翌日、目を覚ますと自分以外のベッドがすべてもぬけの殻になっているのを目の当たりにして、ルイスはせっかく起こした頭を再び枕に沈めた。その状態のまま時計に目をやると、本来であればもう既に朝食に降りている時間帯だ。ハーマイオニーは今日も起こしてくれなかったようだと思いながら、ルイスはいつものようにのろのろと制服に着替えた。黒髪を手櫛で撫で付けながら談話室へ降りていくと、肖像画の裏の穴が開き、ハリー、ロン、ハーマイオニーが談話室のなかに入ってくるところだった。
「おはよう、みんな。ハーマイオニー、どうして起こしてくれなかったの?」
欠伸を噛み殺しながら問うと、ハーマイオニーは呆れてルイスを見た。
「何を言っているの? ちゃんと起こしたわよ。それなのに、あなたったら――」
「ハーマイオニー、その話はまたあとだ。そんなことより、ルイスに話したいことがあるんだよ」
そう言って談話室内を見回したハリーは、暖炉前の特等席に誰もいないのを確認してから、ルイスを手招いてソファに腰を下ろした。何の話だろうと思いながら移動をし、ルイスもひとり掛けの肘掛け椅子に座ると、神妙な面持ちを浮かべている三人を順番に見る。
「リドルの日記があるだろう?」ハリーが言った。「昨日、何か分からないかと思って部屋に戻ったあと、ひとりでもっとよく調べてみたんだ。それで、何か書いてみようと思って、僕はハリー・ポッターですって書いたんだよ」
「本当に? 日記に自己紹介をしたの?」
寝起きの上手く働かない頭ではそれが軽い冗談だとしか思えず、ルイスはくすくすと笑ってしまう。だが、三人はその様子を目の当たりにすると、不快そうに顔を顰めた。
「笑い事じゃないよ! そうしたら僕の書いた文字が吸い込まれるように消えて、代わりの文字が浮かび上がってきたんだ。こんにちは、ハリー・ポッター。僕はトム・リドルです。君はこの日記をどのようにして見つけたのですか、って」
ハリーが最後まで言い終える前にルイスの笑いは収まり、三人の友人たちと同様に厳しい面差しになった。
「それから、秘密の部屋のことだ。僕が何か知らないかと聞いたら、色々教えてくれたよ。リドルが五年生だった時に、秘密の部屋が開かれて、そのときに女子生徒がひとり殺されたと言っていた。リドルは部屋を開けた犯人を捕まえたから、当時の校長先生にホグワーツ特別功労賞を与えられる代わりに、すべてに口を閉ざすように言われたって」
「ハリー、それを全部日記が語ったの?」
「そうだよ。それからリドルは日記に封じた記憶を見せてくれた。僕、この目で見てきたんだ。五十年前に秘密の部屋を開けたのは、あのハグリッドだったんだよ!」
ルイスはハグリッドが秘密の部屋を開けたのだと聞かされたことよりも、その前の、日記に封じた記憶、という言葉に驚いていた。そうして愕然としているのを見て、ロンとハーマイオニーは何を勘違いしたのか、驚くのは無理もないという顔をした。
「ハグリッドは巨大な毛むくじゃらの怪物と一緒にいたんだ。ぎらぎら光るたくさんの目があって、それから、足もたくさんあった。剃刀みたいな鋭い牙で――」
「だけど、リドルは犯人を間違えたのかもしれないわ。みんなを襲ったのは別の怪物だったかもしれないじゃないの」
「ハグリッドがホグワーツから追放されたことは、前々から知っていたよ。それに、ハグリッドが追い出されてからは、誰も襲われなくなったに違いない。そうじゃなければ、リドルが表彰されることはなかったはずだ」
ルイスは三人の会話を聞いてはいたが、右の耳から入って左の耳に抜けていくような感じがして、まったくといっていいほど内容が入ってくることはなかった。
ハグリッドが五十年前に秘密の部屋を開けたとは到底思えなかったし、もしそうだとしても、五十年たった今、再び部屋を開けてハリーを困らせることなど、もっとありえないだろうと思った。ハグリッドが部屋の場所を知っているのなら、間違いなくその場所をダンブルドアに教えるはずだ。ルイスにはその確信があった。
それよりも問題はトム・リドルの日記だとルイスは思った。自分の記憶を日記に封じるなど、かなり高度な魔法だ。しかもそれは、ほぼ間違いなく闇の魔術に部類されるものだろう。詳しいことは分からないが、そういう書物を以前に読んだことがあった。
「リドルってパーシーそっくりだ。何かちょっとでも規則に触れるようなことを知ったら、それを告げ口しないではいられないんだから。そもそも、ハグリッドを密告しろなんて誰が頼んだ?」
「ロン、それでも誰かが怪物に襲われたことは確かなのよ」
「それに、もしホグワーツが閉鎖されるようなことになれば、リドルはマグルの孤児院に戻らなくてはならなかったんだ。僕にはリドルがここに残りたがった気持ちがよく分かるよ」
三人は自分たちの話に夢中で、何も言わずに考え込んでいるルイスになど目もくれようとしない。だが、ルイスにはハグリッドより、トム・リドルのほうがずっと気がかりで、重要だった。
「そんなに気になるなら、ハグリッドのところに行って聞いてみたら?」
ルイスがしれっとしてそう言うと、三人はようやくこちらを向いた。各々の表情は酷く驚いているようだった。
「そんなことできると思うか?」ロンが言った。「やあ、ハグリッド。ちょっと聞きたいことがあるんだ。最近城の中で毛むくじゃらの狂った怪物を誰かにけしかけなかった――? もし本当にハグリッドが犯人だったら、僕たち全員石にされちゃうよ」
「でも、本当にハグリッドがやったのか、まだ僕たちには判断のしようがないよ。もし聞きに行くなら、また誰かが襲われてどうすることもできなくなってからだ」
結局、ハリーの言う通りまた誰かが襲われないかぎり、ハグリッドには何も言わないことに決めたらしい。
そして、あの壁の中から聞こえてくるようだった不気味な声を、あれ以来一度も耳にしていないのは、ハリーもルイスも同じだった。もうほとんど、あの声のことなど忘れてしまっている状態だ。
ジャスティンとニックが襲われてからは四か月ほどが過ぎ去り、学校はいつも通りの日常を取り戻しはじめている。あのアーニー・マクミランですら、授業中にハリーに声をかけてくるようになったし、マンドレイクも成長を続けている。マンドレイク薬ができあがれば、石化した人たちが元に戻り、誰が犯人だったかがすぐに分かるだろう。
イースター休暇に入ると、二年生は授業の宿題に加えて、ある課題が与えられた。三年生で選択する科目を決めるというものだ。ルイスがリストをぼうっと眺めている隣では、ハーマイオニーが酷く真剣な面持ちで同じものを睨みつけている。
「ハーマイオニーってば、物凄く真剣ね」
本人には聞こえないようハリーとロンに耳打ちをしたつもりが、聞こえていたらしいハーマイオニーはじろりとルイスを睨んだ。
「当たり前じゃないの! 私たちの将来に全面的に影響するかもしれないのよ!」
ハーマイオニーはぷりぷりと怒り散らしながら言った。
「僕は魔法薬をやめたいな」
ハリーがそう言い出したので、ルイスは思わず苦笑を浮かべてしまった。そう口にしてしまうハリーの気持ちが、三人にはよく分かっていた。
「でも、無理だよ。これまでの科目は全部続くんだから。そうじゃなかったら、僕は闇の魔術に対する防衛術を捨てるよ」
「二人とも何を言っているの? どちらも大切な科目じゃない!」
ルイスは三人のやり取りを笑いながら聞いていたが、こちらも苦戦しているネビル・ロングボトムの様子を見て、少し呆れてしまった。ネビルは親戚中の魔法使いや魔女からの手紙を受け取り、選択科目についてああしろ、こうしろと意見されていたのだ。
「ルイス、数占いと古代ルーン文字はどっちが難しいと思う?」
ネビルは目が合うなりそのようなことを聞いてきたので、ルイスは一瞬だけ目を丸くした。
「んー、どうかな。それぞれだとは思うけれど 個人的には古代ルーン文字の方が易しいと思う」
ディーン・トーマスはマグルの中で育ってきたので、何を選んでいいのかがよく分からず、結局目を瞑って杖でリストを指し、杖が示した科目を選んでいた。それはある意味利口なやり方だとルイスは思ったが、真似をしようとしたところで物凄い剣幕のハーマイオニーに止められてしまう。そのハーマイオニーは誰の助言も聞かないどころか、誰にも相談しないで、あっという間に全科目に登録した。
ディーン方式を試す間もなく阻止されてしまったので、ルイスは仕方なくラウルから届いていた手紙を本の間から抜き取り、それを読み返すことにした。
ルイスへ
確か、そろそろ三年生で受ける授業を選択する時期だったね。みんながどのように決めているかは分からないけど、科目は自分が好きなものを選ぶといいよ。誰かに勧められて決めるより、自分の好きな科目を選んだ方がいいに決まっているからね。
それより、体の具合はどうだい? ちゃんと薬は飲んでいるだろうね? まさか、兄妹そろってセブルスの薬の世話になるとは思っていなかったよ。体調がいいからといって、あまり無理はしないこと。具合が悪くなったら、すぐにセブルスのところへ行くんだよ。
そうだ、選択科目のことで困ったことがあれば、セブルスに相談してみるといい。一応ホグワーツの先輩だからね。僕からも頼んでおくよ。
それじゃあ、元気で。
ラウルより
果たしてこれが助言といえるのかどうかは謎だが、好きに選んでいいと言ってもらえたので、肩肘張らずに科目選択をすることができそうだ。ハリーは何故かパーシーに助言されていたが、結局はハリーとロンは同じ科目を選んでいたし、あとになって聞いてみると、ルイスもそれと全く同じものを選択していたので、深く考える必要もなかったように思う。
「さあ、ほら、ハリー! 今すぐナイフとフォークを箒に持ち替えてくれ!」
次のクィディッチの試合が近付いてくると、オリバー・ウッドはいつものようにみっちりと練習時間を用意し、夕食が終わる頃になるとハリーを引きずって消えるということが毎日続いていた。首根っこを掴まれたハリーはもぐもぐと口を動かしながら、また後で! と言って大広間を出て行く。それが毎晩毎晩続くので、クィディッチの練習から戻って談話室で宿題を片付けると、半分眠ったような状態のままゴーストのように男子寮に戻っていった。
ハリーがクィディッチの練習に行ったとある夕食後、ルイスは魔法史のレポートを書くための資料探しに、マダム・ピンスがほぼ一日中目を光らせている図書室へやってきていた。しかし、魔法史の資料を探しにきていたのにも関わらず、いつの間にか魔法薬の面白そうな本を見つけてしまったルイスは、椅子に腰を落ち着かせてその本を読み耽ってしまっていた。
「そろそろ閉館の時間だよ」
「ん、もうちょっと――って、あれ?」
「やあ、ルイス」
「――こんばんは、セドリック」
ルイスがはっとして顔を上げると、そこには爽やかな笑顔を浮かべたセドリック・ディゴリーの姿があった。セドリックはルイスの向かい側の席に座り、こちらを真っ直ぐに見ていた。
「魔法薬のレポート?」
「ううん、本当は魔法史のレポートを書かなければいけなかったのだけれど、面白そうな本を見つけてしまって、つい」
「魔法薬が好きなんだね」
「一応は得意なのかな」
ルイスはセドリックが巻いていた腕時計にちらりと目をやり、本当に閉館時間が近いということを目の当たりにすると、急いで荷物をまとめた。読んでいた本を棚に戻し、代わりに魔法史の本を一冊借りると、セドリックと一緒に図書室を後にする。
「あたしも時計を買った方がいいかもしれない。夢中になるとすぐに時間を忘れてしまうから」
隣を歩いているセドリックの手元を覗き込みながら言うと、セドリックは顔の高さまで腕を上げて、その時計をよく見せてくれた。シルバーの、シンプルなデザインの時計だった。ミリア・トロリスの店になら、いい時計があるかもしれない。
「僕もそうだよ。特にクィディッチの練習をしていると、よく時間を忘れてしまうんだ。そういえば、今度の試合はハッフルパフ対グリフィンドールだったね」
そう言ったセドリックを、ルイスはきょとんとして見上げた。その様子をセドリックは不思議そうに見返してくる。
「セドリックって、ハッフルパフのチームのメンバーだったの?」
「そうだよ。シーカーをやっているんだ」
「ごめんね、知らなくて」
「いや、君が謝るようなことじゃないよ」
セドリックはそう言うと、本当に気さくな笑顔をルイスに向けた。ルイスが反射的に微笑み返すと、セドリックは急に顔を逸らし、軽く咳払いをする。
「グリフィンドール寮はこっちだから」
ルイスがそう言って曲がり角を指すと、セドリックも足を止めた。
「うん、それじゃあ」そう言ったかと思うと、セドリックは躊躇いがちに口を開く。「あ、あのさ」
「うん?」
ルイスが背を向けながら手を振り、寮に戻ろうと歩き出そうとすると、セドリックの声が追い掛けてきた。振り返って首を傾げると、セドリックは少し俯き加減で曖昧に微笑んだ。
「……あ、いや、何でもないよ。おやすみ、ルイス」
「なにそれ、変なの」
ルイスはくすくすと笑って、おやすみなさい、と言うと、今度こそ寮に向かって歩き出した。もう呼び止められることもなく、振り返ってもセドリックの姿はどこにも見当たらなかった。
ルイスはセドリックのことを少し変わった人だと思っていた。いい人には違いないが、魔法使いにとってとても大切な杖は落とすし、学校中がハリーやルイスを避けていたときも、話し掛けてくれるだけではなく、困ったことがあれば力になると言ってくれたほどだ。顔を合わせると挨拶をしてくれたし、図書室で見かけたときは参考になりそうな本を教えてくれたりもする。なぜ自分に対してよくしてくれるのかは分からなかったが、ルイスはセドリックに少なからず感謝していた。
グリフィンドール塔の談話室に戻ると、そこは小さなパニック状態に陥っていた。肖像画の裏にぱっくりと開いた穴をよじ登り、ルイスが談話室に現れるなり、ハーマイオニーが手に持っていた古代ルーン語の優しい学び方という本を放り投げて、あっという間に駆け寄ってきた。
「ああ、ルイス、いったいどこに行っていたの? 大変なのよ!」
「どうしたの?」
ハーマイオニーを宥めながら、ルイスはその後ろにいるふたりに向かって訊ねる。すると、ハリーが困った表情を浮かべて言った。
「僕の荷物が荒らされたんだ。それで――」
「それで?」
「――リドルの日記帳がなくなった」
「え、どうして?」
「僕に聞かれても分からないよ。だけど、リドルの日記帳だけがなくなっているんだ」
「だけど、グリフィンドール生にしか盗み出せないでしょう? 合言葉があるわけだし」
ルイスは俄かには信じられず、思わず顔を顰めた。同じグリフィンドール生が、わざわざハリーの荷物を荒らして、リドルの日記帳を盗み出す理由をひとつも思いつくことができなかった。
「ねえ、ハリー。盗まれたのは本当にリドルの日記帳だけ?」
「うん。そうだけど、どうして?」
「ん? うん……」
ルイスは暖炉前のソファに座り、胸の前に腕を組んで考え込むような素振りを見せた。ハリー、ロン、ハーマイオニーはルイスの周りに腰を下ろした。
「ルイス、何か分かったの?」
「分かったというか、以前の、ほら、あたしたちが日記帳を拾う前ということだけれど、元の持ち主はグリフィンドール生だったのではないかと思って」
「えっ?」
「それから、その持ち主というのは、多分女子生徒だと思うの」
「ちょっと待ってくれよ、ルイス」ロンが大きな声を出したので、ハリーが慌ててその脇腹を小突いた。「ちゃんと分かるように説明してくれなきゃ」
すると、今度は大袈裟なほど声を潜めて言い、ルイスを見る。
ルイスは三人にもう少し自分の方へ寄るようにと合図をすると、ロンと同じように声を潜めて話し出した。
「あの日記には多分、物凄く強力な魔法がかけられていると思う。記憶を保存しておける、しかも五十年も保存し続けることのできる魔法なんて、闇の魔術以外には考えられない」
「闇の魔術ですって?」
「ハーマイオニー、声を落として。いい? ああいう日記帳とか、前にロンが言ってたけれど、呪われた本とか、とにかく考える脳がないのに自分の意志を持っているようなものは、とても危険なものなの。前の日記帳の持ち主もその危険性に気がついて、女子トイレに捨てた。マートルが取り憑いているトイレにね。だけど、ホグワーツの男子生徒で彼女のことを知っているヒトは多くないでしょう? ハリーとロンも知らなかったわけだし。だけど、女子生徒はほとんどが彼女のことを知っている。好んで近づこうとするヒトはまずいないし、もちろん男子生徒は女子トイレに行かないもの」
「誰も近づかないから、マートルのトイレに捨てたというの?」
「多分ね。だけど、それをあたしたちが見つけて、そして拾ってしまった。だから今の持ち主であるハリーの荷物を荒らして、取り返したのではないかと思って」
三人はルイスの説明に納得したような素振りを見せたが、それが本当に事実なのかどうかを疑わしく思っているような態度でもあった。
――――…‥‥
何だろう。とても暖かく、心地が良い。優しさに包まれて、ああ、これが幸福と呼べる瞬間なのだろうと、ルイスはそう思った。誰かに抱き抱えられている。それは分かった。暖かい風が頬を撫で、木々のざわめきがさらさらと耳を擽る。見上げる人物の規則的な息遣いが、どこか嬉しそうだった。
「フェリオ!」
弾む声を押さえきれないのか、男の人――ルーファス・ジュリアードだ――は興奮気味にその名を叫ぶと、木を避け、花を跨ぎながら、足を速めた。その声に驚いた小鳥たちは一気に飛び立ち、ルーファスはそれを一瞥すると、小さくごめんよと謝った。
「フェリオ!」
「――そんなに大きな声を出さなくても聞こえています」
「フェリオ!」
その名を呼ぶルーファスはとても無邪気そうで、子供のように純粋な笑顔を浮かべている。それを呆れて見ていたフェリオ――ルイスが知っている彼よりも、少しだけ若く感じられる――だったが、すぐにルーファスの抱いているものを覗き込むように見た。
大きなサファイアブルーが顔面に迫ってルイスは驚いたが、まるでそれを欲しがるように両手を高く掲げた。ぺたぺたとフェリオの顔に触れる手の感触が、やけにリアルに感じられていた。
「ルイスだよ。必ず会わせるって、そう約束をしただろう?」
ルーファスとフェリオの顔越しに見える緑と青い空が痛いほど眩しかったのか、ルイスは目を細める。
「何も恐がらないんだよ。もしかしたらフェリオの仏頂面を見て大泣きするのではないかと期待していたんだけど、まるで逆みたいだな」
ルーファスはそう言うと声を上げて笑った。とても愉快そうに。これ以上の幸福はないというように。とても、とても、暖かい声色で。
「ほら」
「はい?」
「抱いてくれよ。たくさんのヒトに抱いてもらいたいんだ」
戸惑うフェリオの顔を見ながら、ルーファスは半ば押しつけるようにして、その腕の中にルイスを託した。フェリオの少しごつごつとした腕がルイスを支えている。人間の子供など抱いたことがないだろうケンタウルスに、生まれたばかりの赤ん坊を預けても、ルーファスは心配をするどころか、そのまま森の中をひとっ走りしてきてくれとでも言いだしそうな雰囲気だった。
「僕に似ているだろう?」
「ええ、残念ながら」
「……何だよ、その残念っていうのは」
壊れ物でも扱うようにルイスを抱いていたフェリオの腕から、慣れた様子で我が子を取り上げたルーファスは少しいじけたように言った。そしてまた、ルイスを胸元に優しく抱きかかえる。すると、暖かい体温とともに心地よい心音が身体に伝わってくるのが分かった。
「彼女が次期当主ですね」
「ああ」
「どうかこの子に、月の加護が下りますよう」
―――…‥‥
目が覚めたという言葉ではしっくりこない。目を閉じて、開いた。そう、ただ瞬きをした、やはりそのような感じだ。目は完全に覚めている。天井を見上げて、ぼんやりとしていた。なぜか音という音が何も聞こえない。無音だった。音のない世界と、色のない世界、どちらがましなのだろうかと意味のないことを考えた。まだ朝が早いのかもしれない。空気がとてもひんやりとしていた。
まただと、ルイスはそう思った。また見てしまった。世界中のいらない不幸をすべて押しつけられたような気分だ。
ルイスはゆっくりと体を起こした。あの薬はしっかりと決められた日に飲んでいるというのに、これでは薬の意味がないではないか。文句のひとつでも言ってやらないと気がすまない。そう思ったルイスは凍えたような身体に鞭を打って、のろのろとローブに着替えた。ああ、きっと今、死ぬほど青い顔をしているのだろうと考える。
談話室に誰もいなくてよかったと思いながら壁伝いに歩き、ルイスは転がるようにして寮の外に出た。こんなに朝早くどうしたのだと聞いてくる太った婦人を軽く流して、ルイスは廊下を進み、階段を降りた。そして間もなくすると、どうしてあのままベッドの上でじっとしていなかったのだろうという、後悔を抱きはじめた。きっとハーマイオニーがルイスの異変に気がつき、先生を呼んでくれたはずだ。
「あー、もう無理……」
何とも間の抜けた声だと、ルイスは自分でもそう思った。声は出る。耳が聞こえるようにもなった。これだけは薬のおかげといえるのか、以前よりは幾分ましな身体の状態ではあったものの、やはり凍えるような寒さは変わらない。
「なーにが無理だって?」
ルイスが階段の途中で蹲っていると、突然頭上から声が聞こえてきたので、寒さとは関係なく身体がびくりと震えた。
「こんな朝っぱらから何してる? 悪巧みか?」
「悪巧みならもう少しはましかもね。ピーブズ、あなたこそこんなに朝早くから何をやっているの?」
「なーんにも」ポルターガイストのピーブズはルイスの頭上をふわふわと漂い、物珍しそうにこちらを見ていた。「お前、どっかおかしいのか?」
「……もうちょっと紳士的な言い方はできないわけ?」
「お身体のお加減でもお悪いのかい? お嬢ちゃん?」
「……ごめん、あたしが間違ってた」ルイスは壁に力一杯爪をたてて立ち上がり、頼りない笑みを浮かべてピーブズを見上げた。「少し具合が悪いから、薬を貰いにスネイプ先生のところまで行きたいのだけれど――やっぱり無理みたい」
がりがりと爪で壁を引っ掻きながらまた階段に座り込むルイスを見て、ピーブズはほくそ笑むような表情を浮かべた。ルイスは特にピーブズが喜びそうな反応を返すこともできず、何とか寒さに耐えることしかできない。
こうなったら誰でもいい。フィルチでもいいから――それでもロックハートだけはごめんだが――誰かひょっこりと現れてはくれないだろうか。しかし、気がつくと最後の頼みだったピーブズの姿さえ消えていて、誰もいない階段でぽつんとひとり、座り込んでいる。
そういえば今日はクィディッチの試合だったと、ルイスは思った。運がよければ、試合の日に早起きをしたグリフィンドールチームの誰かが見つけてくれるかもしれない。
そのようなことを考えて膝を抱えていると、静かな校内に荒々しい足音が響き渡るのを聞いた。それは間違いなくこちらに近づいてきていて、ルイスは一体誰だと思いながら、眉根を寄せる。
「朝っぱらから迷惑な人もいるものね」
「それは自分のことだろう」
目の前にはルイスの何倍も深い皺を眉間に寄せたセブルス・スネイプが、少し息を荒げた状態で立っている。ルイスはあまりに出来すぎた偶然に首を傾げた。
「……ピーブズ?」
「気は確かかね」
「ピーブズが知らせてくれたの?」
セブルスはこれでもかというほど深いため息を吐くと、その場に身を屈め、ルイスを軽々と横抱きにした。眉間の皺がすぐ近くに見える。笑える状態ではないはずなのに、ルイスは気がつくと力なくくすくすと笑っていた。
「なぜ部屋でじっとしていなかった?」
「文句を言ってやろうと思ったの。何のための薬だって」
「また見たのか」
「うん」
ルイスはセブルスに対してわけも分からず少し苛々とした。もうあの夢は見なくなると言ったのに。体調だって悪くならないし、魔力だって――すると、どういうわけか、ルイスの感情と比例するように、廊下の壁にかけてある肖像画がばたばたと床に落下していく。いびきをかいて眠っていた肖像画の中の住人たちは、口々に文句を罵り、静かだった廊下は一気に騒々しくなった。
ルイスはそれを自分がやったのだろうとすぐに察した。セブルスはそのようなことをする人ではないし、一番やりそうなピーブズの姿はどこにも見当たらない。呆れたため息がすぐ近くから降ってきて、ルイスは少しむっとした。
「別にやりたくてやったわけではないもの」
ルイスが小さく漏らして、落下した肖像画に軽く手をかざすと、それらは勢い良く元の場所に戻っていく。セブルスは肖像画たちの文句をさほど気にもしていない様子で、罵りの言葉を背中に受けながら廊下を進んでいった。自分の寝室に戻り、ルイスをソファに座らせるとしばらく経ってから、薬の入ったゴブレットを手に戻ってくる。
「まさか、今日も一日安静だなんて言わないよね?」
「安静に決まっているだろう」
「……今日はクィディッチの試合なのに」
「君はたかがクィディッチと自分の身体、どちらが大切だと思っているのかね」
ここでルイスがすかさずクィディッチと答えたら、セブルスはどういう顔をするだろう。しかし、ルイスはそう思うだけで留めておくことにした。口うるさく言うということは、少なくとも自分のことを心配してくれているということだ。
いつもより幾分早く起きてしまったせいか、ルイスは酷い眠気を感じていた。もしかしたら、それは薬の副作用かもしれない。けれど、その眠気に逆らうことができず、ソファの背もたれに身を預けると、そっと目蓋を閉じた。
どうか、あの夢はもう見ませんようにと、そう願いながら。