンドの名前は結束バンドで、メンバーは後藤と喜多を含めて4人であること。
後藤がリードギターで、喜多はボーカル兼リズムギターであること。
喜多はギターを始めたばかりで、いまだに演奏が拙いこと。
ライブハウス兼スタジオの名前はSTARRYという名前であること。そこのオーナーはドラムの姉であること。そして結束バンドのメンバーはSTARRYでアルバイトをしていること。
実物を見ていないので、エミはその姿形を想像しながら相槌を打っていた。時折後藤の横顔を見ると、後藤は何かが見えているかのように自分の足元を見つめていた。エミは話しかけた方がいいかと話題を考えたが、後藤が音楽に関する何かを考えていると思うと、話しかけるのは邪魔をするようだな、と坂本龍一のThe Last Emperorを脳内で流しながら電車に揺られた。溥儀の摩訶不思議な人生は、見ていて心揺さぶられた。中華最後の皇帝だというのに、最期は庭師となって、もう自分の居場所ではない玉座に腰掛けて、エンドロール。なんて絵に描いたような転落劇だろうと思うと同時に、皇帝の肩書が無くなった溥儀が玉座についた瞬間の表情は、どこか憑き物が落ちような、明朗な青年のようにも見えた。あの時の溥儀の光輝いた瞳は、エミにとって衝撃的であったことを覚えている。
なんて悲しくて、壮大で、美しい旋律だろう。科学と戦争、石炭と煙に突き進む世界の中で切り取られたように残り続ける中華の文化と、それを背景に流れるThe Last Emperor。
いつか、こんな私の目に映る世界をみんなにも見せたいな。
9歳のエミはそう決意した。
STARRYは下北沢の街中に、ひっそりとあった。入口までには半地下のように階段があり、看板はネオン管で赤青にSTARRYと光っていた。
趣のあるお店だな、と感心していると、喜多は先にSTARRYに入って行ってった。
「おはようございまーす」
後藤も喜多に続いてSTARRYに入っていく。後藤のギターケースに続いてエミも喜多に倣って「おはようございまーす」とアルバイトの様に入店する。
「おー、オハヨ」
エミよりもひとまわりほど年上だろうか、金髪の険しそうに眉を顰めた女性が喜多と後藤に声をかける。
「店長さん、こちら同級生の岡崎エミちゃんです」
「はじめまして、岡崎エミです」
「はじめまして。私は伊地知星歌。ここの店長やってる。話は聞いてるよ、ピアノが弾けるんだってな」
エミの名を聞いた星歌は丁寧に挨拶をする。ああなるほど、これがこの人の営業スタイルか。
「ピアノ弾けるところ悪いんだけど…ウチはグランドピアノは置いてなくてな。キーボードは倉庫を弄れば出てくるだろうけど…埃かぶってる上に音が出るか怪しいから、弾くとしたら持ち込みで頼むよ」
「お気遣いありがとうございます。今度お邪魔する時は持ってくるかもしれませんね」
「リョウ先輩たちはもういますか?」
胸元のボタンを1つ外して、寛ぐ姿勢にした喜多が割って入る。喜多の問いに星歌は奥の扉に指をさす。既にいる、ということらしい。
「じゃあスタジオに行こっか。店長さん、失礼します」
「んー」
慣れた様に会釈をする喜多に続いて、ぎこちなく会釈をする後藤。星歌は気だるげにノートパソコンと睨めっこをしながら返事をする。入店時と同じく、エミも喜多に続いて会釈をする。
重厚な扉からはドラムの音が漏れていた。リズムキープの練習だろうか、時折シンバルを鳴らしては再び同じ音を同じリズムで繰り返している。ドラムの音が鳴り止んだタイミングで、喜多は扉を開ける。
「おはようございまーす」
「あ…おはよう、ございます……」
スタジオの中にいたのは、小柄な星歌と同じ金髪の、けれども星歌よりも快活そうな少女と、背の高い憂いを帯びた雰囲気を醸し出す青髪のショートカットの少女の2人だった。
「ぼっちちゃん喜多ちゃんおはよー。ごめんね、練習終わるまで待っててくれたの?」
「いえいえ集中しているところを邪魔してはいけないと思っただけですよ」
「……で、ぼっちの背後にいるのが、話に聞く」
「岡崎エミちゃんです!エミちゃん、ドラムの方が伊地知虹夏先輩で、隣の方が山田リョウ先輩だよ」
虹夏と紹介された少女は、最初のイメージそのままに明るく笑いかけて「よろしくね」と手を振った。一方の山田は興味が無いのか、ベースアンプの音量を調整している。
「後藤さんと喜多ちゃんの同級生の岡崎エミです!お話は予々聞いています。これからよろしくお願いします」
「わー礼儀正しい子。ウチのバンドに欠けてる娘だわ」
「ホント、欠けてる」
「皮肉って知らないのこのベーシスト」
虹夏と山田は昔馴染みであるらしく、2人の会話のテンポは聞いていて不自然さを感じなかった。心理の探り合いのない、キャッチボールの様に軽快な会話は、エミにとって新鮮に映った。
「で……岡崎…ちゃん?エミちゃん?どっちで呼んだ方がいいかな?」
「呼びやすい方で構いませんよ」
「じゃあエミちゃんで。エミちゃんは今日はウチの練習の見学?」
「はい。後藤さんのギターを聞いて、結束バンドさんに興味を持って」
「確かにぼっちのギターはぼっちソロで聴くなら良いかも」
「……ぼっち…ソロ…」
同じ意味を持つ2つの言葉の2段重ねに、後藤は複雑そうな表情を浮かべる。
ぼっちって、後藤さんのあだ名?
「あの、ぼっち、というのは」
機材の準備やチューニングをしているところにエミの質問に浮き上がる。この質問に返答をしたのは、ひと足先にスラップの練習を始めていた山田だった。
「ひとりって名前だから。あと友達少ないらしいから」
「改めて言うとその場の成り行きで決まったけど酷いあだ名だわ…」
エミは最初、揶揄の意味を込めたあだ名だと思っていたが、山田の声音と表情を鑑みるにそこに他意は無く、ただの呼び名であることがわかった。ぼっちなんて、なんて酷いあだ名だろうと思ったが、あだ名というよりも愛称というべきか。その証拠に、ぼっちと呼ばれても後藤は嫌な顔ひとつもせずに弱々しい相槌を打っている。どうやら彼女もこの愛称を自らの呼び名として受け入れているらしい。
不思議な関係。これがバンドっていうやつなのかな。
エミの知らない世界は、当然知らないルールと雰囲気が敷かれている。エミ本人としては気になる箇所ではあるものの、当人たちの間に何の蟠りも無いのなら首を突っ込まなくていいか。後藤さんがいいのなら、それでいいか。
準備完了したらしく、4人の表情は引き締まる。空気の色が変わったのを、エミも感じた。少しこっちの方が緩んでいるが、演奏会前の楽屋な空気感とよく似ている。おそらくこの4人が演奏時に張り詰めさせる空気感の延長線が、あの楽屋のピリピリとした不協和音なのだろう。あの楽屋の空気感は懐かしくもあるけれど、音楽から1番離れた所にあるもののように当時のエミは感じていたので、この空気感に少し辟易とした。
虹夏のスティックを合わせたカウントから始まった曲は、聴き馴染みのある箒星のようなギターサウンド。BUMP OF CHICKENの天体観測だ。喜多はギターを弾くことに必死なのだろう、ボーカルは無しだ。
虹夏はリズムキープに努めている様だった。派手なスキルは使わず、あくまでも3人が奏でる音の土台としての役割を全うしている……そう伝えようとしているが、実際はテクニックを入れ込む余裕が無いだけのように感じた。その証拠に、虹夏は同じリズム隊である山田のことを、最初はよく見ていたが、サビに向かうにつれて自分の手元しか見れなくなっている。次第に音にもバラツキが出てきていて、広げた風呂敷を畳みきれないように、せめてもの出来ることとしてリズムキープに最後まで務めていた。
山田のベースは他3人に比べても次元が違うともいうべきだった。天体観測は比較的テクニックを求められる曲ではあるが、山田は見事に弾きこなしていた。が、その音は4人の中でも浮いていた。ベースはあくまでもリズム隊で、目立つのは一瞬だけでいいと考えるエミからすれば、山田のベースは少々邪道に感じた。別段、そういったベースを引く人間は全世界にいるのだから何にも責められることはないが、エミはベースのくせにただ悪目立ちしているだけだと感じた。
喜多のギターはお世辞にも上手とはいえなかった。初めて1ヶ月と少しでリズムギターを全う出来るのだから、彼女は大した努力家だと思う。しかしながらただ音を奏でることにしか意識が向いていない。ブレイクは甘くて音が漏れているし、コードの押さえも弱いのか、音はところどころ外している。
でもまあ、リズムギターってこういうものだもんね。ボーカルが本職なんだから、ギターだけじゃ何も言えないか。喜多の左隣で、前屈みになって腕を振り続ける後藤の姿を見て、エミは予定調和の笑みをこぼす。
やはりというべきか、セッションという部分では後藤は大きく浮いていた。虹夏の必死のリズムキープも虚しく、後藤は1人でずっと先を走っていて、他の3人を置いていっている。まるで鎖をちぎった獰猛な犬。主を失った暴馬。しかしながら、彼女の奏でる音は、エミの注目を一身に受けていた。
これが、後藤さんの正装かぁ。
電気の入った後藤のギターは、当たり前だが、音楽室で聴いた時よりも遥かに迫力があった。そしてそれと同時に、後藤の持つ演奏技術の高さを再認識した。
後藤のギターから奏でられる音は寂しさがあった。冬の寒空の下で1人望遠鏡を抱える少年の姿がそこにはある。少年は従兄弟のお下がりである錆びついた自転車に乗って、少年が知る限り1番高い場所へペダルを漕ぎ始める。約束をした友人たちの姿はそこにはなくて、けれども少年は笑っていた。少年にとって、目的はあくまでも天体観測で、友人などはその天体観測に華を添える舞台装置の一部でしかないこと。後藤にとって、何かを行うことには常に孤独が付き纏っている。きっと、誰かが隣にいて目に映る何かを共に観測する人と会ったことがないのだろう。後藤のギターからは孤独と、その孤独に対する歯痒さと、自分へのどうしようもない怒りを感じた。
後藤ひとりのギターは、やはり私にとってヒーローなのだ。
1人スポットライトを浴びる後藤ひとりの姿を、エミは片時も離さずに目に焼き付けた。
「で、どうだった?」
重労働による疲労で肩で息をする虹夏から聞かれる。エミは数分前のバンドの練習の風景を思い出して、慎重に言葉を選んだ。
「皆さん良い演奏でした!未来というか、楽しみを感じる演奏でした!」
「あー…やったー、でいいのかな」
「はい。私は元々クラシックピアノをやっていて。クラシックピアノは、いわば完璧に近づくための演奏なんです。そういった生演奏を多く聞いてきた身からすれば、皆さんの演奏はとても新鮮でしたし、可能性ばかりの演奏だったと思います」
スラスラと出てくるエミの言葉に、虹夏は気を良くしたらしい、喜多に微笑みかけてギターの演奏技術向上を褒めた。
しかし、納得がいってないらしい山田は、ベースの下ろして、機材を端に追いやりながら視線だけをエミに向ける。
「エミは今の演奏、好きなの?」
予想だにしていなかった質問に鳩尾を喰らったような感覚に陥るが、しかし同時にエミは少し喜びを感じた。すごい、この人はちゃんと自分の位置を把握してる。
「記憶に残る演奏でした」
最高な音楽だろうと、最低な音楽だろうと、抱いた感想に嘘を混ぜてはいけない。それは演奏者に対する無礼になるし、なにより品が無い。
エミの返答に、山田は少し考える様に天井の照明に目をやったが、やがて面倒くさいとでも言うかのように「そっか」と短く答えた。
「……ち、ちょっと…お手洗いに行ってきます…」
誰の返答を聞くまでもなく、後藤はスタジオの外にいそいそと出て行った。「私も」とだけ残して、後藤の後を追う。後藤の背をトントン、と軽く指で叩いて後藤を振り向かせる。
「後藤さん、やっぱりすっごく良いギター弾くね。私、後藤さんのギター大好き。学校ではアンプに繋いで弾かないの?」
「……ぁ、周りの人たちの、迷惑になってしまいそうで…」
確かに、その音が騒音となり、それが原因でギター持ち込み禁止、などという校則が作られでもしたら、後藤の練習時間を削ることになってしまう。
「そっか……じゃあ後藤さんの都合がいい日にさ、ここで私と一緒に演奏しない?キーボード買って持ってくるから!」
「……い、いやそんなお手を煩わせるなんて…」
「煩わせてなんかないよ。好きな人のためにメイクを頑張ったり、朝早くに起きて髪をセットするのは基本でしょ?それと同じだよ」
「す、好き…!?」
「あ、そうだお手洗い行くんだったね!ごめんね呼び止めちゃって。私はちょっと用事があって、申し訳ないけど先に失礼させてもらうね」
好きという言葉を聞いて顔を赤くして固まっている後藤を背にスタジオに荷物を取りに戻る。用事がある旨を伝えて、スタジオ内の3人と、店長である星歌に挨拶をしてSTARRYを後にする。
帰り道、電車に揺られながら、スマートホンでキーボードのカタログをチェックする。
まあ別にこだわりなんてないんだけどさ。
どうせ好きな人と好きなことやるなら、良いもの使いたいじゃん。
後藤の天体観測のギターを脳内で再生しながら、エミは祝福された未来を笑顔で抱きしめた。