エミは悩んだ末に、ローランドのFP-10を購入することに決めた。下北沢の楽器店で、試奏をした際に、タッチの重さがエミにとっての理想に近かったからだ。
店員からは、15音色しかないので音作りには少し苦労をするかもしれないと助言を頂いたが。
「まあ、どうにかなるので」
幼少の頃から貯めていたお年玉やお小遣いをそこで一括で支払い、少し重い新たな仲間と共に帰路に着いた。
家に帰ってからも試しにきらきら星を演奏したが、力の入れ込みだけでも音はどうにか作れそうだ。グランドピアノに比べて、鍵盤を押し込んでいるという感覚が強く、その感覚に慣れるまでは時間がかかりそうだが。
翌日の土曜は、STARRYに行くことになっている。ここでエミは、後藤にこの電子キーボードのお披露目をするつもりだ。
高鳴る鼓動を抑えつつ、エミはSTARRYの扉を開いた。星歌はまだ寝ているらしく、虹夏が代わりに出迎えた。
「エミちゃんもう買ったの?すごっ」
「はい、居ても立っても居られなくて」
「今日弾いてくれるの?」
「リクエストいただければ何でも」
「絶対音感ってやつ!かっこいい!」
後藤以外の人にはあまり披露はしたくない、という感情を抑えて和かに答える。2人きりのセッションは今日はできなさそうかも。
虹夏の後をついてスタジオに入ると、後藤はもう既に準備を始めていた。
「後藤さんオハヨ」
「あ、おはようございます…」
相変わらず後藤は目を合わせようとしないが、エミは気にせずにキーボードを設置し始めた。
「今日は喜多ちゃんが来れなくて、リョウは行方不明だから、まあバイトまでは自主練だね」
「ゆ、行方不明?」
「お婆ちゃんが亡くなったんだって。まあこれで4人目のお婆ちゃんだから、大方レコード探しの旅にでも出てるんでしょ」
大胆な嘘を吐くものだとエミは感心してしまった。嘘を吐くことが嫌いで苦手なエミは、山田のその毛が生えた心臓に畏敬の念を込めて愛想笑いを浮かべた。
「あ、そうだ。エミちゃんがよければでいいんだけど、何か弾いてくれるのってOK?」
「はい、構いませんよ。このキーボードの癖を完全に掴むために、何曲か練習もしたかったので」
「ありがとー!」
「何かリクエストはありますか?」
エミは聞いたことある曲であればある程度弾くことができる。絶対音感というやつなのだろう、生来エミにはその能力が開花していたし、音に関してはずば抜けた記憶力を持っているので、こういったリクエストなどは得意だ。とは言っても、あまり人前ではやらないけど。
「ぼっちちゃん何かある?」
「わ、私のことは気にしないで虹夏ちゃんが決めてどぞ…」
「じゃあFun.のWe Are Youngお願いしよっかなー。知ってる?」
「はい、もちろん。私もあの曲好きです」
Fun.はエミのお気に入りのアーティストの1つだ。音…とりわけ楽器を中心に音楽を聞いているエミではあるが、ネイト・ルイスの歌声には陳腐な表現になるが感動をした。あの儚さと力強さを出すことができる彼の歌声は、もはや楽器といっても過言ではない。
キーボードの位置と高さを調整し、1音1音慎重に鍵盤を押し込んで音の出力を把握する。思ってたよりも強めに叩いていいかもしれないな。新品だし、そんなすぐに壊れることはないだろうし。
鍵盤を叩いた瞬間に転げ出した音に、最初は躓きかけた。わぁ、こんなに違うもんなのか。グランドピアノと違って、あまりにも簡単に音が出る。意識しないと、パソコンのキーボードで情報の海に無責任な言葉を流出させるような感覚に陥る。この感触は、とても嫌い。
どうにか自分の好みの姿になるようにとメロディーの合間に1音入れては調教する行為を繰り返した。私としてはこれはただのテストなんだけど、2人にはきっとアレンジだと聞かれているだろうか。
そういえば、と思い出す。
かつてピアノ教室でよく話したみんなに比べて背が高かった男の子。彼は家にこういった電子キーボードがあったらしく、気晴らしに弾くことがあったらしい。
まるで別の生き物だよアレは。
同じ猫科でも、猫とライオンじゃ接し方も変わるでしょ?
楽器って、そういう差があるもんなんだって気付かされたよ。
確かにこの子はグランドピアノに比べたら私に懐柔してない。違う楽器の調教なんて、全部調律師さんがやってくれるし、私が気にすることじゃなかったけど。
なるほど、これは面白い。
当然だ。自分で望んで、自分で資金を用意して、自分で手に入れたのだ。この子が朽ち果てるまで、責任は私が持たなきゃな。
じゃあ君は、こういう音が好き?ああそうかこの音を出すのが好きなのか。でもそれとは別で、出すのが得意なこともあるでしょう?黒鍵の音は確かに良い音だね。私は君の黒鍵は好きだな。
会話を重ねる。やっぱり話し合いが1番お互いを知れる。争いでの相互理解なんて、人間同士で充分だ。
だったら、この音を出せるように頑張ろっか。どう押したら鳴いてくれる?こう?もっと強くがいいかな。そっかそっか。なら、思い切って。
ラストのサビ。印象的な旋律は、力強く演奏した。演奏の構成として、この奏法は正しいのかはわからないけれど。
君はこういうのが好きなんでしょ?
なら、私も好きだよ。
パーティ会場を照らす照明。最後の1本の蝋燭の火が消えるような、侘しさと切なさを残す音が静かに鳴り響いて、演奏は終了。エミとしては、予想外にも体力を持っていかれた。
大きく息を吐いて、埃を払うかのように手を叩くエミを迎えたのは、2人の拍手だった。虹夏は呆気に取られたような表情で、後藤はそんな虹夏に続いて、拍手しとかないとな、とでも言いたげな様子で。
「すごいねエミちゃん。めちゃくちゃ感動した」
「ありがとうございます。まだまだですよ」
「お世辞抜きにマジで。原曲と違う感じあったけど、あのアレンジすごく良かった」
「本当ですか?褒めていただけて嬉しいです」
虹夏の賞賛に愛想笑いを浮かべながら、後藤を見る。
「後藤さんはどう感じた?」
「あ、はい……」
後藤は考え込み、慎重に、ホットコーヒーが注がれたマグカップを客席に運ぶように震えつつ、小さな声で答えた。
「良かった、と思います。けど、岡崎さんの音、少し慣れてなさげというか、まだ、扱いに骨を折っているような気が、しました」
浮かんだ言葉を吟味し、よく咀嚼し、順番を間違えないように口にする。ああ、彼女は言葉の重量と鋭利さをよく理解しているのだな。エミは後藤の様子に感心し、そして素直な感想に喜びを覚えた。
「ありがとう。そうなの、この子の扱いにまだちょっとだけ慣れてなくてね」
「ぼっちちゃんすご…耳良いんだね…」
「あ、す、すいません…出過ぎた真似を…」
「嘘偽りのない感想っていうのは、演奏者への最大の敬意と誠意だから、私は嬉しいよ」
演奏の上達なんて、そんなものは自分自身と戦うことを抜きにしてできない。自分しかいない世界で繰り広げられる戦いなのだ、重要なのは外聞。それも、ストレートで鋭くて、それでいて正直な言葉が必要になる。
エミにとって後藤の感想は、自分をより高い位置へ上昇させてくれる、一種の燃料だ。
「じゃあ、そんな素直な感想をくれた後藤さんに、お礼をしたいと思います」
エミはまだ、演奏を続けたいと思っていた。それはあと少しでこの新たな相棒を懐柔することができるという自信もあったし、後藤に、自分の思い描く世界と音を見せたかった。
思えば、後藤に独奏を披露するのは今日が初めてだ。
なら、ここはマナーに則って自己紹介といこう。
In The Mood
軽快なダンスナンバーは、スタジオの空気を一転させた。
聞いたことのあるイントロ!
後藤と虹夏はCMや映画で聴き馴染みのあるそのメロディーで、心を掴まれて、強引に振り向かせられた感覚を覚えた。
誰もが1度は耳にしたことのあるメロディーと、その軽やかでキャッチーなメロディーを的確に肉付ける、エミの朗らかでポカポカした陽の光のような音。たった1人だというのに、サックスにドラム、それにベースまでもが共に奏でているように聞こえるのは、一体。
ワックスが剥がれかけた木目の床。飾り物も何も無しな壁。分厚くてぶっきらぼうな扉だけが唯一の出入り口。あまりにも狭くて、余白のない空間が、エミの音で新たな風景に塗り替えられる。
エミの周りには背の高い短い髪を整えた初老の男性が思い思いに楽器を奏でている。花柄のドレスを着た薄化粧の女性たちは楽しそうにステップを踏んでいる。エミたちを包むのはタバコの薄い煙と気分を高揚させる軽やかな音。
禁酒法から解放されて、黄金の時を迎えて、豊かな生活を堪能しているアメリカの姿がそこにあった。
後藤と虹夏は見えている景色に驚愕と戸惑いを覚えつつも、しかしこの空気に身を任せていた。きっと、奏者が見せているこの風景は、何人も止めることができない川の流れのようなもの。川の流れに逆行することは、聴衆の権利に含まれていない。私たちはただ聴いて感じる。私たちに許された権利なんてものは、たったそれだけなのだ。
エミにとって、In The Moodというのは楽しくて眩しい、けれども不可逆な風景を音に込めた曲。
この曲を弾くたびに、脳内に浮かぶのは、第二次世界大戦終戦の報せを聞いた1組のカップルの写真。タイムズスクエアで軍人の男性とその恋人である女性が、キスをした瞬間を収めた写真は、アメリカの黄金期を象徴するものだと思っている。
きっと彼らは、この後パブに行って踊り明かしたのだろう。In The Moodを聴きながら、ビールを飲んで、これから訪れる眩い未来を語り合ったのだろう。それは彼らにとって、とても楽しくて、忘れられない、誇りに近い思い出として語り継がれていく。
私も体験してみたかった。輝かしい事実だけを身に浴びて、友人や、その場で知り合った名前も知らない人々と踊り明かして、不安を思い出す余裕もないほどに未来を見つめたい。でも私はその時生まれてないからそんなタイムトラベルは不可能なわけで。
だったら、彼らの思い出と私の羨望を混ぜ合わせて顕現させよう。音楽の力を借りてね。
演奏を終えたエミは、FP-10が完璧に自分のものになったと確信した。鍵盤を押せば、自分の思い通りの音が出てくる。これは限りなく、慣れ親しんだグランドピアノに近い。
エミの演奏を聴き終えた2人は、思わず立ちくらみを起こしたようだった。虹夏は小さく拍手をして、ブツブツと何か感想を唱えている。
「すごい。あんな感覚初めて。なんか、景色がブワって広がった」
「ありがとうございます。迷惑じゃ、なかったですか?」
「迷惑なんて、そんなことないよ。エミちゃんの見ている光景を一緒に見れたようで、嬉しかったよ」
「ならよかったです」
後藤も何か考え込んでいるらしく、椅子に腰掛けて1人で俯いている。すると扉が開かれて、虹夏の姉である星歌が顔を出す。
「虹夏、ちょっと手伝って欲しいことがあるから来てくれる?」
「あっ、うん」
「あ、エミ来てたのか。悪いな、虹夏借りてく」
「いえ、お構いなく」
星歌の後をついて行く虹夏の後ろ姿は、まるで子供のようだった。実際に子供ではあるが、彼女は小さな背丈の割に少し達観している部分がある。今はそれがしっかり者というレッテルに収まっているが。
ほんの少し傾けただけで、沈んじゃいそうだな。
結束バンドというバンド名はなるほど確かにその名の通りだ。お互いがお互いを、倒れないよう離れないよう腕で結束している。
虹夏がスタジオを出たことに気づいていないらしい、後藤はまだ考え込んでいた。これは前と同じで、声かけても起きないやつだ。
エミは傾いている後藤の肩を掴んで意識を戻させる。
「考え込んでるところごめんね、後藤さん」
「あっ、はいっ!ご、ごめんなさい、ちょっと考え事を…」
「私の演奏のこと、考えてくれてたの?」
「……はい」
申し訳がなさそうな後藤とは対照的に、エミの顔は晴れやかだ。いつだって意中の人には意識していてもらいたい。
「単刀直入に、どう思った?」
「……あの光景、きっと岡崎さんが見ていたもの、ですよね…?」
後藤の問いに短く頷く。
「とても鮮明で、あの光景への憧れのようなものを感じました。きっと、今の演奏は岡崎さんにとってのありのままの思いを出し切ったものなんだって、素人ながらに感じました…」
やはり、後藤ひとりは私のことを理解してくれている。表面上の感覚だけではなく、その先の、奏者の思いを考察した、的確で温かい言葉。エミが欲していた、しかし得られてこなかった言葉。
私の音は、間違ってなんかなかった!
「誠実な感想、ありがとう」
エミは深く、演奏会の時よりもずっと深く頭を下げる。何百人の表面的な拍手なんかより、1人の脆いけど意中の人からの拍手の方が、エミにとっては特別で何物にも代え難い。
「あ、あの光景、岡崎さんは意図して私たちに見せたんですか?」
それはまた難しい質問だ。けれどとても良い質問でもある。
「見せようって、いつも努力してるよ。でもそれは聞き手側の出方にもよるって思ってる」
「聞き手側の…?」
「うん。私のピアノを聴きたいのか、それともバッハやショパンやリストの音楽を聞きたいのか。それによって見るものは変わるって感じかな」
「クラシック、ですか」
「私は元々クラシックをやってたの。クラシックピアノに求められるものって、演奏技術は勿論なんだけど、1番求められるものは忠実さなの」
「忠実さ?」
「そう。国語のテストで筆者の考えを答えろって理不尽な問題があるでしょ?あれと同じようなもの」
そう言いながら、幼少期の苦い思い出が蘇る。エミのありのままの演奏を嫌悪、批判し、先生の指示通りの演奏には拍手喝采。決してそうではないことを今は理解しているが、小さな子供のエミにはある種の出来レースのように思えてしまった。
「作曲者の思いと、演奏者の音のシンクロ…っていうのかな。そのシンクロ率が高ければ高いほど褒めてもらえるって感じなの」
「岡崎さんの音は、その、シンクロ率は?」
「まー掠りもしないよね。どうにも私はクラシックと相性が悪いらしくて、よく先生に怒られてた」
あっけらかんと答えるエミに、後藤は心配そうにエミの顔を覗き込んだ。ああきっと、これは過去の私のことを心配してくれてるんだ。なんて優しい娘なんだろう。
「でも音楽が、ピアノが好きなことが変わることはなかったよ。クラシックとはそこで一旦お別れして、教室も辞めた。好きな時、好きな場所で、好きなように弾くのが私に合ってるなって気づいたの」
「…自由がお好き、なんですね」
自由。その言葉を聞いた途端、ブラックパール号の舵を、北を差さないコンパスを片手に握るジャック・スパロウの姿が思い浮かんだ。ああ確かに、私は自由が好きだ。水平の果てまで歌を歌いながら、愛船と仲間たちと共にフラフラと進みづける彼の姿は、幼少期のエミにとって憧れだった。
「……だ、だとしたら、何であの時、私をセッションに誘ったんですか?」
後藤が指しているのは、音楽室での1曲限りのセッション。エミにとっての運命の日。
「後藤さんに一目惚れしたから」
「ひ、一目惚れ!?」
「そう。だからセッションに誘ったの。デートの申し込みみたいにね」
「あれ、デートなんですか…?」
「好きな人と楽しいことをするってデートじゃないの?あれ、外に出かけてないから違うのかな」
好きな人と時間を共有することは、なんて言えばいいのだろう。それはきっと、私がまだ知らない言葉かもしれない。なら、まだ名無しでいいか。然るべき時が来たら、名前を付けよう。
「何にせよ、私は後藤さんと音を重ねたい。ずっとずっと、この世の終わりが来るまで」
なんだったら、今すぐにでも。そう笑って誘いを出すが、後藤は通知が来たスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
「ご、ごめんなさい…そろそろバイトの時間で……今、虹夏ちゃんに呼ばれて」
「……そっか、それは残念」
ギターをケースにしまい、いそいそとアンプやワウペダルたちを片付け始める。エミもキーボードを袋の中に入れて、後藤の手伝いを始める。その間の、物と物がぶつかる音のみで構成された空気は、すこし気まずくもあったが、嫌いではなかった。
片付けを終えた後藤は、ギターケースを背負い、扉の取手に手を掛けて振り向く。
「……また、セッション、したいです」
その時の後藤の姿は、正真正銘のヒーローだった。外の照明は後藤の背後で輝いていて、そして何より、後藤の目はしっかりとエミの目を見ていた。
綺麗な目。
見たことがない、逞しさを感じる後藤の姿に少し驚いて反応が遅れたが、しかしそれは正真正銘、エミのラブコールの返答だった。
「約束だからね。絶対に一緒に演ろうね」
「はい」
帰り道、重いはずのキーボードから重さは感じなくて、夕陽は必要以上に世界を橙色に染め上げていた。
思い出すのは後藤の姿と言葉。
ただの口頭での約束だけど。果たされる確証なんて、無いけれど。
彼女の一声で、私はこんなにも舞い上がってしまっている。
ああ、なんて幸せ者だ。
自分の運命と、幾らか明るさが増した明日に胸を弾ませて、エミはIn The Moodのステップを踏んだ。