私の生活が落ち着いたのでまたあげます。
蝉の鳴き声に耳が慣れてきた頃、エミは夏の猛暑とはまた別の鬱屈とした感情を持て余していた。後藤と話す機会は以前に比べて増えたが、しかしセッションをすることはできていなかったからだ。
後藤はエミのことを気にかけて、慣れない様子でエミに話しかけたりなどをしたが、彼女にとっての最優先事項はバンド活動と、その活動維持の為のアルバイト。後藤は常にその両方に勤しんでいて、帆を立てて波に流されて行くヨットのように自分から離れていくのをエミは感じていた。
人を好きになって、関係を保つのって案外難しい。
もともとエミにとって他人というのは、確かに目に映っているのに、決して掴めないユラユラウゴク靄のようなものなのだ。エミは他人と話す時は、常に靄の動きに合わせてアクションを起こす。動きを合わせることそのものはそつなくこなしていたが、それでもそのアクションは酷く退屈だった。
エミにとっての後藤は、これまでと変わらない靄だ。しかし、エミはその靄に動きを合わせたくなかった。お互いに好き勝手動いて、けれどずっとエミを見ている。そんな形にしたいと考えている。
何度誘っても応じてくれず、向こうからはそもそも誘いが来ない、というかメールが一通も来ない。
少し寂しくてかなしい。雪原に触れすぎて悴んだ指先のように、置き所のない感情を抱えたまま、エミはスマホに手を伸ばす。
––––––まあ、ちょっとだけ、強引に。
「後藤さんに見せたいものがあるんだ」
後藤を連れてエミが訪れたのは、商店の並びに挟まった、燃え尽きた灰のようなコンクリートの建物だった。鍵を手に取ったエミは遠慮なく扉を開けて後藤に手招きする。後藤は不安そうにエミに続いて入る。
「あの、岡崎さん、ここは」
「ここはね、私が先生に連れられて、それで子供の頃によく入り浸ってた所なの。普段は誰もいないけどね」
色褪せたポスターが何枚か貼られているだけの受付の1階を抜けて、2人は2階へと上がる。片道としか思えない狭い階段を登りきって、STARRYのスタジオの防音扉によく似た重厚な扉を開けて、唯一の部屋に入る。
そこには、ワックスが剥がれ落ちて埃が被った木の床と、1台のグランドピアノがひっそりと佇んでいた。
「勝手に入っちゃっていいんですか?」
「んーダメかも?」
「えっ、えぇっ?」
「でも鍵を私に渡してそれっきりな先生がいけないと思うんだ。それにちゃんと手入れもしてるし、週に1回掃除はしてるから」
何度この部屋に来ても、人が入った形跡は現れなかった。きっとここを覚えているのはこの世界でエミだけで、忘却の彼方に追いやられて名前のないピアノがあるだけの部屋になってしまうぐらいなら、ここを使っても罰は下らないだろう。
「あの……何で私をここに?」
「えっとね…デート、かな」
「デ、デート?」
「そうそう。後藤さんとずっと話せてなかったからさ、2人きりになれる空間に行きたくて」
「それは、デートと呼べるんですか…?」
「呼べる呼べる。だって楽しいのが決まってるんだもん」
白鍵を軽く叩き、音に異常がないかチェックする。どうやら2週間前に調律師を呼んだ判断は間違ってなかったようだ。
「何弾く?やってみたい曲とかある?」
「え、そんな急に…」
「いいよ。後藤さんのために弾くよ」
「わ、私のため?」
「そうだよ。他の誰でもない、貴女のために弾くよ」
後藤は遠慮するように作り笑いを浮かべていたが、やがて逃げれないと悟ったのか、カラスに見つからないように小さく鳴いて餌を求める子供のツバメのような声で「ヘイ・ジュード」と呟く。
耳の良いエミは、小さく頷いて「良い選曲」と笑う。両手を優しく摩り、温かい、摩擦が終わったばかりの掌にフッと息をかける。
思い浮かぶのは、オノ・ヨーコといる時のジョン・レノン。ジョンは彼女といる時、笑うことはあまりなかったが、その瞳には確かに幸せがあった。
まあ、この曲作ったの、確かポール・マッカートニーなんだけどね。
それでも、エミにとってヘイ・ジュードはレノン=ヨーコの姿が浮かぶ曲だった。ヨーコはビートルズを解散させた女だとか、ジョン・レノンの人生を壊した女だとか、色んな批判が世界で起こった。
しかしエミには、そうした怒りや侮蔑が生まれてしまうことが不思議で仕方がなかった。そりゃ確かにビートルズには解散してほしくなかったし、ギター持つことすら重いと感じてしまう年老いた彼らが歌うレット・イット・ビーを聞きたかったし、4人全員にエミ自身が愛してやまないルーシー・イン・ザ・スカイを弾いて聴かせてみたかった。
それでも、その終わりがひとつの恋から始まったものなら、それはごく当たり前の、世界の摂理なのではないかとエミは思っている。
恋って、色んな表情を持っている。
自分が誰か認識できないほど燃え盛る恋もあれば、必要最低限の関わりで済んでしまう恋もあるし、目に映る全てを破壊するほどの激しい恋だってある。それは人それぞれだし、どんな行程結果をもたらそうとも、それが恋であることに変わりはないし、仕方がないなのため息ひとつ吐いてハイおしまいの重量でいいと思うのだ。
だからエミは、人の恋は口に出さずとも応援するし、エミ自身も恋をすれば力を抜いて恋の行先に身を任せる。たとえそれが全てを破壊する恋で、その事実をエミが理解していても、エミはその恋を制御しようとしない。
ただ揺られているだけでいい。真昼の音楽室、世界中の音楽家の肖像画に見守られながら、上質なクラシックに身を委ねるように。
「後藤さん、初恋って覚えてる?」
アンプに繋げず、BUMP OF CHICKENのリボンのイントロを素朴な弦の音で奏でている後藤は、その質問を聞いて一拍置いて顔を真っ赤にする。
「え、えぇ?な、突然なんですか…」
「気になってさ」
「は、初恋…ですか…」
根が真面目な後藤は、そんなすぐ人混みに紛れて姿が見えなくなってしまいそうな質問に真剣に向き合った。
「う、うーん…?覚えてない、ですね…」
「そうなんだ」
「こ、心当たりがあるのが一つあるんですけど、それが恋かと言われると、わからないです…答えられません…」
「それっていつ頃のこと?」
「さ、最近です。でもそれは、あまり確信持てないというか…」
「へー、私も知ってる人?」
「は、はい。知ってるというか…はい……」
素直に後藤の初恋が気になったエミだったが、いくら目を輝かせても、後藤は俯くだけだった。あまり聞かれたくない話だったか。まあ仕方ないか、後藤さんの気分を害してしまうぐらいなら、私の中のクエスチョンマークの一つとしてそっとしておこう。
「じゃあ私の初恋の話聞いて」
自分の質問に答えてくれたお礼だ。
「私の初恋、4歳の頃」
「えっ?ず、ずいぶん早いですね…いや今の子的には平均…?
「今の子って、後藤さん同い年じゃん」
自分の中で流れる時がとまって、エミが老婆として未来に現れたみたいに考察している誤答に思わず笑ってしまう。
「4歳の頃、場所はお母さんの車の中。初恋の相手の名前はビル・エヴァンス」
「ま、まさかの国際恋愛!?」
「そーそー。いきなり異邦人ですよー」
自分が何気なく呟いた異邦人という単語に、エミは心躍り、心の中のBGMを異邦人にした。
「まあ、ビル・エヴァンスっていうには語弊があるかな。正確に言うと、彼が弾いていたピアノの音」
「あ、あー…」
「聞いたことのない音でさ。ピアノって今まで厚くて少し太い木の枝みたいな音だなって思ってたんだけど、彼のピアノは違った」
それは、世界が変わって見えてしまうほどのパワーを持つ恋の中で、格別に力強いインパクトを持つ初恋がもたらした感動。
「彼のピアノは、すごくか細くて、図書館で聞く雨音みたいに、一音一音がくっきりと形になっていて、いくら抱えても溢れない、奇跡みたいな音だったの」
エミは自分が紡ぎ出している言葉がしっかりと方程式に則った連なりになっているか、話していてわからなくなっていた。時折、言葉はひどく無駄な装飾品だなと煩わしくなることがある。
目の前で起こった事象を、自分の中でそういうものだとなんとなく理解していればいい。それを他人に、他人が理解できるようにわざわざ方程式を組み立てて、イコールをつけなければならない無駄な作業をするぐらいなら、他人に話す必要はない。そう考えているエミは、些細な会話をする時は自分の言葉を丁寧で綺麗な、みんなと同じ言語として扱うようにしている。しかし、こういった自分のことを明かして話す時は、ついそういった気遣いを忘れてしまう。自分のことを俯瞰しながら話すのに、そんなところにまで気を回す余裕が無いのだ。
「すごく綺麗な音でさ。そこからピアノの虜ですよ」
「…お、岡崎さんの音楽はそこから始まったんですか…?」
「うん。そこからかもね。正直ビル・エヴァンスに出会う前の記憶は殆ど無いんだ、忘れちゃってさ」
それは文字通りで、エミにとってそれ以前の記憶は無い。確かにそれ以前の時間を生きていたという実感はあるが、それを裏付けるのは写真や映像と、他人が持つ記憶だけで、エミにはただ生きていたという実感しかないのだ。しかしエミはそのことについて困ったことは今まで一度も無かったので、特に何も気にしていない。ただあの時あの瞬間にビル・エヴァンスの旋律に出会えた運命に感謝しかしていない。
「後藤さんがギターを弾こうって思ったきっかけって何?」
自分のピアノのルーツを思い出して語っているうちに、後藤にとってのギターのルーツも知りたくなってきた。
エミの質問に後藤は目を泳がせながら、早口気味に答える。
「…愛と世界平和のため、です」
思わず吹き出してしまう。なんだそれ。そんな大義を背負って音を奏でているのか、この娘は。
後藤のルーツの雄大さと、自分のルーツの身勝手さと矮小さを比較して、笑いが止まらなくなる。
「世界平和、壮大じゃんいいね!」
まるで漫画の主人公のようだ。世界の宿命を背負った音なんて、エミには想像もつかないが、後藤のギターを聴いている限り、少なくとも悪くはない、いやむしろとても良いものなのだろう。
「ビル・エヴァンスって、ジャズピアニストなの」
「ジャズ、ですか」
「そう。聞いたことある?」
「い、いえ、あまり…」
「今度聞いてみて。面白いから」
後藤に自分が夢中になった世界へのチケットを1枚手渡すようににっこりと笑いかけて、エミは自分の与太話を続ける。
「彼が弾いた曲があって、私はピアノの教室に入ってピアノを始めたんだ」
この幼い衝動的な決断が正解でもあって間違いでもあった。
「まあ憧れたのがジャズだったもんだから、クラシックには馴染めなかったんだけどね。楽しかったけど辛かったなー」
別にエミはクラシックのピアノの道に進んだことを後悔はしていない。確かにもっとジャズに関する専門的な知識やスキルを身に付けたかったが、それは後悔と呼ぶには温度が足らない。ただの捨てきれてない紙屑のような憧れだ。
「ほんと、たった一つの音楽で、世界が変わっちゃうなんて、わからないものだよね」
「そ、そうですね…」
「ほんと、幸せ者だったと思うよ。あの時の私は」
運命というのは、決して光だけを与えてくれるわけではない。この運命に導かれて、エミはピアノの才能を開花させ、思う存分楽しみ、そして失望をした。
きっとあの時ビル・エヴァンスに出会っていなければ、今までの渇きも虚無も、味わうことはなかったのだろうと、エミはごく稀に思うことがある。しかしそう思うたびに、過去は変えられない、とエミは自分の運命を抱きしめる。この運命を否定してしまえば、これまでの歓喜の思い出も、今の後藤との会話も、全てを否定することになってしまうから。
「これが私の初恋。ロマンチックでしょ」
「はい……とてもそう思います…」
後藤は震える声で頷き、少し間を置いてから、口を開く。
「…じゃあ、その好きな曲っていうのは?」
それは蛇口から流れ出る水のように、緩やかで聴き心地の良い声だった。
エミはたまらなく嬉しくなって、心臓が熱っていく感覚をどうにか抑え込んで、後藤を見た。
「それはね––––––」
この時、エミは後藤との距離が平行線から縮まったように感じた。先行く後藤の背中が見えて、辺りを伺いながら歩く後藤の横顔を確かに捉えた気がしていた。
あと少し。あと少しで、私たちは理解しあえて、音を奏で合える。神秘的で刺激的な舞台を、共に味わうことができる!
確信を持った雷が光り続ける黒い雲の中を突っ切るように、エミは走り出した。
しかし雷というのは、物に落ちて感電させるもの。自分に落ちた雷の痛みを、エミは生涯忘れることはないだろう。
「……え?」
秋雨降り頻る放課後。
教室に敷き詰められた机たちの色が褪せて見えるのはきっと気のせいだ。自分にそう言い聞かせて、エミはもう一度、後藤の言葉を再生する。
「…嫌です。それは、できません」
首を横に振り、一番後ろの席の背後に立つ後藤は、エミの目を見ようとしない。教卓の前で後藤へ告白をしたエミと後藤の距離はおよそ9メートル。けれどエミは、9メートル以上の距離を感じた。
「どうして?」
再生ボタンがカチッと戻る。
「…それは、私の、セリフです」
ラジカセは無常に言葉を流し続ける。
「どうして、結束バンドを抜けようだなんて、そんな簡単に言えるんですか…?」
巻き戻し。
一時停止。
再生。
––––––あのバンドじゃなくて、私とふたりで、いつまでもずっと、音楽を奏でようよ。
歪む靄。
––––––私と貴女なら、永遠にセッションできる。
身動き取れない靄。
「私たちの…今までを、よく知りもしないのに…」
褪せた景色は、次第に霜に侵されていく。肺が冷たい。指先の感覚がしない。吐く息が白い。
動かないと。声を発さないと。体が凍り付いてしまう。
「だ、だって、あのバンドじゃ、後藤さんは苦しそうに見えるんだもん…」
「そ、それは私が決めることですっ。私は、結束バンドでギターを弾きたいんですっ」
どうして?
どうして苦しいのに音を奏で続けようとするの?そんなことを続けていては、貴女の音は錆びついてしまうのに。
後藤の考えを理解できないエミは、一筋の雫を頬に流した。
涙なんて、とっくにゆりかごに置いてきたと思っていた。
「お、岡崎さん、私は貴女がわかりません……た、確かに貴女の音は魅力的だけど、それを奏でる貴女の輪郭が、掴めません…」
それはいまの後藤ひとりが出せる、最大限の拒絶の詞。エミの心臓がギュッと一層力強く握られる。目の奥がチカチカして、口の中は唾液でいっぱいになって、しかし嚥下することもままならない。
嫌い。近寄るな。気持ち悪い。いなくなってしまえ。それらの単語をぶつけられても、エミは表情を変えずに小首を傾げるだけだっただろう。
わからない。
後藤が明言したエミという人の理解への敬遠は、淵に立つエミを突き落とす風として適役だった。
「すみません……でも私は、結束バンドを辞めるつもりないです……れ、練習があるので、失礼、します…」
後藤も自分の言ったことに気がついて怖くなったからだろうか、最後の方は声も小さくなってよく聞こえなかった。
冷たい空気が立ち込める褪せた世界にひとりぼっちとなったエミは、ただ立ち尽くしてグルグルと考え込むしかなかった。
私の何がいけなかったのか。
なんで理解されなかったんだろう。
どうすれば私の手を掴んでくれただろう。
考えれば考えるほどわからなくなっていき、次第にエミは真っ黒な渦に飲み込まれていく。清濁合わせた濁流の中、エミは漸く己の愚かさと無知さを理解した。
私、後藤さんの心、よく知らなかったんだ。