十月下旬、東京都米花町。
それから一週間が経過した。
秋晴れの空の下、帝丹高校は朝から大勢の人々で賑わっていた。
正門には色鮮やかな装飾が施された大きなアーチが設置され、その上には「帝丹高校文化祭」と書かれた看板が掲げられている。
校庭には焼きそばやたこ焼きの屋台が立ち並び、校舎の窓には各クラスが制作したポスターが貼られていた。
「いらっしゃいませー!」
「二年B組の喫茶店、ぜひお越しくださーい!」
「お化け屋敷、ただいま待ち時間十分でーす!」
生徒たちの元気な呼び込みが、校庭のあちこちから聞こえてくる。
そんな賑やかな校門を、一人の青年がくぐった。
仙水悠である。
黒いジャケットに白いシャツ。普段大学へ出勤するときとさほど変わらない服装だが、今日は研究用のパソコンも書類も持っていない。
完全な休日だった。
「ほえー……」
仙水は校舎を見上げた。
「なかなか盛大にやってるじゃん」
先週、特別講義のために訪れたときも、校内は文化祭の準備で騒がしかった。
しかし、今日はその比ではない。
校庭には保護者や近隣住民と思われる人々が行き交い、廊下には衣装を着た生徒たちが歩いている。
仙水は受付で渡されたパンフレットを開いた。
「さて、『黒衣の騎士』は……」
ページをめくり、上演予定を探す。
二年B組による演劇『黒衣の騎士』。
会場は体育館。開演まで、あと十五分ほどだった。
「ちょうどいい時間だな」
パンフレットを閉じると、仙水は体育館へ向かって歩き始めた。
途中、校庭の一角で行われていた輪投げや、教室を改装した喫茶店が目に入る。
「懐かしいなこの雰囲気」
思わず独り言が漏れた。
高校時代、文化祭の準備で放課後遅くまで教室に残ったことを思い出す。
あの頃は、まさか自分が物理学者になり、ましてや国際的な犯罪組織の幹部になるなどとは、夢にも思っていなかった。
大学に進学してからは研究に没頭し、学会や海外出張で忙しい日々を送ってきた。
最近では、ドイツでの一件もあった。
「我ながら随分と落ちぶれたもんだ。」
しこうしてぶつぶつとぼやきながら高校の文化祭を見物している。
「……平和だ」
仙水は小さく笑った。
そして、体育館の扉を開けた。
体育館の中は、すでに大勢の観客で埋まっていた。
舞台の前にはパイプ椅子が何列にも並べられ、後方には立ち見の観客もいる。
仙水は中央よりやや後ろの空席を見つけ、腰を下ろした。
周囲では、生徒や保護者たちが楽しそうに会話している。
「蘭ちゃん、ちゃんと演技できるかしら?」
「大丈夫よ。練習、ずいぶん頑張ってたみたいだし」
「それにしても、黒衣の騎士役って誰なの?」
「さあ? 園子ちゃんも教えてくれなかったのよ」
どうやら、黒衣の騎士を演じる人物は秘密になっているらしい。
仙水はパンフレットの配役欄に目を落とした。
王女役、毛利蘭。
その名前を見て、先週の講演後に声をかけてきた少女の顔を思い出した。
「ああ、そういえばヒロインを演じるんだったっけ」
あのとき、鈴木園子がずいぶん熱心に誘ってきた。
せっかく招待されたのだから、最後まで見ていくか。
そんなことを考えていると、開演を告げるアナウンスが流れた。
『皆様、大変お待たせいたしました。これより、二年B組による演劇「黒衣の騎士」を上演いたします』
観客席から拍手が起こる。
やがて体育館の照明が落とされ、舞台の幕がゆっくりと上がった。
物語は、中世ヨーロッパを思わせる架空の王国を舞台にした恋物語だった。
豪華な衣装を身にまとった王女と、素性を明かさない黒衣の騎士。
二人の身分を越えた恋を描く、いわば王道の物語である。
舞台には城の大広間を模した背景が設置され、手作りとは思えないほど丁寧に装飾されていた。
「……おぉ〜」
仙水は感心したように呟いた。
なかなか本格的じゃないか。
生徒たちは多少緊張しているようだったが、台詞を間違えることもなく、物語は順調に進んでいた。
やがて、舞台中央に毛利蘭が登場した。
白を基調としたドレスに身を包み、髪には小さな装飾品をつけている。
先週、講演後に話しかけてきたときとは、ずいぶん印象が違った。
蘭は王女としての台詞を堂々と演じ、観客席からも感嘆の声が上がっていた。
物語が進むにつれ、王女は危機に陥る。
そこへ現れたのが、黒衣の騎士だった。
黒いマント。
全身を覆う鎧。
そして、顔を隠す仮面。
その姿が舞台に現れた瞬間、観客席から歓声が上がった。
「きゃーっ!」
「黒衣の騎士だ!」
「かっこいい!」
仙水は思わず目を細めた。
あれが黒衣の騎士か。
騎士は剣を手に、王女を守るように立ちはだかった。
他の出演者と比べると、その動きにはどこか余裕があった。
足運びに無駄がなく、観客の視線を意識しすぎている様子もない。
演技というより、まるで普段から人前に立つことに慣れているような振る舞いだった。
……随分と堂々としているな。
まあ、演劇経験のある生徒なんだろ。
黒衣の騎士は王女に歩み寄り、静かに手を差し伸べた。
蘭がその手を取る。
舞台上の二人に、スポットライトが当たった。
会場はすっかり物語の世界に引き込まれていた。
仙水も腕を組み、穏やかな表情で舞台を眺めていた。
そのときだった。
「きゃああああああああああっ!!」
突然、客席の一角から甲高い悲鳴が響いた。
一瞬、誰もが演出の一部かと思った。
しかし、次の瞬間、観客席から慌ただしい声が上がった。
「お、おい! どうしたんだ!?」
「誰か倒れてるぞ!」
「ちょっと! 大丈夫ですか!?」
舞台上の演技が止まった。
出演者たちも何が起こったのかわからず、困惑した表情を浮かべている。
仙水は声のした方向を振り返った。
数列前の客席で、一人の中年男性が椅子から崩れ落ちていた。
男性の体は不自然に傾き、そのまま床へ倒れ込んでいる。
近くにいた観客が慌てて立ち上がり、周囲に人だかりができ始めた。
「……何だ?」
仙水も席を立った。
先ほどまで楽しそうに劇を見ていた観客たちが、一斉にざわめき始める。
「おい、しっかりしろ!」
「聞こえますか!?」
男性の肩を叩く者がいた。
しかし、反応はない。
「救急車! 誰か救急車を呼んで!」
「先生! 警察にも連絡してください!」
会場の空気が一変した。
つい数秒前まで恋物語の舞台を楽しんでいた人々の顔に、困惑と恐怖が浮かんでいた。
仙水は倒れた男性を見つめた。
意識を失ったのか……?
一見しただけでは原因はわからない。
心臓発作かもしれないし、何らかの急病かもしれない。
あるいは――。
仙水はそこで思考を止めた。
いや、今の段階で決めつけるのは早い。
周囲では、教員たちが観客を下がらせようとしていた。
「皆さん、落ち着いてください!」
「通路を空けてください!」
しかし、好奇心から近づこうとする者も多く、現場は混乱していた。
仙水はその場に留まり、状況を見守った。
救急対応の妨げになるようなことはしたくなかった。
そのとき、舞台上で黒い影が動いた。
黒衣の騎士だった。
騎士は客席の異変に気づくと、ためらうことなく舞台から飛び降りた。
「お、おい!」
舞台袖にいた生徒が声を上げる。
しかし、騎士は振り返らなかった。
観客たちの間を素早く抜け、倒れた男性のもとへ駆け寄る。
「すみません、ちょっと通してください!」
落ち着いた声だった。
騎士は男性のそばにしゃがみ込み、その様子を確かめ始めた。
「ちょっと、君! 危ないから離れなさい!」
近くにいた教員が制止する。
しかし、騎士は動じなかった。
「救急車は呼びましたか?」
「あ、ああ。今、職員が連絡している!」
「だったら、周りの人を少し下がらせてください。人が集まりすぎています」
教員は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「わ、わかった!」
騎士は再び男性に視線を戻した。
そして、周囲の観客に尋ねた。
「この人が倒れる前、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「え……?」
「急に苦しみ出したとか、何か飲んでいたとか」
「そ、そういえば……」
近くにいた女性が何かを思い出したように口を開いた。
騎士はその話を注意深く聞き始めた。
仙水は少し離れた場所から、その一連の行動を眺めていた。
……何だ?。
彼の視線が、黒衣の騎士に向けられる。
ずいぶん冷静じゃないか。
突然目の前で人が倒れれば、大人でも少なからず動揺する。
ましてや高校生なら、なおさらだろう。
しかし、あの騎士にはそれがほとんど見られない。
むしろ、状況を整理し、必要な情報を集めようとしている。
救護だけじゃない。倒れる前の行動まで確認しているのか……。
仙水は眉をひそめた。
まるで、事件現場を調べているみたいだな。
騎士は男性の周囲を見渡し、足元に落ちていた物にも目を向けた。
さらに、近くの観客にいくつか質問を重ねる。
その姿は、少なくとも仙水の目には、偶然現場に居合わせた高校生の行動とは思えなかった。
何者なんだ、あの生徒は。
仙水の中で、単なる興味が少しずつ疑問へと変わっていった。
やがて、体育館の外からサイレンの音が聞こえてきた。
警察と救急隊が到着したのだ。
観客たちは教員の誘導に従い、少しずつ現場から離れ始めた。
仙水も通路を空けるため、席の端へ移動した。
到着した警察官たちは現場を確認し、関係者への聞き取りを始めた。
その中には、見覚えのある口ひげを蓄えた中年男性の姿もあった。
「おいおい、一体どうなってんだ、こりゃあ!」
あれは……毛利小五郎か?
かつて警視庁に所属し、現在は私立探偵として活動する男だ。
仙水はその姿を見て、わずかに首を傾げた。
テレビで何度か見たことがある。
世間では「眠りの小五郎」として有名な探偵だった。
なるほど。毛利蘭さんの父親か。
仙水はようやく二人の姓が一致することに気づいた。
小五郎は警察官たちと話しながら、倒れた男性の周囲を調べ始めた。
「ふむ……なるほどな」
やがて、男性の所持品や周囲の状況を確認した小五郎は、何かを確信したように頷いた。
「こいつは自殺だな」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「じ、自殺ですって!?」
「そうだ。どうやら失恋を苦にして、自ら命を絶ったらしい」
小五郎は自信満々に説明を始めた。
現場に着いた刑事らしき人物もその線で考えているようだった。
仙水は少し離れた場所から、その推理を聞いていた。
……自殺、ねえ。
確かに、状況だけを見ればその可能性もある。
しかし、仙水には少し気になることがあった。
自殺と断定するには、まだ情報が足りないんじゃないか?
説明できる理論が存在したとしても、それが唯一の説明であるとは限らない。
研究と同じだ。
複数の仮説が同じ結果を予測することもある。
だからこそ、別の可能性を排除するための検証が必要になる。
状況証拠だけで結論を出すのは、少し早い気がするな。
腕を組み、考える。
もっとも、僕は犯罪捜査の専門家ではない。
事件現場を直接調べたわけでもなく、被害者の詳しい状況も知らない。
そのため、あえて口を挟むつもりはなかった。
まあ、警察が調べればわかることだろう。
そう考えた、そのときだった。
「……ちょっと待ってください」
体育館に、一人の声が響いた。
仙水は顔を上げた。
声の主は、あの黒衣の騎士だった。
騎士は依然として仮面をつけたまま、現場の近くに立っていた。
小五郎が振り返る。
「何だ、お前は?」
騎士は落ち着いた様子で答えた。
「その推理には、まだ説明できていないことがあります」
「何だと?」
小五郎の眉がつり上がる。
「何を言ってるんだ。状況を見れば明らかじゃないか!」
「いいえ。もし自殺だったとしたら、不自然な点が残るんです」
その言葉に、仙水は思わず目を細めた。
……へぇ。
騎士は小五郎に向かって、現場で確認した事実を一つずつ説明し始めた。
周囲の観客たちも、次第に静まり返っていく。
「これは計画的な犯行。つまり、れっきとした殺人事件です。」
「な!?」
小五郎は驚き口を開ける。
騎士の声には迷いがなかった。
仙水は、そのやり取りを興味深そうに眺めていた。
しかし、あの騎士はいったい何者なのだろう。
普通の高校生が、著名な探偵を相手にここまで堂々と反論できるものだろうか。
そのとき、小五郎が声を荒らげた。
「おい! さっきから偉そうに! だいたいお前、何者なんだ!?」
周囲の視線が、一斉に黒衣の騎士へと集まった。
騎士はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと仮面に手をかけた。
「……そうですね」
黒い仮面が外される。
その下から現れたのは、鋭い眼差しをした一人の少年だった。
「えっ……!?」
最初に声を上げたのは、近くにいた女子生徒だった。
続いて、観客席のあちこちから驚きの声が上がる。
「う、嘘……!」
「ま、まさか!?」
「まじかよ!!」
「お久しぶりです。工藤新一です。」
その名前が体育館に響いた瞬間、周囲が一斉にざわめいた。
「工藤新一って、あの!?」
「高校生探偵の!?」
「最近ずっと学校に来てなかったんじゃ……?」
「本物なの!?」
仙水はわずかに目を見開いた。
……工藤新一?
その名前には聞き覚えがあった。
以前、新聞かテレビで目にしたことがある。
高校生でありながら、警察も手を焼く難事件を次々と解決してきたという少年。
世間では「東の高校生探偵」として知られていたはずだ。
ああ、そうか。あの工藤新一か。
仙水は少年を改めて見つめた。
なるほど。それなら、あの落ち着きようにも納得がいく。
もっとも、探偵という職業について、仙水はそれほど詳しいわけではない。
彼自身は物理学者であり、普段の仕事は実験結果や計算データを解析することだ。
しかし、観察した事実から仮説を立て、その妥当性を検証するという点では、探偵の仕事にも通じるものがある。
事件の現場で、何をみて、どんな結論を導くのか……。
少し見てみたいな。
一方、工藤新一は周囲のざわめきなど気にする様子もなく、落ち着いた声で告げた。
「みんな、慌てないでください。まだ事件は解決していません」
その声には、不思議な説得力があった。
仙水はその様子を見て、わずかに笑みを浮かべた。
……随分肝が座ってる少年だな。
そのとき、新一がふと顔を上げた。
ほんの一瞬だった。
二人の視線が交差した。
仙水は特に表情を変えず、軽く会釈した。
新一もわずかに頷くと、再び事件現場へと視線を戻した。
それだけのことだった。
しかし仙水は、少年の眼差しに妙な鋭さを感じていた。
……なるほど。
先ほどまでの舞台上の姿とは違う。
あれは、何かを真剣に追い求めている人間の目だった。
「高校生探偵、工藤新一……」
名前を確かめるように、もう一度呟く。
そして、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「これは、なかなか面白い文化祭になりそうだねぇ」
気づいてるのか気づいてないのか