Diagon Alley
「ルイス、早く起きるんだよ。ルイス」
ああ、温かい――包み込まれるようなぬくもりを感じながら、ルイス・ジュリアードはまどろむ意識の中で自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。しかし、朝のこの時間とはなんと幸せな瞬間なのだろう。太陽の匂いがするシーツに頬を摺り寄せながら、夢うつつにそのようなことを考える。
「ルイス!」
「ちょっと、なぁに? せっかくいい気持ちで眠っているのに……」
寝ぼけ眼のままのろのろとベッドの上に起き上がると、傍らには呆れ顔の兄の姿があった。彼はふてぶてしく腰に両手を当てて、まるで見下すようにルイスのことを見ている。
「もうちょっとくらい寝かせてくれてもいいでしょう?」
そう言って再びシーツに包まろうとしたルイスだったが、それを兄が許してくれるはずもなかった。彼、ラウル・ジュリアードが心得ているように妹からシーツを剥ぎ取ると、ルイスはベッドの上でころんと転がる。
いったい何が起こったのだろうかと上手く働かない頭で考えていると、ラウルはルイスのパジャマの首根っこを掴んでベッドの縁に座らせた。
「ほら、早く起きないと買い物の時間がどんどん短くなるよ、ルイス。人ごみが嫌だと言ったのは君だろう? 早くしないとダイアゴン横丁が混雑する」
「ふわぁ……そうだったっけ」
欠伸を漏らしながらしらばっくれている妹の額を軽く小突き、ラウルはため息を吐いた。
「さあ、朝食の時間だ。まぁ、今の時間で朝食と言えるのかどうかは分からないけれど」
仕方なくベッドからのろのろとした動きで下りたルイスは、サイドテーブルに置いてある二十四時間表示の時計に目をやった。ぐにゃりと曲がっている短針が十を指し、長針は十一を示している。時刻は十時五十五分だ。確かにラウルの言うとおり、朝食と称するにはあまりに遅い。
「ほら、ルイス!」
「はーい」
ルイスは朝にめっぽう弱い。今のように大声で叩き起こされれば頭痛がするし、何をするにも酷く時間がかかった。朝は考えることに適していないし、ベッドのぬくもりでまどろむことをしない者は皆同じように背徳者だと思うほどだった。
虚ろそうな目は半開きで、歩きながらでも眠ってしまいそうなほどふらふらとしている。それでも何とかクローゼットの前まで進み出ると、いつもよりずっと時間をかけて着替えを済ませた。
「いつまでもそんな顔をしていないで、顔を洗っておいで。すっきりするよ」
リビングに下りてくるなりラウルに言われたルイスは、だらだらとバスルームに入っていく。蛇口を捻って痛いほど強く水を出し、そこに頭を突っ込むようにして顔を洗った。長い黒髪からは水がしたたり、ローブの肩口がびっしょりと濡れていようと、ルイスは気にも留めない。
「パンはいらないから、紅茶だけにして」
「駄目だ。それに、もう焼いてしまったよ」
「食べたくないのに」
「いいから、わがままを言わない。少しでいいから食べなさい」
ラウルはふわふわのスクランブルエッグと青い焼きトマト、切り目の入れられたウィンナーの乗せられた皿と、木の器に盛られたサラダをルイスの前に置き、焼きたてのトーストを一枚差し出した。
ルイスはそれを渋々受け取ると、自家製のマーマレードジャムを薄く塗りのばす。
「買い物のリストは? 持ってきた?」
ラウルの探るような目つきに、ルイスはローブのポケットを上からとんとんと叩いた。
「先にグリンゴッツへ行こう。学用品の費用と僕の薬代も少し引き出してこないと」
「昨日のお手紙はセブルスから? お金の催促だったの?」
「いらないと言われても、煎じるのにかかった材料費くらいは支払う甲斐性を見せるよ」それに、とラウルは苦笑する。「セブルスじゃなくて、スネイプ先生だよ、ルイス」
「何か変な感じ。セブルスがあたしの先生なんて」
「ルイスがスリザリンに入ってくれたら嬉しいんじゃないかな。手紙にそのような感じのことが書かれていたからね」
「別に、寮なんてどこに入っても変わらないでしょう? スリザリンでもハッフルパフでも、レイブンクローやグリフィンドールでもね」
「だけど僕としても、ぜひルイスにはスリザリンに入ってほしいな」
「あたしにそんなこと言われても」
困ると続ける前にトーストを口に入れたルイスは、うっすらとしかマーマレードの味をしないトーストを一瞥すると、もう少しだけジャムを塗る。ゆっくりと時間をかけて咀嚼しながら、最後は紅茶で喉を通した。
「ルイスの父さんはスリザリン。母さんはグリフィンドールで、僕もスリザリンだったけれど、君はどうかな」
そう言って目の前で微笑んでいるラウルは、そんな風に言いつつも、ルイスにはスリザリンに入ってほしいと思っているに違いなかった。しかしそんな様子はちらとも見せず、優美に紅茶を飲んでいる。
しかし、そんなラウルはどこかやつれて見えるし、いつでも痩せている不健康体だ。満月が近づけば体調は悪化し、具合が悪そうになる。ラウルは人狼だった。そのために、ラウルは満月前の一週間は続けて脱狼薬を飲まなければならず、それを飲んでいれば狼に姿を変えても、心だけは人間を保っていられた。有害な人狼もそれで無害となるものの、薬の副作用が体を蝕むのは否めない。
人狼になってしまうのは、二通りのが理由あった。ひとつは狼人間に噛み付かれた場合。そしてもうひとつが、親からの遺伝だ。ラウルの場合は後者で、父親が呪われた狼人間だった。
人狼は、世間一般に認められていない生物だ。ヒトでもなく、狼でもない。魔法省の何とかという女がおかしな法律を執行したせいで、更に世間の風が冷たくなったのだと、ラウルが言っていたのを思い出した。
そして、セブルス・スネイプというのは、ホグワーツ魔法魔術学校の魔法薬学の教授職に就いているラウルとルイスの友人で、その脱狼薬を煎じてくれている人物だった。ルイスは今年、その学校に入学予定だ。
「さてと、もう食べおわったね」
「え、もう行くの?」
「寝坊するのが悪いんだよ。さぁ、髪とローブをさっさと乾かして」
ラウルはポケットに突っ込んでいた杖を取り出し、ルイスの頭の上で軽く振ってみせた。すると、濡れていたローブと髪はみるみるうちに乾き、その名残で蒸気を上げた。
「先に行って、僕が行くまでじっとしていること」
「分かってる」
ルイスは湯気を振り払うように頭を振って肩を撫で、リビングにある暖炉に向かった。
暖炉は魔法使いや魔女たちの移動手段だ。魔法省によって煙突飛行ネットワークというものが組まれ、煙突飛行粉という粉を用いて、さまざまな場所へ移動することができるのだ。
手に少量の煙突飛行粉を取ると、ルイスはそれを足元に投げ付けながら「漏れ鍋!」と叫んだ。それだけで、目的の暖炉まであっという間だ。けれど、ルイスは実を言うとこの移動手段が好きではなかった。目的地へ到着するまでに体はあちこちにぶつけるし、向こうの暖炉から吐き出されると体中が煤だらけになっている。それ以上に、体が上下左右に引き伸ばされるような感覚が気持ち悪かった。
かといって姿現わしや姿くらましは一定の年齢にならなければ免許を取らせてもらえないし、箒にのって移動するにしても、マグルに見られでもしたら大変だ。それこそ、おとぎ話に登場する透明マントでも持っているのなら別だが。
「おっと!」
ルイスは想像どおり勢い良く暖炉から吐き出され、着地に失敗してその場に尻餅をついた。あいたたた、と腰を撫でながら涙目になったルイスは、大丈夫かい? と笑いながら差し出された手に掴まった。
「ごめんなさい、トム。ありがとう。もう少し待っていてくれる? ラウルも来るの」
トムというのは、この漏れ鍋というパブで働いている気のいいバーテンだ。
ここは昼間だというのに薄暗く、所々にランプの炎が灯っているだけだった。窓はほとんどない。イギリスでは有名らしいが、とても古びたパブだった。シェリー酒を飲み交わしている人、パイプをふかしている人、さまざまな人たちが静かな時間を過ごしている。カウンターに腰掛けている人が、トムに新しい酒を注文したがっていた。
「やぁ、トム」
身軽な様子で暖炉から出てきたラウルは、みごとにその場で着地を決め、ルイスのように尻を地面に着けるような失態は犯さなかった。彼の完ぺき主義はどこまでも貫かれているが、ただ唯一、魔法薬の調合だけが不得意だ。
ラウルは自分のローブにうっすらとついた煤を払い、トムに笑いかけた。
「君のところのルイスも、とうとうホグワーツに入学だね」
「そうなんだ。今日は学用品を揃えにね」
「ほう。ということは、ハリー・ポッターとは同級ってことになるな」
「ハリー・ポッター?」
ルイスの声とラウルの声が綺麗に重なった。互いに顔を見合わせ、それからトムに視線を戻す。
「ハリーって、あのハリー・ポッター?」
ラウルが目を丸くしてトムを見る。するとトムは少しだけ興奮したように鼻息を荒くして、目をぎらぎらと輝かせながら口を開いた。
「他にハリー・ポッターがいると思うかい? ついさっき、ハグリッドと二人でダイアゴン横丁へ入って行ったよ」
「へぇ。それじゃあ、どこかで会えるかもしれないね、ルイス」
すると今度は、トムとラウルの視線がルイスに注がれた。ルイスはハリー・ポッターよりもカウンターでトムに酒を注文し損ねている男の方が気になっていた。
「あたしは別に興味ないけれど。それよりもトム、彼が次のお酒を飲みたがっているみたい」
そう言ったルイスを、トムは驚いたように見つめていた。
ハリー・ポッターが何者なのか、それはルイスでも知っている。十年前のハロウィーンの夜に、一歳になったばかりの赤ん坊がヴォルデモート卿の手から生き延びた。それどころか呪いを弾き返し、たったひとつの傷跡が残っただけで済んだのだという。強力な悪の呪いにかけられた時にできる稲妻型の傷跡が、額にひとつだけ。その時に彼の両親は殺され、ハリー・ポッターに跳ね返された呪いで、ヴォルデモート卿は死んだといわれている。
確かにハリー・ポッターは偉大なことをしたのかもしれない。魔法界を覆っていた暗黒の時代を終わらせてくれたかもしれない。しかし、ルイスは自分には関係のない人物だと思い込んでいた。本人に会ったことがないというのが最大の理由だったが、たとえ会ったとしても、それほど興味を持てるとは思っていない。きっと、自分は有名なのだと、そのことを鼻に掛けて威張っているに違いないのだ。自分が魔法界を救ったのだと、偉大なことをしたのだと思い、つけあがっている。
ルイスには、そういう子が知り合いにいた。自分は純血だと威張り、混血を見下すような少年だ。家柄が全てだと、そう思い込んでいる。きっとハリー・ポッターもそんな人物に決まっていると、ルイスは何の根拠もなくそう思っていた。
「それより、早く買い物にいこう」
ルイスはラウルの手をひっぱり、トムに挨拶をしてから壁に囲まれた小さな中庭に向かった。ラウルは喉の奥でくつくつと笑いながら杖を取り出し、正面の煉瓦の壁を三度叩く。すると煉瓦はごうごうと音を立てて自動的に動き出し、アーチ型の入り口を作り上げた。
その先には、魔女や魔法使いが好んで集まってくる所以の華やかさが広がっていた。店が隙間なく所狭しと並び、魔法使いや魔女達の声が騒音となって耳に飛び込んでくる。
鍋屋、イーロップのふくろう百貨店、マダム・マルキンの洋装店やラウル行きつけのフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店。以前来たときと何も変わっていないこの場所が、ダイアゴン横丁だ。
「そうだ、入学のお祝いに何か買ってあげるよ。何がいい?」
グリンゴッツへ向かう道すがら、不意にラウルが言った。ルイスは隣を歩きながらラウルを見上げ、眉間に皺を寄せて困ったような表情を浮かべる。
「あたしは別に、何でも……」
うーんと唸り声をあげながらルイスは首を傾げた。何か欲しいものはないかと尋ねられても、すぐには思いつかない。
「ふくろうなんかは?」
「それで毎日手紙を書けとでも言うつもり?」
「まさか」ラウルはそう言って笑った。「でも、毎日とまでは言わないけれど手紙は書いてほしいな」
「そうね。うん。手紙は書くわ、できるだけね」
グリンゴッツ銀行はいつ来ても圧巻だった。外から見た建物は歪んで建っているために、見ていると少しだけ気分が悪くなる。けれど中に足を踏み入れると、そこは磨きたてられた大理石の床や豪華なシャンデリアがあったりと、高価な造りになっていた。
ここで働いているのは、そのほとんどが小鬼たちだ。彼らは勤勉で仕事熱心、そもそも金に並々ならぬ執着を見せるので、銀行を任せるにはうってつけだった。
「ジュリアードの金庫を。それから、僕の金庫にも寄ってくれ」
正面の受付まで歩いてくると、ラウルはカウンター越しにふたつの鍵を手渡した。
ひとつは非常に古く、くすんで黒く見えるがプラチナでできている鍵だ。小さな細工が施されていて、所々に宝飾がなされている。そしてもうひとつは何の変哲もない、鉄でできている細長い鍵だった。
「かしこまりました。では、こちらへ」
いつものことだったが、グリンゴッツのトロッコはたまらなく爽快な気分にさせられるとルイスは思った。あのスピードはスリルがあってたまらない。金庫からお金を引き出して戻ってきてからも、思わず小鬼に向かってもう一回と催促したくなったが、ラウルが面倒くさそうにそれを阻止した。
ルイスは巾着いっぱいの金貨をポケットに入れ、まずはマダム・マルキンの洋装店へ向かった。
「あら、ラウル。こんにちは」
店に入るとまず声をかけてきたのは、藤色ずくめの服を着た、にっこりと愛想のいい女の人だった。彼女がこの店の主人である、マダム・マルキンだ。
「こんにちは、マダム。ホグワーツの制服を頼みたいんだけど」
「まぁ、ルイスの制服ね! それなら任せておいて、あなたの服の寸法は熟知していますからね、ちょっとそこで待っていてちょうだい。整理番号のチケットを切ってくるわ」
「うん」
ルイスとラウルはいつもこの店でローブを新調しているため、他の子供たちのようにわざわざ制服の寸法を測る必要がなかった。面倒ごとが少なくなって良かったと思い機嫌が徐々に上昇してきたルイスだったが、店内に視線をさまよわせたときに嫌な人を見つけてしまい、浮上しかけていた気持ちが沈んでいくのを感じた。
青白い、少し尖った顎をしている男の子が、ちょうど丈を合わせ終えたのか踏み台から下りるところだった。ルイスは表情を押し隠して無視をしようとするものの、男の子が彼女に気がつき、自信に満ち溢れた笑みを浮かべて近づいてくるので、そうもいかなくなった。
「やぁ、ルイス」
「……こんにちは、ドラコ」
彼はドラコ・マルフォイだ。ルイスが考えていた、純血を鼻にかけて偉そうにしている嫌な子とは彼のことだった。
「あなたがひとりでいるなんて珍しいのね」
いつも父親や母親と一緒に行動していることが多いのに、今の彼はひとりでこの店内にいる。それを不思議に思っていると店のドアが、からんからん、と音をたてて開き、長身で細身の男性が入ってくるのを見た。ルシウス・マルフォイ、ドラコの父親だった。
「おや、ジュリアード。君も来ていたのか」
「ええ、Mr.マルフォイ。お久しぶりです」
「ということは、そちらにいらっしゃる美しい女性はMiss.ジュリアードかな」
そう言って店の隅で邪魔にならないよう立っていたルイスの元へ、マルフォイ氏が近づいてくる。ルイスは含みのある笑みを浮かべて自分を見ているマルフォイ氏を見上げ、できる限り愛想よく見えるようににこりと微笑んだ。
「こんにちは」
ルイスはドラコと同じように、この父親が少し苦手だった。何を考えているのか分からない笑みや表情が、不気味に見える。
「あなたも栄誉あるスリザリン寮に入れることを祈っていますよ、Miss.ジュリアード。あなたこそスリザリンに相応しい」
「……ありがとうございます」
マルフォイ家は代々スリザリン寮と決まっていた。対するジュリアード家は、代々どこの寮と決まっているわけではない。ジュリアードの直系を辿ってみると、父と祖母はスリザリンだと聞いているが、曾祖父はレイブンクローだったらしい。
「あなたのお父上は、非常に優秀で偉大な魔法使いだった。その愛娘なのだから、あなたは間違いなくスリザリンだ」
ルイスは曖昧に微笑んで、答えを有耶無耶にした。この親子と同じ寮に入ったら、この先のホグワーツ生活をずっと一緒に過ごすことになるのだろうか。それは嫌だ――ルイスは素直にそう思った。
「ときにジュリアード」マルフォイ氏は笑顔から一変し、急に冷ややかな表情をラウルに向けた。「満月が迫っているが、薬は欠かさず飲んでいるのだろうね」
「ええ、ご心配なく」
「それは結構。ではMiss.ジュリアード、またお会いしましょう。ドラコ、行くぞ」
店から出でいく背中を見ながら、ドラコはちらりとルイスとラウルを盗み見るが、すぐに父親の後を追って出て行った。するとすぐにマダム・マルキンが制服の受け渡し整理券を切って戻ってきたが、ルイスはそれでもドアの向こう側をじっと睨みつけていた。
「何なの、あの親子は」
そう言ってぷんぷん怒っているルイスの横で、ラウルはその様子を苦笑して見ていた。
「当然の反応だよ、ルイス。ルイスにスリザリンへ入ってほしがるのも、人狼に対する偏見もね」
「ラウルは好きで狼人間になったわけじゃないでしょう? ましてや、自分の不注意でもない。遺伝なんだから」
「ルイスのように考えられるような人ばかりではないってことだよ。君のように考えられるほうが稀なのさ」
そう言って自嘲的に微笑むラウルを軽く睨み付けて、ルイスは憤慨した。
「だって、漏れ鍋のトムやマダム・マルキンはあんな態度をとらないわ。教養のある人は、あんな風に言ったりしない。ねぇ、マダム?」
突然同意を求められたマダム・マルキンは、整理券をラウルに渡しながらきょとんと目を丸くしている。ラウルは何でもないと首を横に振り、礼を言うとルイスを店の外に連れ出した。
「そうやって僕の代わりに怒ってくれるのは嬉しいけど、怒った顔は可愛らしくないよ」
「元々こういう顔なの、ごめんなさいね」
そうしてルイスが口を尖らせるのを見て、ラウルは笑った。
「さあ、機嫌を直して。まだまだ買わなければならないものがたくさんあるからね」
マダム・マルキンの洋装店を離れると、すぐ隣にあるフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店でリストに記されていた教科書を揃えた。その先の鍋屋にも行き、鍋を買うとその中に買ったばかりの本を放る。イーロップのふくろう百貨店の前を通りかかると「あれ?」という声とともに、ラウルは足を止めた。
「どうしたの?」
「いや。さっき、ここに綺麗な白ふくろうがいたんだ。ルイスにどうかなって思っていたんだけど」
「きっと、他の人に買われてしまったんじゃない」
「ふくろうは欲しくない?」
「欲しいわ。欲しいけど、別に白いふくろうが欲しいわけじゃないもの」
買い物リストを眺め、杖の他に買い残しがないかを確かめながらルイスは言った。だから「オリバンダーのところで杖を買ったら、アイスクリームを食べようか」というラウルの提案ですら、ルイスは聞き逃していた。
グリンゴッツ銀行の少し先にあるオリバンダーの店へ行くのは、思った以上に大変だった。学用品を揃えるホグワーツの学生も多く見られ、その他にも道端で話し込んでいる魔女たちの間を縫うように歩くのは、予想以上に労力を必要とした。
それなので、オリバンダーの店へ辿り着く頃には、ルイスはすでに疲れ切ってしまっていた。
「ルイス、大丈夫かい?」
「大丈夫」
ほとんど反射的に出た言葉に、ルイス自身がうんざりとした。どうやらまたヒトに酔ってしまったらしいと感じながら、ラウルの後ろに付いて店の中に足を踏み入れる。
「こんにちは」
オリバンダーの店――紀元前三八二年創業、高級杖メーカーという文字が書かれている扉を見て、どこか胡散臭いと思う。ちりんちりんと小さくベルの音が響いたが、ルイスには杖どころか黒い壁が見えるだけで、他には何も見えなかった。まさか、今自分が潜った扉は騙し扉ではないだろうか。古びていたし、まさにそれっぽい。ルイスはそう思ったが、そんな馬鹿げた思考はすぐに消え去った。
「やぁ、ハグリッド。悪いけど、そこを退いてもらえないかい?」
ルイスが壁だと思っていたのは、実は人の背中だったのだと、やっと今理解した。ルイスは目をぱちくりさせて頭上を振り仰ぎ、ラウルの声に振り返った男の顔をまじまじと見る。その男はひげもじゃの顔いっぱいに、太陽のような明るい笑顔を浮かべていた。
「おお、ラウルじゃねぇか。お前さん、こんなところで何しちょる」
「ルイスの杖を買いにきたんだよ。この子も今年からホグワーツでね」
ルイスの肩に手を置き、店の奥へ誘導しながらラウルが答えた。
ハグリッドと呼ばれた男に向かっていたルイスの目も、今や彼から逸れ、カウンターの前で杖を握っている男の子の方に向けられていた。
「ルイス、こちらルビウス・ハグリッドだ。ホグワーツで森の番人をしているんだよ」
「おれが最後に見たときは、まだこんなにちぃちゃな赤ん坊じゃったが」こんなに、と言って親指と人差し指を広げて見せたが、まさかそんなに小さいはずがない。「大きくなったもんだなぁ」
「こんにちは、ハグリッド」
ルイスはにこりと微笑んでハグリッドを見上げ、小さな手を差し出した。するとハグリッドは見た目よりもずっと優しくルイスの手を握り返し、嬉しそうに笑う。それからすぐにカウンターへ目を走らせたルイスは、そこに立っている男の子に視線を戻した。
男の子は不思議なものでも見るようにしてルイスを見ていたが、ばちっと目が合うと、困惑の表情を隠そうともしなかった。ルイスには既に、その男の子が何者なのかが分かっていた。
「おお、紹介せんとな」ハグリッドはまるで、自分の自慢の息子を紹介するかのような口振りだった。「ハリーだ。ハリー・ポッター。今年からお前さんと同じホグワーツへ行く」
「よ、よろしく、えっと――」
「ルイス。ルイス・ジュリアードよ。よろしく、ハリー」
ルイスは差し出された手を握り、ぎこちなく笑うハリーの顔を見て曖昧に微笑んだ。
彼女は、ハリー・ポッターが自分の想像とはあまりにかけ離れた容姿をしていたので、柄にもなく驚いていた。ルイスはドラコ・マルフォイのように高飛車で傲慢そうな、それでいて天狗になっている男の子を想像していたのだ。
それなのに、目の前に立っている男の子は、体に合っていないぶかぶかの洋服を着ていて、小柄で痩せている。あちこちに跳ねた黒い髪に、グリーンの印象的で綺麗な瞳をしていた。それに丸い眼鏡を掛けていたが、それには透明なテープで補強したあとが見られた。額には噂どおり稲妻型の傷があったが、ルイスはじろじろと見ようとはしなかった。
「もう買い物は済んだの?」
「あ、うん。杖で最後だったんだ」
「そう。あたしも杖で最後なの。あれ? そのふくろう、あなたの?」
「うん。さっき、ハグリッドが誕生日プレゼントに買ってくれたんだ」
ルイスがそのふくろうと言って指を差したのは、ちょうど扉の脇に置いてある鳥かごの中でほうほうと鳴いている、白いふくろうだ。多分、ラウルが狙っていたふくろうに違いない。ハグリッドと話し込んでいたラウルもそのふくろうの存在に気が付いたようだったが、「自分が買おうと思っていた」などと無粋なことは一言も口にしなかった。
「さて、お話の最中に申し訳ないですがね、ルイス・ジュリアードさん」
それぞれが話しているところを遮って、オリバンダーが店の奥から滑るようにして現れた。彼は年老いたしわがれた声で言い、意味深な眼差しでルイスを見つめた。
「あなたは血筋からしてこの杖がいいでしょう。いやいや任せてください、私の目に狂いはないはずです」
いつの間にルイスの周りをふわふわと浮遊していた巻き尺は、彼女の全身の寸法を測り終えたらしい。ハリーは自分も同じように測られただろうに、とても不思議そうな顔で巻尺を観察している。それを無視したオリバンダーは巻尺を仕舞ってしまい、ルイスに向かって一本の杖を差し出した。
「マホガニーにユニコーンの毛、二十八センチ」
そうして渡された杖にルイスがほんの少し触れただけで、杖先からは花火のように綺麗な光が溢れだした。杖腕を持ち上げるとそれが流星のように弧を描いて地面に落ち、床にきらきらと星屑を散らした。
「素晴らしい!」そう言ったオリバンダーを見上げると、彼は嬉しそうににっこりと微笑んでいた。「やはりぴったりじゃった。希にこういうことがあるのですよ、私も時々ですが勘が冴える。変身術に適した杖じゃが、臨機応変に性質を変える。自由気ままで気まぐれな杖です」
「僕の杖も変身術に長けていると言われたな」
ラウルの声が後ろから聞こえた。
「うむ、覚えておりますぞ。あなた方の血筋では、変身術に長けた魔法使いが多いので、そうじゃと思っておりました」
「全部? 売った杖を全部覚えているの?」
「いかにも。わしは自分で作り、売った杖は全て覚えております。ポッターさんにはさっき話したが――」
ルイスとラウルは何となく話が長くなるのではないかというような気がして、思わず顔を見合わせた。しかし、オリバンダーは思い直したように軽く咳払いをすると「お二人とも、杖は七ガリオンです」と言い、支払いを促す。それなので、四人はすぐに店を出ることができた。
「ルイスはこれからどうするの?」
漏れ鍋に向かっている道を辿りながら、隣を歩くハリーがルイスに問いかけた。ルイスは返答に困り振り返るが、ラウルはまだハグリッドと話し込んでいるようだ。彼女は首を左右に振る。
「あの様子じゃ分からないかな。ハリーは?」
「僕? 僕は、えっと、その。家に帰るんだ。マグルの家に」
「マグル?」
「うん。実は僕、自分が魔法使いだって今日初めて知ったんだ。ハグリッドがホグワーツからの手紙を届けにきてくれて」
「じゃあ、ハリーは今までずっとマグルのところで暮らしていたの?」
「そう、そうなんだ。だから変な感じだよ。夢のなかにいるみたい。それに君や他の皆は魔法のことに詳しいかもしれないけど、僕、なんにも知らないんだ」
ルイスはハリーの不安そうな横顔を眺めながら、自分の考えを改めなければいけないと思い始めていた。ハリー・ポッターには、今までずっと悪い印象しか抱いていなかった。高飛車で傲慢、自分は偉大だと鼻にかけて天狗になっているドラコ・マルフォイのような男の子。ずっと、そう思ってきた。
けれど、今隣を歩いている男の子は、まるで自分に自信がなく、迷路に迷い込んで出口がどこにあるのか分からないとでも言いたげな、不安に満ちた顔をしている。決して自分を偉大だなどとは思っておらず、人一倍の不安を、その小さな体に抱え込んでいるのだ。
ルイスは小さく笑い、今までのハリー・ポッターのイメージを吹き飛ばした。彼女は、この男の子を好きになれそうな気がしていた。
「大丈夫。そんなに不安がる必要はないよ。だって、マグル生まれの魔法使いや魔女はたくさんいるし、皆がホグワーツで一から勉強するのだから。生まれや家柄なんて、気にすることない。マグル生まれの人だって、きっと優秀な人はたくさんいるわ」
ルイスがそう言って笑うと、ハリーも少し安心した様子で、にこりと笑った。彼女には少なくとも、ハリーとはドラコ以上に仲良くなれるだろうという確信があった。