街は夕暮れに染まり、人々も帰途につく。この時間帯からが本番という一部の店を除いて、一軒また一軒と商店も本日の営業を終えていく。
それはまた、この店も同じことである。厳密には営業時間なんてものは定めておらず、基本的には店主の気分次第ではあるが、日没後に店を閉めることがほとんどであった。
だが、そんな時間だというのに店主は定位置に座り、うつらうつらと舟をこぎ始めていた。
そして夢を見る、昔の夢を。
●
入口のベルが鳴り、店は客を迎え入れる。
まず入店してきたのは女性だ。ほんのりウェーブのかかったロングヘアー。眼鏡の奥には切れ長の美しい瞳。落ち着いた佇まい。大人の女性、という表現が一番しっくりくるのではないだろうか。
このキャリアウーマン風の女性、名をシルヴィア・シャーウッドという。いや、大使館勤務の外交官という、風、どころか本物のバリバリのキャリアウーマンである。
あくまで表向きは。
シルヴィアもまた裏の顔を持ち合わせていた。WISEというウェスタリスの諜報組織の一員であるというそんな一面を。
シルヴィアは一人の男を伴っていた。
男は彼女の部下であり、彼女自身が教育しスパイのイロハを叩き込んだ人物である。
シルヴィアの優しい指導(あくまで本人談だが)によって、ようやく彼も独り立ちしようとしていた。そんな彼に装備の一つでも見繕ってやろうか、という彼女なりの優しさで。
もちろん組織からの支給はあるのだが、それとは別に。卒業祝いや就職祝いといったところであろうか。
店主が行っているこの商売、元々が表立って行っているものではない。だとすれば、当然ながら新聞やテレビに広告を打つなんてことが出来るわけもなく。結果的に新規の客は、全て既存の客の紹介ということになる。
つまり、こんな形で新しい客が初めて来店する、なんていうのは、特段珍しい事じゃない。よくある光景、といえるほどに客が多くないのは悲しい事実ではあるが。
だが、少なくとも店主にとっては、日常とは著しくかけ離れた一日であったことは間違いない。
ここオスタニアの隣国であるウェスタリス出身だった店主は、幼いころ両国の戦争に巻き込まれた。その後、店主も紆余曲折の末にここに流れ着くのだが、まあそれはまた別の話。
戦争は終結し、店主もある程度の生活の基盤を整えた頃。手を尽くし情報を集めてみたが、当時の友人はみな戦争で死んだ、そう聞こえてくるだけであった。
そのこと自体は既に店主の中では整理がついたことである。悲しみもした、散々泣きもしたが、消化し、過去へと流した事実だった。
だが、この瞬間それが覆される。
カウンターの向こう、シルヴィアの隣に立つ男を見て店主は驚愕した。
かつての友人がそこには立っていたのだ。亡霊なんかではなく、しっかりとそこに立っている。流石にそこまでの想定も覚悟もしていない。面食らうなというのも無理な話だった。
十数年ぶりだ、当たり前だが容姿は変わっている。面影はあれど、他人の空似なんていうのはいくらでもある。何よりも、相手の方は一切何の反応も見せない。
それでも店主は確信した。間違いない、かつて同じ時間を共有した友であると。
こんな時、普通はどんな行動をとるのだろうか。名前を呼ぶのだろうか、それとも手を握るのか、抱きしめるのか。
しかし、いずれの選択も彼はしなかった。代わりに、ただただ事務的に、機械的に店の説明を進めていく。
店主はその日、涙を一滴も流すことはしなかった。
三日後。今度はシルヴィアが単独で現れた。
「なぜあの時、何も言わなかった?」
顔を突き合わせるや否や、シルヴィアは口を開く。だが、踏み込み方を間違えた。優秀な彼女にしては珍しく、自分の意図とは違うことを口走っていた。
「……知ってたんですか?」
「いや、調べた。あの後にな」
その言葉に嘘も偽りもない。そもそも、もし彼女が知っていたのなら、ここにあの男を連れて来はしなかっただろう。本当にただの偶然なのだ。
だが、店主の様子からふたりの間になんらかの関係が存在していたことは、傍から見て容易に察することが出来た。だとすれば後は調べる他にない。
「この短期間で? 流石はプロですね」
「それが仕事だからな」
感情の全く籠っていない店主の口ぶりに、そしてそれに付き合うような自分自身に、シルヴィアは若干の苛立ちを覚える。仕事中ならいざ知らず、それ以外でまで上っ面の会話を繰り広げる気にはならなかった。
それを悟ったのかどうかはわからないが、店主は落ち着いた口調で語りだす。
「……どういう経緯かは知らないけれど、スパイになったってことは自分の過去を捨て去ったってことでしょう?」
「……」
「多分、俺なんかが想像できないほどの決意が必要だったはずですから。そんな奴に軽々しく久しぶり、なんて言えはしませんよ」
シルヴィアは自分の無力さと軽率さを悔いた。
偶然とはいえ、彼らを引き合わせたのはシルヴィア自身である。
部下である男の方は恐らく気が付いていない。三日前もそれからも、変わった様子は一切見られない。そして幸いにも、あの時店主は自分から打ち明けはしなかった。
ならば念のため店主の方に口止めをしておくべきだ。そう思い今日、ここにいる。
口外するな、そう端的に言ってしまえば終わる話であった。これからのスパイの仕事に邪魔になるからと。なぜだ、などと聞く必要は全くない。
だが、気付けばシルヴィアは店主に答えを求めていた。
自分でも理由は分からない。同情や憐みの類なのか、はたまた同郷ゆえのシンパシーなのか。
いずれにせよ、シルヴィアが言うべきはずの言葉を店主がほぼ代弁する形になったのだ。その事実がまた、シルヴィアの自分自身への苛立ちを助長する。
「そうか」
シルヴィアはそう一言だけ答える。いやそれ以上何も言うことが出来なかった。
そして他に何を付け加えるでもなく、その日はそのまま店を後にした。
●
「おい……おい、次はそこのを取ってくれ」
シルヴィアの言葉で、店主は過去から強制的に帰還させられる。
頬杖をついて眺めていたはずの窓の外のオレンジは、大分輝きを失ってしまっていた。
「いや、それじゃない。一段下のやつだ」
「……居酒屋じゃないんですけどねうち」
「酒屋は酒屋だろう?」
店主は立ち上がり、しぶしぶといった態度で指定されたワインを彼女の元へと運ぶ。一応の文句は言いつつも、慣れた手つきでその蓋を外しコルクの栓を抜いた。そして、棚から新たなグラスを取り出してそれを注ぐ。
「ヴィンテージ物だろう、これ。プロならデキャンタージュくらいしたらどうだ」
彼女は彼女とて注文を付けつつも、一口それを含むと満足そうに、そして上品に微笑んだ。
「……お客さん、もう店仕舞いですよ」
「そうか」
まるでバーのマスターが酔いつぶれた客にでも言うように、演技がかった口調で店主は告げる。だが、女の方からは素っ気ない答えがあるのみで。
それも店主には想定済みだったのだろう。まあ、そうだろうなという程度の感覚。特段それ以上何を言うでもなく、店の外へと出て行った。
外へ出てみると、夕暮れもまもなく終わりを迎えようとしていた。
すでに上空には月が昇り始めている。そして同時に、夕日も地平線の彼方へと沈んで行こうとしていた。
ある種、一日の内にいくつかある境目のような時間帯。そんな世界で店主はひとり空を仰ぐ。
「……」
しばらくすると太陽は完全に姿を消し、その残光だけが残される。刻一刻と空が漆黒を塗り固めていく中、それと反比例するように街中に街灯が灯り始めた。
それでもその光に埋もれてしまうどころか、月は更に輝きを増して自己を主張する。
完全に満ちていないどころか、今日は三割程しか姿は見えないのにだ。それでも店主の目は釘付けにされる。いや、だからといったほうが正しいだろうか。
昔からどうにも満月は好きになれなかった。奇妙な恐怖感に襲われるから。店主にとって、このくらいの輝きが一番心を落ち着かさせてくれた。
一人ならいざ知らず、何時までもこうしている訳にもいかない。
何処か後ろ髪を引かれながらも、店主は表の扉に引っ掛けられていた安っぽいプレートを裏返し、店の内へと戻っていく。
結局、ただ店を閉めるという行為だけで十数分要していた。
しかし、試飲スペースでくつろぐシルヴィアは理由を問いただすことも、不平を言うこともなかった。ただ、店主が近くを通る際に一言だけ告げる。
「終わったなら、少し付き合え」
店主は何の返答をするでもなく、付けていたエプロンを外してカウンターへと放り投げる。そしてワイングラスを片手に、シルヴィアの正面のスツールに腰を下ろした。
「今夜は月が綺麗でしたよ」
自分のグラスに少量のワインを注ぎ、それを口に運んでから店主は言う。
「……口説いているのか?」
「まさか」
シルヴィアは東洋にそんな口説き文句がある、昔そう聞いたことがあったのを思い出した。だがそれを知ってか知らずか、店主はクックッと笑いながら否定する。そしてもう一口グラスを呷る。グラスは空になった。
「いつも言ってますけど、ご自宅で飲まれたらどうです? その方が落ち着くでしょう?」
「いつも言ってるが、あんな散らかった部屋でくつろげるか」
だったら片付ければいいでしょう。店主はその言葉を、シルヴィアの手によって注がれたワインと一緒に飲み込んだ。
「大体、感謝されこそすれ、無下に扱われる覚えはないんだがな」
「……感謝してますよ、あの時からずっと」
店主の含みのある口ぶりに、暫し時が止まる。
実際、本当に感謝はしているのだ。業務形態から外れているとはいえ、こうしてふらっと現れて二、三本ボトルを空けていく。それも比較的高いワインを。
基本的に値段が高ければそれだけ利益も多くなる。客の少ないこの店にとって、非常にありがたい存在といえるだろう。
そして恐らく普段の店主ならば、そのことを冗談交じりで返していただろう。
ただ、先ほどのうたた寝で見せられた過去の夢が、店主の口からその言葉を押し出した。別の意味を持たせた形で。
が、その程度のことでシルヴィアは表情を崩したりはしなかった。
「……いい加減あいつは気が付いたのか?」
「まさか」
店主は苦笑いを浮かべながら答える。そしてまたワインを呷る。
「まあ、それはいいんですよ別に」
「酔ってんのか、お前?」
突如語気を強める店主に、シルヴィアは冷静に問う。
シルヴィアは店主のことを、距離感の取り方の上手い男だと評している。近すぎず遠すぎず、相手や状況によって適度な距離感を保てるのはある種の才能だと思っている。
それ故に同じ空間にいて不快感が殆どない。ここでこんな風に酒を飲んでいるのも、もしかしたらそんなところが理由かもしれない。
だが、明らかに今日の店主のそれは壊れている。
そもそも今日の店主はシルヴィアから見てもピッチが早い。自分からそんなに酒が強い方ではない、と過去に言っていたし、今日のように突き合わせてもチビチビと飲むだけだ。
その辺を鑑みれば、シルヴィアがそう聞きたくなるのも無理はない。
「まだ酔ってませんよ、まだ」
「……それで?」
見るからに顔が赤らみ始め、説得力の欠落した店主の言葉は無視をして、シルヴィアはただ先を促す。
「今更、思い出してくれなんて言うつもりはないんです。自分で決めたことだから。でも、最近ここであいつを送り出すたびに感じるんです。何というかこう……怖いって」
「……任務に失敗して帰ってこないことがか?」
そんなやわに育てた覚えはない、とでも言いたそうなシルヴィアに店主は首を振る。
「そうじゃなくて、いやそれも全くないわけじゃないんですが」
「……」
「強いて言えば……そう、置いて行かれているような気がして」
同じ国で生まれ同じ町で育ち、戦争によって同じ様に全てを失った。途中まで似た環境で育ってきたはずだ。なのにどうだ、片やどんどん先へ進んで行ってしまう、自分を置いて。
店主は語る。人知れず裏の世界で活躍する彼は、さながら夜空に輝く月だ。そしてそれを見上げることしか出来ない自分がいる。
他人から見てとか、どっちが正しいかではなく、店主自身がそう感じていると。
シルヴィアはただひたすら彼の話を受け止める。口を挟むでもなく、時折グラスを傾けながら、ただ黙って聞き続けた。
そして店主が全てを吐き出したところで、ようやく口を開いた。
「……お前のセンチメンタリズムに付き合う気は更々ないが」
シルヴィアはそう前置きした後にさらに続ける。
「一つ教えてやる。私たちの世界ではな、思考を停止した奴から死んでいくんだ」
表情一つ変えずに物騒なことを言い始めるシルヴィアに、店主は姿勢を正しそれを受け入れる態勢を整えた。
「こうに違いない、きっとそうだ、こうであったらいい。そんな凝り固まった考えの奴が足をすくわれる」
「……」
「お前がどうしたいか、どう成りたいかなんて知らん。だがな、考えることを、もがきあがく事を放棄するな。今やるべき事をしろ。少なくとも私の知る限り、あいつはそうやって生きている」
シルヴィアはひとり語り続けながら、我ながら青臭い事を言っているなと心の中で自嘲する。だが、止めはしない。それがある種の罪滅ぼしになっているような気がして。
「月が美しいと思うのなら、夜空を見上げればいい。それで物足りなきゃ、もっと近づく努力をすればいい。そうやって、人間は空まで飛べるようになったんだ」
「……」
「それにな……最近じゃ宇宙にまで行けるようになったらしいぞ」
店主は全身でシルヴィアの言葉を受け止める。無言で、微動だにせず。
「……ふう。これ以上は御免だ。あーあ、説教じみたことを言ってると酒が不味くなる」
体の凝りとその場の緊張感をほぐすかのように、シルヴィアは伸びをする。そして、それにつられたように店主はすくっと立ち上がった。体を反らしたまま、彼女はそれを目で追う。
「……チーズでも切ってきますよ、口直しに」
シルヴィアの視線に気づいたであろう店主は、それに答えるように言った。
「ふっ、それは殊勝な心掛けだ……まあ、そうだな、現状それがお前の今やるべき事かもな」
そう言ってシルヴィアは口角を上げて微笑んだ。まるで三日月のような唇で。