東都大学
「チッ、悪女め」
そうぼやきながらも、ドアが閉まったあとも、
しばらく研究室にはコーヒーの匂いだけが残っていた。
仙水は椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げる。
「……統計、か」
口ではそう言ったが、統計を取る気など最初からない。
ベルモットの“勘”が問題なのではない。
問題なのは――
先ほどのベルモットの言っていた内容をタブレットにツラツラと書いていく。
こういうまとめるという行為は、考えがまとまるから
研究でもよくやっていることだ。
彼は端末を起動する。
ーーメモーー
交渉相手:板倉卓
交渉時刻:板倉がメールを受け取れず、電話で対応
取引予定:翌日 → 午前4時に変更
変更理由:不明
金銭条件:変更なし
ーーーーーー
(ベルモットの言う通り、確かに不可解だ。予定を前倒しする理由が、
“合理的に説明できない”。多少トラブルはあったものの、交渉時刻については特に変更は見られてはいないみたいだが…。確か彼は心臓に疾患があったみたいだが、朝早くから病院行くにしてもこんな時間に取引する理由にはならない。
栃木から東京まで下道で約3時間。時間がかかるのが分かってて、一体どうして取引時刻を早めたんだ?板倉にとって何も得がないじゃないか。)
仙水はタブレットの画面をしばらく睨んだまま、指を止めていた。
板倉卓は、仕事ができるが、慎重な人間だった。
納期を破ることはあっても、予定を前倒しするタイプじゃない。
それなのに、取引時刻は翌日から午前四時へ。
(四時というのも、妙だ)
早すぎる。
だが、完全な深夜でもない。
警察の巡回が一巡し、始発前で人が少なく、
それでいて「異常」が目立ちにくい時間。
(合理性がない……いや、“板倉にとって”合理性がない、か)
椅子を軋ませて身を乗り出す。
もし板倉が自主的に予定を変えたのなら、
・金銭条件の上積み
・安全確保
・主導権の確保
――最低でも、どれか一つは要求してくるはずだ。
だが、実際はどうだ。
金はそのまま。
条件もそのまま。
ただ、時間だけが前倒しされた。
「……なんなんだ一体」
独り言が漏れる。
時間というのは交渉において最も扱いやすく、同時に最も意味を持たせやすい要素だ。
それを“何も得ずに”差し出す理由が、板倉側には見当たらない。
(なら、板倉の意思が介在していない…?)
仙水は新しい行をメモに足した。
仮説:
・板倉は予定変更を「選ばされた」
・主導権は板倉側にない
ペンを置き、顎に手を当てる。
「……」
仙水は一度、目を閉じた。
ベルモットの言葉が脳裏をよぎる。
――「そこが不気味…なのよ」
(不気味、ね)
彼女の“勘”は、しばしば論理をすり抜ける。
(いや、ここで想定を広げすぎるのは悪手だ)
(板倉の背後に、何者かがいる……?)
その考えが一瞬よぎり、すぐに切り捨てられる。
(……馬鹿馬鹿しい)
こんな取引に割り込もうとする人間など、同業者か、あるいは――
「――いや」
思考が、そこで止まる。“あるいは”の先を、あえて考えなかった。
それは現実的でなく、証拠もなく、
何より仮定すること自体無意味だ。
仙水はタブレットをスリープさせ、椅子に深く背を預けた。
「……結局、確認するしかないか」
誰かが裏で彼を操っているのか、
そしてなぜ、午前4時なのか。現場に行けば、何かが見えるかも知れない。
仙水は静かに立ち上がり、コートを手に取った。
研究室の時計は、深夜1時を指している。
「……間に合う…か」
*******
当日・午前2時半
――都内大通り付近
まだ夜が明けず、車通りもない。
仙水は、
地下入口から少し離れたところに車を路上駐車した。
ここはタクシーなどもよく停まる、不自然じゃない場所だ。
信号の周期。
(ウォッカはまだ来ない)
当然だ。
組織の人間は予定時刻より必ず遅れる。
だが。
(……誰かが、先に来る可能性はある)
それは板倉か。それとも――
仙水は、自分の中で答えを作らないようにしていた。
答えを作ると、それに合うものしか見えなくなる。
******
1時間後
もう夜明けも近く、眠気が襲ってきた。
「遅いな、眠くなってきたぞ」
そうボヤきながらあくびをしたちょうどその時だった。
視界の端に、小さな影が映った。
無意識に、
仙水の指がコートの内側で止まる。
「なんだ…?なんだ今のは…?」
異様な光景に思わず、声に出ていた。
少年だった。
少年は視界の端から現れたかと思うと、まっすぐ地下に降りていった。
(子ども?こんなところにどうして?)
なぜこんなところに子供がいる。
それも、こんな時間に。
それだけなら、まだ偶然で片付けられたかもしれない。
だが――。
「……いや」
仙水は、無意識に眉をひそめていた。
来たのは子供が一人。
年齢はせいぜい小学校低学年。
背格好も、ごく平均的だ。
服装も、特別目立つわけじゃない。
奇抜でもなければ、だらしなくもない。
どこにでもいそうな、ありふれた子供。
それなのに。
(おかしい)
普通、子供はこんな時間に外出しない。
仮に事情があったとしても、
この場所を“目的地”として選ぶ理由がない。
ましてや――
(迷いがなさすぎる)
足取りが一定だった。
周囲を警戒する様子もない。
立ち止まることも、振り返ることもなく、まるで行くべき場所を最初から知っているかのように。
少年は、そのまま地下へ続く階段の前に立ち、
一瞬も躊躇せず、影の中へと消えていった。
「……」
仙水は、視線だけでその背中を追う。
胸の奥で、説明のつかない感覚がわずかにざわついた。
(偶然、か?)
そう考えようとする。
時間帯が悪かっただけかもしれない。
たまたま、度胸のある子供だっただけかもしれない。
だが、理屈を並べれば並べるほど、
その“たまたま”が不自然に積み重なっていく。
(仮に迷子だとしたら?
いや、それなら周囲を見る。
誰かを探す素振りを見せる)
(用事があるにしても、
地下コインロッカーを迷わず選ぶ?
この時間に? この場所を?)
仙水は、自分がいつの間にか
少年が背後にいるという前提で推測していることに気づいた。
――それ自体が、異常だ。
普段なら、もっと早い段階で切り捨てている。
“関係ない情報”として、処理を終えているはずだった。
(……だが)
彼は、コートの内側で指を止めたまま、
地下へ続く入口から視線を離さなかった。
ここで追う理由はない。
合理性がない。
監視対象は別にある。
そう、分かっている。
(この取引に、子供が関与する?
なぜそんな仮定をしたんだろうか―)
あり得ない。
だが、もはや完全に切り捨てることはできなくなっていた。
仙水は、ゆっくりと視線を正面に戻した。
胸の奥に沈んだ違和感だけは、最後まで消えなかった。
この時点では、まだ何も起きていない。
誰も動いていない。
何一つ、破綻はしていない。
それでも、仙水は理解していた。
――この夜は、もう始まっている。
そして、その盤面の中心にいるのは、
自分でも、ウォッカでも、ベルモットでもないということを。
仙水は、再び地下入口を一瞥した。
午前四時まで、あと15分。
「…一体なにがどうなってんだか」
自身の理解の外側で何かが静かに動き出していることは、
もはや認めざるを得なかった。。
やっぱコナンくん不気味すぎるでしょ…