この休暇中も、ルイス・ジュリアードは学校の宿題を終えるのにそれほどの時間は必要なかった。その他は例のごとく地下室にこもって、本ばかり読み耽っていた。
より高度な変身術、動物もどきによる動物もどきの本、それから幻の生物全集を近くの机に積み上げ、順番に読んでいるところだった。
「またここにいたのか、ルイス。そんなにこもっていると目を悪くするよ」
「うん。でも、もう少しだから」
「何を見ているの?」
ラウルが杖明かりを灯して近づいてきた。ルイスは一瞬どきっとして本の山を一瞥したが、すぐに目の前の本に目を戻した。
「ホグワーツの馬車を引いている馬みたいなあれ、何だろうと思って」
「ああ、セストラルのことか」
「セストラル?」
ルイスがきょとんとして見上げると、ラウルは少し困った表情でこちらを見た。それから、ルイスの持っていた本を取り上げると、ページを目で追って何かを探しはじめる。
「あった、これだよ」
ラウルはそのページを開いてルイスに差し出した。挿し絵は、ホグワーツで馬車を牽いている生き物そのもので、思わず背筋がぞくりと震えた。
「セストラルといって、死を見たことのある者にしか目にすることのできない生物だよ。魔法省は危険生物に分類しているけど、とても賢い生物でね、そういえば、セストラルならこの森にも棲んでいたはずだ」
「ここに?」
「この屋敷からは離れた場所で群れを組んでいるみたいだから、ほとんど見かけることはないね。会いたいならフェリオに聞いてみるといい」
本当に森にあのセストラルがいるのかどうかも疑問だったが、さらに疑問だったのは、ルイス自身が誰かの死を目撃しているということだった。覚えているかぎりでは、死を間近に見たことなど一度もない。
「ラウル、あたし――」
「変身術で何か宿題でも出たの? 動物もどきの本をこんなに積み上げて」
ラウルはそれらの本とルイスの顔を交互に見比べて、目を丸くした。今のルイスにはその行為が、セストラルから話を逸らそうとしているように思えてならなかった。
「うん」
ルイスは何も言わずにこくんと頷いた。動物もどきのことをいろいろ隠れて調べていることが露見するよりも、今はルイスが一体誰の死を目撃したのかを知ることのほうが重要だった。
「ねえ、ラウル」
本を読むならリビングに上がってきなさいと言って背を向けたラウルを、ルイスは思わず呼び止めていた。
「なに?」
「ラウルも――ラウルにも、セストラルは見えるの?」
「見えるよ」ラウルは真っすぐにルイスを見つめ、何気ない口振りで答えた。「ホグワーツの最終学年のときに、はじめて見たんだ」
ラウルはそう言い残すと、今度こそ本当にルイスに背を向けて階段を上っていってしまった。
ラウルがホグワーツの最終学年のとき――それは、ルイスが生まれたばかりの頃だ。ラウルは誰の死を見たのだろう。その時はまだ、ヴォルデモート卿が支配していた時代――いや、ハリーがヴォルデモート卿の呪いを打ち破った頃だ。そしてハリーの両親が――ルイスの両親も――それと同じ頃に死んでいる。
しかし、その時代は、何人もの人たちが命を落としているはずだ。ハリーやルイスの親ばかりでなく、もっと他にも、多くの人々が。
ルイスは棚から取り出した本を次々に棚へ戻しながら、頭の隅の方でそのようなことをぐるぐると考えていた。
「読書は終わり?」
何も持たずに階段を上ってきたルイスを見て、リビングのソファに座ってお茶をしていたリーマスが言った。その向かい側では、相変わらずラウルが本を読み耽っている。
「うん。あたし、ちょっとフェリオのところに行ってくる」
ルイスがそう言って、そのまま窓から外へ出て行こうとするのを見て、本から顔を上げたラウルがほんの少し眉間に皺を寄せた。
「森に行くのはいいけど、まさかその格好のままで出ていくつもりじゃないだろうね? もうすぐ学校なのに、風邪を引くよ。僕のマントでもいいから羽織っていきなさい」
ラウルはそう言うと、ソファの背凭れにかけていた黒いマントを放った。ルイスはそれを胸の前で掴み取ると、それを大人しく肩から羽織る。いつものように、それは地面を引き摺るほど大きかった。
「行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
ラウルは事もなげに手をひらひらと振り、いつの間にかまた視線を本へ戻している。そこからリーマスに目を向けると、ちょうど目が合った。最初、リーマスはきょとんとした表情を浮かべていたが、次の瞬間にはにこりと笑みを浮かべると、気を付けて行っておいで、と言って、ルイスを送り出した。初めのうちは森に出掛けていくルイスを心配そうに見送っていたが、今ではもう慣れてしまったようで、それほど心配することはしなくなった。
「こんにちは、フェリオ」
森に少し入ったところで、フェリオはルイスを待っていた。このところ、ルイスは毎日のように森へ通っていたので、大体この時間帯になると、フェリオは森の出入口付近で待っていてくれた。首からはルイスがクリスマスに贈ったサファイアのペンダントを下げている。
ルイスとフェリオは並んで森のなかを歩きながら、他愛ない話ばかりをした。学校の生活がどうだとか、森の様子はどうだとか、互いにとってはほとんど関係のない話なのに、ふたりはそれぞれの話に耳を傾けていた。
「冬じゃなかったらな。夜は寒くて、外に出ようとするとラウルがいい顔をしないから、星が見られなくて残念」
相変わらず火星は赤々と輝いているそうだ。不吉だった。ヴォルデモート卿は賢者の石事件以降もどこかで潜伏をして、力を貯えているに違いない。考えたくもなかったが、ヴォルデモート卿が死んでいないのなら、そういうことになるだろう。
「あ、そうだ。フェリオに聞きたいことがあったの」
ルイスが思い出したように言うと、隣を歩いているフェリオがこちらを見下ろした。ふたりの足は、もうジュリアード家の屋敷の方に向かっている。
「聞きたいこと、ですか?」
「この森にはセストラルがいるってラウルから聞いたのだけれど」
「セストラルの群れなら、森の奥地に何組かあります。それが何か?」
「ホグワーツの馬車をね、セストラルが引いていて、あたし、セストラルという生物を知らなかったからびっくりして、それに――」ラウルのマントを引っ張ると、音をたてて雪が地面に落ちた。「セストラルが見えるのは、死を目にしたことのある者だけだと言っていたし、本にもそう書いてあった。あたしにはセストラルが見えるけど、誰の死も見た覚えがないの」
本当は、ただ忘れているだけなのかもしれないけど――ルイスがそう続けたとき、フェリオは少し難しい顔をして前を見据えていた。
「ラウル・ジュリアードは何と言っていましたか?」
「ラウル? ううん、なにも。だけど、自分がセストラルを初めて見たのはホグワーツの七年生のときだったって」
「七年……?」
「今から十一年くらい前かな。あたしが生まれたばかりの頃だから」
すると、何故かフェリオの表情が一層険しくなり、セブルス顔負けの皺が眉間に寄った。ルイスはそれを見てぎょっとするものの、フェリオが何かを知っているのではないかと感じた。
「ねえ、フェリオ。何か知っている?」
フェリオはその表情のままルイスを見た。フェリオの目は、知っているけど言いたくない、そう物語っているようだった。
「彼はあなたにそう伝えただけなのですか?」
「うん、そうだけれど」
「では、私の口から話すことはできない。話は、彼から聞いてください」
「ラウルに教えてくれるつもりがあるのなら、最初からあんな回りくどい言い方をしないと思うけど」
結局、それ以上フェリオからは何も聞き出せないまま、あっという間にクリスマス休暇は終わってしまった。
明日から学校だという日の夜、ルイスはトランクのなかに荷物を詰め込み、忘れ物がないかどうかを確かめてからベッドに入った。そして微睡む意識のなかで、どこか懐かしいと感じられる夢を見た。
ベッドで横になっているルイスを覗き込む目。身体を包むやけにリアルな黒いふわふわとした手触り。触ると暖かそうな赤毛。クルクルと跳ねた黒髪。優しく抱かれている感覚。夢のなかで眠る自分。夢のなかで夢を見て、それがとても幸せだった。
「ほら、見て。笑っているよ」
「きっといい夢を見ているのね」
「さあ、よく眠るといい。夢の出口で待っているからね」
誰の声かも分からない声が、耳元で囁いていた。夢のなかのルイスは目を閉じ、その声と共に意識をすとんと手放した。
そして、次に目を開けると、現実の朝がそこには広がっていた。
「……ゆ、め?」
ルイスは眠い目を擦りながら、ベッドの上で寝返りをうった。眠っていたはずなのに、どういうわけか前日に溜まった身体の疲れが抜け切っていない。それどころか、寝る前よりもずっと疲れが溜まっているような気さえしていた。
「あの夢……」
全体的に靄のかかった夢だった。人が出てきたはずなのに、まるで顔を覚えていない。知っている人たちのようでもあったが、思い出そうとすればするほど、夢の内容はどんどん忘れていく。ただ、最後に聞いた声と言葉だけが耳について離れなかった。
聞いたことのない声のはずなのに、どこか懐かしい。
「ルイス! 早く起きないと糞爆弾を――って、起きていたの?」
騒々しい足音が近づいてきたかと思うと、かけていたはずの鍵をいとも容易く開けられ、片手には杖を、そしてもう片方の手には、本当に糞爆弾を持っているラウルが、部屋のなかに入ってきた。
「……ノックくらいしたら?」
仮にも妹だからといって、ここは女の子の部屋だと思いながら、ルイスは小さく息を吐いた。
「そんなこと言って、いつだってノックの意味なんてないじゃないか」
「意味とかじゃなくて、一応礼儀としてね」
「礼儀、ね。それにしても残念だな。ルイスが起きていなかったら、今日こそ糞爆弾を投下しようと思っていたのに」
ラウルがそう言うと、まるで冗談に聞こえないから嫌なのだ。ルイスはベッドからのろのろと降りて、クローゼットのなかからマグルの服を取り出した。ローブにマントという出で立ちで地下鉄になど乗ったら、間違いなく怪しまれてしまう。
「ルイス、どうした? 気分でも悪い?」
寝不足気味のときに見せる表情に加え、顔色も少し悪いルイスを見て、ラウルは態度を一変させて心配そうに言った。
「ううん、大丈夫。少し変な夢を見ただけだから」
「変な夢?」
「うーん、夢自体は全然変ではなかったけれど、何ていうか、とにかく変なの。たくさん寝たせいで余計に疲れた感じがするのかもしれない」
ルイスはそう言いながら、ラウルを部屋の外へ押し出した。着替えていると、こつこつと硬い何かで突くような音が聞こえ、後ろを振り返る。すると、窓の外でルナが羽をばたつかせながら觜で窓を突いているのが見えた。
「おはよう、ルナ。今日はちゃんと帰ってきてくれたのね」
ルイスが窓を開けてやると、ルナはすうっと部屋のなかに入ってきて、ホグワーツのトランクの上に降り立った。隣に置いてある鳥かごを見て、ルナはどこか嫌そうに鳴いた。
「まだ入らなくていいよ。あなたがそうしたいなら、ひとりで学校に戻っても構わないし」柔らかな羽を優しく撫でてやると、ルナは気持ち良さそうに目を細めた。「というか、そうした方がいいかもね。煙突飛行もしないで済むでしょう?」
そうしたら? とルイスが言うと、ルナは返事の代わりに羽を優しく撫でていた指先を軽く突き、そっと甘噛みした。
ルイスは重いトランクを引きずり、ルナは一足早く羽をはばたかせてリビングに降りていった。朝食の香りが鼻につき、それでもまるで食欲が湧いてこない。
「おはよう、ルイス」
ルイスが降りてくるのを待ち構えていたように、リーマスが紅茶を入れてくれた。ダイニングテーブルに座って紅茶を受け取ると、その向かい側にリーマスが腰を下ろした。
「おはよう」
ルイスがそう言って笑うと、リーマスも少し遅れてにこりとしたが、それから少し不思議そうに首を傾げた。
「大丈夫かい? 顔色が悪いようだけど」
「うん、大丈夫」
病は気からというのに、ラウルもリーマスも、あまりそのようなことを言わないで欲しいとルイスは思った。リーマスの入れてくれた紅茶を啜りながら、思わず苦笑する。
「少し寝不足なんだと思う。大したことはないから、心配しないで」
それは別に我慢をしているわけでも何でもなく、時間が過ぎるにつれて頭はすっきりとし、物事をはっきり捉えられるようになってきていた。まだ少し身体が重く感じられてはいたが、それももう少しで治まるだろう。
「さて、と。ルイス、そろそろ行こうか」
ソファに座って読み物をしていたラウルがぱたんと本を閉じ、時計に目をやって時刻を確認すると立ち上がった。ルイスも丁度紅茶を飲み終えたところだったので、すぐに椅子から降りてリビングに向かう。
ルイスがトランクだけしか持っていないのを見て、ラウルは首を傾げた。
「ルナは?」
「ホグワーツまで飛んでいってもらおうと思って。煙突飛行とか地下鉄とか、ルナも嫌いだから。それに、籠だって案外荷物になるでしょう?」
ルイスが暖炉のなかにトランクを詰め込みながらそう言うと、それを後ろから見ていたラウルが、まぁね、と言って、暖炉のなかにトランクを詰め込むのを手伝ってくれた。
「リーマス、あとでルナを外へ出してくれる?」
「ああ、いいよ」
「ありがとう」
ルイスは煙突飛行粉を一掴み手に取り、もう片方の手でトランクの把手をしっかりと掴んだ。息を吸い、息を吐き、呼吸を整えてから、ダイアゴン横丁! と叫ぶ。
あちらへ引っ張られ、こちらへ引っ張られるような不快な感覚を散々味わったあと、ルイスはダイアゴン横丁にある漏れ鍋の暖炉から吐き出された。トランクと一緒に床に転がり、床に打ちつけた腰を撫でながらその場に立ち上がる。運良くトムがカウンターの内側にはいなかったので、その無様な姿を見られることはなかった。
「やあ、ルイス。ホグワーツに戻るのかい?」
「うん、そう。どうもありがとう」
トムがトランクを起こしてくれたので礼を言うと、ちょうど後ろの暖炉からラウルがひょっこりと現れたところだった。
「やあ、トム」
今日ばかりはどういうわけか、マグルの視線をほとんど感じることがなかった。ふくろうを連れているのといないのとでは、地下鉄で向けられる眼差しがまるで違うようだ。大きなトランクを引っ張ってキングズ・クロス駅方面に向かっているので、それほど怪しまれないのだろう。
キングズ・クロス駅までは、ラウルがトランクを運んでくれた。ルイスはその隣を並んで歩き、自分がとても複雑な気分に染められていくのを感じていた。学校に戻って、ハリー、ロン、ハーマイオニーたちに会えることは素直に嬉しかった。しかし、学校に戻り、また闇の魔法使いがどうとかという噂を耳にするのかと思うと、とてもうんざりとしてしまう。
重い足を引きずるようにして歩いていると、ラウルはルイスの背中を押して、もう少し早く歩くようにと急かした。九と四分の三番線の入り口である柵を通り抜けると、深紅の蒸気機関車が線路の上に止まり、ホームにはホグワーツ生やその保護者たちで溢れ返っている。ざわざわと騒がしいが、出発までにはまだ時間があった。
「ルイス」
人の間を縫うようにして進み、人気の少ないところまで引っ張られていくと、その場に屈んだラウルはルイスと視線を同じくした。両手を肩に置き、何故か心底心配そうに、ルイスの顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫? 汽車のなかではゆっくり休んでいたほうがいい」
「そんなに気分悪そう?」
「さっきより顔色が悪いよ。それに、とても冷たい」ラウルはルイスの頬に軽く触れ、ぎょっとしてそう言った。「ねえ、ルイス。夢って、一体どんな夢だった?」
なぜ今になってそんなことを聞くのだろう。ルイスはそう不思議に思ったが、ラウルがあまりに真剣な顔をして問うので、今朝見た夢を必死に思い出そうとした。
「何か、とても懐かしい夢だったような気がしたの。よく覚えてはいないのだけれど、誰かの目があたしの顔を覗き込んでいて、他にも誰かがいたような気がする。それから、声が」
「声?」
「うん。それだけはよく覚えている。夢の出口で待っているからねって、そう言っていた」
ラウルはそう言ったルイスを見て、複雑そうな顔をした。
「ルイス」
「どうしたの?」
「多分……多分だけど、それは夢じゃない」
「え? 夢じゃないって、どういうこと?」
だけど、いや、でも、というようなことばかりをラウルはぶつぶつと呟き続け、ルイスが何を言おうと聞いてはいないようだ。
「あ、いたいた。ルイス!」呼ばれた声にルイスが振り返ると、そこにはリー・ジョーダンが立っていた。「探していたんだ。僕は大丈夫だって言ったんだけど、アンジェリーナたちが探してこいって」
「わざわざありがとう。すぐ行くから、ちょっと待っていてくれる?」
一瞬このままラウルを置いて行ってしまおうかとも思ったが、それではあまりに薄情だったし、こんなにも自分を心配してくれている人の前から湯気のように蒸発してしまったら、ラウルはどうなってしまうか分からない。
「……あの、ラウル?」
「ルイス!」
急に大きな声で呼ぶので、ルイスはびくりと肩を震わせる。リーは少し離れたところで、ふたりの様子を不思議そうに見ていた。
「な、何?」
「次に同じような、その夢のようなものを見たら、すぐにセブルスかダンブルドアのところへ行きなさい。絶対だよ。それから、あまり無理をしないように。僕はすぐに帰らないと」
そう言うが早いか、ラウルはルイスの頬に軽くキスをすると、すぐさま姿くらましをして、帰っていってしまった。
「どうしたっていうの?」
ルイスが頭を振って、今までラウルがいたはずの空間を見つめていると、すぐ近くまでリーが歩み寄ってきた。
「今の人は?」
「あたしの兄だけど、何か急な用事を思い出したみたい」
「兄さん? 何だ、ルイスのパパかと思ったよ」
「パ――」
また間違われたということを本人に話したら、ラウルはどういう顔をするだろう。ルイスはそう思いながら苦笑を浮かべ、トランクをがらがらと引っ張ってリーたちのコンパートメントに向かった。
しかし、ラウルにあれほど言われたせいか、それとも元々の理由か、ルイスの気分はとにかく悪くなる一方で、ラウルの言い付けという理由以前に、コンパートメントでは横にならなくては我慢できないほど具合が悪くなりはじめていた。
「ルイス、大丈夫?」
ケイティがとても心配そうに言うので、ルイスはなるべく心配をさせまいと、気楽な感じでひらひらと手を振り、曖昧に微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから、寝ればよくなるよ」
ルイスは自分でも何となく、これは寝不足などという単純な問題ではないと理解しはじめていた。気分は酷く悪いのに、何故か頭だけは鮮明で、どこか気味が悪い。目を閉じると世界がぐらぐらとしていて、海の上で荒波にでも揉まれているような気分になった。足や手の指先からどんどん熱が奪われて、コンパートメント内は暖かいはずなのに、指先は凍えるように冷たい。
ルイスは自分でも、小刻みに震えているのが分かるくらいの悪寒を感じ、腰掛けのうえに足を乗せ、両腕でしっかり胸の前に膝を抱き寄せた。
「……寒い」
頭では分かっているのに、それ以上身体は動いてくれなかった。金縛りにあったかのように身体が硬直して、思うようにならない。頭の上からずしりと重たい物がのしかかっているようで、余計に気分が悪かった。
おかしいな、本当に困った――そう思っていると、どこか遠くの方で誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが、ルイスにはそれが誰の悲鳴なのかすら分からなかった。目を開けて確かめる前に、ルイスのなかでかろうじて繋ぎ止められていた意識が、ぷっつりと一瞬にして暗転した。