青い髪の少女の来店から数日が経った。
その間来た客はわずか2人だが、そのうちの1人の女性はこの店を気に入ってくれたらしく、『いつもので通るぐらい通うわ』なんて言っていた。
まぁ俺はそれに、『客の数が少ないんで、割と簡単に覚えられると思う』と返したのだが。
そんな幸運な日があったのだが、俺はまだあの日のことをちらちらと考えていた。
どうにも頭によぎるのだ。
あの青い髪の少女が。
昔会ったことのある子かもしれない、と思ったのだが、恐らく今学生である彼女と会ったことのある、と言うと、俺が現役時代に、まだ幼い少女に会っていることになる。
若干犯罪の匂いがするが...肝心の俺にその記憶がない。
青い髪の少女には会ったかもしれないが、少女が店を出る時に向けてきた、あの暗く淀んだ目をした人には会ったことがない。
水をふき取る用にタオルを渡したときは、そんな目はしていなかったと思ったのだが...こうして強烈に印象に残っているのだ。その時は光の反射か何かでよく見えなかっただけだろう。
それを考えると、この間来た女性はどこか見た覚えのある女性だった。
記憶に新しい気がするから、引退する直前...なのだろうけど。
おじさんの記憶力はあてにならないからな、と余計なことを頭の隅に追いやり、俺は手元に集中する。
この世には、ラテアートなるものが存在するらしい。
それをネットで調べていて知った俺は、思い立ったが吉日とばかりに通販で必要な物をぽちり。
そして、今朝ようやく届いたので、こうして朝早くから練習をしているところだ。
エスプレッソを淹れて、そこに泡立てたミルクを用意する。
先にミルクを入れてなじませた後、泡を乗せるのが大体の流れなのだという。
そのミルクにも、スチームミルクなる名前がついているのを最近知った。
ただ、動画を見て簡単にできそうだな、なんて思ったのが俺の運の尽きだったのかもしれない。
「ただミルクが混ざったエスプレッソだな、これは」
つい口に出てしまったが、まさにその状態のものが俺の目の前に出来ていた。
これで3個目の失敗。
簡単に見えるのは慣れている人がいとも簡単にやって見せるからであって、素人が見よう見まねでやろうとしてできるものではないことを痛感した。
ミルクを泡立てるのは意外と簡単だったのだが、そのあと、円を描くように注ぐ、というものがいまいちうまくいかない。
その後も何度か練習し、ようやく形になったものを見て思う。
難易度の低いハートを作るのにこれだけ苦労していたら、この先どうなってしまうのだろう、と。
どうしたものかな、と考えていると、入店を知らせる、扉につけていたベルが鳴った。
「いらっしゃい。いつものかい?」
「ええ。お願いしてもいいかしら」
俺の『いつものでいいか』という問いかけに、嬉しそうに声を弾ませながら、お気に入りの席に座った彼女こそが、ついこの間『いつもので通じるほど通う』と言っていた女性だ。
この女性も芸能人特有のオーラをまとっており、普段はニコニコしているから柔らかく可愛い印象を覚えるが、コーヒーを飲み、一息ついた時の顔は、顔から笑みが消えて、本当にリラックスしているような顔になる。
その時の彼女は、可愛いというよりかは綺麗な印象だ。
やっぱり見たことがあるような...。
そんな彼女が頼むのは、コーヒーとサンドイッチのセット。料金は500円。
コーヒーは別にお代わりぐらいならタダだし、サンドイッチも今は3つ出しているが、出していいなら5つぐらいは出したい。
ただそれだと、そもそもお腹に入らないだろう、と考えた結果、今の形に落ち着いた。
ああ、そうだ。
「今、試しにラテアートを作っているんだ。まだ練習中で不格好だけど、貴女が良ければ試飲してみないかい?」
「まぁ! ぜひ!」
折角だから、お客様の声を聞いておくのも大事だろう。
早速とばかりに彼女に提案してみると、快く承諾してくれた。ありがたい。
先にコーヒーとサンドイッチを出しておき、そのあとラテアートに挑戦する。
できるだけ待たせたくないので素早くやったのだが、思いのほかいい出来のハートができた。
「お待たせ。今は簡単なものしか作れないけど」
「...! ハート。そう、そうなのね。嬉しいわ、ありがとう! 美味しくいただくわね!」
「? うん、そうしてくれると嬉しい」
カフェラテを彼女の元へと差し出した後、俺はPCの元へと戻り、カフェラテの他にコーヒー関連で出来る小ネタを探していく。
なるほど、コーヒー占いなるものがあるのか。
カフェドマンシー。中々かっこいい名前だ。
やり方も簡単。
コーヒーカップに2、3滴だけ残しておいて、ソーサラーの上にひっくり返して何秒かおいておくだけ。
ソーサラーに落ちたコーヒーの模様を見て、運勢を占うというもののようだ。
まぁやるのは簡単なのだが、それを読み取るのには少し慣れが必要そうだ。
客のいない間に自分で試してみるとしよう。
〈♪〉
「また迷っちゃったのかしら。スマホは動かなくなっちゃったし...」
今日はウィンドウショッピングをしよう、と意気込んだのだが、1人で来たのが仇となったのか見慣れぬ道に入ってしまった。
いつもは愛莉が先導してくれるので、愛莉が私からはぐれることが無い限りは迷うことはないのだが...。
見覚えのある建物を見つけようと歩いていると、住宅街に来てしまったのか、目的の場所はかなり遠いような気がしてきた。
これは困ったと立ち止まって辺りを見渡すと、住宅街にポツンと、喫茶店が開かれていた。
売れたいならもっと、人通りの多い場所に開けばいいだろうに。
「...でも、逆に、なのかしら」
こうしてたまたま見つけたからこそ、入りたくなる、と言うか。
奇妙な感覚だ。
木製の扉を開けると、扉に取り付けられていた鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい。空いてる席にどうぞ」
中に入って、私はすぐに気が付いた。
髪型は変わらずオールバック。ひげが生えているものの、若干渋いその顔を忘れることなどない。
田中義景。
私がアイドルになった時期に、人気絶頂期だった男。
一緒の番組に出たことはあれど、喋ったことは数回。その時はちょうど『Cheerful*Days』で、まだセンターに選ばれて間もない頃だった。
テレビの収録の予定日に動けるメンバーが私だけで、他のメンバーはラジオだとか取材だとか。予定が詰まっており、ちょうど空いていた私が、1番露出の多いテレビに出ることになった。
その時にはもう、他のメンバーからの気持ちに気付いていたのだ。
そうしてちょうど悩んでいた時期に、声をかけてくれたのが彼。
『君の憧れたアイドル像を見失うな。歩み寄ることが大切だ』と。
その時の彼は、ちょうど全国ツアーが終わったばかりのころで、疲れたような顔をしていたのを良く覚えている。
結局、そのあとメンバーの気持ちを変えてやろうと躍起になって活動したのだが、気持ちを通わせることさえできたものの、その時には既に世に出回っていた不仲説を覆すことはできず。
私は『Cheerful*Days』を卒業という形に。仲違いして別れたわけでもないので、今でも連絡を取り合う仲だし、『雫を越えるようなグループになってみせるから』とメッセージをもらったばかりだ。
世の噂で勘違いした愛莉が、劇場に乗り込むなんて事件は起きたけれど、愛莉がそこまで怒ってくれることが嬉しかったので、むしろプラスだ。
彼からアドバイスをもらい、メンバーと心を通わせられた頃に彼はアイドルを辞めたので、お礼も言えずそのままだったのだが...こんなところで再開できるとは。
彼が営業しているのなら、こんな人通りの少ない場所で喫茶店をやっているのも、納得がいく。
きっと静かに暮らしていたいのだろう。
ただ、もしかしたら奥さんがいるのかもしれない。夫婦2人で喫茶店...いいかもしれない。
ただ、現役時代にも彼に浮ついた話は1つも出てこないままだったので、もしかしたら1人でやっているのかもしれない。ならば、私がそこに収まるのはどうだろう。
「すみません、この『サンドイッチとコーヒーセット』を1つ、お願いします」
「わかりました。コーヒーはホットかアイスか選べますが」
「じゃあホットで」
私が店内に入った時、私が日野森雫だということに気が付いている様子はなく、どこかで会ったような、みたいな反応だった。
思い出してくれないのはちょっと不服だが...完全に忘れられていないだけましだ。何せ私が覚えているだけなのだし。
希望を与える人間、というのはそういうものだ。
彼が頼んだものを準備している間に、店内を見渡す。
流れているのは流行りのアイドルの曲だが、自動再生で流れているのか、今流れているアップテンポな曲は、落ち着いたこの店とは合っていないような気もする。
客は私だけで、ちょうど昼時でこれだと普段から客はいなさそうだ。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます。...このお店気に入りました。『いつもの』で通じるぐらい、通いますから」
「私が言うのもなんですが...客も少ないので、すぐに覚えられるかと。それと、常連さんになっていただけるのなら、もう少し砕けた話し方でもいいんですよ」
「...あら、そう? ならあなたも」
「...わかったよ」
私がそうお願いすると、彼は昔と変わらない、困ったようで優しい笑顔を浮かべて、頷いた。
その顔を見ると、我慢ができなくなりそうだ。もっと困らせたくなってしまう。
「じゃあ、いただきます」
「どうぞごゆっくり」
彼が出してくれたコーヒーを一口飲むと、その味に驚いた。
美味しい。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
彼にそう言われて、遅れて声に出していたことに気が付いた。
顔が赤くなっていくのを実感しながら、コーヒーをソーサラーの上に戻した。
コーヒーに関しては素人だけど、その素人の私に美味しいと思わせることができるほど上手に淹れることができるとは。
元々趣味の1つだったのだろうか。アイドルを辞めてから練習したにしては上手なような...。
案外コーヒーを淹れるのは簡単なのかもしれない。今度愛莉ちゃんに作ってあげよう。
彼がPCを触り始めたのを見て、サンドイッチを一口。
サンドイッチの中身はレタスとハムのものが2つ。そして、レタスとトマトとチーズが1つの計3つだ。
野菜、野菜と言えば、この間愛莉ちゃんが『野菜ジュースが好きになる歌があるらしいのよね』って言っていたのを思い出した。
結局あれは何だったんだろう。
「......ほぉ」
「ふふ」
彼がPCで何を見ているのかは知らないが、『これはいいかも』みたいな表情を浮かべて画面を見ているのを見て、思わず笑みがこぼれる。
彼はそんな私に気が付かずに、メモを取りながらマウスをかちかちと操作している。
「...この気持ちがなんて言うのか、昔は分からなかったけど」
まだ右も左も分からなかった私は、そんなことを考えている余裕はなかったけれど、ほぼ毎日彼のことを考えていて。
きっとこの気持ちは___。
「ごちそうさまでした」
「...あ、あぁ、お粗末様でした。もう会計するかい?」
「ええ、ショッピングでもしようと思っていたから」
財布を取りだして500円を彼の手のひらに置き、ドアノブに手をかけて...そのまま帰ろうとしたところで私は踏みとどまった。
前は記憶に残らないような出会いだった。なら、今度は私を覚えてもらおう。
「また来るわね。義景さん」
そう告げた時の彼は目を丸くして驚いており、テレビでも見たことのないような顔で、私は若干得したような気分になって帰った。
その日の夜に見た夢は、彼と一緒に喫茶店を営業する夢だった。
バイト、募集してないだろうか、なんて。
遥と杏が険悪な雰囲気になる話も見てみたい。
誰かお願い(他力本願)。