基本的に多くの会社や商店には定休日というものが存在する。大抵の場合週に何日か、あるいは月に何日か休みの日が設定されている。稀にフル稼働し続けている組織も存在するにはするのだが、その数自体は非常に少ない。
定休日の設定の仕方自体は組織によって様々だ。決まった曜日であったり日付であったりと。
表向きワイン屋であるこの店も例に漏れずそれは存在する。
しかし、店主が定めた休日は月に1日だけであった。彼が勤勉であるが故に1日しか休まないのかと問われれば、間違いなくそれは否だ。
定休日とは別に仕入れや買い付け等で店を閉めることもあるし、なんなら気分で店を開けないこともあったりする。
だがいずれにせよ、それらとは別に月に一度決まった条件下で店は必ず営業を停止する。
そして、今日がちょうどその日であった。
「……」
店主はひとりソファーに体を預け、テレビをぼうっと眺めていた。真剣に見るほどの内容でもなく、かといって消してしまうと寂しいような、そういった感覚。
そんな感じだから、当然内容は彼の頭には入ってこないし、何より音も最小限にしているため、耳に届いているかすら曖昧だ。もはや生活音の一部か、ただのBGMと化している。
ワインショップである店の奥をさらに入った所に、決して広くはない店主の生活スペースが存在する。
店の定休日であるこの日は誰にも会う事はしない、そう店主は固く決めている。だからなるべく大きな音を立てず、姿を見せず、存在感を消してひっそりと一日を終える。
それを毎月繰り返してきた。
店主はふと壁にかかった時計に目をやると、時刻は16時を回った辺りを示していた。
それは彼の中の体感時間とほぼほぼ一致していた。時間の流れの感覚というよりは自分の腹が告げていた、もうすぐ飯の時間だぞと。
店主はのそりとソファーから立ち上がる。そしてキッチンの方へと向かい、冷蔵庫の前まで足を運んだ。扉を開けた後、暫し店主は動作を止めて考え込む。
夕食のメニューに悩んだわけではない。外出しなくていいように前日から準備済みだから。そうではなく、それに合わせてワインを一本開けようと考えたのだ。
冷蔵庫の中にも飲みかけが一瓶ある。だがこれは、夕食のメニューを考えると少々不釣り合いであった。魚や肉など料理の種類や傾向に合わせてワインをチョイスするのは何も珍しい事ではない。ワイン好きにとってはむしろ当たり前のことだ。それ故に彼には少し受け入れ難かった。
だが前述のように、基本的に店主がこの日に店に足を運ぶことは殆どない。今までの彼であれば今目の前にある物で我慢をするか、むしろ飲まないという選択をしたことであろう。
しかし、今日の彼は違う選択をした。
魔が差したのか、そうなる運命だったのか。いずれにせよ店主は後にこれが大きな分岐点であったことを知る。
●
男は照明の消えた店内でワインを物色していた。
当たり前だが、明かりは消したままだから夕日が差し込むとはいえ、少々薄暗い。しかし、店の主である彼にはそれで困ることは無い。
決して美しいとは言えない陳列ではあるが、何処にどの商品があるかぐらいは粗方記憶しているからだ。
目当てのワインの置かれた棚まで近づいて、そこからおもむろに一つ取り出した。そして、瓶に張られたラベルを薄闇の中でまじまじと確認する。
迅速さの欠片もない行動であった。この場に居るべきではないと分かっているはずなのに。
とはいえ、ここのまま店の奥へと戻って行ったのならば、何も事は起こらなかったのであろう。だが、この上に店主はコルクの栓を抜き、確認がてらその香りまで楽しみ始めたのだった。
鼻の奥をくすぐる芳醇な香りは、口にせずとも店主の心と体を満たしてくれるようだった。そんなひと時の幸福感をぶち壊すかのようにその時はやって来た。
ガンガンガン
店の入り口のドアが叩かれる音が店内に響き、店主はびくりと身を震わせ動きを止める。そして即座に状況を確認する。
外にはクローズドのプレートを掛けておいたはずだ。店内が外から見えないようにカーテンだってかけてある。つまり客であろう来訪者には、店主の存在が知れようはずがないのだ。
(……別に敵が攻めて来たわけでもあるまいに)
店主は己の小心さに自嘲しつつも、息をひそめて居留守を決め込んだ。
「……ぉーい。あけろー」
しかし再度扉が殴打される音と共に彼の耳に届いたのは、発生源であろう人の声。それはワインを買いに来るような年齢層の声でもなければ、裏で扱う銃器の類を欲しがるような人間のそれでもなかった。
明らかに幼い、そして女の子の声だった。
その瞬間店主の脳裏にひとりの少女の姿が浮かぶ。
アーニャ・フォージャー。この店の顧客でもあるロイド・フォージャーの娘である。娘といっても仮初めのではあるのだが。
初めてアーニャが父に手を引かれながらこの店を訪れた際、彼女は店主の作ったバターピーナツを非常に気に入った。
以来、学校の帰りであったり休日にそれを求めて彼女は時折やって来る。曰く母に持たされたという硬貨を一枚握りしめながら。
店主とて別に金を取るつもりなどはなかった。自分の好物であり、ましてや手作りの物を小さい子が喜んでくれる、それだけで満足だからだ。だが彼は有難く頂戴して専用の貯金箱を作り、そこに入れることにした。いわばお使いのようなもので小さい子には良い経験になるのでは、そう考えた末の行動だった。
つまりは彼女もまた紛れもない常連客だった。客が来る可能性は当然予想をしてはいたが、その中に彼女を含めてはいなかった。それ故に店主は困惑する。
正解はどう見ても簡単で、そのまま息を殺してアーニャが諦めるのを待てばいい。だが、彼の中に罪悪感というものが湧き上がってしまっていた。これが彼女以外の他の全ての客であったのなら、そんなことを思いもしなかったのだろうに。
結局、店主は招き入れる事を決める。ある種の諦めと共に入口へと向かい、鍵を開けて扉を開放した。
「……いらっしゃい」
予想通りその場にいた少女に、店主は眉尻を下げながらそう言った。それを見たアーニャは店主の困惑など知りもせず、ニコリと笑顔の花を咲かせる。
「それでアーニャちゃん、ご注文は?」
アーニャと一緒に店の奥まで戻った店主は、そう形式ばった言葉で会話を始める。答えを聞くまでもなくアーニャの要求は分かっている。だが、しっかりとお客扱いした方が彼女が喜ぶことも店主は知っていたから。
「ピーナツください!」
アーニャはそう言って、何時ものように背伸びをしながら50ペンス硬貨をカウンターに置いた。
「オーケー、アーニャちゃん。今作って来るから、ちょっと待ってね」
少女が大切に手に持っていた事で少々熱を帯びたコインを、これまたしっかりと握りしめ、店主は身を翻す。
が、すぐにその動きが止まる。
そこで店主はようやく気が付いたのだ。あるべきものが無いことに。
店主は恐る恐る振り返り、アーニャの顔を見つめた。だがそうやって確認してみたところで、やはり有って然るべきものが無い。
状況が一つの事実を店主に告げる。それを受け入れた、というより押し付けられた彼を背筋が凍りつくような感覚が襲う。
同時に湧き上がる嘔吐感を店主は必死で抑え込んだ。幸い胃の中が空に近かった事もあり、吐き出すような状況までは至らない。だが心臓はバクバクと高鳴り、己の血流と呼吸が速くなるのを店主は感じていた。
険しい表情で耐える彼を、アーニャは不思議そうにのぞき込んでいた。視線に気づいた店主は大きく深呼吸をした後、どうにか作り笑いでそれに答えた。
(やっぱりか……)
何度確認したところで、目の前にある事実は何も変わってはくれなかった。勘違いであることを望んだかどうか、店主本人にも分からない。だが、現実はそうで無いことを冷酷に突き付けていた。
(……この子もエスパーなのか)
驚き、困惑、悲しみ、怒り。いくつかの感情が店主の心の内でごちゃ混ぜになって膨れ上がる。目の前にいる幼い少女が自分と同じエスパーという能力を持っているという事実が、彼の感情の制御する力を著しく落としていた。
アーニャ・フォージャーというこの少女が、相手の心を読む力、いわゆるエスパーであるように、この店の主もまた同じ力を有していた。
しかし両者ともに心を覗く能力を持ちながら、今の今まで互いのそれを知ることは出来なかった。
店主がアーニャの秘密に気が付いた理由が正にそこにあった。
●
遡ること約二十年。そう、戦争が起こった時。幼かった店主は家族と友人を失い、彼も命こそ守ったものの、攻めて来たオスタニア軍に捕らえられた。
戦争とはいえ幼い子供の場合、見逃されることは多い。だが、不幸なことに捕まったのが普通の軍属の兵士ではなかったのだ。
彼は共に捕らえた数人の子供と共にオスタニアへと送られ、ある施設に幽閉された。
そこは肉体、精神を人体の限界を越えて発達させようとする場所であった。それも合法的な手法ではない、早い話が人体実験である。
その施設で被験者となった彼はいくつかの実験の末に力を得る。月に一度お月様が世界から消える日に、他人の考えることをのぞき見することが出来る、そんな力を。
意図的なのか偶発的なのかは彼にも分からないが、本来人が持たぬであろう能力を身に着けたのだ。
恐らく再現性の確認の為であろう、彼と共に別の男の子が全く同じ実験を受けさせられていた。結果的にその子も彼と同様の能力を身に着けていたのだが、不思議なことにふたりの間でその力が発揮されることは無かった。
何故なのかと、友となったその男の子と理由を考察し合いもしたが、結論を得ることは出来なかった。別の新たな実験であっさりと友人は彼の元を去ってしまったから。
次は自分の番かと幼いながらも店主は覚悟を決めたが、そんな時に事件が起こった。レジスタンスが施設を爆破したのである。
こちらの方は完全に偶発的な出来事で、組織の事や実験の事を知ったからではなく、政府の施設を狙っただけの話である。
しかし、この機に乗じて彼は逃げ出した。そして国中を転々とした後、今ここに腰を落ち着けている。
そんな過去の消してしまいたいような経験が、皮肉にも今の状況を説明してくれている。
今日限定で使えるはずの力がアーニャには通用しない。それはすなわち、彼女も全く同じかそれに類する能力を有していることを意味するのだと。
そしてその力を持っていることこそが、彼が月に一度必ず店を閉める理由でもあった。
「……」
突き付けられた現実に、店主は言葉を失った。当然だ、彼にとって思い出すだけで体が硬直し吐き気を催すほどの体験だ。無論、アーニャが自分と同じような目に遭ったかどうかは、店主の知るところではない。
だが、彼女の人生が平穏とは呼べないものであったことは容易に想像できたのだから。
「アーニャちゃんは……」
店主はそこで言葉を止める。そして自問する、今自分はどうするべきなのかと。
自分もエスパーだと明かすべきだろうか。それとも、彼女が本当にそうかだけでも探りを入れようか。だが、仮に確証を得た所で何が出来るだろうか。
考えはとてもまとまりそうもなかった。
「……ピーナツ」
そんな苦悩する彼に向って、アーニャは一言そう呟いた。なんてことは無い、ただの催促だ。そこに深い意味はない。
アーニャの言葉に反応して、店主は再び彼女に目をやった。自然と視線が交錯する。
やはり彼女は不可解な面持ちで店主を見つめている。ただそれは、本当にまっすぐに彼を射抜いていた。
(……ああ、そうか)
そんなタイミングで店主はようやく事の裏面に気付く。そして遅すぎたそれを恥じた。
アーニャの秘密を知ってそこで終わりじゃない。それはつまり幾つかの前提が崩壊したことに繋がっていた。
アーニャは知っているのだ。父であるロイドがスパイであることを。そして彼が任務のために自分を引き取った事を。フォージャー家が偽りの家族であることを。
「……アーニャちゃんはお父さんとお母さんのこと好きかい?」
店主からの突然の質問に、アーニャは驚きの表情を浮かべた。だがそれも一瞬の事で、次の瞬間には満面の笑みを浮かべ、彼の問いに答えを出した。
「アーニャちちとははだいすき。ちちはかっこいいし、ははもやさしいからすき!」
アーニャの嘘偽りのないその答えに、店主は己の感情が決壊しかけていることを知る。目頭が熱くなるのを、奥歯を噛み締めて必死で堪えた。
そして店主は認識を改める。
アーニャに対してどこか哀れみに似た感情を抱いた自分が間違っていた。彼女は既にまっすぐ前を見て歩いているのだと。
「……しっかりしてるなアーニャちゃんは」
「ん? うん! アーニャひびせかいをすくってる」
店主の口から思わず零れた本音。自分よりもよっぽど前向きな幼い少女を称えた、心からの呟きだった。だが、そんなニュアンスは当然彼女に伝わるわけもない。
どういう意図で受け取ったのかは分からないが、アーニャはふふんっ、と得意げに鼻を鳴らしながら胸を張る。そんな姿を見て、店主は再び彼女の頭に手を伸ばす。そして今度は先ほどよりも強めに頭を撫でまわすと、やはりアーニャはくすぐったそうに笑ってみせた。
「よしっ! じゃあいっちょ気合い入れてピーナツ炒めてきますか。アーニャ隊員はそこで大人しく待っているように」
「うぃ!」
ビシッと敬礼を返すアーニャを背に、店主は奥のキッチンへと向かっていった。幼い少女に気付かれぬよう、ひとりこっそりと鼻をすすりながら。